白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
真理に溢れている信条なので、引き続きこれを説明しましょう。カトリック教会は「社会」ということを見ました。位階制の社会で、最高の司祭(つまり教皇)を頭(かしら)とする君主制の社会ということを見ました。
前回は公教会の構成員、言い換えると公教会に属する人々を見たので、今回は公教会の位階制自体を見ましょう。公教会の「構造・構成」です。
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公教会は社会共同体であり、位階制の共同体であります。従って、公教会には権威者が備わっています。その権威者とは一体、何でしょうか、何のためにあるでしょうか。
簡潔に言えば、公教会において、権威のある構成員と権威のない構成員とに区別できます。哲学的な言い方をするなら、「能動」と「受動」という用語に当たる概念でしょう。
あるいは、定着した表現としては「教える教会」(Ecclesia docens)と「教わる教会」(Ecclesia discens) とも言います。「教える教会」の「教える」とは、「教える行為」という積極的な営みを指して、権威者を指します。それから「教わる教会」というのは、教えを受ける側、教えを受け入れるように心の準備をしておく側、また権威者たちによって導かれ、教えられて聖化されるように頑張る「教わる教会」です。従って、教会の位階制は「教える教会」に他なりません。
ここに至ると、実体はこれから少しややこしくなってきます。というのは、公教会には二重の位階制があるからです。なぜややこしいかというと、この二重の位階制は、ハッキリと区別されて、混同してはならないからです。
ところが、具体的に言うと、多くの場合、両方の位階制はもつれたり重なったりするのでややこしいと言えます。
先ず、両方の位階制の区別を明らかにしましょう。
公教会には二重の位階制があります。
第一の位階制は「品級・叙階の権能」に基づきます。思い出しておきましょう。私たちの主イエズス・キリストは教会の牧者たちに、三重の使命を与えられました。それぞれの使命に、三つの権威、あるいは三つの「秩序・聖職」を備えられました。
第一の位階制は「叙階の権能」に基づき、つまり「聖化する」権能に基づくのです。この位階制において、司教と司祭が区別されます。司教は「叙階の完全なる権能」を持つのに対して、司祭は、叙階の権能を持ち、聖化できるものの、「司祭の完全なる権能」は備わっていません。そして、司祭以下、教会の他の諸聖職者が並びます。以上が、叙階の権能あるいは聖化の権能に基づく位階制です。
一方で、司教は「聖化の全ての権能」を持ち、他方、その他の司祭らは「聖化の部分的権能」を持ちます。それから、他の聖職者たちが並びます。
もう一つの位階制は、「教導の権能」に基づく位階制です。この位階制を、ゆっくりご紹介しましょう。というのも、この「教導」の位階制こそが、目に見える公教会の構成を成して現れるからです。とはいえ「教導」の位階制は、「聖化」の位階制を否定しません。
統治権に基づく位階制は教皇と司教たちからなっています。教皇と司教たちこそが、「教える教会」です。教皇と司教たちこそが教会の位階制を成すのです。司祭たちと信徒たちは「教わる教会」に属します。司祭は、信徒と違って、「教える」任務を司教から委任されますが、司教の統治権は持ちません。司祭は委任という意味で、「教える教会」と「教わる教会」とをまたがる存在です。
ところで「Jurisdictio・栽治権」と呼ばれる権能があり、これは「統治権」でもあり、「霊的な職務を正当に実行」する権威です。一方で教皇が、他方で司教たちが、この栽治権を持ちます。
注意しましょう。混同してはいけません。先ほどの「叙階(聖化)の権能」では、一方で司教たち、他方で司祭たちとの間の位階制でした。
「聖化の位階制」については、教皇でも、他の司教たちと変わらない権能しか持たないことになります。聖化上の権能においてだけです。
統治上の権能については、教皇は司教たちより優位な統治権を持ち、より多くの権限を持つのです。
公教会の構成は、教皇と司教たちからなり、司教たちは教皇に依存するという構成です。教皇は、「全世界の牧者」あるいは「聖なる父」あるいは「ローマの司教」とよばれ、全世界に及ぶ権能を持つのです。万国に及ぶ権能です。
