白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
第五、第六、第七の次、第八戒を見ておきましょう。
第八 なんじ、嘘をつくなかれ。
あるいは
第八 なんじ、偽証するなかれ。 ともあります。
前の数戒の次に来る流れは自然なのです。どちらかというと、十戒の順番はたまたまであるではなく、その順番に意味があります。
第五戒は人の命を守るための掟です。
第六戒は人類の命を守るための掟です。いわゆる人類の存続のための掟です。
第七戒は人の命を助ける物質的な物を守るための掟です。「なんじ、盗むなかれ。」
そして、第八戒は精神上の命を守るための掟です。第五戒の時に見たスキャンダルとしての精神上の命を守るのではなくて、第八戒の場合、評判・名声としての精神上の命を守るための掟です。思い出しましょう。第七戒は隣人の主に物質的な持ち物への侵害を禁じる掟です。
一方、第八戒は隣人の霊的な持ち物への侵害を禁じる掟です。霊的な持ち物とは主に隣人の名声なのです。人間ならばだれでもどうしても名声を大切にしています。これは面白いことに、人間が霊的な存在でもあることを裏付ける現象なのです。時には、物質的な財産よりも、名声を優先していることも少なくありません。大きな費用を払って裁判に行ってまで自分の名声を守ることは珍しくありません。いわゆる、名誉毀損を晴らして名声を取り戻したいという気持ちは自然です。人々は自分の名声を大切にしているのです。そしてこれは正当なことであって人間の本性に沿っています。
そして、第八戒は隣人の名声への侵害を禁じています。要するに、隣人の名声を毀損するということは、真理あるいは真実に背く行為なのです。
従って、第八戒は、第一、真理に背く行為を禁じています。第二、名声を侵害することを禁じています。第三、名誉を毀損することを禁じています。
真理に背くというのは、広義の真理に対する行為を禁じるということです。名声を侵害するということは、個別の真理となる隣人の名声という意味になります。そして、名誉というのは、隣人に対して払うべき敬意を表すための行為(礼儀作法)であり、第八戒は広義にいう真理を守るための掟なのです。
第八誡に反対する、つまり真理を守るための掟に反対する第一の罪は嘘なのです。嘘とは周知のことですね。嘘は全く自然なことではありません。例えば、幼い子供が嘘をついたら、すぐ自然に赤面してしまいます。あるいは、大人でも、嘘をつく悪徳を持たない人が嘘をついた時、見え見えになることが多いです。なんか、つい、目を伏せるようなことがありますね。いわゆる、良心が嘘はだめだということを強く訴えるような時です。やはり、嘘は自然なことではありません。人間の本性に背くものなのです。
では、嘘とは何でしょうか?まず、しるしなのです。必ずしも言葉ではないということです。つまり、意図的に相手を騙すために自分が思っていることとの反対のことを表す仕草あるいは言葉といったようなしるしを行うということを「嘘」と言います。しるしですから、言葉の他に、頭の合図、あるいは体の仕草、何でもいいですが、このしるしを以て思っていることとの反対のことを示すのです。つまり、外的に表現していることと内面的に思っていることとの不一致があるということです。そして、相手を騙す意図も嘘の条件なのです。これが嘘を特徴づける三つの条件です。
思っていることと違うことを外的に表す上、相手を騙す意図がある時、嘘となります。
そして、「嘘をつくなかれ」というのは、例外なく、すべての嘘は禁じられているということです。これは理解しづらいかもしれません。時に、やむを得ず、嘘をつかざるを得ない場合があると思いがちですが、実際にはそんなことはありません。嘘をついてもよい場合は一切ありません。
脱出の書には「いつわりのある訴訟を避けよ。」(23,7)「(主、あなたは)うそをつく者を滅ぼし」(詩編、5、7)。
それから、聖ヨハネの福音にも嘘に関する場面があります。私たちの主、イエズス・キリストは悪魔を指して「彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ、8、44)。
悪魔はエワに嘘をつきました。そして、その嘘のせいで、罪は初めてこの世に登場しました。ですから、嘘をついてもよい場合は一切ありません。繰り返しますが、一切ありません。
嘘をつくことにあたって、いくつかのありようがあります。
第一、「善意の嘘」ということがあります。この場合、自分の利益あるいは善、あるいは隣人の利益あるいは善のために嘘をつくといって、嘘を正当化しようとする場合です。この「善意の嘘」ですら禁止されています。
