白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
道徳に関する連座講話を続けましょう。
道徳とは「天主の許に辿り着くために、天を得るために、人間としてやるべきこと、実践すべきことを規範する分野」です。
人間が天主によって造られたのは、ある特定の目的のためでした。その目的は永遠の至福です。天国を取得するためです。そして、天を得るための「行い」を実践しなければなりません。これが「道徳」の語る分野です。
「道徳」という単語はラテン語の「Mors, moris」に由来していて、「風俗・品行・風習」という意味ですが、天主の許に辿り着くために人間が実践すべき行動を律する品行という意味です。
人間は常に行為をします。こういった行為を「人間的な行為」と呼んで、どういった中身かはすでにご紹介しました。
そこで、人間的な行為が律せられる必要があります。言い換えると、そういった行動を「相応しい秩序に適わしめる」必要があります。
「規定・規律・規則」といった単語は、本来、「定規」という語源に由来します。
「定規」つまり鉛筆で線を真っすぐに書けるように助ける道具ですね。
同じように、「真っすぐ」な行動を実践出来るように、天主は「規定」を人間に与え給うたのです。「真っすぐ」というのは、「天に行けるようにする」行動という意味です。
一般的にいうと、二つの規則があります。
一つの規則は人間の内心にあり、これは「良心」と呼ばれています。前回にご紹介した良心です。
もう一つの規則は人間の外にあり、外から人間に課せられる規則で、「法」と呼ばれています。今回は後者の規則、「法」を見ておきましょう。
「法」とは、人間の行う行為を真っすぐにするように、また人間的な行為が真っすぐであるように、外から課せられる規則であります。
~~
「法」とは何でしょうか。神学大全において聖トマス・アクイナスの定義を引用しておきましょう。
この定義は広く一般に認められて、広く共通されている基本的な定義です。ほぼ全神学者をはじめ、殆どの哲学者に至って、聖トマス・アクイナスの定義を採用している事実があります。
「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。
以上の定義でのすべての言葉、一個一個の単語は重要です。
まず「法とは理性による規定」であります。
第一の言葉は「規定」です。大事な言葉であって、「規定」は「秩序づける」という意味で、「秩序を立てる」という意味です。まさに、「真っすぐにする」というのは、「正す」という意味であって、「秩序づける」ということです。「秩序づける」とは、「各々の物事をそれぞれの目的地に向かわせる」という意味です。
ところで、日常生活でも政治生活でも、「命令する」というのはラテン語の語源を見ると、「秩序を立てる」「整理整頓して綺麗に片付ける」というような意味です。本来ならば、「秩序づける」としての「教令する」とは、いわゆる単なる「命令する」という意味に留まらず、命令を受ける相手が自分の目的地に辿り着けるように、その目的を取得させることを可能にする「命令」という意味です。言い換えると、命令するのは本来ならば受ける側の「完全」を助けるという意味であって、「完成」する、または「命令」するとは語源的にいうと「果たす」という意味です。
なお命令には受ける側のその「目的」・「目的地」という要素が含意されています。つまり、命令するとは、「命令を受ける相手の完全を助けるためにある」のです。
そして、法とは「規定・命令」です。その意味は「その(受ける側の)目的地に向かわせる規定」としての「命令すなわち法」です。言い換えると、法の下にある被創造物が自分の目的を取得させることを助ける「法」です。
~~
秩序は、その前提として必ず秩序づける「知性」があります。知性が前提されています。従って、「法は理性による規定・命令」だと言われます。
法とは、理性が物事において秩序だてる営みです。だから、本来ならば、命令するとは「理性の作用」の結果です。なぜかというと、理由があります。
その古典的な定義は近代的な発想と真逆です。特に権威に対する近代的な発想と対照的です。
意志を絶対化するカント哲学に由来するそういった「権威主義」という近代的な発想は、「理由なしに理性の作用なしに、命令するだけで法となる」という発想だからです。考えてみるとこれは理不尽な発想です。なぜなら、その定義ですと、法は法でなくなるからです。
