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「罪源その1」―あらゆる罪の源は”傲慢” 【公教要理】第九十二講

2020年06月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十二講 罪源その一


前に、「天主の法への違反」とは罪の定義だと紹介しました。あるいは、聖トマス・アクイナスの罪の定義も非常に緻密で参考になります。罪とは「天主への嫌悪、そしてある被創造物への転向」という聖トマス・アクイナスの定義です。

そして、前回は大罪と小罪との区別を見ました。大罪は霊魂においての天主の友情を失うことを言います。ですから、大罪は深刻です。大罪とは自分の霊魂から天主を追い出すまで、霊魂に傷をつく罪なのです。そして、小罪とは霊魂において天主の友情を失わなくても済む罪なのです。

今回、罪源という特別な罪の種類についてご紹介したいと思います。罪源は文字通りに「多くの罪の源である罪」だという意味です。つまり、罪源こそは他の罪の源であり、その種であるということです。つまり、罪源のような罪を犯すと、ほかの多くの罪につながっていくという意味であります。

そういえば、罪源を指すには、枢要悪徳ともいわれています。というのも、一発の行為よりも、罪源とは大体の場合、潜在的な傾向であり、悪い習慣であるからです。つまり、常に悪習のような悪徳であるからこそ、罪源は多くの罪の源になっています。

そして、罪源には七つありますが、その七つも共有の基本的な罪を源にしています。傲慢という罪はあらゆる罪の源だということです。言いかえると、あらゆる罪の根源には、「自分自身に対する乱れた愛着がある」と間違いなくいえます。例えば、罪というのは天主より被創造物を選び、被創造物を優先することですが、そうすることによって、間接でも自尊心を満たすような側面が必ずあります。従って、あらゆる罪の源は究極的にずっと傲慢があるのです。罪源中の罪源は傲慢です。一番重要な罪源です。

七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。繰り返します。七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。簡単に、一つずつについて説明しておきましょう。今回は邪淫に関して省きます。別途の機会、十誡を見る時、より詳しく説明する予定です。特に、天主の第六と第九の誡は邪淫に関する誡なので、その時にご紹介します。

第一、罪源中の罪源は傲慢です。傲慢とは何でしょうか?「自分自身への過剰な愛着である」と定義づけましょう。つまり、傲慢は自分自身への乱れた愛着であり、不適当な愛なのです。当然ながら、一方、自分自身を愛することは義務です。天主によって創られた被創造物として、また天主は私を愛し給う被創造物として、自分自身を愛すべきです。しかしながら、それとは言っても、自分自身を自分自身のありのままに愛すべきことであり、また自分自身に値する相応しい程度で愛すべきだということです。

言いかえると、被創造物として、また、天国に行くべき人として、自分自身を愛すべきだということです。要するに、傲慢とは「自分自身への乱れた愛」です。自分自身を邪道に愛するあまりに、どうしても自分が優秀になりたいという野望に陥れてしまいます。この挙句の果て、天主の代わりに自分自身、人を置くという欲望になってしまう傲慢。まさに、サタンの罪です。

「奉仕しないぞ」といったサタンです。傲慢の罪です。その時、聖ミカエルはサタンに答えました。ちなみに「ミカエル」というの名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰か」と答えました。ちなみに「ミカエル」という名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰かという意味です。言いかえると、自分自身には自分の力で至福を与えられるものは誰か?自分自身において完全なるすべての満足を見つけるものは誰か?いや、我々が持っている善いものことはなんてすべて天主より頂いているのです。天主においてしか私たちは人間が幸せを見つけることはできないのです。

そして、傲慢という罪は「天主において幸せを望む」欲望に反対しています。傲慢のせいで、自分だけが優秀になり、立派になり、優れたいあまりに、本来、天主への欲望を失亡くすのです。傲慢はまさに自己満足です。実際には、唯一、自己満足できるのは天主のみです。しかしながら、もちろん天主は傲慢でも何でもありません。その上なく善なる天主なので、天主は単にご自分自身のありのままに、つまり創造主として至上の善として自分を愛しているということだけです。

