白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
信経の第九条です。大事な信条です。というのは、第九条を宣言する時に、次の真理を思い起こすからです。
つまり、私たちの主は公教会を創立し、カトリック(普遍)教会として位階制のある社会として公教会を創立なさったという真理を再断言するからです。しかしながら、この第九条は単なる一つの真理を信じるだけでよいといった真理ではありません。というのも、この第九条はカトリック教会に属するように要求する信条だからです。
言い換えると、第九条の信条はカトリック教会の一員になるように、公教会の構成員になるようにと要求する信条です。
私たちの主は聖マルコ福音書では次のことを仰せになりました。「信じない者は滅ぼされる」 。また別の場面で、「私の味方でない人は私に背き」 とも仰せになりました。
従って、天国に入りたいと思うのなら、確かにカトリック信徒ならば天国に入ろうとするし、天国に入ろうとすべきですが、天国に入りたいと思うのなら、私たちの主イエズス・キリストに従う必要があります。
私たちの主イエズス・キリストに従うための手段は単純です。私たちの主の公教会に属する必要があるということだけです。
つまり、霊魂の救いを得るために、特別に明白にイエズス・キリストによって創立された公教会に属すべきだということです。
私たちの主は十字架上で死に給うたお陰で、天の門を開け給いました。ところが、私達が実際に天国に入る為には、用意し給うたカトリック教会を通る必要があります。ノアの箱舟こそ、公教会の典型的な原型です。言い換えると、ノアの箱舟こそがカトリック教会の象徴です。ノアの時代に大洪水があった時に、ノアの箱舟に乗っていた者だけが全て大洪水から救われました。ノアの箱舟は公教会を示します。だから、次の信条を再断言しましょう。信仰の一つの教義で、信じるべき信条です。
「公教会の外には、救いなし」という信条です。つまり、カトリック教会に属さない人々は、救われることはない、のです。公教会の外では救いを得ることは不可能です。
勿論、この信条を正しく理解しましょう。救いを得られない人とは、自覚しながら意図的に誤謬を掲げ続けて、公教会が何であるかを知っているのに、入ろうとしない人々を指します。
また、公教会は本物の教会であることを確認し、公教会の四つの特徴を確認して、二千年以上に存続し続けたという、常時の奇跡とでも呼べる公教会の真相を確認して、また信徒と聖職者をも含めての人間の弱みや罪や悪にもかかわらず存続し続ける公教会という奇跡を確信したのに、本物の教会に属することを拒絶する人は、救いを得ることは不可能だということです。
以上の人々と違って、公教会を全く知らない人がたくさんいます。素直な無知の者ですが、現代なら大昔より多少、少なくなったかもしれませんが、国あるいは場所によってカトリック教会を全く知れない人々はまだたくさんいると言えましょう。それでは、カトリック教会の存在さえ知らずに、公教会に接触する機会もない人々。こういった人々は救いを得られるでしょうか。教義は「公教会の外には、救いなし」です。これは教義ですから、受け入れるべき信条で、信じるべき信条なのです。
ところが、克服できない無知に陥っている人々に対して、この信条をどう理解すべきでしょうか。ここで、神学上、次の区別があります。
公教会の身体と公教会の霊魂という区別です。微妙で繊細な区別です。なぜかというと、我々が常に経験している「霊魂と身体から構成される人間」という経験に類似する区別ですから、妙に理解しづらいところがあるかもしれません。類似に過ぎないので、両方の間に似ている側面もあるとはいっても、相違する側面も多いということです。
「公教会の身体」という表現を使う時、「社会としての公教会」ということを指します。公教会の入門をご紹介した時に少しだけ触れましたが、「公教会の霊魂」とは、「全くその存在さえも知らないという理由だけで、社会としての公教会に属することができない人々も、聖寵の状態にだけはなれるが故に、救いを得られる」という可能性を指します。言い換えると、無知のままに置かれていて知ることができないため公教会に属すことができない人々には、聖寵の状態になれるなら救いを得られることが限定的にあり得るという特別な可能性が語られています。
