白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
信徳の次に、望徳という第二の対神徳について見てゆきましょう。
望徳がなぜ第二の対神徳であるかというと、第一の対神徳である信徳の結果だからです。天主のおかげで、信徳によって私たちの知性はある程度まで完成されます。そして、信徳によって、私たちが人間の知性を超える諸真理を知ることが可能になります。つまり、天主は人々への啓示を通じてご自分を示し給うのです。信徳によって、私たちはそれらの諸真理を知り、積極的に肯定することによって、啓示された諸真理に同意します。啓示された諸真理はこの上なく美しく崇高です。天主についての諸真理であるからです。限りなく完璧なる天主についての諸真理だからです。
そして、啓示された諸真理が限りなく崇高で荘厳であるゆえに、人間が信徳によって諸真理を黙想することによって、心にもう一つの動きが必ず起こってくるようになります。つまり私たちは、黙想する諸真理を手に入れ、完全に享受したいという渇望を必ず持つようになるのです。それは単純なことです。素晴らしい宝を見ることができるようになると、その宝を手に入れて享受したくなるのは自然なことです。
子供が、「これがほしい」と言う気持ちと同類です。それに近いかもしれません。善き天主は啓示を通じて、ご自分自身の内面を示し、ご自分自身の至上なる豊かさを示し給うのです。ですから、私たちは聖なる三位一体の玄義を黙想すると、必ずその玄義を享受し、その玄義を手に入れたくなるのです。
そして、素晴らしいことに、善き天主は、「この玄義を与えることを約束する」という誓いを、私たちに与え給うたのです。そのため、私たちは望徳という対神徳を持つのです。
当然ながら、望徳は私たち自身から湧きでるのではありません。望徳は、天主が直接私たちに与え給うものです。望徳が私たち自身から湧きでることはないのは、それが私たちを超える諸真理を対象にしているからです。また、望徳は私たち人間を超える宝を対象にしているからです。
このように、望徳は私たちの本性を超えるものを対象としているので、天主が私たちに与え給う意志の能力が必要です。私たちはその能力によって、天主が私たちに約束し給うた永遠の命を欲することができるように、そして望むことができるようになります。これが第二の対神徳である望徳です。
望徳は超自然の徳であり、望徳によって、天主が御約束をなさったゆえに、また約束を違(たが)えることがないゆえに、私たちは揺るぎない確信をもって、永遠の命と永遠の命を得るための手段を望み求めることが可能になります 。[注1] 望徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」
望徳には、信徳と三つの共通点があります。
私たちの意志となる望徳は、「超自然の宝を享受する渇望」という望みです。つまり、まだ得ていない宝である永遠の命への渇望、遠くから垣間見える永遠の命への渇望、天主によって約束された永遠の命への渇望、そして、永遠の命を手に入れるための手段への渇望です。
永遠の命と永遠の命を得るための手段とは、望徳の対象と呼ばれます。私たちの意志の前に、永遠の命と永遠の命を得るための手段という対象が示されているのです。つまり、望徳という習慣の備わっている意志は、示されている対象(永遠の命と永遠の命を得るための手段)を望む、ということです。
しかし、信徳の場合と同じように、それらを渇望する根拠が必要です。つまり、なぜそういった宝を私たちの意志が望むことができるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。これらの宝は私たち人間を遥かに超えるものですから、「望みなさい」といわれても、「でも、私には望むことができない。その能力がない。よくわからないし、およそ私の力を超える永遠の命なので、望むことができない。それが美しい考えだと認めるが、私はそれに値しないだろう」と私たちは考えてしまうかもしれません。
しかし、望徳によってそれが可能になるのです。では、どういった根拠から、私たちが望徳を持つことが可能になるのでしょうか。それは「天主の御約束」のゆえです。つまり、全能なる天主が私たちを支えてくださるという事実こそが、望徳の根拠です。
