ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

悪魔(サタン)の罠 | 超自然の視点からみた歴史_勝負はついている

2021年08月13日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ショタール神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

悪魔(サタン)の罠。(マテオ、24、15-35)超自然の歴史観。

FM CHAUTARDショタール神父の説教
2020年11月22日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、本日の福音、世の終わりについての福音ですが、現代、ぼろぼろとなっているカトリック教会をみて、ことにローマでの堕落を見ると、そしてフランスをはじめとする多くの国々に健康上の全体主義、独裁政治が進んでいる状況を見ると、なにか絶望あるいは心配あるいは不安という気持ちに負けそうになることがあるかもしれません。

このような気持ちに負けたらサタンの罠に陥ることになります。悪魔は恐怖や失敗や悲しみを煽ることに関して優れています。あるいはこれらの恐怖などの気持ち、あるいは正当な心配を活かして、ある霊魂を落胆へ落とそうとしていて、絶望させようとしています。悪魔はいやなことを忘れるために快楽へ落とそうとし、あるいは果たすべき義務から逃れるように我々を誘うのです。

中国の古代に、孫子という将軍がいましたが、「兵法」という代表作を作成しました。「戦わずして敵に勝つ」という戦略思想を展開しています。このように、敵の士気をなくす戦略、敵陣に恐怖を広めて、落胆させて、心配と不安を煽る戦法を奨励しています。その結果、敵陣は戦場に来ても戦わず、降服するように働き掛ける戦略なのです。このような戦略はまさに悪魔が使う戦略なのです。悪魔は我々を悲しみと心配事に溺れさせようとしています。特に悪魔は正当な気持ちを利用して、我々が罪を犯すように唆して誘導しようとしています。つまり、「戦わずして」、言いかえると誘惑して我々が抵抗することすらさせないで、我々を自ら陥らせるという悪魔の戦略です。

愛する兄弟の皆様、本日の福音をきっかけにサタンと天主と間の関係を考えましょう。
はじめに、サタンは嘘の父であることを思い出しましょう。サタンこそは最初の嘘つきなのです。そして、聖書に照らして、サタンの主な嘘は「自分の力」を誇張して大げさにいって、現実より大きくして自分の力が絶大であるかのように見せかける嘘をつきます。ですから、念頭に置きましょう。サタンは単なる被創造物であり、ある程度の力があろうとも、悪魔たちの力は制限されていて、限りがあるわけです。天主は悪魔の力をいつでも抑止することがおできになります。天主はお望みならば悪魔の業を瞬間的に止めることができます。

天主こそは創造主であり、全宇宙の主であり、歴史の御主なのです。天主はみ摂理を通じて、あらゆる物事の世話をやっておられます。例えば福音書には鎮められた嵐の場面があります。使徒たちは船に乗っていて非常に強い嵐にあって死にそうだと怖がっています。そして、船に寝ていた我らの主、イエズス・キリストに救いを頼みますが、イエズス・キリストが立ち上がり、一言、そして手のちょっとした仕草で、瞬間的に嵐を鎮めました。つまり、大自然はその主である天主の命令に従うということです。瞬間的に嵐が止まって、非常に静かになって晴れていて何もなかったかのように静謐な状態に戻りました。使徒たちは我らの主の力を見て唖然としていました。

悪魔に対しても同じです。どれほど悪魔が暴れ出しても、我らの主が手の軽い一仕草で悪魔を制圧します。つまり、悪魔は展開している業などは天主の望みの内に制限されて、天主こそが最終的に決めておられます。つまり、悪魔の力は我らの主、イエズス・キリストによって制限させられているわけです。

言いかえると、大自然においても創造主なる天主は制限を施しました。どこの海も地上に流れでることはないのと同じように、山々には一定の高さが課されていると同じように、悪魔の力も制限されていて、天主は悪魔の力に限界を設定されました。
悪魔が将来を見ることができないだけでも悪魔の力はかなり弱いと言えます。はい、悪魔も天使も将来・未来を見ることはできません。悪魔・天使は来る将来を支配していないのです。

