ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

「信徳」―対神徳 【公教要理】第八十二講

2020年01月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十二講 信徳

 

前回の講話で「習慣」とは何であるかをご紹介しました。
「習慣」とは安定的な状態であり、私たちの行為あるいは本性をある方向へ実践するように決定させ、傾かせます。善へ傾かせる習慣を善徳といい、悪へ傾かせる習慣は悪徳といいます。
これから数回にわたって、キリスト教的な生活にとって一番大事な習慣をご紹介していきたいと思います。

最初は対神徳という徳について説明してみましょう。天主を対象にしている善徳なので対神徳と呼ばれ、これによって信徒は天主と直接につながることができます。
超自然の徳である対神徳には三つあります。天主より賜る徳で、信徳、望徳、愛徳という三つです。

信徳という対神徳からご紹介しましょう。
信徳とは何なのでしょうか?信徳とは超自然の徳であり、信徳によって、天主が誤ることのない御方であるゆえに、公教会を通じて我々に啓示してくださる真理を断固として信じるように助けます 。
以上の定義を考察して、いくつかの点を指摘しましょう。

まず、信徳は対神徳であり、信徳は人間本性に備わる知性にくっつくかのような超自然(本性を超える)の徳です。本質的に私たちの知性は真理へ向かっています。どうしても真理を目的にしています。「知りたい」とは「真理が知りたい」という意味です。
「知る」というのは、本質的に「真理を知る」ということです。ところが、人間の知性を超える真理もあります。知性を超えるとは、これらの真理は自然(本性)次元の真理ではないという意味です。言い換えると、我々人間の知性に把握しきれない真理もあるということです。私たちの本性を超える超自然の真理もあるということです。

実に、私たちの人間の知性を超える真理、人間の知性によって把握しきれない真理があります。人間の知性は本性上、限られています。その結果、人間の知性は超自然の真理を自らでは知ることが不可能です。本当に知ろうとしても。

天主は超自然の真理を人々に啓示することにされました。それとともに、超自然の真理を知ることを可能にする能力をも与え給うたのです。それが信徳です。人間の知性を超える真理を「信じる」ように助ける「超自然の習慣」のおかげで、それらの超自然の真理を知ることができるようになります。

より分かりやすくするために、ちょっと例えてみましょう。ペットを飼っているとしましょう。そして、飼い主である私はペットと話し合いをしたいとしましょう。問題はペットには話す能力、話し合う知性はありません。想像してみましょう。私たち飼い主がペットの知性に何かを加えてあげることによって、ペットが動物次元の真理だけではなく、私たち人間の真理をも知ることを可能にする能力が与えられたとしましょう。その能力をペットの知性に入れると、ペットが人間と話し合える能力を与えられ、話し合うような傾向をもつような能力があるとしましょう。これが可能だったら、天主が人間に対してなさることと近いといえます。

つまり、人間は人間を超える真理を知ることはできません。それで、天主は霊魂に属する知性において、安定的な能力を入れます。「信徳」と呼ばれる習慣です。信徳によって、「信じる行為」を実践することが可能となります。「信じる行為」というのは、超自然の真理を知る行為という意味です。
超自然の信徳は以上のようなものです。

要約すると、信徳とは、天主が人間の知性に入れ給う超自然の真理を知ることを可能にする安定的な能力です。
信徳の対象は、言い換えると、信徳によって知れることは、天主が啓示なさった真理です。本来ならば、人間の本性だけでは把握できない、手の届かない真理を「啓示」されるからです。「啓示」という言葉は天主が「啓(ひら)いて示す」という意味ですが、またフランス語の語源では「覆いを外す」という意味です。啓示こそ、信徳の対象です。
~~


では、一体なぜ、それらの真理が本当に真理であるかということが分かるのでしょうか。これは非常に大事な点です。

思い出しましょう。信じるとは、我々の知性が真理を肯定して積極的に同意するということです。ですから、理性によって肯定する根拠がなければなりません。つまり、超自然の真理を知る「能力」が天主によって与えられるのが第一歩です。そして、啓示によって、知性の能力の前に真理を提供するのが第二歩です。
しかしながら、「信じる行為」を実践するためにはそれだけでは足りず、知性が意志を持って行為を行う(実践する)必要があります。つまり、真理を知るという能力が与えられ、提供された真理に「同意する」あるいは「従う」行為を実践して初めて「信じる」という行為が成り立つのです。

知性が啓示された真理に同意する根拠は何でしょうか。一体なぜ知性は啓示されたことが真理であるとを分かるのでしょうか?一体なぜ知性は「本当に真理だ」と言い切れるのでしょうか?あえて言えば、一体なぜ、超自然の真理に同意するとき、間違えることは不可能だと確信しているでしょうか?我々の信仰は、真理を対象にして、安定的でありうる根拠は何でしょうか?