本来の「秩序づける」命令という本来の「法」ではなくなります。なぜかというと、理性などを除いた純粋な「命令」としての「法」は、何の秩序を立てることもなく、単なる「気まぐれ」に過ぎなくなるからです。これは法ではありません。それは「近代的な法」の定義の大問題であって、その点こそに誤りがあります。
「命令する」人は、「勝手に何でも命令できる」ということはありません。命令は「理性に従って正しい」命令でなければなりません。言い換えると、知性に従って発する命令でなければなりません。または言い換えると、より上の原理に頼った理性の作用による結果でなければなりません。
命令とは、本来ならば、ある種の「智慧」です。ところで、智慧の持主である「賢者」を特徴づける要素というのは「秩序づける」ことです。だから、古人による政治学理論を読んでみても、例えば古代ギリシャ人の政治学理論を読んでみると、「助言」をもって命令していた王などを助ける「哲学者」なりの賢者が必ず登場します。なぜかというと、命令するために、「正しく秩序づけるべし」という前提があるからです。そのために智慧を持つ賢者の助言無しに到底出来ないことだからです。
「法は理性による規定・命令」です。だから、「法」とは、どこかに「知性」が前提されています。ところで、意志とは、必ず知性によって照らされているはずです。そうでなければ、先ほど取り上げた「権威主義」になるか、あるいは「意志主義」になるかどちらかです。
意志主義というのは、「何ものにも」照らされずに、意志が作用するという意味です。単なる例えに過ぎませんが、意志主義とはある面、「暗闇の内で松明を持たずに進もうとする人」という状況と似てはいます。照らされていない意志とは、そういった人と似ています。ところで、知性を無視して出された命令は「光がないままに暗闇の内に行動しようとする」ことと似ています。
法とは、それと違って、知性によって発するものです。だから「法は理性による規定・命令」だと言います。
これは、法を定義するための第一点であって、非常に重要な要素です。というのも、人間はその法を理解することが可能であるはずであって、法を理性で納得できるはずです。ところで、公教要理においても、道徳の部は「教義の部」の後に置かれています。何故なら、上にご紹介した定義に沿って道徳は教義より生じるからです。
天主をはじめ、知性が信じるべき教義全般を学んだ後で、厳密に言うと全て把握することはできないものの、知性が部分的に垣間見えるそれら多くの玄義が紹介された後で、言い換えると、少なからず知性を照らす教義が紹介された後、初めて、道徳について紹介される流れです。言い換えると、教義による「光」があるから、その光に照らされて初めて如何にして道を歩くべきかが紹介できるようになるのです。
ところで、本物のキリスト教徒が、本当の意味で真っすぐに行動できるようになるには、ある程度、信仰において成熟してからのはずです。ここでの成熟というのは、真理によって「相応しく正しく照らされた」という意味です。
宗教上だけでなく、どの法でも、法であるなら、法は知性から発します。
「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって」、これも、法の定義において重要な点です。
「共通善を目指して」とは、法が「共通善」のためにあるという意味です。言い換えると、法は「全体」のためにあるのです。「共通善」という概念は一言で簡単に定義できないのですが、ちょっとイメージしていただくために、「共通善とは、特定善の反対だ」と言えましょう。特定善というのは「我が善」であって、「一人だけの善」です。あえて粗末にいうと、その「特定善」はある種の「エゴイズム」だと言えましょう。
それは兎も角、特定善とは、一人だけの善であり、ある個人だけの善で、個人の範囲を超えない特定の善です。それに対して、「共通善」は「個人の善」に留まらず、それを超えた「全体の善」です。というのも、人間は必ず何かの「全体」の内に生活していて、ある社会に必ず属している事実があるからです。
というのは、人間は必ず男女の交際によって生まれて、家族という小社会において成長し、学校なり村なり祖国なりの、多くの共同体の内に成長していくからです。また、超自然の次元でいうと、洗礼によって教会という超自然の社会にも属します。
ところで「指導者・立法者」によって宣布される「法」は、その法を受ける相手の完全化のためにあります。つまり、法とは受ける相手を、より優れた善である共通善に適わしめるためにあるのです。この上ない共通善、つまり、至上の共通善とは、天主御自身です。なぜかというと、天主は全宇宙の善・目的地だからです。