勿論、公教会のことを知った者なのに、入ろうとしないのなら、善意であり続けることはあり得なくなるので、公教会の霊魂に属することはできないということです。
従って、公教会を知りえない人々である条件のもとに、少なくとも自然法に従って「聖人」のように生きてきた人ならば、彼らのことを「良心」の人々と呼ぶのですが、彼らは「公教会の霊魂」に属するといえます。教皇ピオ12世は以上の公教会の教義を特に明確にしました。
次のことは明らかに言えます。
社会としての公教会、つまり「公教会の身体」に、簡単に言うとよく知られている「公教会」に属さない人々はだれでしょうか。
第一に、異端者です。「異端者」という言葉はギリシャ語に起源を持つのですが、「ある教義を否認した者」です。ギリシャ語の語源の意味は「選ぶ」という意味です。本来ならば、信徒の「天主は誤ることが不可能なので、天主に啓示されたすべての教義を受け入れて信じる」という態度の真逆で、異端者とは「自分勝手に教義の中で選びをする」者です。そうすると、異端者は、結局「天主の啓示を理性の下に置いてしまう」のです。「理性の方が絶対だ」という傲慢。「理性は天主の真理より上だ」という傲慢です。つまり、「理性が、理性の上である最高の真理なる天主を裁ける立場にあるぞ」という幻想です。従って、異端者は、教義の中の教えを 勝手にあれを取ったり、これを捨てたりする者です。積極的に、意志をもって、教義の一つだけでさえ排除してしまったら、異端者となります。言い換えると、信仰を失う行為になります。なぜかというと、啓示している天主という信仰の形相を失うことになるからです。従って、異端者は公教会に属さないのです。
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第二に、異教徒があります。異教徒は洗礼を受けていない人々です。語源の意味の通りに「in・fideles」は「信仰なし」の内に生きている人々を指します。「信徒」という言葉にもある「信」と同じ「信仰」です。以前にも申し上げたように、「信仰」こそが公教会の基礎と根拠となります。つまり「信仰」によってこそ、「信徒」になりえて、公教会の一員となるのです。
一方、異教徒は信仰を持たず、さらに言うと、信仰の基礎となる「洗礼」を受けていない人々です。繰り返しますが、洗礼を授かって初めて超自然の信仰を得られ、そして、信仰のお陰ででこそ、永遠の命を得ることが可能となります。そこで、洗礼を受けていない人々は「異教徒」と呼ばれて、公教会に属していません。言い換えると、異教徒は「公教会の外にある」ということです。従って異教徒には救いを得ることは不可能です。
第三に公教会の外にあるのは、その他の離教者たちです。離教者は「教皇の至上権を否認する者」を指します。従って、「正当なる権威への従順を否認しながら、権威としての権威を否認する者」を指します。言い換えると「私たちの主イエズス・キリストご自身によって望まれた権威を否認する者」を指します。これが離教者です。公教会の権威を拒絶して離れることになります。要するに、結局「位階制の教会」という教義を否認するのです。そして、大体の場合は、別の位階制を作るか、何かの別の社会を作るかです。この意味でこそ「離教者」だと言います。公教会の権威から離れて、その権威を切り捨てます。離教者は公教会に属しません。
次は第四に、棄教者も公教会に属しません。「棄教者」は「自分の宗教を否認した者」を指します。言い換えると、カトリック宗教を拒む者。現代に時々ある話ですけど、ある洗礼者が「洗礼を無い事にしてほしい」という典型的な棄教者。洗礼を無いことにすることは無理なのですが、「教会の洗礼者名簿から取り消してほしい」といった棄教者。言い換えると、受け継がれた信仰を完全に否認し捨てるということになります。それが棄教者です。たとえてみると、ある子供が自分の家族を否定するような感じなのです。当然ながら棄教者は自分の動きで公教会を去るのです。公教会に属しませんし、救いを得ることはできません。