その根拠は、啓示なさる御者が「天主」だからです。誤ることが不可能である天主、また私たちを騙すことが不可能である天主が啓示なさるから信じうるのです。
真理なる天主によって啓示されているから、信仰の対象となる啓示される諸真理を保証されて、私たち人間は信じうるのです。
信仰、つまり「信じる」という行為は、啓示なさる御者への信頼を前提にしている行為です。提供される対象が真理であると信じうる根拠は、啓示なさる天主が真理の源であるからです。

子供は自分の母を信じます。子供は自然に母に対して完全な信頼があります。母はどんどん教え、子供は素直にそれを信じます。そういえば、私たち大人の知っている多くのことも結局、親や先生の方々を信頼したおかげでこそ知っているにすぎません。その信頼がなければ、そもそも教わることは不可能です。

超自然の信頼である「信仰」においてもこれと同じです。天主は真理の源であるから、それを根拠に天主への信頼を前提に、誤りのない天主、それから人々を騙すこともできない天主が啓示される諸真理を信徳の助けを得て信じるのです。
言い換えると、私たちの信仰の本質は「天主が啓示なさるすべての真理を知る」のではありません。そうではなく、キリスト教における信仰の本質は「信仰の根拠そのもの」にあります。つまり、「天主が啓示なさったゆえに」という根拠こそが大事です。

ですから、皆様には見えてきたかもしれません。信仰にかかわる真理を一つだけでも否定してしまったら、完全に信仰を失うことになります。すべての真理を失うことになります。つまり、超自然の真理を一つでさえ否定してしまうと、信徳という習慣を失います。
一体なぜでしょうか?超自然の真理の一つでも否定してしまうというのは、天主の権威を否定するに他ならないからです。一つの真理を否定するだけでも、それはつまり、天主の啓示の一部を否定することで、つまり天主の権威を完全に否定するということです。
(啓示なされたたった一つの真理であっても、これが真理ではないとすると、誤りのない、人々を騙すことのない天主が真理の源であることを否定することになるからです。)

その結果、信徳を失い、信仰をも失うのです。なぜかというと、信仰の根拠である天主の権威を否定するからです。つまり、真理の源である天主の啓示ゆえに信じることはできなくなり、諸真理のうちのいくつかを個人が「選ぶ」ことになってしまいます。もう信徳でなくなります。対神徳としての信徳でなくなります。真理の中の何を信じるかを選び出したら人間的な「信仰」に過ぎなくなります。言い換えると、個人的な意見に過ぎなくなります。好き勝手に何か真理であるかを「私がそう思うから、そう信じるといい気持ちから真理だとする」のような安っぽい意見に過ぎなくなります。

裏を返せば、信徳がなぜ単一であるかがわかってきます。信徳の根拠である「啓示なさる天主」によって、信仰は単一であって、分裂不可です。以上、信徳をご紹介しました。美しい徳でしょう。
繰り返すと、信徳は超自然の徳であり、誤りのない天主、真理の源である天主、人々を騙すことができない天主が啓示なさったことを根拠に、諸真理を信徳という習慣の助けを得て「信じる」行為(知性による行為で、真理を肯定し、積極的に同意する行為)を実践させるものです。
~~

さらに、善き天主は信徳の効果を助けるために、信じることを容易にするために、啓示なさったことに関して、啓示の信憑性の根拠を多く与えてくださいます。もちろん、厳密に言うとこれらの根拠のおかげで、啓示された真理に同意するのではないのです。啓示された諸真理に同意することを促す根本的で厳格な根拠は「真理の源である天主」です。天主こそが私たちの信仰の根拠です。
しかしながら、さらに、おまけという形で、啓示の上に、啓示を信じるために、啓示の信憑性の多くの根拠をも与え給ったのです。
例えば、奇跡といった印はそういった根拠の一つです。

また、旧約聖書のすべての予言をイエズス・キリストが成就したのもその一つの根拠です。また、公教会における聖徳の事例もそうです。殉教者をはじめ、諸聖人の模範と人生もそうです。信仰のためにした殉教者たちの証言は大きな根拠です。また、公教会が世界中に広まった事実もそうです。また、数千年にわたって、公教会がそのまま継続し続けていることも信憑性の根拠です。また、公教会が文明や国々の繁栄を齎(もたら)したという多くの史実もそうです。これらは、啓示の信憑性を裏付けるいくつかの根拠です。