法とは、必ず共通善を目指し、共通善に従います。共通善に適わない法律とは「法」ではないのです。だから、ある個人、あるいはある小団体の善だけに適う法律とは「法」ではないということです。要するに、法とはその本質として、「共通善に適う」べきだからです。
~~
最後に、法とは、「共同体の世話を担当している人によって公布される」ものです。
その人は、統治者だったり、王だったり、権威者だったり、共同体を指導者するその人です。ところで、「指導」Regereという語源を探るとRectumという意味が含まれています。つまり「真っすぐ」という意味です。
だから、「指導する」とは「真っすぐにする」という意味です。言い換えると、指導とは、調整、規制と言ったような意味もあります。
規定が「真っすぐ線を引く」ということであるように、「正して真っすぐにする」ことです。
ところで「正義」という徳は、他人との関係を調整し、その関係を整える徳だと定義されていますが、「真っすぐにする」というのは、究極的に言うと「天主に適わしめる」、究極の共通善に適わしめるということです。
「共同体の世話を担当している人によって公布される」。
公布されるというのは、法を適用することは可能になるには、「公布」されて、知らされる必要があるからです。だれも知らない「法」とは法として成り立たないで課することはできないからです。
非常にざっくりでしたが、法とは何かをご紹介しました。
大事ですからもう一度に繰り返しましょう。一つ一つの言葉は重要であるから注意しましょう。
「法とは、共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。
以上の普遍的な定義は、法の種類を問わず、法ならば必ず当てはまります。この定義に基づいて、これから少しずつ幾つか個別の法を見ていきます。
教会法は何であるか、何のためにあるのか、どこで見ることができるのか、どうやって従うのか、何を命令しているのか、何を禁ずるのか、などなどという教会法の多くの側面をご紹介したいとも思います。
十戒に収められているそれらの課題を次回から少しずつご紹介していきたいと思っております。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十七講 法について、その定義
道徳に関する連座講話を続けましょう。
道徳とは「天主の許に辿り着くために、天を得るために、人間としてやるべきこと、実践すべきことを規範する分野」です。
人間が天主によって造られたのは、ある特定の目的のためでした。その目的は永遠の至福です。天国を取得するためです。そして、天を得るための「行い」を実践しなければなりません。これが「道徳」の語る分野です。
「道徳」という単語はラテン語の「Mors, moris」に由来していて、「風俗・品行・風習」という意味ですが、天主の許に辿り着くために人間が実践すべき行動を律する品行という意味です。
人間は常に行為をします。こういった行為を「人間的な行為」と呼んで、どういった中身かはすでにご紹介しました。
そこで、人間的な行為が律せられる必要があります。言い換えると、そういった行動を「相応しい秩序に適わしめる」必要があります。
「規定・規律・規則」といった単語は、本来、「定規」という語源に由来します。
「定規」つまり鉛筆で線を真っすぐに書けるように助ける道具ですね。
同じように、「真っすぐ」な行動を実践出来るように、天主は「規定」を人間に与え給うたのです。「真っすぐ」というのは、「天に行けるようにする」行動という意味です。
一般的にいうと、二つの規則があります。
一つの規則は人間の内心にあり、これは「良心」と呼ばれています。前回にご紹介した良心です。
もう一つの規則は人間の外にあり、外から人間に課せられる規則で、「法」と呼ばれています。今回は後者の規則、「法」を見ておきましょう。
「法」とは、人間の行う行為を真っすぐにするように、また人間的な行為が真っすぐであるように、外から課せられる規則であります。
~~
「法」とは何でしょうか。神学大全において聖トマス・アクイナスの定義を引用しておきましょう。
この定義は広く一般に認められて、広く共通されている基本的な定義です。ほぼ全神学者をはじめ、殆どの哲学者に至って、聖トマス・アクイナスの定義を採用している事実があります。
「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。
以上の定義でのすべての言葉、一個一個の単語は重要です。
