白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
道徳の部を引き続きご紹介します。
最初、人間的な行為とは何であるか、人間的な行為の原理原則や基準は何であるかをご紹介しました。その後、「良心」や「法」についてもご紹介しました。次に、「徳」を見てみました。三つの対神徳の他、枢要徳などの倫理徳を見て、人間的な行為を善く実践するための良き習慣なる徳をご紹介しました。
善徳の反対は悪徳です。あるいは罪です。罪についてきちんと学ばなければなりません。まず、罪とは一体何でしょうか?それから、七つの罪原(capitalia peccata)と呼ばれるいくつか個別の罪を見ていきます。そして、ほとんどの場合、罪に先立つ「誘惑」をもご紹介していきます。
今回、まず、罪とは何かを見ましょう。罪の基本的な特徴は「違反」です。罪とは「意図的に天主の法に違反すること」と定義されます。繰り返します。「意図的に天主の法に違反すること」。
前には諸般の法をご紹介しました。天主の法、自然法、実定法などの法です。これらは、法のいかんを問わず、「違反」があった場合、罪となります。「違反 transgression」とは語源的な意味でいうと、「限度を超えて入り込んでしまう」という意味で、「不適切な領域」に入るという意味です。つまり、法が規定することを超えて入り込んで、違反し、罪となります。
罪とは「法に違反すること」ですが、それだけではなく、罪になるために「意志的」「意図的」である前提があります。思い出しましょう。単なる人間の行動ではなく、ある行為が「人間的な行為」になるには条件があります。
第一、知性が必要です。つまり、何をしているのかを「知っている」条件。
第二、そして意志も条件です。ある行為をやろうと思っているということです。意志的に、意図的に、行為を踏まえるときに人間的な行為となります。
ですから、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為だ」といいます。言い換えると、人間が罪を犯すとは、何の行為をやっているかを知りつつ、この行為を意図して行うのです。つまり、罪を犯す時、罪の前提である、自分の行動を完全に認識し、実践している行為の責任を完全に負っているということです。これは定義の「意志的に」という部分の意味です。つまり、「罪を犯した」と言った時、罪人には責任があるのです。
ですから罪とは「意図的に天主の法を犯すこと」です。天主の法は、種類を問わず、違反すると罪となります。天主の法の永遠の法でも、天主の法の自然法でも、天主の法の実定法でも、天主の法の教会法でもそうです。一言で言うと、罪とは基本的に天主の法にたいする違反です。
徳と違って、罪に関して二つの表現を利用することがあります。罪とは行為です。つまり人間が実践する或る行為が天主の法に違反する時、その行為を「罪」といいます。これに対して、「悪徳」という表現もあります。罪とは「一時の個別の具体的な行為」を指します。この行為が犯され、すでにこの行為が終わっているというような語感があります。
他方で、「悪徳」とは習慣です。つまり、ある種の行為の繰り返しを意味しています。たとえてみると、霊魂がある種の行為をついどうしてもやってしまうという意味です。善徳に関して言えば、一般に徳あるいは善徳の行為を言いますが、罪に関して悪徳といいます。悪徳とは悪い慣習であり、悪い傾向です。例えば酒飲みの人は酒を飲みすぎる癖をもち、悪習を持つのです。悪い傾向です。
一方、「罪」とは必ずしも悪い慣習による行為ではありません。時には一時の行為にとどまることがあります。例えば、いつも正直な者、一切嘘をつかない人が、ある日、嘘をついて罪を犯したといいます。このような場合、嘘つきという悪習はないものの、悪い行為を実践して、天主の法に違反したので、罪といいます。
要するに、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」です。
罪は、いくつかの種類で分けられます。この区別はちょっと細かくて退屈なところがありますがやはり大事です。また、このような区別を習うと多くのことが見えてくるのでやってみましょう。