注意しましょう。正しく理解せねばならない命題です。「全世界で何でも好き勝手にできる」という意味の「全世界に及ぶ権能」ではありません。「全世界の権能」とは、教皇が「全世界にある教会を対象に権能を持つ」ということです。具体的にいうと、教会に属さない人々に対して、何の権能もありません。ある社会において、権能があるということは、当然、社会に属する人々に対してのみ、その統治権があるのです。
教皇は全世界における全ての教会への権能を備え、これは主イエズス・キリスト御自らから直接に授かった権能です。聖ペトロが主から直接に最高の権能を頂いたと同じように、教皇も直接に最高の権能を頂きます。教皇の権能は私たちの主によって与えられたのです。
しかしながら教皇は選挙によって選ばれるのではないかといわれるかもしれません。確かに、枢機卿団によって教皇が選ばれます。前教皇が亡くなられたら、枢機卿が集まって、新教皇を選び出すのです。教皇を選ぶ団体は「枢機卿団」と言います。
枢機卿とは教皇の輔弼者(顧問者・助言者)の役を務める聖職者たちです。枢機卿には司教が多いのですが、司教ではなくても枢機卿になれます。枢機卿たちは教皇の責務において、教皇の働きを助ける人々です。教皇の「輔弼」です。
枢機卿たちは集まり「枢機卿団」が新教皇を選び出しますが、枢機卿たちが教皇に権能を与えるのではないのです。枢機卿たちが、自分の権能を教皇に委任するのではありません。全く違います。教会は決して民主主義ではありません。君主制です。教皇の権能は直接に天主から由来します。
言い換えると、教皇の選定は次のようになります。枢機卿たちはある候補者を選定します。選定された候補者は選定の旨に対して同意するか拒否するかです。同意したら、教皇になりますが、教皇としての権能は枢機卿からではなくて、私たちの主イエズス・キリストなる天主御自らから頂くのです。つまり、上から垂れ給う権能を授かることによってこそ、教皇となります。枢機卿らは新教皇の至上権を示し、至上権を認めるために、新教皇の前に伏するという儀式があります。
つまり、教皇は、単に、他の枢機卿らと同等の一人ではないのです。
司教職に至っては、更にそうです。
同等のうちの第一の人をラテン語で「Primus inter pares」と言いますが、教皇はそうでは決してありません。教皇は単なる「Primus inter pares(同類の間の第一)」ではありません。つまり、教皇職は単なる「名誉上の首位」ではありません。例えてみると、ある会議に皆「同輩」、「仲間」、つまり対等な立場にいるものの、その一人に「司会」を委任するというか、「面目上のある種の優位性」を与えるが、本質的に皆同等ということにおいて変わらないといったようものは、教皇の至上権とは全く違います。いや、教皇の権能は司教たちの権能と同質のようなものではありません。
教皇の権能は司教たちの権能に勝るのです。以前にもご紹介した通りに、私たちの主は聖ペトロに「子羊を牧せよ」 と命令されます。つまり信徒たちへの権能。それから「羊を牧せよ」 と命令されます。つまり「牧者の牧者になれ」、つまり「司教たちを牧せよ」という命令です。
したがって、教皇は司教たちに対して、真の権能を持ち、司教たちの頭なのです。
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以上は、カトリック教会の頭である教皇の位置付けのご紹介でした。
「教導権と統治権」に基づく「栽治権」は、「教皇」と「司教たち」とでは違ったやり方で備わっています。
司教たちには、教会において、真の権能が備わっています。司教は、使徒たちの継承者です。使徒の継承者である故に、教会における栽治権を持つのです。
ところが注意しましょう。司教の統治権は従属関係にあります。司教たちの統治権はあくまでも教皇から委任されています。言い換えると、公教会において全世界に及ぶ統治権を持つ教皇は、司教に教区(言い換えるとテリトリーの一部)を託することによって、その統治権の一部を司教に委託するのです。司教の統治権は直接に教皇に委託されている統治権なのです。教区における司教の統治権は教皇から与えられました。そして、勿論、教区において、司教こそが立法者であり、本当の意味で、司教こそは教区の正当なる統治者です。とはいえ、教皇から統治権を委託されていることに関して変わらないのです。