まず「法とは理性による規定」であります。
第一の言葉は「規定」です。大事な言葉であって、「規定」は「秩序づける」という意味で、「秩序を立てる」という意味です。まさに、「真っすぐにする」というのは、「正す」という意味であって、「秩序づける」ということです。「秩序づける」とは、「各々の物事をそれぞれの目的地に向かわせる」という意味です。
ところで、日常生活でも政治生活でも、「命令する」というのはラテン語の語源を見ると、「秩序を立てる」「整理整頓して綺麗に片付ける」というような意味です。本来ならば、「秩序づける」としての「教令する」とは、いわゆる単なる「命令する」という意味に留まらず、命令を受ける相手が自分の目的地に辿り着けるように、その目的を取得させることを可能にする「命令」という意味です。言い換えると、命令するのは本来ならば受ける側の「完全」を助けるという意味であって、「完成」する、または「命令」するとは語源的にいうと「果たす」という意味です。
なお命令には受ける側のその「目的」・「目的地」という要素が含意されています。つまり、命令するとは、「命令を受ける相手の完全を助けるためにある」のです。
そして、法とは「規定・命令」です。その意味は「その(受ける側の)目的地に向かわせる規定」としての「命令すなわち法」です。言い換えると、法の下にある被創造物が自分の目的を取得させることを助ける「法」です。
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秩序は、その前提として必ず秩序づける「知性」があります。知性が前提されています。従って、「法は理性による規定・命令」だと言われます。
法とは、理性が物事において秩序だてる営みです。だから、本来ならば、命令するとは「理性の作用」の結果です。なぜかというと、理由があります。
その古典的な定義は近代的な発想と真逆です。特に権威に対する近代的な発想と対照的です。
意志を絶対化するカント哲学に由来するそういった「権威主義」という近代的な発想は、「理由なしに理性の作用なしに、命令するだけで法となる」という発想だからです。考えてみるとこれは理不尽な発想です。なぜなら、その定義ですと、法は法でなくなるからです。
本来の「秩序づける」命令という本来の「法」ではなくなります。なぜかというと、理性などを除いた純粋な「命令」としての「法」は、何の秩序を立てることもなく、単なる「気まぐれ」に過ぎなくなるからです。これは法ではありません。それは「近代的な法」の定義の大問題であって、その点こそに誤りがあります。
「命令する」人は、「勝手に何でも命令できる」ということはありません。命令は「理性に従って正しい」命令でなければなりません。言い換えると、知性に従って発する命令でなければなりません。または言い換えると、より上の原理に頼った理性の作用による結果でなければなりません。
命令とは、本来ならば、ある種の「智慧」です。ところで、智慧の持主である「賢者」を特徴づける要素というのは「秩序づける」ことです。だから、古人による政治学理論を読んでみても、例えば古代ギリシャ人の政治学理論を読んでみると、「助言」をもって命令していた王などを助ける「哲学者」なりの賢者が必ず登場します。なぜかというと、命令するために、「正しく秩序づけるべし」という前提があるからです。そのために智慧を持つ賢者の助言無しに到底出来ないことだからです。
「法は理性による規定・命令」です。だから、「法」とは、どこかに「知性」が前提されています。ところで、意志とは、必ず知性によって照らされているはずです。そうでなければ、先ほど取り上げた「権威主義」になるか、あるいは「意志主義」になるかどちらかです。
意志主義というのは、「何ものにも」照らされずに、意志が作用するという意味です。単なる例えに過ぎませんが、意志主義とはある面、「暗闇の内で松明を持たずに進もうとする人」という状況と似てはいます。照らされていない意志とは、そういった人と似ています。ところで、知性を無視して出された命令は「光がないままに暗闇の内に行動しようとする」ことと似ています。
法とは、それと違って、知性によって発するものです。だから「法は理性による規定・命令」だと言います。
これは、法を定義するための第一点であって、非常に重要な要素です。というのも、人間はその法を理解することが可能であるはずであって、法を理性で納得できるはずです。ところで、公教要理においても、道徳の部は「教義の部」の後に置かれています。何故なら、上にご紹介した定義に沿って道徳は教義より生じるからです。