同じように、被創造物として、それから天主に依存している存在として、自分自身を愛している人は傲慢な人ではありません。現実にそって、人のありのままに、自分を愛しているから、愛徳なのです。しかしながら、人間を超えた偽りの虚像であるかのように自分自身を愛するときに、傲慢となります。

傲慢のせいで、かなり大変なことになることもあります。最悪なのは、天主を侮辱することに至ることもあります。この場合、傲慢の罪は深刻になります。当然ながら、軽い形での傲慢もありますよ。ちょっと優秀になりたいとき、他人にたいしてちょっと勝ち取りたい程度の時の傲慢なら、まだ軽いです。

すでに傲慢の罪ですが、自分自身を過剰に評価するあまりに、天主の代わりに自分自身を置いた羽目になる時、その場合、非常に深刻です。で、傲慢という罪には多くの「産物」があります。つまり、傲慢が生む罪は多いです。罪源なので、ほかの罪を生むのです。

傲慢のせいで、うぬぼれが出てきます。自尊心の一種でありますが、つまり自分が実際に現実的にできることを認識するよりも、実際にできないものの自分がより多くのことができると間違って思い込む罪です。実際よりも、自分が力強いと信じる罪です。

また、野望という罪もあります。野望とは何でしょうか。過度に、身分・地位・権力などを望むということです。そして、共通善のために望むのではなく、自分自身のために望む野望です。本来ならば、権力を持つ人は共通善のために行動すべきです。

要するに、下にある人々の善のために働く上の者なのです。しかしながら、現代ではこのような本来の形はもはや存在しません。残念ながらもトップに就く人々はほとんどの場合、野望だけでその地位に就いたわけです。簡単にいうと野望とは傲慢の帰結の一つなのです。

そういえば、悪魔は私たちの主、イエズス・キリストを誘惑するとき、イエズス・キリストを高い山に移動されて、サタンが彼に世界の国々を見せます。そして悪魔は言います。「あなたが私の前に礼拝するなら、わたしはこれをみなあなたにやろう」 。まさにこれです。野望は直接に天主を敵にしているのです。というのも、野望は福音の中に、サタンへの服従を意味するのです。

残念ながらも悪魔と契約を結んだ人々は歴史上にいるのは周知のとおりです。ほとんどの場合、野望のせいです。悪魔から、何かの権力、力、宝、ある程度の、充実した福祉がサタンへの服従の代わりに約束されたから、誘惑に負けたのです。野望はよく、罪として深刻です。というのも、大体の場合、野望のせいで不正な手段を選んだりしたする挙句に、多くの罪を犯すという弊になります。現代の政治界を一瞬でも見たら、残念ながらも明らかでしょう。

そして、傲慢から生じる第三の罪は「虚栄心」です。虚栄心とは人間・世間からの賞賛に対する乱れた・不適切な愛着です。言いかえると、自分自身のためにだけ、世間の賞賛を求めるということです。虚栄心です。むなしいです。虚栄心のせいで、天主に帰する賞賛を自分自身に帰させようとすることです。

ある詩編には「Non nobis domine, non nobis sed nomini tuo da gloriam」「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、われらにではなく、あなたのみ名に、」 。虚栄心はいつ深刻な罪となるでしょうか?天主に帰すべき光栄を自分に帰させようとするときに大罪となります。

また、虚栄心のせいでさらにほかの罪につながることが多いです。命令に対する不従順。また高慢になることもあります。つまり、愚かに、馬鹿なに発言をするという罪です。また自慢にもつながるのです。また虚栄心のせいで、偽善につながることもあります。偽善というのは、文字通りに、実際に持たない善徳を偽って見せかけるということです。まあ、17世紀のフランス文学では、特にモリエールの喜劇において、このような偽善者、虚栄を愛着していた偽りの熱心な信徒者を非難する喜劇は有名ですね。このような偽りの信徒者は熱心であるように見せかけて、他人からの賞賛を求めているという虚栄心。