いつも統治権において、司教は教皇に対する従属関係にあります。なぜこの点を強調する必要があるというと、司教と教皇の統治権は違うからです。まず、司教なら、どこでなにを統治できるかは、司教が決めることはできないからです。
裏を返せば、ある司教が勝手に栽治権を自分で自分に与えるのなら、教会分裂を起こす行為です。つまり、教皇から離れる行為なのです。つまり、離教というのは、教皇の承知以外に統治権を簒奪するような行為に他なりません。また言い換えると、統治権上に教皇への従属関係を否定することによって、イエズス・キリストへの従属関係を否定することになり、教会から離れることになります。だから、統治権上という次元において、ある司教が教皇からの「独立」を求めてしまったら、離教者になります。教会から自分で離れてしまうことになります。
司教の統治権は教皇に直接依存しているのです。こういった要素こそ、教会の構成を特徴づけます。教皇は唯一です。教皇という一人の牧者だけは、統治するために他の司教たちに何の依存も関係もありません。つまり、独りで統治できるのです。親政できるのです。なぜ強調するかというと、近代的な「団体制」(collegialité)という誤謬に反対している信条だからです。「団体制」という謬説によると、教会内の統治権は「全司教によって全司教の名において」実行されるとされます。いえ、教会は君主制です。「私は言う。あなたはペトロ(岩)である。」「あなた」とおっしゃるのですから、聖ペトロにむかってだけのお言葉で、司教たちは関係ありません。続いて、「私はこの岩の上に私の教会を立てよう。」 、また「羊を牧せよ」 と仰せになった通りに、統治上のすべての権能は教皇に依存し、教皇に起源を持って、教皇から湧いてきます。
その上、教皇の統治権はイエズス・キリストから直接与えられています。というのも、以前にご紹介した通り、教皇は「キリストの代理者」だからで、教皇の使命は、主イエズス・キリストの使命を引き続き、信仰と秘跡をもって続けるということです。そして、当然ながら、教皇の統治権の対象は「信仰と秘跡」に関することだけです。(世俗上の統治権ではありません。)以上は公教会の構成・構造でした。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第六十三講 公教会の構成について
「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
真理に溢れている信条なので、引き続きこれを説明しましょう。カトリック教会は「社会」ということを見ました。位階制の社会で、最高の司祭(つまり教皇)を頭(かしら)とする君主制の社会ということを見ました。
前回は公教会の構成員、言い換えると公教会に属する人々を見たので、今回は公教会の位階制自体を見ましょう。公教会の「構造・構成」です。
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公教会は社会共同体であり、位階制の共同体であります。従って、公教会には権威者が備わっています。その権威者とは一体、何でしょうか、何のためにあるでしょうか。
簡潔に言えば、公教会において、権威のある構成員と権威のない構成員とに区別できます。哲学的な言い方をするなら、「能動」と「受動」という用語に当たる概念でしょう。
あるいは、定着した表現としては「教える教会」(Ecclesia docens)と「教わる教会」(Ecclesia discens) とも言います。「教える教会」の「教える」とは、「教える行為」という積極的な営みを指して、権威者を指します。それから「教わる教会」というのは、教えを受ける側、教えを受け入れるように心の準備をしておく側、また権威者たちによって導かれ、教えられて聖化されるように頑張る「教わる教会」です。従って、教会の位階制は「教える教会」に他なりません。
ここに至ると、実体はこれから少しややこしくなってきます。というのは、公教会には二重の位階制があるからです。なぜややこしいかというと、この二重の位階制は、ハッキリと区別されて、混同してはならないからです。
ところが、具体的に言うと、多くの場合、両方の位階制はもつれたり重なったりするのでややこしいと言えます。
先ず、両方の位階制の区別を明らかにしましょう。
公教会には二重の位階制があります。