そう言った根拠だけから信ずるのではないのですが、それらの根拠のおかげで、「やっぱりどう見てもどうしてもそこに何か神秘があるぞ、神聖なものがあるぞ」と気づかせてくれ、啓示を指し示し、天主による働き(つまり啓示)があるということを気づかせてくれます。
信憑性を支える諸根拠は、手の指のように、啓示された真理の方へ我々の視線を指し示す役割があります。「天主が啓示なさったがゆえに信じるべきだぞ」と勧めて促して、指し示すのです。
~~

霊魂の救いを得るために、信徳が必要です。霊的な生活の基礎は信徳にあるからです。「信じない人は救われない」のです。私たちの主は仰せになりました。「信じて洗礼を受けるものは救われ、信じない者は滅ぼされる。」 信仰は、永遠の命への根本的な基礎です。

大人の求道者は、あるいは幼子の場合は代父代母は、教会で洗礼を授かる時、司祭からこのように問われます。
「あなたは天主の教会になにを求めますか?」
求道者あるいは代父代母は「信仰を求めます」と答えます。

受洗者が第一に求めるのは「信仰」です。
それから、司祭は続けます。
「信仰はあなたになにを与えますか」と。
この問いには「永遠の生命を与えます。」と答えます。

洗礼式の典礼は信仰が霊的な生活の根本的な基礎であることをよく表しています。そして、信徳のおかげで霊魂は超自然の次元まで高められることが可能となり、あえて言えば、天主との結合を可能になるのです。そうなったら、天主によって霊魂の救いを得ることは可能となります。ですから、信仰は霊魂の救いを得るために必須不可欠です。

残念ながら、信仰を失うことはあり得ます。あるいは、信仰を一度も持たないこともあり得ます。
信仰を持たない人を指して、「不信仰者」といいます。信じない人という意味です。(日本語では未信者ともいいます。)信者も同じ語源ですね。「信じる者」という意味です。ラテン語の「fideles」です。信者は信仰を持つ者で、信仰を実践する者という意味です。「不信仰者」は信仰を持たない者で、信仰を実践しない者という意味です。「異端者」の語源はギリシャ語での「選ぶ」という言葉に由来しています。異端者とは「諸真理を選ぶ者」という意味です。ですから、異端者は好き嫌いで勝手に、諸真理のいくつかを排除したり、いくつかを受け入れたりします。そうすることによって、啓示なさる天主の権威を否定することになります。したがって、信仰の単一性を否定します。したがって、異端者は信徳と信仰を失います。なぜかというと、信仰の根拠となる天主の権威を否定し、信じる根拠を失うからです。

つまり、異端者は啓示なさる天主の権威を肯定せず、「啓示だと個人的に思うものを自分勝手で選ぶ」のです。したがって異端者の「信仰」の根拠は「自分自身」に過ぎないのです。何も超自然な次元はなくなっているのです。「自分自身」は自然次元だからです。
それよりひどいのは背教者です。背教者は信仰のすべてを否定して捨てて、異教に行くか、何らかの適当な礼拝あるいは宗教に行く者です。

信仰を得たからと言って、信仰を失うこともありうるのです。ですから、信仰を大切にして、信仰を養う必要があります。そうするために、頻繁に「信じる行為」を繰り返して実践する必要があります。つまり、信徳唱をよく唱えることから始まります。
「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」

そして、信徳を実践するとき、信徳の対象なる真理を対象にしましょう。
「我が天主よ、まことに御降誕なさり、ご托身なさり、肉体になり給ったことを信じ奉る。」
「イエズス・キリストよ、真の天主であることを信じ奉る。」
「イエズス・キリストよ、私を救うために、十字架上に死に給ったことを信じ奉る。」

こういったような信徳の行為を行うたびに、信徳を実践するのです。信仰を養うのです。
また、以上のような内面的な信徳の行為のほかに、外面的な信徳の行為を行う必要もあります。

第一、どうなっても信仰を否定することが決してないように。
第二、信仰に対する侵害があるとき、あるいは、ある状況において「黙っているままにすると深刻な過失になる」時、信仰を断言して公に宣言する義務があります。たとえば公の場で、あるいは公権によって信仰が問われたら、誤魔化さないで信仰を宣言すべきです。

このようにして、信徳を養うために、信じる行為を繰り返していく必要があります。
信徳を強化するために、その信じる習慣を強化するために、「信じる行為」を容易にする習慣を強化するために、「信じる行為」を繰り返す必要があります。このことに関しては、他の習慣と変わらないところです。そうすることによって、信じる行為は安定して、楽になって、喜ばしい行為になっていきます。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。