私たちの主、イエズス・キリストはまさに虚栄心を咎めて、ファリサイ派の人々を叱ったのです。これはすべて傲慢の一種なのです。

また、傲慢のせいで、議論における喧嘩と争いも起きます。不和もその意味で傲慢の帰結です。つまり、傲慢のせいで、多くの場合は喧嘩・不和・争いが起きるわけです。つまり、自分自身に対する過度な愛着、自分への賞賛への愛着、自分の権力への愛着のせいで、他人が自分より優秀であり、権力があり、賞賛があることにを耐えられないことになってしまう結果、喧嘩、争いなどが起きます。そして、最悪の場合、傲慢者は傲慢のあまりに、汚い手段を使ってでも自尊心を守るようなことに至ったりします。大変です。

以上に観たように、傲慢という罪を出発点にして、殺人にいたることもあります。
そういえば、聖ヨハネはサタンについて次のことをいっています。「彼(悪魔)は始めから殺人者だった。」
つまり、傲慢と殺人はつながっているということを示す文章です。傲慢者は殺人者になることは少なくないということです。悪魔は傲慢者であり、人殺しであるのです。以上は傲慢でした。

で、傲慢に抵抗するために、傲慢と戦うためにどうすればいいでしょうか?慎みによってです。つまり、自分自身をこのありのままに素直に見ることによってです。つまり、自分自身は被創造物であること、天主に依存すること、限られた存在であることを考えて、適切に自分のことを思うことによってです。

特に効果的なのは、人間の究極的の目的地を考えるのがよいです。つまり地獄と天国のことです。また死を黙想するのもよいです。いつでも死が起きうるわけです。地上の国々の指導者でさえ、必ず死ぬものです。死んだときに、一番強い人でも一番弱い人でも全く同じ状態になります。死んで、体は屍となって、塵に戻るのです。これは全人類の共通の運命です。死に関して、栄光や権力・権威などは人間のためにならないのです。死に対して、一番乏しい人と変わらないで、どれほど金持ちになっても何も変わらないのです。ですから、死のことをよく考えるのは善いことです。傲慢に抵抗するために効果的です。この世の物事はどれほどむなしいか、儚いかを黙想することもよいです。

また、イエズス・キリストに倣うことがよいです。そして、目立たない小さい使命や役割をとるのも傲慢に抵抗するために効果的です。

そして、第二の罪源に移りましょう。貪欲があります。傲慢と密接にかかわる罪です。地上の多くの善・物事、即ち外面的な物事に対する乱れた・邪道な愛着なのです。

傲慢の場合、「自分自身」に対する乱れた愛着である一方、貪欲は時間においての周りの世界にある何かに対する乱れた愛着です。

なぜ、乱れた愛着というでしょうか?このような世俗の物事はすべて天主によって創られたのです。そして、傲慢の場合と同じようなことです。自分自身を相応しくこのありのままに愛するのは非常に良いことです。同じように世俗の物事に対しても、それぞれの物事のありのままに、それ以上も以下もなく、相応しく愛することは善いことです。つまり、地上にある善い物事の全ては天主によって私たちに与えられた手段であり、天主へ近づくために与えられた手段なのです。このようにこれらを愛するのはいいです。

しかしながら、貪欲になる時、過度に愛着するあまりに、天主を忘れて、天主よりもこの世の何かに愛着してしまうという罪です。物質的でも精神的でも、天主を忘れてこの世の何かに過剰に愛着するとき、貪欲となってしまいます。いつ貪欲は深刻な罪になるでしょうか?