最後に第五に、破門者として正式に「破門の宣言」された者も公教会に属しません。「共通善に対する深刻な過失を犯したせいで、信徒たちの通功から追放が宣言された信徒」です。従って、破門者たちは公教会の共通善に反逆した故に、公教会の共通善を享受することは不可能となります。要するに、公の祈祷やその他の公教会の恩恵を受けられなくなり、また公教会の秘跡を授かることは不可能となります。破門者は共通善を害した故に破門されるということです。また、公教会において信仰或いは秘跡という死活にかかわる根本を破壊しようとしたゆえに、破門されるのです。
ほとんどの場合、破門の理由は信仰あるいは秘跡を害することにあります。従って、破門者は公教会の身体に属しません。言い換えると、「公教会の身体」という時に、社会なる公教会に属しないということなのです。
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先ほど公教会の霊魂についてご紹介しました。「公教会の霊魂」とは、信仰によってだけ公教会に属しながらも、社会としての公教会に属しない人々を指します。あえて言えば、社会としての公教会に属していないものの、諸聖人の通功としての公教会に一応属しているということです。これは存在することはするといっても、常例でも普通でもなく、例外的なことです。
本来なら、あるはずがない場合です。それでもなぜ存在しているかというと、本物の善意の心を持ち、キリスト教的に聖徳を実践しながらも、カトリック公教会を知ることは不可能な状況に置かれたから、「公教会の霊魂」にだけ属するからです。
しかしながら、厳密に言うと、「公教会の霊魂」に属しているには、「聖寵の状態」にあることが必要です。言い換えると、天主の生命に活かされる必要があるということです。というのも、「公教会」というのは、常にこの世に注がれるイエズス・キリストの生命に他ならないからです。イエズス・キリストの御教えと生命こそ公教会なのですから。
従って、「聖寵の状態」にありながらも、社会としての公教会を知ることも出来ない者は「公教会の霊魂」に属するといいます。当然なのですが、「公教会の霊魂」に属するのなら、救いを得ることはできます。ところが、大事なのは「聖寵の状態」において生きる必要があります。つまり、罪の状態において生きている者、反自然状態に生きている者は当然ながら、「聖寵の状態」において生きることは不可能なのですから、天国には入れず、救いを得ることは不可能なのです。
以上、「公教会の外に、救いなし」という教義の意味をご紹介してみました。
これは私たち一人一人の救いにとっても極めて大事な教義です。イエズス・キリストが確かに天門を開けてくださいましたが、天の門に辿る道は一つしかありません。典礼や祈祷に頻繁にある「Per Christum Dominum nostrum」の通りです。「私たちの主イエズス・キリストによりて」。「私たちの主イエズス・キリストによりて」とはどういう意味でしょうか。
「公教会を通じて」という意味に他なりません。いや、より厳密に言うと「イエズス・キリストの公教会を通じて」という意味です。
思い出しましょう。十字架上の私たちの主イエズス・キリストは槍に刺されて貫かれました。既に死なれた時に、十字架刑に関する通例の規定に従って、そこの兵士は槍をもって、イエズス・キリストの心臓を刺しました。目撃者だった聖ヨハネによると、血と水が湧いてきたという記録があります。この「水と血」は「諸秘蹟」を象徴しています。水は洗礼という秘跡を、血は霊魂を養うミサ聖祭を。その上、「私たちの主の御血は罪の償いのために流された御血」なのですから、「改悛の秘跡」をも象徴します。教父たちが揃って「御脇腹より公教会が生まれた」と解釈します。公教会こそは「イエズス・キリストの神秘的な浄配」で、第二のアダムであるキリストの「あばら骨から生まれ」たのです。エヴァがアダムのあばら骨から生まれたように、公教会もキリストのあばら骨から生まれました。
アダムとその配偶者であるエヴァと、イエズス・キリストとその神秘的浄配である公教会の間に、類似関係があります。つまり、「私たちの主イエズス・キリストによりて」救いを得るというのは、必ず神秘的浄配である「公教会によって」救いを得ることになります。なぜかというと、公教会とイエズス・キリストは一体となっているからです。公教会は、時におけるキリストの延長なのですから。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第六十二講 公教会の構成員について