悪魔は確かに能力が優れているから、多くの計画や予測を立てて策略を展開していけることはあるでしょうが、また悪魔は自分の計画通りになるために将来を準備しているでしょうが、悪魔は将来を見ることもできないし、悪魔は将来に手を及ぼすことはできないのです。しかしながら、天主は逆に過去、今、将来、すべてを支配していて、将来をすでに完全に把握して支配しています。これから、相応しい時に、どういった霊魂が生まれるか、どういった召命を降すか、どういった聖人を呼び求めておられるか、どういった神父を啓示するかは天主が当然ながらすべてご存じです。しかしながら、悪魔はこれらを知ることはありません。絶対に。悪魔は知ろうとしても、どうしても将来を全く読み取れない存在なのです。

たとえば、シエナの聖カテリーナの人生を見ても、聖カテリーナは悪魔によって非常に激しく強く誘惑されています。しかしながら、聖カテリーナは悪魔の誘惑に対して強く勇敢に抵抗しています。そして、ある日、悪魔は「もう、抵抗することをやめたら?どうせ、この抵抗は不要だろう。地獄であなたの席はすでに決定されているからさ。あなたがすでに業罰が決定されているよ。どうせあなたはもう天国に入れないからさ。」と誘うわけです。

それに対して、聖カテリーナが「そうならば、あなたが勝つことが決定だったら、一体なぜ私を誘う必要があるのでしょうか」と答えます。そして、聖霊の息吹に従っていた聖カテリーナの答えに対して悪魔は呆れて、馬鹿にされて瞬間的に去らざるを得ませんでした。はい、正に正解でした。悪魔に至っても将来は未確定になっています。将来が未確定になっているだけに、悪魔が多くの計画を勧めようとしても、絶えずこれらの計画は善き天主によって妨害されて阻止されて反対されてばかりいる事実があります。天主は常に悪魔の策略一杯の計画を無駄にさせます。というのも、悪魔の謀(はかりごと)に、天主はそれを無駄にするある聖人を呼び求めたり、歴史的な出来事を起こしたりします。



例えば、旧約聖書において、ユダヤ人たちがパレスチナから強制的に移住させられる場面があります。バビロンへの追放で、現代のイラクあたりにあたる地域に移住させられました。その結果、神殿の再建も拒まれて、先祖たちの礼拝を引き継ぐことは困難となって、先祖たちの宗教は遠く離れる羽目になっていました。絶望になりそうになった時、善き天主はこの追放状態という試練の終焉を告げました。

キュロス国王はメディア帝国を征服して、ユダヤ人たちがいた中東を支配するようになりました。そして、キュロスはユダヤ人のために、神殿の再建を許可することにしました。ご覧のように、イエズス・キリストの到来を準備するために存在するユダヤ人たちの宗教を悪魔は潰そうとしていて、その追放はユダヤ人たちの罪の罰として許可されたにもかかわらず、善き天主は最終的に悪魔の計画を無駄にされて、逆にイエズス・キリストの到来に向けてその宗教を強化されました。

もうちょっと近い例を挙げましょう。歴史に残した大出来事ですが、スルタンの馬をローマの聖ペトロ教会の前に牧してみせるという野望があったことでわかるようにオスマン帝国はどうしてもカトリック教圏を潰そうとして、絶望状態になりかけた時、善き天主は聖ピオ5世を出現させ給いました。聖ピオ5世はロザリオの十字軍を激しく強く展開した結果、レパントの勝利につながりました。



このように、悪魔の計画は常に成功せず、いつも失敗に終わります。いや、悪魔の計画は阻止されるばかりではなく、悪魔の計画ですら、天主のご計画の一部であります。我々はこの真理を聴いて驚くことが多いです。「悪魔の計画は天主のご計画の一部だと?いったいそんなことどうやってあるのだろうか?」と。「善き天主は悪を望むことはできないだろう。悪魔の計画自身を望むことはできないだろう」と。

はい、その通りです。天主は悪などをもちろん望んでおられないのです。ただ、善き天主は悪魔の動きをやらせっぱなしすることもあり、そして悪魔が計画をある程度に進めた時、善き天主は介入して、より多くの善を悪から生み出させ給うのです。つまり、悪魔の計画はより高い善のためにあるということです。

例えば、アダムとエワの創造を見ましょう。サタンは堕落して、永劫の罰を、永遠に罰せられる事実をサタンは知っています。そして、天主はアダムとエワを創造されます。人間です。サタンは耐えられないほどの聖寵の内に造られた人間に嫉妬します。ですから、悪魔はあらゆる手段を利用して人間を攻撃していきます。悪魔は天主を直接に攻撃できないので、天主の御業、被創造界を攻撃することにします。