例えば、一番典型なのは、「金」あるいは財産において目的を置く時です。そういえば、典型的な現象があります。貪欲に満ちた金持ちは常に「自分の財産を失うことを心配していていつも不安だ」という傾向があります。このように、常に不安になった時に、貪欲の罪が深刻になったということがわかります。つまり、多くの財産と金を得ていくだけではないのです。

ちなみに、死に対して、財産を多く集めても何のためにもならないのです。どれほど、死なないために膨大な財産を使っても、結局必ず死ぬのです。ですから、いずれか天主の前に出廷して裁かれることになります。それでも、膨大な金を集めることに留まらないです、貪欲者の霊魂において、財産と金のせいで、不安の種となってきます。いつもいつも財産を失うことを恐れています。

このような現象は貪欲者が財産においてこそ、あるいは、世俗の何かに、変わりゆく儚い一時的な何かにおいてこそ、自分のすべての目的を置くことは明らかです。つまり、自分の霊魂の命よりも、霊的な善よりも、世俗の善を優先する、そこに自分の目的を置くということです。

このように、貪欲は大罪になります。そして、どれほど金かねと財産を集めたところに、何がのためにあるのでしょうか?このようになると、金、財産は手段でなくなり、目的になってしまいます。金を使うのではなく、金に仕えるということです。

つまり、貪欲者は世俗の何かの奴隷となります。よく考えると理不尽です。やはり、人間には知性と理性があるから、霊的な存在でもあるのに、世俗的な、物質的なことの奴隷になるなんて、理不尽です。このようになると、貪欲は大罪になります。金を使うのではなく、金に仕えるということです。イエズス・キリストは福音では次のように仰せになります。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。(…)神とマンモンとにともに使えることはできぬ」 。マンモンとは金の神です。
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貪欲から生まれる罪は多いです。貪欲のせいで、精神的な不安が生まれます。また、無関心になる弊もでます。これは大変なことです。つまり、貪欲者は心が固くなって無関心になり、施すために、他人の苦しみを和らげるために自分の財産を使うことはできなくなる時です。

現代の社会はまさにこのような世界と化してしまいました。例外があっても、現代では、いわゆる豊富裕者たちは貧乏人のために施すことはできなくなっています。心が固まっていて、無関心になっています。残念ながらも、このような無関心が確認できる時、霊魂には天主の生命はもはやなくなったことを物語る現象です。

天主への愛を排除した結果に、貧しい人々への憐みもできなくなっています。隣人にたいして憐れむことはできなくなった時、天主への愛はいったいどうやってありえるでしょうか?この世での霊的なことに対して何の関心がなくなった時、一体どうやって本質的に霊的である天主への関心はどうやってありえるでしょうか?

また、貪欲のもう一つの帰結は残念ながらも、暴力なのです。傲慢と一緒です。またけんかと争いです。すぐ思い浮かぶのはいわゆるゴールドラッシュですね。その時、争いあって自分の土を奪い取り、金属を集める争いは典型的でしょう。貪欲は争いと喧嘩の種になります。

そして、当然と言ったら当然ですが貪欲のあまりに詐欺や不正な手段の種となります。詐欺、偽証、不正な手段は現代では蔓延しています。なんか、貪欲者は公の場でも、人の前で、誓ったことを平気に破ったりするような。もう、名誉は貪欲者にもはやなくなります。政治家たちなら、名誉はもはやまったくないのです。明らかでしょう。
要するに、貪欲のあまりに、霊的な営みと生活を完全に破壊しています。そして、挙句の果てに超自然次元の生活の営みはもちろん、自然次元の生活すら破壊します。悲劇的です。人間より低い存在に対する乱れた愛着である貪欲です。

貪欲を理解するために、偶像崇拝の一種だといえます。旧約聖書において、石のかけらなどを過剰に愛着するヘブライ民を見て天主はよくヘブライ人を咎めていました。ですから、旧約聖書の時代に、天主の絵を作成することは厳禁でした。偶像崇拝にならないためでした。貪欲者は偶像崇拝者でした。破滅の運命を持つ、一時的な物事への礼拝者にすぎません。そして、礼拝する対象のように、貪欲者も破滅の運命となります。

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