信徳のことを思い出してみましょう。信徳の場合、真理を啓示し給い、真理の源である天主という根拠があるからこそ、私たちは知性をもち真理なる天主に頼れるため、諸真理を知りうること、そしてそれが真の真理であることを確信することができるのです。望徳の場合も同じです。本来ならば、私たちを超える御宝ですから、それを望むことは人間の本性の意志だけではできないはずですが、望徳によってそれができるようになります。
つまり、天主は約束を違えることがないうえに、天主が私たちに永遠の命を与える御約束をし給うたゆえに、私たちは永遠の命を望むことができるのです。さらに言うと、天主が全能であるということも、またその根拠のひとつです。天主は全能ですから、天主が、本来ならば人間が享受できないはずの至福であるにもかかわらず、お恵みや聖寵によって我々の本性を超自然の次元へまで高め、超自然なるそれらの御宝を得ることを可能としてくださることがおできになるからです。
要するに、望徳の本質的な根拠は、天主の全能にあるのです。全能なる天主が永遠の命を得るための手段を私たちにお与えくださり、お助けくださるがゆえに、私たちは望むことについてのゆるぎない確信を持つことができるのです。天主は私たち人間に永遠の命をお約束くださっただけでなく、永遠の命を得るための手段をもお約束くださり、またそれを助けることをもお約束くださったからこそ、それを根拠として、私たちは望徳という意志を習慣として持つことができるのです。
したがって、私たちの意志においては、望徳という対神徳は非常に安定的な、非常に強い習慣となります。言い換えると、天主の父性への信頼こそが望徳の根拠だといえましょう。たとえば、子供は父親の頬に接吻したいとき、子供はなぜそれが可能だと確信しているのでしょうか。それは、父が自分を抱っこしてくれ、顔のところまで持ち上げてくれるから接吻できることを子供が知っているからです。
同じように、人を遥かに限りなく超える神秘であるにもかかわらず、天国に入ることが可能であることを、一体なぜキリスト教徒は確信できるのでしょうか。それは、父なる天主がキリスト教徒を持ち上げ、天国に入るための手段を与えてくださることを知っているからです。ですから、天国に入ることを望むことさえすれば、本当に入ることができるのです。これが望徳の根拠です。
ですから、望徳の根拠は天主の全能にあるのです。そして、天主は私たちに手段を与えることをお誓いになったのです。また、天主はご自身が全能であることを示すため、多くのしるしを与えてそれを証明してくださいました。例えば、奇跡です。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために.... 』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』といわれた。」[注2] マテオ、9、6
このように、体の病気の治療という奇跡を行うことによって、イエズス・キリストは体の回復よりも大きな「霊的、内面的な治療、復活」をも行える力があると知らせてくださいます。つまり「罪を赦す力」を持ち、聖寵を与え給うのです。
ですから、望徳の本質的な根拠は、私たちを助け給う全能なる天主にあります。
~~
救霊を得るためには、望徳が必要です。望徳を持つことなしに天国に入ることは不可能です。
なぜでしょうか?それは単純なことです。つまり望まない宝をどうやって得ることができるでしょうか。望まないのなら、人はその宝へは向かいません。望みというのは心の動きであると同時に、望徳の湧いてくる動きであり、その動きのおかげで、「我」を忘れることができ、御宝へ向かう力が湧いてきます。子供を見るとわかりやすいかと思います。自然の次元の希望ですが、子供の希望はそのようなものです。子供に何かの物事が約束されたとしましょう。その場合、子供は約束された玩具のようなものへの渇望がいつもいつも湧いてきて、その希望が力のもととなります。父親が約束してくれたから、父親がそれを与えてくれるということを確信していると同時に、実際にそれを与えてもらえるように、いい子にするという努力をします。
善き天主の場合もこれと似ています。望徳は、心の中に湧いてくる力のもとです。天主を信頼しているゆえに、「永遠の命を与えてくださることは間違いないことだ。それを知っているからうれしい。それを約束してくださったから、できるだけ早く永遠の命を得たい。どうしても得たい。」というような心の動きです。望徳のゆえに、天主への信頼と確信が私たちの心の中に生まれます。約束を違えない天主のゆえに、そして天主の約束のゆえに湧く確信と信頼です。また、天主は嘘をつかれないからでもあります。子供の場合も同じです。「お父さんが約束してくれたから、いつか必ずもらえるからうれしい」、と素直に知っているからです。幼い子供は父親の約束を疑うことは一切ありませんし、疑問に思うこともありません。