まず、原理あるいは起源において罪を区別することがあります。原罪と自罪という区別です。
原罪とは、その文字通り、原初にアダムによって一回だけ犯された罪です。アダムは全人類の元祖です。教義の部で、原罪についてすでにご紹介しましたが、アダムの一回だけ犯した罪が、子孫である全人類に継がれ、これを原罪と言います。ただ、私たちにおいて、アダムが犯した罪は原罪ですが、自罪ではありません。
自罪と原罪の違いは、自罪とは「個人の責任がある」時です。私が犯した罪なので私がその責任を負う時です。他方、原罪は、全人類の人々の霊魂における痕跡のようなものです。罪の痕跡、なぜかというと、アダムが原罪を犯した時、天主を侮辱したので、天主に対して「負債を負った」かのようになりました。アダムは人類の元祖なので、永遠の天主に対して到底代償できない負債、その債務を子孫に継ぎ、全人類はこの債務を負っているのです。
たとえてみると、父が家族の名で借金したら、亡くなってもその家がこの借金を負う時と同じです。
一方で、自罪は、個人として負う「天主に対する負債」のようです。つまり、人類の元祖としてではなく、個人として負う罪です。一般的にいうと、罪を犯すとは、自罪のことです。具体的にいうと、告解に行く時に「原罪を犯した」と言うことは当然ありません。これは意味をなさないことです。
自罪には、さらに二つの種類が分類あります。現実の罪と習慣的な罪です。現実の罪は一時の、具体的な、限った時間と場所の罪を指します。この罪は一旦犯され、もう終わっています。一回限りです。
習慣的な罪とは、霊魂に残る汚点のようです。一回限りではなく、時には長く続く「罪の状態」を指します。平常に罪の状態にあるという意味です。言い換えると、天主の法に違反している状態が継続的で、常に天主の法に違反している状態にあるということです。
例えば、教会はカトリック信徒に次のように要求します。結婚は、教会で婚姻の秘跡を受ける義務がある、婚姻の秘跡を受けて初めて男女は同居することができる、と。ですから、洗礼を受けた信者が、教会で婚姻せずに同居するなら、「同棲生活」という罪の状態にあるということになります。このようなとき、常に同居しているので、平常に罪を犯しているという状態にあることになります。習慣的な罪です。
現実の罪にはさらにいくつかの分類があります。まず、掟が犯されたので、怠りによる罪と犯行の罪との区別があります。
告解を準備するために自分の罪について反省する際、主に「犯行の罪」を中心に検討することが多いのですが、「怠りの罪」について反省することはよく忘れています。
「犯行の罪」というのは、実際の行為であり、具体的に踏まえる行為の時の罪です。例えば、嘘あるいは不倫あるいは貪食などです。これらの罪は実際に犯す行為であって、犯行してしまった行為です。
一方、「怠りの罪」とは、ある行為をしなかったことによる罪です。ですから「何もやらなかったから罪がない」とは限りません。実際、何も行為しないことによって、「あれこれをすべきだ」と命令する天主の法に違反するのです。ですから、「怠りの罪」といいます。
ある掟を実践しなかった罪です。例えば、教会は洗礼者には灰の水曜日と聖金曜日の日に、小斎大斎を命じています。そして、この二つの日に小斎大斎を行わなかった場合、「怠りの罪」となります。この場合、教会が規定する行為を怠って実行しなかった時の罪です。また、例えば主日を聖とするという教会の掟があります。具体的に、日曜日にミサに与かることによって果たされる掟ですが、理由なしにミサに与からない信徒は「怠りの罪」を犯すということになります。つまり、本来ならば実践すべき行為を実践しなかった罪です。
次に、罪を原因別で分けることもあります。つまり、人間には何のために罪を犯すかによっての区別であり、動機別です。
人間において、人間の三つの能力別に従って、三つの罪の種類があります。