つまり、アダムとエワを攻撃します。その結果、悪魔はエワをおとして、そしてエワはアダムをおとします。その時、天主の御業が傷つけられたことを見て、悪魔が喜びあがるのです。そのあとの歴史を知らなかったサタンは原罪を犯したアダムとエワに対して天主が彼等を地獄に落とすだろうとサタンが期待していたことでしょう。

しかしながら、サタンの予想外のことに、天主は何をなさったでしょうか?救い主の到来を告げ給い、人々を赦し給う結果になりました。要するにサタンによる悪魔的な計画を利用して、天主はご自分の人間への愛を示し給い、その愛をより深くしたまい、人々を贖罪するために来るメシア、救い主の到来を告げ給います。

要は、以上の悪魔の計画は結局、悪魔をより不利な立場にさせたことになりました。そういえば、復活祭の前夜祭の際、いつも歌っている祈りがあります。「O Felix Culpa」「O certe necessárium Adæ peccátum」と歌います。「幸いなる過ちよ!」「これほどの救い主をもたらした幸いなる罪よ」「必要だったアダムの罪よ」という祈祷があります。なぜ必要だったでしょうか?天主の御慈悲を示し給うためにアダムの罪は許可されました。

救霊の歴史を通じて、もう一歩先に進めましょう。
我らの主、イエズス・キリストの時代を見ましょう。ご降誕なさって、大人になって教えを広め始めます。これを見る悪魔はこのイエズスが誰なのかを知りたくなるわけです。それを確かめるため、砂漠の方でイエズス・キリストを誘うのですが失敗に終わります。その時、悪魔はどことなくこのイエズスが自分の覇権を揺るがしうる存在だと分かって、あらゆる力と手段を活かしてイエズス・キリストを破壊することを決意します。最終的に、悪魔の計画通りに、十字架に我らの主をかけられて死なせたことが果たされました。その瞬間、悪魔は喜びあがって、自分の計画が成功になって自分の支配は続くだろうと思っていたからです。

しかしながら、悪魔が将来を知れなかったから、彼の予測力を越えるところで、十字架上のイエズス・キリストの御死は限りのない聖寵の泉となりました。ご覧ください。悪魔の策略の結果、イエズス・キリストの御心に槍で刺させるまでに悪魔が成功しているのに、イエズス・キリストの御脇より開けられた御心より聖寵はわき出しました。そして、御脇より湧きだす聖寵は悪魔の支配を破壊しました。悪魔の支配の基盤を決定的に攻撃する聖寵が湧きだしました。要するに勝ったと思ったところの悪魔は結局、彼の負けを自分で不本意にも助けたという結果になりました。



また、教会の歴史の続きを見ましょう。
我らの主の復活のあと、使徒たちは世界の果てまで布教活動を展開していきます。彼等を止めさせるため、悪魔はユダヤ人たちを利用して多くの迫害をキリシタンたちに対して起こさせました。つまり、シナゴーグのエリート層のイエズス・キリストに対する憎しみを利用して、キリシタンや使徒たちに対する迫害を実現するように働きかけて成功します。また、悪魔の計画通りになるように見えます。一番最初の迫害です。

それで、み摂理は何を用意されていたでしょうか?み摂理は聖パウロを呼び出し給い、異教の国々、異教徒たちに福音を運び、回心してもらうようという召命を聖パウロに与えまい、より多くの人々に救霊をもたらすことになりました。要は、悪魔がユダヤ人たちの内のキリシタンを仕留めることが成功したと思った瞬間、より広く多くの異教の人々までに救霊は及ぼし、自分の支配が弱まった結果となりました。悪魔は負け組ですが、天主のみ摂理のために不本意にもずっと働きます。

そのあと、今度はローマ帝国からのキリスト教徒に対する迫害がありました。迫害ごとにどんどん流血を伴い、暴力的になっていきました。ローマ帝国が行った最後の迫害は一番激しかったかと思います。要は、当時の古代ローマを支配していたのは悪魔でしたが、その帝国をキリシタンを殺す機械にしていたわけです。当時の人々からみると、絶望的な状態となって、もはやカトリック教会は亡くなるだろうと思われることが多かったです。が、結局、絶望的になっていたその時、み摂理で善き天主はコンスタンティヌスに帝位を継がせ給いました。だれも予想もしなかった大逆転となりました。ローマ帝国は一番カトリックを迫害して、カトリックを破壊する存在から、いきなり、カトリックを一番擁護して支える存在と変わりました。コンスタンティヌス皇帝の即位によって、ローマ帝国こそキリスト教の最大の媒体となっていきました。み摂理がお望みになった素晴らしい逆転です。

