ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

聖母は天に閉じ込められた!

2021年01月11日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「聖母は天に閉じ込められた!」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

このお説教は、私たちに、あきらめずに子供の信頼をもって聖母に祈り、願い求め続けなさい。ということを思いださせてくれますね。
共産主義がその本性を現し、世界を飲み込もうとしている今こそ、あきらめずに聖母に信頼して祈ろうではありませんか!


ビルコック神父様によるお説教 2020年5月13日


ビルコック神父様によるお説教
2020年5月13日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖母は天に閉じ込められた!

愛する兄弟の皆様、
今、五月に入り、カトリック教会は今月の間、特に、聖母へ祈るように招いています。五月は昔から聖母の月とされてきました。また、「一番美しい一か月」といわれたりします。

さて、いとも聖なる童貞マリアへの崇敬をするためにどうすればよいか、具体的にどうやればよい崇敬ができるでしょうか?また聖母マリアへの崇敬の特徴は何であるか、どうやればよく深い実践になるのでしょうか?これらの質問への答えを知る一番早い方法は次の名著を読むことでしょう。聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへの真の信心』がその基本的な著作です。

それはともかく、いとも聖なる童貞マリアへの信心でいえば、一つ思い出せとよいことがあると思います。これは、いとも聖なる童貞マリアの崇敬へのやり方に関して最近、聖母マリアが気に入られていた祈り方があります。

特に19世紀から聖母マリアはこれをお示しになって、また特に、試練においてこそお示しになられました。1870年の仏普戦争の際、また第一次世界大戦の際など初めての時に、いとも聖なる童貞マリアは子供たちの前に出現することになさいました。聖ベルナデットの前に現れたり(1858)、またファチマの子供たち(1917)、またポンマンPontmain(1871)の子供たちの前に現れたりします。



このようにして、子供たちの前に姿を現して、聖母マリアはいくつかのメッセージをお伝えになりました。そして、子供にメッセージを託して、子供を使者にしてこれらのメッセージを全世界に伝えてもらったのです。このようにして、聖母マリアは何度も何度も子供たちの前に現れることになさいました。これは、きっと、私たちは聖母マリアを崇敬するためにどうすればよいかということを示唆してくれると思います。

というのも、子供こそが信心を実践するに際して、信心それから崇敬のあるべき姿を示してくれるからです。子供が崇敬するときの特徴は何であるでしょうか。三点あるかと思います。

第一点はその素直さとその無邪気さです。周知のとおり、子供は無邪気であり、子供は素直です。子供は率直です。そういえば、子供時代の美点はこのような性格にあります。要するに、子供の陽気さですね。いつも率直である子供。そして、私たちも大人になっても祈る時、子供時代のこれらの態度をもって実践すべきです。



思い出しましょう。いとも聖なる童貞マリアへの崇敬は、私たちの母としての聖母への崇敬です。つまり、私たちの生母に対してと同じように聖母マリアに自分自身を奉献すべきだという意味です。従って、そうするために、私たちは聖母マリアを崇敬するとき、我々の心には、親への愛情をこめて、孝行を実践するように、つまり、聖母マリアの子として聖母マリアを崇敬するがよいです。

そして、聖母マリアの子として祈るために、子供の美点を以て崇敬することを意味します。そして、これらの美点の一つは素直さがあります。つまり、素直に聖母マリアに声をかけることです。見てください。子供は素直に親に話しかけるように、また、子供は何でも頼む、相手は誰でも頼むような素直さのようにできるといいです。

例えば、教皇、聖ピオ十世の前に謁見していた子供たちは素直に教皇に「初拝領したい」と急に頼んだ場面があるように。あるいは、聖ピオ十世のもう一つの逸話があります。子供に会った時、子供から聖ピオ十世が「もう一つの教義を明らかにしなさい」といわれた場面があります。



この場面、聖ピオ十世は何人もの子供を迎えて、おそらく御聖体の初拝領を行った後、聖ピオ十世は子供たちと話していました。で、イタリア人の女の子だったと思いますが、素直に「パパさま、もう一つの教義を明確にできるでしょうか」と言いました。そして、記録によると、そのあと、聖ピオ十世は笑いながら「教義を明確にしなさいと言われたなんて」といいながら、部屋に戻ったとあります。

要するに、子供たちは素直になんでも頼むのです。子供は遠慮なく何でも聞きます。子供は恐れることはありません。遠慮なく何でも聞きます。
私たちもいとも聖なる童貞マリアに祈る時、子供のように素直でいられるとよいです。無邪気に、遠慮なく聖母マリアに聞いて頼む素直さ。