第一の能力は知性です。無知のせいで罪を犯すことがあります。第一の種類です。知らなかったから、罪を犯す。無知にはいくつかの区別があります。克服できない無知もあれば(この時に限って罪にならないのですが)、克服できる時もあります。つまり、ちょっとでも努力したら「知ることができた」のに、面倒だから知りたくないということで、知らないことにして、やるべきことをやらないというパターンが多いです。
このように罪を犯す人はどうなりますか?つまり、掟を知るべきだったのに、知らないせいで罪を犯したという時です。このような場合には、「無知による罪」を犯します。この場合、罪の原因は無知だから、「無知による罪」と呼ばれています。しかし、知っているべきことを知らないのは咎めるべきことです。したがって、無知のせいで罪を犯しても、結局、無知である責任は相変わらず残っているので、罪の責任を負います。
たとえば、想像してみましょう。建築家であるのに、幾何学が知らないからといって作った家が崩れても私の責任ではないというような建築家がいたらどう思いますか。いや、この建築家がいるのなら、有罪ですね。建築家である限り、幾何学に関して知ろうとも知るまいとも、作り上げた家のすべての結果の責任者です。無知によって罪を犯す建築家です。建築家であるから、幾何学を知るべきでした。
第二の罪の原因、弱さです。つまり、ある感情に対する弱さのせいで、意志がこの感情あるいは感覚に流されてしまう罪です。本来ならば、意志は感情を支配すべきですが、意志が弱く感情が勝ってしまうのです。不本意にも感情のあまりにも強い要求に屈してしまい、弱さによって、罪を犯す時です。
次に、これが一番深刻な罪ですが、「悪意による罪」です。この場合、無知のせいで罪を犯すことでもなく、また、激情に負けて感情に流されて罪を犯すのでもありません。意図的に断行する罪です。言いかえると、「罪をあえて望んで犯す罪」であり、あるいは「罪を犯していると知りながらも悔い改めることを頑固に拒絶する罪」です。悪意による罪です。ほかの罪よりも重くなります、なぜかというと、意志まで侵されているからです。意志がすべての行為の根源なので、行為の根源の意志にまで侵されているという意味で深刻です。
さらに、罪の実践様式によって罪の区別があります。体で犯すのではない内的な罪と具体的な行為あるいは言葉での外的な罪があります。内的な罪とは、思いや欲望の罪です。思いと欲望は本当の行為なので、罪を思い望む時、本当の罪を犯します。なぜかというと、外面的な結果がなくても、思いと欲する時、知性と意思が行う本物の行為だからです。何かを意図的に思うのは、「思い」という行為だからです。
例えば、誰かに対しての憎しみの思い、あるいは悪い思いを意図的に思索するのは罪です。内的でも、意図的な行為であるかぎり罪です。そして、現に、悪い思いをあえて思うあまり、外的にも具体的な行為につながることは少なくないのです。例えば、言葉で傷づくことを言う、あるいは無礼なこと言うことにもつながるし、そして場合によって悪しきを犯すことにもなります。
次に、罪の対象別で罪を分けます。天主に対して犯す罪もあれば、隣人に対して犯す罪もあります。また罪を犯している人自身を犯す罪もあります。
後述しますが、この最後の罪はある意味で自分を殺すようなときです。対象別の罪の分類です。例えば、貪食を犯す人は自分自身に対して罪を犯します。なぜかというと、乱れて食べると自分の健康を崩すからです。悪口を言う人は、つまり隣人について悪いことを言う人は、隣人に対して罪を犯すといいます。そして、冒涜する時、天主に対して罪を犯すといいます。このように、罪の対象に従って罪を分類することも可能です。
そして、罪の結果で罪を分類することもあります。小罪と大罪です。次回は、小罪と大罪について詳しく説明します。
最後に、罪源であるかどうかによって罪を分類することもできます。言い換えると、罪により、その罪のせいで、他の罪を犯させる「罪の原因」となる罪もあれば、他の罪の原因とならない罪もあります。前者は「罪源」とよばれています。これらの罪のせいで、他の多くの罪の原因になるからということです。七つの「罪源」に関しては、のちに詳しく説明します。
以上、罪のいくつかの分類をご紹介しました。当然、これらの分類は重なっているところがあります。
最後に罪の定義を総括してみましょう。罪を特徴づけるものは、何でしょうか?