つまり、歴史をみたら、いつもこのようなことが起きます。絶望的になりかけている時こそ、当時の人々だったら誰も予想も想像もできない逆転が起きます。悪魔の計画は成功しそうになる時こそ、結局、これらの計画が信仰のためになるという歴史的事実があります。
「あなたたちの中に党派があるのは避けがたいことであるが、それによって徳のある人が目立ってくる」(コリントの信徒への第一の手紙、11、19)と聖パウロが言う通りです。

つまり異端者なども出る必要があるというのでしょうか、そのおかげで信仰はより強くなっていきます。歴史においては、悪魔が誘う異端者が出るたびに、天主の真理と教えを曖昧にさせて、人の目から隠そうとするたびに、結局、いつもいつも天主は信仰の博士らや宣教師らを呼び出し給い、信仰はより強化されていきます。つまり、悪魔が真理を隠そうとも、追い出そうとも、歪曲しようとも、結局、これらの真理はより明らかになり、より良く愛されて守られて、より良く理解されて、より広く伝わる結果になりました。

いつもいつも、悪魔の計画は不本意ながらも悪魔の目的からずれて、天主のご計画の助けとなるのです。
数か月前のことを思い出しましょう。また同じようなことが起きています。ミサは禁止されていた時でしたが、復活祭の夜をここで捧げました。この教会で荘厳に前夜祭を捧げたところ、やさしい近所の人々は我々がミサをやっていることを警察に密告しました。その結果、メディアは嵐のように暴れ出しました。その結果、その報道の嵐のお陰で、我々の存在はより広く知られて、この聖伝ミサの存在はより広く知られて、このおかげでミサ聖祭と初めて接触できた人々も多くて、そしてミサ聖祭のために戦いに有利となりました。

もう、悪魔はなんともできませんよ。悪魔の計画は必ず失敗におわります。最終的に、悪魔が不本意ながらも、彼の計画は、必ず、み摂理の御計画のためになるのです。
ですから、禍にあってこそ、その分、我々は期待する価値があります。望徳を増やしましょう。

例えば、最初、悪魔はエワ、つまり女性を誘導して人間を落とそうとしました。その結果、善き天主は聖母マリアを登場させて、悪魔の頭は女性の足に踏みにじられる運命となりました。人間の創造の当初から世の終わりまでこのようなことはずっとあります。変わりません。天主は悪魔の計画を使って、御計画の一部となっていることを忘れてはいけません。ですから、愛する兄弟の皆様、期待しましょう。天主に信頼しましょう。

本日は黙想会の日曜日でもあります。黙想に参加することを奨励します。というのも、黙想会は信仰の真理をゆっくりと黙想する時間です。つまり、信仰の光に改めて満たされるための貴重な時間です。黙想会の時、例えば救済の営みを黙想するだけではなく、つまり、ルシファーの罪や原罪や贖罪などを黙想したりしますが、このような真理による光を得るだけではなく、黙想会に参加すると、多くの聖寵をも得られる貴重な時間を過ごせます。日常生活の試練に備えるために我々が必要となるのが真理と聖寵です。

悪魔の計画が進めば進むほどですね。そして、実際に悪魔の計画は進んでいるのです。というのも、将来を読み取れないとしても、悪魔はどことなくすでに負けていることを感じていて、そのぶん焦って計画の実現の速度を高めようとします。で、悪魔の支配が強ければ強いほど、我々はその分、善き天主が溢れるほどに与えたまう多くの聖寵を必要となってきます。

最後に、愛する兄弟の皆様、思い出しましょう。一年前、この国で今、ミサが禁止されることを言われたら誰一人も信じられなかったでしょう。同じように、この内に黙想会をやりましょう。明日、迫害はどこまで進むのか誰も言えません。簡単に黙想会などはできなくなるかもしれません。ですから、今こそ、天主より頂ける聖寵を蔑ろにしないように、今の内に確保しておきましょう。そして天主のみ摂理と聖寵、それから聖母マリアの御取り次ぎに寄り頼みましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。