聖母マリアは力強いです。蛇の頭を踏み潰したほどの力があります。ですから、五月の間、祈る時、崇敬するとき、素直でいましょう。聖母マリアに、遠慮なく何でもお恵みを頼みましょう。素直に聞きましょう。願いは叶おうとも叶わずとも、とにかく頼みましょう。かなわなくても問題はありません。かなうまで、別のことでも頼むのがよいです。とりあえず、落胆しないでしつこく頼みましょう。素直に、無邪気に祈りましょう。

そういえば、子供の第二の特徴はまさにしつこさです。愛する兄弟の皆様、子供がいるのなら、経験したことがあるでしょう。つまり、子供は何かを頼んでかなえなくても、何度も何度も何度もまた攻めてきますね。最初、「だめ」だと答えても、子供は「しょうがない、もう一度聞いてみよう」と、二度目「ダメ」だといわれても、「しょうがない、もう一度聞いてみよう」と。繰り返して。「いずれか親は叶えてくれるから、また聞いてみよう」という子供の心。

聖母マリアに祈る時、このように祈るといいです。ポンマンPontmainの子供たちに聖母マリアはまさにこのようにおっしゃいました。「いつまでもあきらめないで、祈りなさい」と聖母マリアは仰せになりました。



ですから、聖母マリアに祈る時、私たちもしつこく、しつこく祈りましょう。子供がしつこく頼むように。言いかえると、希望溢れたしつこさということです。「いずれ聖母マリアはかなえてくださるし」また「聖母マリアは私の祈りを飽きずに、逆に、子供がこれほどしつこく頼む姿を見て感動して、いずれ頼んでいるお恵みを与えてくださるだろう、あるいは頼んでいたお恵みではなくても、それよりも聖母マリアが用意してくださったよりよい別のお恵みは与えられるだろう」という心で祈りましょう。

最後に、子供の第三の美点は常に喜んでいること、そして子供らしい気楽さです。子供は気楽に生きているのです。なぜでしょうか?親の世話になっていて、親は何でもやってくれるから、子供は心配することはそもそもありません。ですから気楽です。これこそ子供時代の大きな特徴でしょう。

私たち大人は、祈る時にこのような気楽さは欠如しています。つまり、いろいろなことを遠慮なく聖母マリアに祈りながらも、同時に私たちは何かそれでも物事すべてをコントロールしようとしています。出来事をも、あるいはまわりのもの物事をどうしても私たちがコントロールしようとしています。また祈りにおいても。そのせいで、私たちは祈る時、心配せずに気楽に祈れない、あるいは喜びをもって、率直に祈れないことが多いでしょう。

気楽という時、つまり、聖母マリアにすべてを託すという意味です。聖母マリアは私たちの御母です。十字架の下に、私たちの御母になることを受け入れてくださった聖母マリアです。そして、本当の意味での私たちの御母です。ですから、私たちは聖母マリアにすべてを捧げて託しましょう。母として私たちの全ての面倒を見てくださるからです。身体に関することでも、霊魂に関することでも、徳になるなら聖母マリアは私たちの全ての面倒を見てくださいます。

また、物質的であれ、霊的であれ、私たちの救済にかかわるすべてのことも、です。また、私たちの周りにあるすべての物事に関しても聖母マリアは面倒を見てくださいます。健康上の問題も、親戚や友人や愛する人々のことに関しても、何でも世話してくださいます。母は自分の子の世話をしているように、聖母マリアは私たちの面倒をみてくださいます。

つまり、私たちの悩み、心配事、問題などは、聖母マリアの悩み、心配事、問題となります。母と同じように。母は自分の子が病気になったら看病してあげるように。母は自分の子に悩みごとなどがあれば助けてあげるように。また母は自分の子が喜ばれたら、ともに喜んでくれるように。そして、喜びがある時、母の働きのお陰で、この喜びが増えられるように。母は自分の子のそばにずっといてくれるように。子供は自分の母にすべてを託しているから、このようになっています。本物の気楽さです。

そして、私たちは聖母マリアに祈ってもあまり効果は出ない時があるでしょう。なぜでしょうか?善い意味での気楽で私たちはいられないからのではないでしょうか?つまり、聖母マリアにどんどん任せておくがよいです。霊的な生活においてでさえ、私たちはすべてをコントロールしようとして、任せないことが多すぎるでしょう。残念です。聖母マリアは私たちの霊魂の母になるように、霊魂においての主婦になるようにするがよいです。よりよく聖母マリアに対して孝行を実践して、素直になればよいでしょう。孝行の精神が私たちには足りません。

愛する兄弟の皆様、聖母マリアの月である五月なので、いとも聖なる童貞マリアへの崇敬を実践して改善していきましょう。善き天主は子供からの祈りを聞くとき、いったいなぜこれほど簡単に聞き入れ給うのでしょうか?子供の祈りは素直だからです。また子供はしつこいと同時に、天主に信頼して子供は天主にすべてを任せるからです。子供は天主のみ手にすべてを託すからです。ですから、子供の祈りはイエズス・キリストの御心と聖母の汚れなき心に届きやすいのです。