結局のところ、罪を次のように定義できます。「罪とは、天主への正しい方向付けを失った人間的な行為」と。さきほど罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」といいました。まさにそうであり、言い換えると、罪とは「天主に対する正しい方向付けの欠如」ともいえます。
天主のためにあるのではない人間的な行為です。大事なのは、罪という違反は意図的であること、そして、天主の法に違反することという二つの要素をよくおさえておきましょう。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第九十講 罪とは
道徳の部を引き続きご紹介します。
最初、人間的な行為とは何であるか、人間的な行為の原理原則や基準は何であるかをご紹介しました。その後、「良心」や「法」についてもご紹介しました。次に、「徳」を見てみました。三つの対神徳の他、枢要徳などの倫理徳を見て、人間的な行為を善く実践するための良き習慣なる徳をご紹介しました。
善徳の反対は悪徳です。あるいは罪です。罪についてきちんと学ばなければなりません。まず、罪とは一体何でしょうか?それから、七つの罪原(capitalia peccata)と呼ばれるいくつか個別の罪を見ていきます。そして、ほとんどの場合、罪に先立つ「誘惑」をもご紹介していきます。
今回、まず、罪とは何かを見ましょう。罪の基本的な特徴は「違反」です。罪とは「意図的に天主の法に違反すること」と定義されます。繰り返します。「意図的に天主の法に違反すること」。
前には諸般の法をご紹介しました。天主の法、自然法、実定法などの法です。これらは、法のいかんを問わず、「違反」があった場合、罪となります。「違反 transgression」とは語源的な意味でいうと、「限度を超えて入り込んでしまう」という意味で、「不適切な領域」に入るという意味です。つまり、法が規定することを超えて入り込んで、違反し、罪となります。
罪とは「法に違反すること」ですが、それだけではなく、罪になるために「意志的」「意図的」である前提があります。思い出しましょう。単なる人間の行動ではなく、ある行為が「人間的な行為」になるには条件があります。
第一、知性が必要です。つまり、何をしているのかを「知っている」条件。
第二、そして意志も条件です。ある行為をやろうと思っているということです。意志的に、意図的に、行為を踏まえるときに人間的な行為となります。
ですから、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為だ」といいます。言い換えると、人間が罪を犯すとは、何の行為をやっているかを知りつつ、この行為を意図して行うのです。つまり、罪を犯す時、罪の前提である、自分の行動を完全に認識し、実践している行為の責任を完全に負っているということです。これは定義の「意志的に」という部分の意味です。つまり、「罪を犯した」と言った時、罪人には責任があるのです。
ですから罪とは「意図的に天主の法を犯すこと」です。天主の法は、種類を問わず、違反すると罪となります。天主の法の永遠の法でも、天主の法の自然法でも、天主の法の実定法でも、天主の法の教会法でもそうです。一言で言うと、罪とは基本的に天主の法にたいする違反です。
徳と違って、罪に関して二つの表現を利用することがあります。罪とは行為です。つまり人間が実践する或る行為が天主の法に違反する時、その行為を「罪」といいます。これに対して、「悪徳」という表現もあります。罪とは「一時の個別の具体的な行為」を指します。この行為が犯され、すでにこの行為が終わっているというような語感があります。
他方で、「悪徳」とは習慣です。つまり、ある種の行為の繰り返しを意味しています。たとえてみると、霊魂がある種の行為をついどうしてもやってしまうという意味です。善徳に関して言えば、一般に徳あるいは善徳の行為を言いますが、罪に関して悪徳といいます。悪徳とは悪い慣習であり、悪い傾向です。例えば酒飲みの人は酒を飲みすぎる癖をもち、悪習を持つのです。悪い傾向です。
一方、「罪」とは必ずしも悪い慣習による行為ではありません。時には一時の行為にとどまることがあります。例えば、いつも正直な者、一切嘘をつかない人が、ある日、嘘をついて罪を犯したといいます。このような場合、嘘つきという悪習はないものの、悪い行為を実践して、天主の法に違反したので、罪といいます。
要するに、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」です。