第一の位階制は「品級・叙階の権能」に基づきます。思い出しておきましょう。私たちの主イエズス・キリストは教会の牧者たちに、三重の使命を与えられました。それぞれの使命に、三つの権威、あるいは三つの「秩序・聖職」を備えられました。
第一の位階制は「叙階の権能」に基づき、つまり「聖化する」権能に基づくのです。この位階制において、司教と司祭が区別されます。司教は「叙階の完全なる権能」を持つのに対して、司祭は、叙階の権能を持ち、聖化できるものの、「司祭の完全なる権能」は備わっていません。そして、司祭以下、教会の他の諸聖職者が並びます。以上が、叙階の権能あるいは聖化の権能に基づく位階制です。
一方で、司教は「聖化の全ての権能」を持ち、他方、その他の司祭らは「聖化の部分的権能」を持ちます。それから、他の聖職者たちが並びます。
もう一つの位階制は、「教導の権能」に基づく位階制です。この位階制を、ゆっくりご紹介しましょう。というのも、この「教導」の位階制こそが、目に見える公教会の構成を成して現れるからです。とはいえ「教導」の位階制は、「聖化」の位階制を否定しません。
統治権に基づく位階制は教皇と司教たちからなっています。教皇と司教たちこそが、「教える教会」です。教皇と司教たちこそが教会の位階制を成すのです。司祭たちと信徒たちは「教わる教会」に属します。司祭は、信徒と違って、「教える」任務を司教から委任されますが、司教の統治権は持ちません。司祭は委任という意味で、「教える教会」と「教わる教会」とをまたがる存在です。
ところで「Jurisdictio・栽治権」と呼ばれる権能があり、これは「統治権」でもあり、「霊的な職務を正当に実行」する権威です。一方で教皇が、他方で司教たちが、この栽治権を持ちます。
注意しましょう。混同してはいけません。先ほどの「叙階(聖化)の権能」では、一方で司教たち、他方で司祭たちとの間の位階制でした。
「聖化の位階制」については、教皇でも、他の司教たちと変わらない権能しか持たないことになります。聖化上の権能においてだけです。
統治上の権能については、教皇は司教たちより優位な統治権を持ち、より多くの権限を持つのです。
公教会の構成は、教皇と司教たちからなり、司教たちは教皇に依存するという構成です。教皇は、「全世界の牧者」あるいは「聖なる父」あるいは「ローマの司教」とよばれ、全世界に及ぶ権能を持つのです。万国に及ぶ権能です。
注意しましょう。正しく理解せねばならない命題です。「全世界で何でも好き勝手にできる」という意味の「全世界に及ぶ権能」ではありません。「全世界の権能」とは、教皇が「全世界にある教会を対象に権能を持つ」ということです。具体的にいうと、教会に属さない人々に対して、何の権能もありません。ある社会において、権能があるということは、当然、社会に属する人々に対してのみ、その統治権があるのです。
教皇は全世界における全ての教会への権能を備え、これは主イエズス・キリスト御自らから直接に授かった権能です。聖ペトロが主から直接に最高の権能を頂いたと同じように、教皇も直接に最高の権能を頂きます。教皇の権能は私たちの主によって与えられたのです。
しかしながら教皇は選挙によって選ばれるのではないかといわれるかもしれません。確かに、枢機卿団によって教皇が選ばれます。前教皇が亡くなられたら、枢機卿が集まって、新教皇を選び出すのです。教皇を選ぶ団体は「枢機卿団」と言います。
枢機卿とは教皇の輔弼者(顧問者・助言者)の役を務める聖職者たちです。枢機卿には司教が多いのですが、司教ではなくても枢機卿になれます。枢機卿たちは教皇の責務において、教皇の働きを助ける人々です。教皇の「輔弼」です。
枢機卿たちは集まり「枢機卿団」が新教皇を選び出しますが、枢機卿たちが教皇に権能を与えるのではないのです。枢機卿たちが、自分の権能を教皇に委任するのではありません。全く違います。教会は決して民主主義ではありません。君主制です。教皇の権能は直接に天主から由来します。
言い換えると、教皇の選定は次のようになります。枢機卿たちはある候補者を選定します。選定された候補者は選定の旨に対して同意するか拒否するかです。同意したら、教皇になりますが、教皇としての権能は枢機卿からではなくて、私たちの主イエズス・キリストなる天主御自らから頂くのです。つまり、上から垂れ給う権能を授かることによってこそ、教皇となります。枢機卿らは新教皇の至上権を示し、至上権を認めるために、新教皇の前に伏するという儀式があります。
つまり、教皇は、単に、他の枢機卿らと同等の一人ではないのです。