親子という関係は自然にそうなっているのですから、人と違って罪を犯すことのない天主の約束を、一体どうして疑うことができるでしょうか。
加えて、望みがあります。渇望もあります。ですから、私たちの望みは、全能なる天主への信頼、渇望、御助けへの期待に基づいているのです。
以上、美しい望徳についてお話ししました。
他方、残念ながら、望徳に対して罪を犯すことがあります。望むべきであるのに、希望を捨てる過失を犯してしまうことです。そのために、望徳を失うことがあります。ところが、望徳を失う人は、自分の目的である最高の善との繋がりを失います。望徳を失うということは、最高の御宝への希望を失うことを意味します。つまり、天国に入りたい渇望を失うことです。そして、天国への渇望を失うというのは、あえていえば、天国へ向かう力のもと、また天国へ向かおうとしている力を失うことです。したがって、望徳を失う人が天国に入れないのは当然のことです。
~~
では具体的に、人は望徳をどのように失うのでしょうか。主に二つの場合があります。
第一には、絶望に陥って、望徳を失う場合です。これは悲惨なことです。つまり、「私たちを救うには、私たちを天国に連れていくためには、天主の力が足りない」と間違って思い込むときです。典型的な事例は使徒ユダです。絶望に陥った挙句に自殺したユダです。
思い出してみましょう。ユダは、私たちの主、自分の主を裏切ります。裏切ったかわりに金をもらうのですが、良心が自分を責めます。「裏切って悪かった」と。それは確かに大罪でした。裏切ったのは真の天主であるイエズス・キリストでしたから、直接、天主に対する重大な罪を犯しました。そこでユダは、「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」[注3] と言います。つまり、ユダは自分の罪を認めます。自分の罪を認めるのは赦しへの第一歩ですですから、そこまでは良いことでした。
[注3] マテオ、27、4
次に、ユダは貰った金をファリサイ派の人々へ返そうとします。その金を手放したいからです。ユダは神殿の中へ金を投げ入れます。そして、ユダは次に何をするでしょうか。残念ながら、彼は絶望するという罪を犯します。要するに、約三年間ずっとイエズス・キリストのすぐ傍にいたユダなのに、つまりイエズス・キリストの深い慈愛と憐みに長く接触していたユダなのに、また、イエズス・キリストの全能を何度も目撃したユダなのに、つまりイエズス・キリストに頼んでみることさえしたら無償でなんでも与えてくださることを知っていたユダなのに、イエズス・キリストのもとへは戻りませんでした。イエズス・キリストのもとに、罪の赦しを求めに行くことはしなかったのです。
罪の赦しを得て、天国に入る望徳を簡単に得ることができたにもかかわらず、ユダはあえて戻りませんでした。ユダは「私の犯した罪は重大すぎるから、赦せない罪だ」と思い込んでしまいました。つまり、ユダは天主の全能を否定したのです。「天主は赦すことができない」と決めつけて、絶望に陥いるという罪を犯しました。
突き詰めて言えば、絶望の奥には傲慢の罪です。「私は罪深過ぎる者だから、この罪深い者を天主が助けてくださるわけがない」と考える傲慢です。
そう考えてはなりません。当然ながら、我々は間違いなく罪人であって、天主の救いを得るに値しない存在です。しかし、天主は私たちを救うことを約束してくださったのです。
このように、ユダは絶望という罪を犯しました。「天主は私を救うことはできない。それは全く不可能である。」と信じた絶望という大罪です。
以上、望徳を失わせる絶望という罪についてお話ししました。
また第二に、絶望との反対の罪もあります。それは、過剰に希望することによって望徳を失うことです。
つまり、天主のお助けゆえに救いを得ることになるということを忘れて、「自分の力だけで救いを得られる」と間違って思い込む罪です。
これが全くの幻想であることは自明でしょう。そもそも私たちを超える宝、つまり私たちの手が届かない宝を自分の力で、自分の手で得ることが、いったいどうして可能だと思えるのでしょうか。それは無理です。不可能です。これは「傲慢の罪」と呼ばれます。つまり、「不可能だが、私ならできる」と思い込む傲慢です。それは間違っています。私たちは天主の御力によってのみ、天国に入ることができます。「傲慢の罪」も重大な罪です。傲慢は大きな罪ですから。つまりそれは、天主の全能なしに、その全能に頼ることなしに、自分の力でできると思い込む大罪です。