天主をはじめ、知性が信じるべき教義全般を学んだ後で、厳密に言うと全て把握することはできないものの、知性が部分的に垣間見えるそれら多くの玄義が紹介された後で、言い換えると、少なからず知性を照らす教義が紹介された後、初めて、道徳について紹介される流れです。言い換えると、教義による「光」があるから、その光に照らされて初めて如何にして道を歩くべきかが紹介できるようになるのです。
ところで、本物のキリスト教徒が、本当の意味で真っすぐに行動できるようになるには、ある程度、信仰において成熟してからのはずです。ここでの成熟というのは、真理によって「相応しく正しく照らされた」という意味です。
宗教上だけでなく、どの法でも、法であるなら、法は知性から発します。
「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって」、これも、法の定義において重要な点です。
「共通善を目指して」とは、法が「共通善」のためにあるという意味です。言い換えると、法は「全体」のためにあるのです。「共通善」という概念は一言で簡単に定義できないのですが、ちょっとイメージしていただくために、「共通善とは、特定善の反対だ」と言えましょう。特定善というのは「我が善」であって、「一人だけの善」です。あえて粗末にいうと、その「特定善」はある種の「エゴイズム」だと言えましょう。
それは兎も角、特定善とは、一人だけの善であり、ある個人だけの善で、個人の範囲を超えない特定の善です。それに対して、「共通善」は「個人の善」に留まらず、それを超えた「全体の善」です。というのも、人間は必ず何かの「全体」の内に生活していて、ある社会に必ず属している事実があるからです。
というのは、人間は必ず男女の交際によって生まれて、家族という小社会において成長し、学校なり村なり祖国なりの、多くの共同体の内に成長していくからです。また、超自然の次元でいうと、洗礼によって教会という超自然の社会にも属します。
ところで「指導者・立法者」によって宣布される「法」は、その法を受ける相手の完全化のためにあります。つまり、法とは受ける相手を、より優れた善である共通善に適わしめるためにあるのです。この上ない共通善、つまり、至上の共通善とは、天主御自身です。なぜかというと、天主は全宇宙の善・目的地だからです。
法とは、必ず共通善を目指し、共通善に従います。共通善に適わない法律とは「法」ではないのです。だから、ある個人、あるいはある小団体の善だけに適う法律とは「法」ではないということです。要するに、法とはその本質として、「共通善に適う」べきだからです。
~~
最後に、法とは、「共同体の世話を担当している人によって公布される」ものです。
その人は、統治者だったり、王だったり、権威者だったり、共同体を指導者するその人です。ところで、「指導」Regereという語源を探るとRectumという意味が含まれています。つまり「真っすぐ」という意味です。
だから、「指導する」とは「真っすぐにする」という意味です。言い換えると、指導とは、調整、規制と言ったような意味もあります。
規定が「真っすぐ線を引く」ということであるように、「正して真っすぐにする」ことです。
ところで「正義」という徳は、他人との関係を調整し、その関係を整える徳だと定義されていますが、「真っすぐにする」というのは、究極的に言うと「天主に適わしめる」、究極の共通善に適わしめるということです。
「共同体の世話を担当している人によって公布される」。
公布されるというのは、法を適用することは可能になるには、「公布」されて、知らされる必要があるからです。だれも知らない「法」とは法として成り立たないで課することはできないからです。
非常にざっくりでしたが、法とは何かをご紹介しました。
大事ですからもう一度に繰り返しましょう。一つ一つの言葉は重要であるから注意しましょう。
「法とは、共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。
以上の普遍的な定義は、法の種類を問わず、法ならば必ず当てはまります。この定義に基づいて、これから少しずつ幾つか個別の法を見ていきます。
教会法は何であるか、何のためにあるのか、どこで見ることができるのか、どうやって従うのか、何を命令しているのか、何を禁ずるのか、などなどという教会法の多くの側面をご紹介したいとも思います。
十戒に収められているそれらの課題を次回から少しずつご紹介していきたいと思っております。