愛する兄弟の皆様よ、聖母マリアによく祈りましょう。
もう今、聖母マリアは天に閉じ込められています。はい、天に閉じ込められています。ある意味で、天の囚人となっています。あえて言えば、天の人質のようです。つまり、現代は、この世に聖母マリアが現れたり、直接手を出したりしてほしくないようです。

見てください。ルルドの聖域は閉鎖されています。この近くにあるパリのバック通りの(不思議のメダイの)聖堂も閉鎖されています。看板には、6月2日まで、訪問を受けられないと書いてあります。なんか、聖母マリアが手を出さないように頼まれているかのようです。また、周知のように、5月13日、明日、ファチマでは警察官たちが聖域を閉鎖して、信徒の立ち入りを禁じています。ポルトガルの司教たちでさえ、「ファチマに行かないように」と信徒へ声を掛けました。聖母マリアは天に閉じ込められています。

当然ながら、天では聖母マリアは喜ばれています。しかしながら、この世で私たちの母として手を出せないようにされているかのようです。この世に御母が働きかけてくださるのが多くの人々にとって嫌なのでしょう。
おそらく、現代でも、フリーメーソン会員たちは覚えているでしょう。ファチマの時、奇跡をみたフリーメーソン会員の回心を覚えているでしょう。また、不思議なメダイのお陰で回心したユダヤ人Ratisbonneのことを覚えている人も少なくないでしょう。

また、多くの医者、そして医療にかかわる詐欺師なども覚えているでしょう。ルルドでは、ときに、信仰をもって水に入ったらそれだけで病が治るということを見て彼らは嫌になるかもしれません。医療が治せない病でもルルドで治ることを見ることはいやでしょう。これを見て、医療が唖然するしかないことは嫌なのかもしれません。多くの人々は、これらの奇跡を見てわからない、どうしても理解を超えるような事実ですから。そして、多くの人々は自分の理解を越えることを認めたくないのでしょう。

結果、このような人々はできるだけ、聖母マリアがこの世を助けないのを望むのでしょう?ただ、そうすると大変なことになります。結局、聖母マリアに、御子イエズス・キリストの御腕を引き留めてほしくないといっていることになります。はい、天罰を引き留めてほしくないというのと同然です。結局、聖母マリアの御取り次ぎを拒絶することは、私たちの主の怒りがこの世に攻めてくるという意味です。
嘆かわしいことです。聖母マリアの働きかけを妨げる人々は自分がやっていることの弊害を知ればいいのに。そのせいで、どれほどの禍を招くか知ればよいのに。

愛する兄弟の皆様、私たちは聖母マリアを追い出す側に回らないようにしましょう。私たちの母として、聖母マリアを仰ぎましょう。また、后(きさき)として聖母マリアを仰ぎましょう。私たちの家庭では、聖母マリアのための小さな聖域を設けましょう。

思い出しましょう。私たちは子供の時、野原の花を簡単に拾って、自分の母にあげるというようなことがあったでしょう。なんか、この野原の花束は立派でもなく、豪華でもないかもしれないが、素直に、無邪気に心を込めての花束だから、子供からもらう母は深く喜ぶのです。同じように、家でも、そして祈りにおいても、一日の瞬間ごとに、聖母マリアのためのこのような花束がどんどん多くうまれるように頑張りましょう。一瞬の思いでも、一つのアヴェマリアでも。いつも、私たちの御母として私たちのそばにいられるように。

そして、よく覚えましょう。聖母マリアの親しい御働きがどれほど妨げられる場所があったとしても、聖母マリアは自分の子をその上なく愛しておられるから、それでも手を出してくださいます。天主を汚す政府の法律がどれほど我々を迫害に追い詰めても、聖母マリアは私たちの御母であることを変えることはできません。(聖域を閉鎖するような)一番、不誠実の司教が何をしたとしても、聖母マリアによる私たちの霊魂への働きかけを禁じることはできません。

また、どんな状態になったとしても、私たちの霊魂と身体が必要としている救いとお恵みを聖母マリアは与えてくださいます。ですから、いつまでも、希望を失わないようにしましょう。ずっとずっと聖母マリアを私たちの母として仰ぎましょう。どれほど、法律や政令が厳しくても。天主を汚す我が国の統治者たちが聖母マリアの御取り次ぎを拒んでも、私たちは常に聖母マリアに身を捧げれば、母はそばにいてくださいます。

聖母マリアは私たちの母なので、母として仰ぎましょう。子として聖母マリアを崇敬しましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。アーメン


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