これは異端と似ています。それは、自分の好き嫌いで勝手に都合のよい真理を選ぶ異端者と似ているからです。「啓示されたゆえに」という部分を否定して、それらの真理を「自分の意見」に帰してしまう異端者と同じです。その意味で、「傲慢の罪」は「自然主義(本性主義)」という誤謬の一種にすぎません。なぜかというと、「超自然なる天主の全能によって天国に入ることができる」という事実を否定して、「人間の本性(自然)の力だけで天国に入れる」という誤謬です。それは自然主義の一種です。そもそも次元が異なる自然と超自然の二つを、つまり、そもそもまったく比べることもできず、対等でもなく、不釣り合いである自然と超自然とを同じもののように扱う誤謬です。それは幻想にすぎません。また観念主義でもあります。自分の力で、そもそも人間の力で得られない天主を得ることは可能だと思い込むことは幻想そのものですから、傲慢の大罪です。
望徳を養うためには、信徳の場合と同じように、希望するという行為を頻繁に繰り返す必要があります。
信徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて(イエズス・キリストはまさにそのために十字架上に死に給うたのです)、その約束の如く、われに終わりなき命(これが目的の宝です)と、これを得べき聖寵(これが手段です)とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」
以上、望徳という対神徳についてお話ししました。
まさに絶望的に見える状況にある時にこそ、何もできず、すべてがだめになっている時にこそ、すべてが暗く、光がなく、闇に捨てられた存在に見える時にこそ、いつもよりも、より強い望徳をもって望まなくてはなりません。 「望みなきにもなお望みを捨てず信じた」[注4] と、 聖パウロが言う通りです。それは、人間の目から、人間の立場から見ると、どうしても絶望的な状況だと思わざるを得ない時にこそ、とりわけ全宇宙の主である善き天主に頼り、信頼して、希望すべきだということです。
[注4] ローマ人への手紙、4、18
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第八十三講 望徳
信徳の次に、望徳という第二の対神徳について見てゆきましょう。
望徳がなぜ第二の対神徳であるかというと、第一の対神徳である信徳の結果だからです。天主のおかげで、信徳によって私たちの知性はある程度まで完成されます。そして、信徳によって、私たちが人間の知性を超える諸真理を知ることが可能になります。つまり、天主は人々への啓示を通じてご自分を示し給うのです。信徳によって、私たちはそれらの諸真理を知り、積極的に肯定することによって、啓示された諸真理に同意します。啓示された諸真理はこの上なく美しく崇高です。天主についての諸真理であるからです。限りなく完璧なる天主についての諸真理だからです。
そして、啓示された諸真理が限りなく崇高で荘厳であるゆえに、人間が信徳によって諸真理を黙想することによって、心にもう一つの動きが必ず起こってくるようになります。つまり私たちは、黙想する諸真理を手に入れ、完全に享受したいという渇望を必ず持つようになるのです。それは単純なことです。素晴らしい宝を見ることができるようになると、その宝を手に入れて享受したくなるのは自然なことです。
子供が、「これがほしい」と言う気持ちと同類です。それに近いかもしれません。善き天主は啓示を通じて、ご自分自身の内面を示し、ご自分自身の至上なる豊かさを示し給うのです。ですから、私たちは聖なる三位一体の玄義を黙想すると、必ずその玄義を享受し、その玄義を手に入れたくなるのです。
そして、素晴らしいことに、善き天主は、「この玄義を与えることを約束する」という誓いを、私たちに与え給うたのです。そのため、私たちは望徳という対神徳を持つのです。
当然ながら、望徳は私たち自身から湧きでるのではありません。望徳は、天主が直接私たちに与え給うものです。望徳が私たち自身から湧きでることはないのは、それが私たちを超える諸真理を対象にしているからです。また、望徳は私たち人間を超える宝を対象にしているからです。
このように、望徳は私たちの本性を超えるものを対象としているので、天主が私たちに与え給う意志の能力が必要です。私たちはその能力によって、天主が私たちに約束し給うた永遠の命を欲することができるように、そして望むことができるようになります。これが第二の対神徳である望徳です。