「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
信経の第九条です。大事な信条です。というのは、第九条を宣言する時に、次の真理を思い起こすからです。
つまり、私たちの主は公教会を創立し、カトリック(普遍)教会として位階制のある社会として公教会を創立なさったという真理を再断言するからです。しかしながら、この第九条は単なる一つの真理を信じるだけでよいといった真理ではありません。というのも、この第九条はカトリック教会に属するように要求する信条だからです。
言い換えると、第九条の信条はカトリック教会の一員になるように、公教会の構成員になるようにと要求する信条です。
私たちの主は聖マルコ福音書では次のことを仰せになりました。「信じない者は滅ぼされる」 。また別の場面で、「私の味方でない人は私に背き」 とも仰せになりました。
従って、天国に入りたいと思うのなら、確かにカトリック信徒ならば天国に入ろうとするし、天国に入ろうとすべきですが、天国に入りたいと思うのなら、私たちの主イエズス・キリストに従う必要があります。
私たちの主イエズス・キリストに従うための手段は単純です。私たちの主の公教会に属する必要があるということだけです。
つまり、霊魂の救いを得るために、特別に明白にイエズス・キリストによって創立された公教会に属すべきだということです。
私たちの主は十字架上で死に給うたお陰で、天の門を開け給いました。ところが、私達が実際に天国に入る為には、用意し給うたカトリック教会を通る必要があります。ノアの箱舟こそ、公教会の典型的な原型です。言い換えると、ノアの箱舟こそがカトリック教会の象徴です。ノアの時代に大洪水があった時に、ノアの箱舟に乗っていた者だけが全て大洪水から救われました。ノアの箱舟は公教会を示します。だから、次の信条を再断言しましょう。信仰の一つの教義で、信じるべき信条です。
「公教会の外には、救いなし」という信条です。つまり、カトリック教会に属さない人々は、救われることはない、のです。公教会の外では救いを得ることは不可能です。
勿論、この信条を正しく理解しましょう。救いを得られない人とは、自覚しながら意図的に誤謬を掲げ続けて、公教会が何であるかを知っているのに、入ろうとしない人々を指します。
また、公教会は本物の教会であることを確認し、公教会の四つの特徴を確認して、二千年以上に存続し続けたという、常時の奇跡とでも呼べる公教会の真相を確認して、また信徒と聖職者をも含めての人間の弱みや罪や悪にもかかわらず存続し続ける公教会という奇跡を確信したのに、本物の教会に属することを拒絶する人は、救いを得ることは不可能だということです。
以上の人々と違って、公教会を全く知らない人がたくさんいます。素直な無知の者ですが、現代なら大昔より多少、少なくなったかもしれませんが、国あるいは場所によってカトリック教会を全く知れない人々はまだたくさんいると言えましょう。それでは、カトリック教会の存在さえ知らずに、公教会に接触する機会もない人々。こういった人々は救いを得られるでしょうか。教義は「公教会の外には、救いなし」です。これは教義ですから、受け入れるべき信条で、信じるべき信条なのです。
ところが、克服できない無知に陥っている人々に対して、この信条をどう理解すべきでしょうか。ここで、神学上、次の区別があります。
公教会の身体と公教会の霊魂という区別です。微妙で繊細な区別です。なぜかというと、我々が常に経験している「霊魂と身体から構成される人間」という経験に類似する区別ですから、妙に理解しづらいところがあるかもしれません。類似に過ぎないので、両方の間に似ている側面もあるとはいっても、相違する側面も多いということです。
「公教会の身体」という表現を使う時、「社会としての公教会」ということを指します。公教会の入門をご紹介した時に少しだけ触れましたが、「公教会の霊魂」とは、「全くその存在さえも知らないという理由だけで、社会としての公教会に属することができない人々も、聖寵の状態にだけはなれるが故に、救いを得られる」という可能性を指します。言い換えると、無知のままに置かれていて知ることができないため公教会に属すことができない人々には、聖寵の状態になれるなら救いを得られることが限定的にあり得るという特別な可能性が語られています。