司教職に至っては、更にそうです。
同等のうちの第一の人をラテン語で「Primus inter pares」と言いますが、教皇はそうでは決してありません。教皇は単なる「Primus inter pares(同類の間の第一)」ではありません。つまり、教皇職は単なる「名誉上の首位」ではありません。例えてみると、ある会議に皆「同輩」、「仲間」、つまり対等な立場にいるものの、その一人に「司会」を委任するというか、「面目上のある種の優位性」を与えるが、本質的に皆同等ということにおいて変わらないといったようものは、教皇の至上権とは全く違います。いや、教皇の権能は司教たちの権能と同質のようなものではありません。
教皇の権能は司教たちの権能に勝るのです。以前にもご紹介した通りに、私たちの主は聖ペトロに「子羊を牧せよ」 と命令されます。つまり信徒たちへの権能。それから「羊を牧せよ」 と命令されます。つまり「牧者の牧者になれ」、つまり「司教たちを牧せよ」という命令です。
したがって、教皇は司教たちに対して、真の権能を持ち、司教たちの頭なのです。
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以上は、カトリック教会の頭である教皇の位置付けのご紹介でした。
「教導権と統治権」に基づく「栽治権」は、「教皇」と「司教たち」とでは違ったやり方で備わっています。
司教たちには、教会において、真の権能が備わっています。司教は、使徒たちの継承者です。使徒の継承者である故に、教会における栽治権を持つのです。
ところが注意しましょう。司教の統治権は従属関係にあります。司教たちの統治権はあくまでも教皇から委任されています。言い換えると、公教会において全世界に及ぶ統治権を持つ教皇は、司教に教区(言い換えるとテリトリーの一部)を託することによって、その統治権の一部を司教に委託するのです。司教の統治権は直接に教皇に委託されている統治権なのです。教区における司教の統治権は教皇から与えられました。そして、勿論、教区において、司教こそが立法者であり、本当の意味で、司教こそは教区の正当なる統治者です。とはいえ、教皇から統治権を委託されていることに関して変わらないのです。
いつも統治権において、司教は教皇に対する従属関係にあります。なぜこの点を強調する必要があるというと、司教と教皇の統治権は違うからです。まず、司教なら、どこでなにを統治できるかは、司教が決めることはできないからです。
裏を返せば、ある司教が勝手に栽治権を自分で自分に与えるのなら、教会分裂を起こす行為です。つまり、教皇から離れる行為なのです。つまり、離教というのは、教皇の承知以外に統治権を簒奪するような行為に他なりません。また言い換えると、統治権上に教皇への従属関係を否定することによって、イエズス・キリストへの従属関係を否定することになり、教会から離れることになります。だから、統治権上という次元において、ある司教が教皇からの「独立」を求めてしまったら、離教者になります。教会から自分で離れてしまうことになります。
司教の統治権は教皇に直接依存しているのです。こういった要素こそ、教会の構成を特徴づけます。教皇は唯一です。教皇という一人の牧者だけは、統治するために他の司教たちに何の依存も関係もありません。つまり、独りで統治できるのです。親政できるのです。なぜ強調するかというと、近代的な「団体制」(collegialité)という誤謬に反対している信条だからです。「団体制」という謬説によると、教会内の統治権は「全司教によって全司教の名において」実行されるとされます。いえ、教会は君主制です。「私は言う。あなたはペトロ(岩)である。」「あなた」とおっしゃるのですから、聖ペトロにむかってだけのお言葉で、司教たちは関係ありません。続いて、「私はこの岩の上に私の教会を立てよう。」 、また「羊を牧せよ」 と仰せになった通りに、統治上のすべての権能は教皇に依存し、教皇に起源を持って、教皇から湧いてきます。
その上、教皇の統治権はイエズス・キリストから直接与えられています。というのも、以前にご紹介した通り、教皇は「キリストの代理者」だからで、教皇の使命は、主イエズス・キリストの使命を引き続き、信仰と秘跡をもって続けるということです。そして、当然ながら、教皇の統治権の対象は「信仰と秘跡」に関することだけです。(世俗上の統治権ではありません。)以上は公教会の構成・構造でした。