望徳は超自然の徳であり、望徳によって、天主が御約束をなさったゆえに、また約束を違(たが)えることがないゆえに、私たちは揺るぎない確信をもって、永遠の命と永遠の命を得るための手段を望み求めることが可能になります 。[注1] 望徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」
望徳には、信徳と三つの共通点があります。
私たちの意志となる望徳は、「超自然の宝を享受する渇望」という望みです。つまり、まだ得ていない宝である永遠の命への渇望、遠くから垣間見える永遠の命への渇望、天主によって約束された永遠の命への渇望、そして、永遠の命を手に入れるための手段への渇望です。
永遠の命と永遠の命を得るための手段とは、望徳の対象と呼ばれます。私たちの意志の前に、永遠の命と永遠の命を得るための手段という対象が示されているのです。つまり、望徳という習慣の備わっている意志は、示されている対象(永遠の命と永遠の命を得るための手段)を望む、ということです。
しかし、信徳の場合と同じように、それらを渇望する根拠が必要です。つまり、なぜそういった宝を私たちの意志が望むことができるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。これらの宝は私たち人間を遥かに超えるものですから、「望みなさい」といわれても、「でも、私には望むことができない。その能力がない。よくわからないし、およそ私の力を超える永遠の命なので、望むことができない。それが美しい考えだと認めるが、私はそれに値しないだろう」と私たちは考えてしまうかもしれません。
しかし、望徳によってそれが可能になるのです。では、どういった根拠から、私たちが望徳を持つことが可能になるのでしょうか。それは「天主の御約束」のゆえです。つまり、全能なる天主が私たちを支えてくださるという事実こそが、望徳の根拠です。
信徳のことを思い出してみましょう。信徳の場合、真理を啓示し給い、真理の源である天主という根拠があるからこそ、私たちは知性をもち真理なる天主に頼れるため、諸真理を知りうること、そしてそれが真の真理であることを確信することができるのです。望徳の場合も同じです。本来ならば、私たちを超える御宝ですから、それを望むことは人間の本性の意志だけではできないはずですが、望徳によってそれができるようになります。
つまり、天主は約束を違えることがないうえに、天主が私たちに永遠の命を与える御約束をし給うたゆえに、私たちは永遠の命を望むことができるのです。さらに言うと、天主が全能であるということも、またその根拠のひとつです。天主は全能ですから、天主が、本来ならば人間が享受できないはずの至福であるにもかかわらず、お恵みや聖寵によって我々の本性を超自然の次元へまで高め、超自然なるそれらの御宝を得ることを可能としてくださることがおできになるからです。
要するに、望徳の本質的な根拠は、天主の全能にあるのです。全能なる天主が永遠の命を得るための手段を私たちにお与えくださり、お助けくださるがゆえに、私たちは望むことについてのゆるぎない確信を持つことができるのです。天主は私たち人間に永遠の命をお約束くださっただけでなく、永遠の命を得るための手段をもお約束くださり、またそれを助けることをもお約束くださったからこそ、それを根拠として、私たちは望徳という意志を習慣として持つことができるのです。
したがって、私たちの意志においては、望徳という対神徳は非常に安定的な、非常に強い習慣となります。言い換えると、天主の父性への信頼こそが望徳の根拠だといえましょう。たとえば、子供は父親の頬に接吻したいとき、子供はなぜそれが可能だと確信しているのでしょうか。それは、父が自分を抱っこしてくれ、顔のところまで持ち上げてくれるから接吻できることを子供が知っているからです。
同じように、人を遥かに限りなく超える神秘であるにもかかわらず、天国に入ることが可能であることを、一体なぜキリスト教徒は確信できるのでしょうか。それは、父なる天主がキリスト教徒を持ち上げ、天国に入るための手段を与えてくださることを知っているからです。ですから、天国に入ることを望むことさえすれば、本当に入ることができるのです。これが望徳の根拠です。