勿論、公教会のことを知った者なのに、入ろうとしないのなら、善意であり続けることはあり得なくなるので、公教会の霊魂に属することはできないということです。
従って、公教会を知りえない人々である条件のもとに、少なくとも自然法に従って「聖人」のように生きてきた人ならば、彼らのことを「良心」の人々と呼ぶのですが、彼らは「公教会の霊魂」に属するといえます。教皇ピオ12世は以上の公教会の教義を特に明確にしました。
次のことは明らかに言えます。
社会としての公教会、つまり「公教会の身体」に、簡単に言うとよく知られている「公教会」に属さない人々はだれでしょうか。
第一に、異端者です。「異端者」という言葉はギリシャ語に起源を持つのですが、「ある教義を否認した者」です。ギリシャ語の語源の意味は「選ぶ」という意味です。本来ならば、信徒の「天主は誤ることが不可能なので、天主に啓示されたすべての教義を受け入れて信じる」という態度の真逆で、異端者とは「自分勝手に教義の中で選びをする」者です。そうすると、異端者は、結局「天主の啓示を理性の下に置いてしまう」のです。「理性の方が絶対だ」という傲慢。「理性は天主の真理より上だ」という傲慢です。つまり、「理性が、理性の上である最高の真理なる天主を裁ける立場にあるぞ」という幻想です。従って、異端者は、教義の中の教えを 勝手にあれを取ったり、これを捨てたりする者です。積極的に、意志をもって、教義の一つだけでさえ排除してしまったら、異端者となります。言い換えると、信仰を失う行為になります。なぜかというと、啓示している天主という信仰の形相を失うことになるからです。従って、異端者は公教会に属さないのです。
~~
第二に、異教徒があります。異教徒は洗礼を受けていない人々です。語源の意味の通りに「in・fideles」は「信仰なし」の内に生きている人々を指します。「信徒」という言葉にもある「信」と同じ「信仰」です。以前にも申し上げたように、「信仰」こそが公教会の基礎と根拠となります。つまり「信仰」によってこそ、「信徒」になりえて、公教会の一員となるのです。
一方、異教徒は信仰を持たず、さらに言うと、信仰の基礎となる「洗礼」を受けていない人々です。繰り返しますが、洗礼を授かって初めて超自然の信仰を得られ、そして、信仰のお陰ででこそ、永遠の命を得ることが可能となります。そこで、洗礼を受けていない人々は「異教徒」と呼ばれて、公教会に属していません。言い換えると、異教徒は「公教会の外にある」ということです。従って異教徒には救いを得ることは不可能です。
第三に公教会の外にあるのは、その他の離教者たちです。離教者は「教皇の至上権を否認する者」を指します。従って、「正当なる権威への従順を否認しながら、権威としての権威を否認する者」を指します。言い換えると「私たちの主イエズス・キリストご自身によって望まれた権威を否認する者」を指します。これが離教者です。公教会の権威を拒絶して離れることになります。要するに、結局「位階制の教会」という教義を否認するのです。そして、大体の場合は、別の位階制を作るか、何かの別の社会を作るかです。この意味でこそ「離教者」だと言います。公教会の権威から離れて、その権威を切り捨てます。離教者は公教会に属しません。
次は第四に、棄教者も公教会に属しません。「棄教者」は「自分の宗教を否認した者」を指します。言い換えると、カトリック宗教を拒む者。現代に時々ある話ですけど、ある洗礼者が「洗礼を無い事にしてほしい」という典型的な棄教者。洗礼を無いことにすることは無理なのですが、「教会の洗礼者名簿から取り消してほしい」といった棄教者。言い換えると、受け継がれた信仰を完全に否認し捨てるということになります。それが棄教者です。たとえてみると、ある子供が自分の家族を否定するような感じなのです。当然ながら棄教者は自分の動きで公教会を去るのです。公教会に属しませんし、救いを得ることはできません。
