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私たちの主の敵たち 【公教要理】第三十一講

2019年03月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第三十一講  私たちの主の敵たち


私たちの主イエズス・キリストの私・公生活についての短いご紹介を、今回をもって終了します。厳密に言うと信経には記されていません。
第三条は、ご降誕についてです。「すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、」
それから、第四条はすぐ御受難へ移ります。「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、」
そこで、今回をもって、私たちの主、イエズス・キリストの私・公生活についての余談を終了します。

私たちの主、イエズス・キリストについて、説明することは無数にあります。いや、一生をかけても足りないばかりか、永遠の命を得て、永遠をかけて天主と私たちの主イエズス・キリストを直観し、永遠に幸福を享受しつつイエズス・キリストについて知らなければならないぐらいに無限ですから。

【私たちの主は常に敵に囲まれていた】
割愛するところが多いのですけれども、今回は、福音書に出てくる幾つかの言葉を定義するためにも、私たちの主、イエズス・キリストが苦しまれた敵たちについて、簡潔にご紹介したいと思います。
確かに、福音書を精読したら、私たちの主は常に敵に囲まれていることを確認することができます。
聖ヨハネの福音書を見ただけでも、最初から、光と闇の戦いは描かれています。聖ヨハネは丁度にこの戦いで始まります。「光は闇に輝いたが闇はそれを悟らなかった」 とあります。要するに、聖ヨハネの福音では、光と闇があります。即ち私たちの主イエズス・キリストと主の敵たちとは戦い続け、次回からご紹介するご受難はその戦いの絶頂となります。

【私たちの主の一番の敵は悪魔】
当然ながらも、悪魔こそが私たちの主の一番の敵だとは言えます。悪魔自身が、砂漠にいる私たちの主を攻撃します。主を誘ってみます。

【サドカイ派とファリサイ派】
しかしながら、悪魔以外にも、私たちの主の周りにいた人々の間の敵として、大雑把にいうと、二つのグループがあります。つまり、サドカイ派ファリサイ派です。ちなみに、他にもこういった宗派、或いは私たちの主の敵などもありました。例えば、エッセネ派もありました。これは、より禁欲でありながら、儀礼行事などはより少なかった宗派でした。また、ヘロデ党もいました。ヘロデ党は、ローマ異教の偶像崇拝にはまってしまった宗派でした。
しかしながら、福音では頻繁に登場してくる敵とは、サドカイ派とファリサイ派です。

【サドカイ派】
第一に、サドカイ派についてご紹介します。唯物主義的なユダヤ教の宗派です。というのも、霊的存在なる天使を信じませんでした。従って、一種の天使である悪魔をも信じませんでした。また、霊魂の不滅をも信じませんでした。唯物主義者ですから。
従って、体の復活をも信じませんでした。ちなみに、福音に登場してくるサドカイ派の人々が、私たちの主イエズス・キリストに永遠の命についての異議を唱えて訴える場面があります。体の復活を信じませんから、こういった異議を唱えます。要するに、サドカイ派のユダヤ人は、天主に求める時に、物質的な利益(りえき)を、現世的な利益(りえき)を、肉感的な享楽を得るためだけでした。サドカイ派は、当然ながら、富裕層に多くいました。役人の間に非常に多く、衆議所(サネドリン)の議員にも結構いました。



【ファリサイ派】
第二、福音により多くに登場してくるのはファリサイ派です。サドカイ派と違って、精神主義者のユダヤ人たちです。建前として、厳格主義者に見えました。律法の細かい掟まですべてにしっかりと従順するといううわべを装ったからです。ファリサイ派では、律法に、多くの虚しい自称伝統を加えすぎていたせいで、律法の精神を歪めました。要するに、律法への遵守は、形において厳格だったものの、律法の精神はなかったわけです。
私たちの主曰く、「文字は殺し、霊は活かすものであるからである」と 。まさに、ファリサイ派向けの言葉です。言い換えると、ファリサイ派は形では律法を厳密に厳格に遵守していました。それで、熱心な信徒の外面を装っていたので、国民はファリサイ派を尊敬していたのです。しかしながら、その律法の精神は堕落していました。というのも、愛徳についてなどは気にしなかったからです。
ファリサイ派は、他人に対して、ある種の軽蔑を常に抱いていました。特に、庶民を軽蔑していました。それによる結果に過ぎないのですけれども、ファリサイ派の人の性格は、かなり傲慢で、うぬぼれめいたところが多かったのです。彼らによる他人扱いは、自慢ばかりで、もったいぶった人物になってしまうことが殆どでした。まさに、軽蔑の思いで動いていました。これは、ファリサイ派の特徴でした。
また言い換えると、結局、隣人の弱さと困難に関して、全く無関心でした。とはいえ、一方、律法を厳格に遵守する外面のお陰で、国民の間には、ある種の権威を得ていたのも確かです。庶民に対する権威・優越のような感じを得ていました。