ですから、望徳の根拠は天主の全能にあるのです。そして、天主は私たちに手段を与えることをお誓いになったのです。また、天主はご自身が全能であることを示すため、多くのしるしを与えてそれを証明してくださいました。例えば、奇跡です。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために.... 』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』といわれた。」[注2] マテオ、9、6
このように、体の病気の治療という奇跡を行うことによって、イエズス・キリストは体の回復よりも大きな「霊的、内面的な治療、復活」をも行える力があると知らせてくださいます。つまり「罪を赦す力」を持ち、聖寵を与え給うのです。
ですから、望徳の本質的な根拠は、私たちを助け給う全能なる天主にあります。
~~
救霊を得るためには、望徳が必要です。望徳を持つことなしに天国に入ることは不可能です。
なぜでしょうか?それは単純なことです。つまり望まない宝をどうやって得ることができるでしょうか。望まないのなら、人はその宝へは向かいません。望みというのは心の動きであると同時に、望徳の湧いてくる動きであり、その動きのおかげで、「我」を忘れることができ、御宝へ向かう力が湧いてきます。子供を見るとわかりやすいかと思います。自然の次元の希望ですが、子供の希望はそのようなものです。子供に何かの物事が約束されたとしましょう。その場合、子供は約束された玩具のようなものへの渇望がいつもいつも湧いてきて、その希望が力のもととなります。父親が約束してくれたから、父親がそれを与えてくれるということを確信していると同時に、実際にそれを与えてもらえるように、いい子にするという努力をします。
善き天主の場合もこれと似ています。望徳は、心の中に湧いてくる力のもとです。天主を信頼しているゆえに、「永遠の命を与えてくださることは間違いないことだ。それを知っているからうれしい。それを約束してくださったから、できるだけ早く永遠の命を得たい。どうしても得たい。」というような心の動きです。望徳のゆえに、天主への信頼と確信が私たちの心の中に生まれます。約束を違えない天主のゆえに、そして天主の約束のゆえに湧く確信と信頼です。また、天主は嘘をつかれないからでもあります。子供の場合も同じです。「お父さんが約束してくれたから、いつか必ずもらえるからうれしい」、と素直に知っているからです。幼い子供は父親の約束を疑うことは一切ありませんし、疑問に思うこともありません。
親子という関係は自然にそうなっているのですから、人と違って罪を犯すことのない天主の約束を、一体どうして疑うことができるでしょうか。
加えて、望みがあります。渇望もあります。ですから、私たちの望みは、全能なる天主への信頼、渇望、御助けへの期待に基づいているのです。
以上、美しい望徳についてお話ししました。
他方、残念ながら、望徳に対して罪を犯すことがあります。望むべきであるのに、希望を捨てる過失を犯してしまうことです。そのために、望徳を失うことがあります。ところが、望徳を失う人は、自分の目的である最高の善との繋がりを失います。望徳を失うということは、最高の御宝への希望を失うことを意味します。つまり、天国に入りたい渇望を失うことです。そして、天国への渇望を失うというのは、あえていえば、天国へ向かう力のもと、また天国へ向かおうとしている力を失うことです。したがって、望徳を失う人が天国に入れないのは当然のことです。
~~
では具体的に、人は望徳をどのように失うのでしょうか。主に二つの場合があります。
第一には、絶望に陥って、望徳を失う場合です。これは悲惨なことです。つまり、「私たちを救うには、私たちを天国に連れていくためには、天主の力が足りない」と間違って思い込むときです。典型的な事例は使徒ユダです。絶望に陥った挙句に自殺したユダです。
思い出してみましょう。ユダは、私たちの主、自分の主を裏切ります。裏切ったかわりに金をもらうのですが、良心が自分を責めます。「裏切って悪かった」と。それは確かに大罪でした。裏切ったのは真の天主であるイエズス・キリストでしたから、直接、天主に対する重大な罪を犯しました。そこでユダは、「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」[注3] と言います。つまり、ユダは自分の罪を認めます。自分の罪を認めるのは赦しへの第一歩ですですから、そこまでは良いことでした。
[注3] マテオ、27、4