最後に第五に、破門者として正式に「破門の宣言」された者も公教会に属しません。「共通善に対する深刻な過失を犯したせいで、信徒たちの通功から追放が宣言された信徒」です。従って、破門者たちは公教会の共通善に反逆した故に、公教会の共通善を享受することは不可能となります。要するに、公の祈祷やその他の公教会の恩恵を受けられなくなり、また公教会の秘跡を授かることは不可能となります。破門者は共通善を害した故に破門されるということです。また、公教会において信仰或いは秘跡という死活にかかわる根本を破壊しようとしたゆえに、破門されるのです。
ほとんどの場合、破門の理由は信仰あるいは秘跡を害することにあります。従って、破門者は公教会の身体に属しません。言い換えると、「公教会の身体」という時に、社会なる公教会に属しないということなのです。
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先ほど公教会の霊魂についてご紹介しました。「公教会の霊魂」とは、信仰によってだけ公教会に属しながらも、社会としての公教会に属しない人々を指します。あえて言えば、社会としての公教会に属していないものの、諸聖人の通功としての公教会に一応属しているということです。これは存在することはするといっても、常例でも普通でもなく、例外的なことです。
本来なら、あるはずがない場合です。それでもなぜ存在しているかというと、本物の善意の心を持ち、キリスト教的に聖徳を実践しながらも、カトリック公教会を知ることは不可能な状況に置かれたから、「公教会の霊魂」にだけ属するからです。
しかしながら、厳密に言うと、「公教会の霊魂」に属しているには、「聖寵の状態」にあることが必要です。言い換えると、天主の生命に活かされる必要があるということです。というのも、「公教会」というのは、常にこの世に注がれるイエズス・キリストの生命に他ならないからです。イエズス・キリストの御教えと生命こそ公教会なのですから。
従って、「聖寵の状態」にありながらも、社会としての公教会を知ることも出来ない者は「公教会の霊魂」に属するといいます。当然なのですが、「公教会の霊魂」に属するのなら、救いを得ることはできます。ところが、大事なのは「聖寵の状態」において生きる必要があります。つまり、罪の状態において生きている者、反自然状態に生きている者は当然ながら、「聖寵の状態」において生きることは不可能なのですから、天国には入れず、救いを得ることは不可能なのです。
以上、「公教会の外に、救いなし」という教義の意味をご紹介してみました。
これは私たち一人一人の救いにとっても極めて大事な教義です。イエズス・キリストが確かに天門を開けてくださいましたが、天の門に辿る道は一つしかありません。典礼や祈祷に頻繁にある「Per Christum Dominum nostrum」の通りです。「私たちの主イエズス・キリストによりて」。「私たちの主イエズス・キリストによりて」とはどういう意味でしょうか。
「公教会を通じて」という意味に他なりません。いや、より厳密に言うと「イエズス・キリストの公教会を通じて」という意味です。
思い出しましょう。十字架上の私たちの主イエズス・キリストは槍に刺されて貫かれました。既に死なれた時に、十字架刑に関する通例の規定に従って、そこの兵士は槍をもって、イエズス・キリストの心臓を刺しました。目撃者だった聖ヨハネによると、血と水が湧いてきたという記録があります。この「水と血」は「諸秘蹟」を象徴しています。水は洗礼という秘跡を、血は霊魂を養うミサ聖祭を。その上、「私たちの主の御血は罪の償いのために流された御血」なのですから、「改悛の秘跡」をも象徴します。教父たちが揃って「御脇腹より公教会が生まれた」と解釈します。公教会こそは「イエズス・キリストの神秘的な浄配」で、第二のアダムであるキリストの「あばら骨から生まれ」たのです。エヴァがアダムのあばら骨から生まれたように、公教会もキリストのあばら骨から生まれました。
アダムとその配偶者であるエヴァと、イエズス・キリストとその神秘的浄配である公教会の間に、類似関係があります。つまり、「私たちの主イエズス・キリストによりて」救いを得るというのは、必ず神秘的浄配である「公教会によって」救いを得ることになります。なぜかというと、公教会とイエズス・キリストは一体となっているからです。公教会は、時におけるキリストの延長なのですから。