罪は、いくつかの種類で分けられます。この区別はちょっと細かくて退屈なところがありますがやはり大事です。また、このような区別を習うと多くのことが見えてくるのでやってみましょう。
まず、原理あるいは起源において罪を区別することがあります。原罪と自罪という区別です。
原罪とは、その文字通り、原初にアダムによって一回だけ犯された罪です。アダムは全人類の元祖です。教義の部で、原罪についてすでにご紹介しましたが、アダムの一回だけ犯した罪が、子孫である全人類に継がれ、これを原罪と言います。ただ、私たちにおいて、アダムが犯した罪は原罪ですが、自罪ではありません。
自罪と原罪の違いは、自罪とは「個人の責任がある」時です。私が犯した罪なので私がその責任を負う時です。他方、原罪は、全人類の人々の霊魂における痕跡のようなものです。罪の痕跡、なぜかというと、アダムが原罪を犯した時、天主を侮辱したので、天主に対して「負債を負った」かのようになりました。アダムは人類の元祖なので、永遠の天主に対して到底代償できない負債、その債務を子孫に継ぎ、全人類はこの債務を負っているのです。
たとえてみると、父が家族の名で借金したら、亡くなってもその家がこの借金を負う時と同じです。
一方で、自罪は、個人として負う「天主に対する負債」のようです。つまり、人類の元祖としてではなく、個人として負う罪です。一般的にいうと、罪を犯すとは、自罪のことです。具体的にいうと、告解に行く時に「原罪を犯した」と言うことは当然ありません。これは意味をなさないことです。
自罪には、さらに二つの種類が分類あります。現実の罪と習慣的な罪です。現実の罪は一時の、具体的な、限った時間と場所の罪を指します。この罪は一旦犯され、もう終わっています。一回限りです。
習慣的な罪とは、霊魂に残る汚点のようです。一回限りではなく、時には長く続く「罪の状態」を指します。平常に罪の状態にあるという意味です。言い換えると、天主の法に違反している状態が継続的で、常に天主の法に違反している状態にあるということです。
例えば、教会はカトリック信徒に次のように要求します。結婚は、教会で婚姻の秘跡を受ける義務がある、婚姻の秘跡を受けて初めて男女は同居することができる、と。ですから、洗礼を受けた信者が、教会で婚姻せずに同居するなら、「同棲生活」という罪の状態にあるということになります。このようなとき、常に同居しているので、平常に罪を犯しているという状態にあることになります。習慣的な罪です。
現実の罪にはさらにいくつかの分類があります。まず、掟が犯されたので、怠りによる罪と犯行の罪との区別があります。
告解を準備するために自分の罪について反省する際、主に「犯行の罪」を中心に検討することが多いのですが、「怠りの罪」について反省することはよく忘れています。
「犯行の罪」というのは、実際の行為であり、具体的に踏まえる行為の時の罪です。例えば、嘘あるいは不倫あるいは貪食などです。これらの罪は実際に犯す行為であって、犯行してしまった行為です。
一方、「怠りの罪」とは、ある行為をしなかったことによる罪です。ですから「何もやらなかったから罪がない」とは限りません。実際、何も行為しないことによって、「あれこれをすべきだ」と命令する天主の法に違反するのです。ですから、「怠りの罪」といいます。
ある掟を実践しなかった罪です。例えば、教会は洗礼者には灰の水曜日と聖金曜日の日に、小斎大斎を命じています。そして、この二つの日に小斎大斎を行わなかった場合、「怠りの罪」となります。この場合、教会が規定する行為を怠って実行しなかった時の罪です。また、例えば主日を聖とするという教会の掟があります。具体的に、日曜日にミサに与かることによって果たされる掟ですが、理由なしにミサに与からない信徒は「怠りの罪」を犯すということになります。つまり、本来ならば実践すべき行為を実践しなかった罪です。
次に、罪を原因別で分けることもあります。つまり、人間には何のために罪を犯すかによっての区別であり、動機別です。
人間において、人間の三つの能力別に従って、三つの罪の種類があります。
第一の能力は知性です。無知のせいで罪を犯すことがあります。第一の種類です。知らなかったから、罪を犯す。無知にはいくつかの区別があります。克服できない無知もあれば(この時に限って罪にならないのですが)、克服できる時もあります。つまり、ちょっとでも努力したら「知ることができた」のに、面倒だから知りたくないということで、知らないことにして、やるべきことをやらないというパターンが多いです。