【ファリサイ派が敵に回った理由】

私たちの主イエズス・キリストの敵に回った理由は、単純です。私たちの主、イエズス・キリストは、ファリサイ派にとって、ある種の競争相手となってきたからです。
ご自分の素直さのお陰で、また御教えの聖なる性格のお陰で、またその立派で聖なる実践の一生のおかげで、私たちの主イエズス・キリストはファリサイ派の傲慢との対照をなしていたからです。その上、多くの大衆を彼のもとに引き寄せていました。私たちの主は、自然に人々を引き寄せます。
先ずあるものとして、私たちの主の立派な人生の実践は、そのままで常にファリサイ派の行動への批判でありますが、しかもその上に、私たちの主イエズス・キリストの後についていく弟子たちの数が増えていくばかりですから、ファリサイ派の権威に対して邪魔となります。かれらは嫉妬心を起こします。従って、ファリサイ派は、私たちの主、イエズス・キリストを絶えず攻撃してきます。いつも、イエズス・キリストと対立してきます。私たちの主は、一度もファリサイ派の攻撃に動揺されたことすらありませんでした。ファリサイ人は、イエズス・キリストに対して、激しい憎しみを覚えていたわけです。
彼を単なる悪者として扱い、エルサレム壁外で犯罪者に囲まれて十字架刑にさせたほどの憎しみを抱いていました。どれほどファリサイ人にキリストに対する憎しみがあったか、目に余ります。

【ファリサイ派たちに対する私たちの主の厳しいお言葉】
私たちの主イエズス・キリストは、常に霊魂の回心を求めています。が、ファリサイ人のように頑固な霊魂に遭う時、ご自分の御教えと聖寵とを頑固に拒む傲慢の前に、私たちの主イエズス・キリストの言葉は厳しくなります。なぜかというと、民衆に対して、警戒させるためです。それに関して聖マテオの第23章を全部読むとよいと思います。というのも、私たちの主イエズス・キリストの表現が非常に激しいからです。彼らを「まむし族よ」 と呼ぶほどです。また、聖マテオの第12章にも同じ言葉があります。
また、「偽善者」とか「白く塗った墓のようだ」 ともあります。「あなたたちは悪魔を父に持ち」 とまで言われます。聖ヨハネの第8章に記されています。「彼はうそつきで、嘘の父だからである。」
以上、私たちの主イエズス・キリストの敵たちをご紹介しました。

【私たちの主は救いの福音に反対するものをはっきりと示す】
特に注目していただきたいところですけれども、この上なく柔和で、この上なく謙虚である私たちの主イエズス・キリストが、ファリサイ派について、問題なく「まむし族よ」「偽善者」「白く塗ったお墓のようだ」等で呼んでおられることです。
その理由は、ファリサイ派が福音に反対していたからです。従って、私たちの主が垂れるために来給うた聖寵に反対していたからです。即ち、キリストの憐れみに反対していたのです。つまり、彼らは救いに反対していたのです。
すべての人間は、一人一人が、救済のために召されているのです。ですから、救いへの障害が出るたびに、私たちの主はそれをハッキリと明らかにして、指でしっかりと指し示します。これらの障害が乗り越えられなくなることを避けるため、いやむしろ、良心的な霊魂の人なら、この障害を回避できるように、ハッキリと指し示し給うのです。
逆に言うと、ファリサイ派が私たちの主イエズス・キリストに反対して、どれほど罵倒・憎しみ・熱狂を浴びせるかは周知の通りです。

簡潔ながらも、以上、福音に登場してくる私たちの主、イエズス・キリストと対立してきた敵たちをご紹介しました。
言ってみれば、この対立こそが、私たちの主イエズス・キリストのご受難と死を起こします。また、それよりも、全く摂理的な方法で、贖罪の業をも起こします。まさに、これこそは天主の奥深い智慧で、全能さです。
つまり、天主は、悪があっても、より大きな善のために、悪を利用されます。要するに、天主は、ファリサイ派による私たちの主イエズス・キリストに対する憎しみでさえ、贖罪の玄義のために働かせ給うのです。



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