次に、ユダは貰った金をファリサイ派の人々へ返そうとします。その金を手放したいからです。ユダは神殿の中へ金を投げ入れます。そして、ユダは次に何をするでしょうか。残念ながら、彼は絶望するという罪を犯します。要するに、約三年間ずっとイエズス・キリストのすぐ傍にいたユダなのに、つまりイエズス・キリストの深い慈愛と憐みに長く接触していたユダなのに、また、イエズス・キリストの全能を何度も目撃したユダなのに、つまりイエズス・キリストに頼んでみることさえしたら無償でなんでも与えてくださることを知っていたユダなのに、イエズス・キリストのもとへは戻りませんでした。イエズス・キリストのもとに、罪の赦しを求めに行くことはしなかったのです。
罪の赦しを得て、天国に入る望徳を簡単に得ることができたにもかかわらず、ユダはあえて戻りませんでした。ユダは「私の犯した罪は重大すぎるから、赦せない罪だ」と思い込んでしまいました。つまり、ユダは天主の全能を否定したのです。「天主は赦すことができない」と決めつけて、絶望に陥いるという罪を犯しました。
突き詰めて言えば、絶望の奥には傲慢の罪です。「私は罪深過ぎる者だから、この罪深い者を天主が助けてくださるわけがない」と考える傲慢です。
そう考えてはなりません。当然ながら、我々は間違いなく罪人であって、天主の救いを得るに値しない存在です。しかし、天主は私たちを救うことを約束してくださったのです。
このように、ユダは絶望という罪を犯しました。「天主は私を救うことはできない。それは全く不可能である。」と信じた絶望という大罪です。
以上、望徳を失わせる絶望という罪についてお話ししました。
また第二に、絶望との反対の罪もあります。それは、過剰に希望することによって望徳を失うことです。
つまり、天主のお助けゆえに救いを得ることになるということを忘れて、「自分の力だけで救いを得られる」と間違って思い込む罪です。
これが全くの幻想であることは自明でしょう。そもそも私たちを超える宝、つまり私たちの手が届かない宝を自分の力で、自分の手で得ることが、いったいどうして可能だと思えるのでしょうか。それは無理です。不可能です。これは「傲慢の罪」と呼ばれます。つまり、「不可能だが、私ならできる」と思い込む傲慢です。それは間違っています。私たちは天主の御力によってのみ、天国に入ることができます。「傲慢の罪」も重大な罪です。傲慢は大きな罪ですから。つまりそれは、天主の全能なしに、その全能に頼ることなしに、自分の力でできると思い込む大罪です。
これは異端と似ています。それは、自分の好き嫌いで勝手に都合のよい真理を選ぶ異端者と似ているからです。「啓示されたゆえに」という部分を否定して、それらの真理を「自分の意見」に帰してしまう異端者と同じです。その意味で、「傲慢の罪」は「自然主義(本性主義)」という誤謬の一種にすぎません。なぜかというと、「超自然なる天主の全能によって天国に入ることができる」という事実を否定して、「人間の本性(自然)の力だけで天国に入れる」という誤謬です。それは自然主義の一種です。そもそも次元が異なる自然と超自然の二つを、つまり、そもそもまったく比べることもできず、対等でもなく、不釣り合いである自然と超自然とを同じもののように扱う誤謬です。それは幻想にすぎません。また観念主義でもあります。自分の力で、そもそも人間の力で得られない天主を得ることは可能だと思い込むことは幻想そのものですから、傲慢の大罪です。
望徳を養うためには、信徳の場合と同じように、希望するという行為を頻繁に繰り返す必要があります。
信徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて(イエズス・キリストはまさにそのために十字架上に死に給うたのです)、その約束の如く、われに終わりなき命(これが目的の宝です)と、これを得べき聖寵(これが手段です)とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」
以上、望徳という対神徳についてお話ししました。
まさに絶望的に見える状況にある時にこそ、何もできず、すべてがだめになっている時にこそ、すべてが暗く、光がなく、闇に捨てられた存在に見える時にこそ、いつもよりも、より強い望徳をもって望まなくてはなりません。 「望みなきにもなお望みを捨てず信じた」[注4] と、 聖パウロが言う通りです。それは、人間の目から、人間の立場から見ると、どうしても絶望的な状況だと思わざるを得ない時にこそ、とりわけ全宇宙の主である善き天主に頼り、信頼して、希望すべきだということです。
[注4] ローマ人への手紙、4、18