このように罪を犯す人はどうなりますか?つまり、掟を知るべきだったのに、知らないせいで罪を犯したという時です。このような場合には、「無知による罪」を犯します。この場合、罪の原因は無知だから、「無知による罪」と呼ばれています。しかし、知っているべきことを知らないのは咎めるべきことです。したがって、無知のせいで罪を犯しても、結局、無知である責任は相変わらず残っているので、罪の責任を負います。
たとえば、想像してみましょう。建築家であるのに、幾何学が知らないからといって作った家が崩れても私の責任ではないというような建築家がいたらどう思いますか。いや、この建築家がいるのなら、有罪ですね。建築家である限り、幾何学に関して知ろうとも知るまいとも、作り上げた家のすべての結果の責任者です。無知によって罪を犯す建築家です。建築家であるから、幾何学を知るべきでした。
第二の罪の原因、弱さです。つまり、ある感情に対する弱さのせいで、意志がこの感情あるいは感覚に流されてしまう罪です。本来ならば、意志は感情を支配すべきですが、意志が弱く感情が勝ってしまうのです。不本意にも感情のあまりにも強い要求に屈してしまい、弱さによって、罪を犯す時です。
次に、これが一番深刻な罪ですが、「悪意による罪」です。この場合、無知のせいで罪を犯すことでもなく、また、激情に負けて感情に流されて罪を犯すのでもありません。意図的に断行する罪です。言いかえると、「罪をあえて望んで犯す罪」であり、あるいは「罪を犯していると知りながらも悔い改めることを頑固に拒絶する罪」です。悪意による罪です。ほかの罪よりも重くなります、なぜかというと、意志まで侵されているからです。意志がすべての行為の根源なので、行為の根源の意志にまで侵されているという意味で深刻です。
さらに、罪の実践様式によって罪の区別があります。体で犯すのではない内的な罪と具体的な行為あるいは言葉での外的な罪があります。内的な罪とは、思いや欲望の罪です。思いと欲望は本当の行為なので、罪を思い望む時、本当の罪を犯します。なぜかというと、外面的な結果がなくても、思いと欲する時、知性と意思が行う本物の行為だからです。何かを意図的に思うのは、「思い」という行為だからです。
例えば、誰かに対しての憎しみの思い、あるいは悪い思いを意図的に思索するのは罪です。内的でも、意図的な行為であるかぎり罪です。そして、現に、悪い思いをあえて思うあまり、外的にも具体的な行為につながることは少なくないのです。例えば、言葉で傷づくことを言う、あるいは無礼なこと言うことにもつながるし、そして場合によって悪しきを犯すことにもなります。
次に、罪の対象別で罪を分けます。天主に対して犯す罪もあれば、隣人に対して犯す罪もあります。また罪を犯している人自身を犯す罪もあります。
後述しますが、この最後の罪はある意味で自分を殺すようなときです。対象別の罪の分類です。例えば、貪食を犯す人は自分自身に対して罪を犯します。なぜかというと、乱れて食べると自分の健康を崩すからです。悪口を言う人は、つまり隣人について悪いことを言う人は、隣人に対して罪を犯すといいます。そして、冒涜する時、天主に対して罪を犯すといいます。このように、罪の対象に従って罪を分類することも可能です。
そして、罪の結果で罪を分類することもあります。小罪と大罪です。次回は、小罪と大罪について詳しく説明します。
最後に、罪源であるかどうかによって罪を分類することもできます。言い換えると、罪により、その罪のせいで、他の罪を犯させる「罪の原因」となる罪もあれば、他の罪の原因とならない罪もあります。前者は「罪源」とよばれています。これらの罪のせいで、他の多くの罪の原因になるからということです。七つの「罪源」に関しては、のちに詳しく説明します。
以上、罪のいくつかの分類をご紹介しました。当然、これらの分類は重なっているところがあります。
最後に罪の定義を総括してみましょう。罪を特徴づけるものは、何でしょうか?
結局のところ、罪を次のように定義できます。「罪とは、天主への正しい方向付けを失った人間的な行為」と。さきほど罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」といいました。まさにそうであり、言い換えると、罪とは「天主に対する正しい方向付けの欠如」ともいえます。
天主のためにあるのではない人間的な行為です。大事なのは、罪という違反は意図的であること、そして、天主の法に違反することという二つの要素をよくおさえておきましょう。