聖アウグスティヌスはこのように説明しています。
「隣人の命を守るために人々は最善を尽くすべきです。しかしながら、隣人の命を守るために天主を侮辱する選択肢しか残らない時、何もやってはいけません。というのも、このような場合、残っている選択肢は悪い行為なので、これを行うわけにはいかないからです。」
つまり、隣人を救うためだったとしても嘘をつくよりも黙った方がよいということです。
それから、「有害の嘘」もあります。この場合、嘘をつくによって隣人を害することになります。
それから、「浮かれた嘘」もあります。「浮かれた嘘」とはいわゆる楽しむため、おかしく楽しくするため、お洒落するための嘘です。もちろん、冗談は禁止されるわけではありません。つまり、当然ながら言っている事は真実ではないことがはっきりとしていたら、だれもわかっていたら嘘になりません。相手を騙す意図はないからです。例えば、ある事情で、あるいは明らかなことに言っていることが真実ではないことが当然で当たり前な場合、嘘になりません。相手を騙す意図はない時、嘘になりません。いわゆる気晴らしというのはもちろん禁止されているわけではありません。繰り返しますが、騙す意図はない時、嘘になりません。
それから、嘘に続いて、偽証あるいは偽りの宣誓があります。言いかえると、天主の前に、天主を証人にしているのに嘘をつく時です。天主に関する掟を紹介した時に説明した偽証です。これは、必ず大罪となります。
あと、偽りの証言もあります。これは裁判あるいは訴訟の際、真実に反する発言をした時の嘘です。これも大罪となります。真実に対する深刻な罪である上、宗教に対する深刻な罪でもあります。それに、隣人への愛徳と隣人への正義に反する罪でもあります。
それから、嘘をつくもう一つの種類があります。「自分のありのままを偽って自分のありのままと違うようにみせることにする」時です。「偽善」ですね。偽悪もいえますが。有名な話は、いわゆるモリエールが描いた「偽りの敬虔な信徒」は典型でしょう。まさにタルチュフです。偽善者ですね。人々の尊敬を引くために、道徳的であるふりをしている偽善者です。まあ、かなり普遍的な現象でしょう。昔も今も何かの地位あるいは職などを貰いたい時、軽い形でもよく自分をより善く見せかけて、ある種の偽善は結構ありますね。
また、偽善の次に、「へつらい」もあります。「へつらい」とは嘘の称賛です。あるいは、大げさな讃辞です。要するに、真理に反する「お世辞」です。真実を傷つくへつらいです。そして、相手の傲慢を刺激してしまうというへつらいでもあります。これは、つまり、へつらいは相手にとって罪の切っ掛けになることもあります。ですから、隣人の善に反する罪であり、また隣人の名声に反する罪でもあります。
それから、偽善と似た種類ですが、「うぬぼれ」あるいは「高慢」もあります。つまり、持っていないのに、持っているふりをするという嘘の類いです。偽善に近いですが、偽善はより外面的な仕業であったら、うぬぼれはより言葉を通じての罪です。あるいは持っていることを大げさにすることも高慢となります。
また、真理に対するもう一つの種類の罪があります。失言です。つまり、真実を語るあまり、秘密だった真実を漏らすという罪です。つまり、秘密を守らないということです。いわゆる、自然次元の秘密ですが、言われたことを誰にも言わないことを約束したのにばらしてしまったというような時です。また、守秘を誓われた秘密もあります。いわゆる、仕事においての秘密を守る義務がある時です。医者あるいは弁護士、あるいは聴罪司祭などです。いわゆる、職業で義務となる秘密があります。あるいは、だれにも言わないと約束した時の秘密でもあります。このような秘密を隣人にばらすことは罪です。
以上は、真理に反する罪の幾つかの例でした。意外と多くあります。
そして、より個別的な意味で、隣人に関する真実に反する嘘をつくことによって罪を犯す時です。言いかえると、隣人の名声に対する罪の時です。名声とは「ある人に関して人々がもっている善い印象」となります。そして、自然に、人々は自分に関する周辺の良い印象を大切にしています。ですから、隣人に対する善い印象を傷つけるのは罪となります。自分に対してそういう目に合わせられたらいやであると同じように、隣人の良い名声を害するのは罪であり、殆どの場合、大罪となります。
隣人の良い名声に対する罪には、「誹謗」あるいは「中傷」があります。まず、言葉を通じての中傷ですが、中傷というのは深刻な罪です。なぜでしょうか?中傷とはなんでしょうか?「欠点、あるいは悪徳、あるいは過失」を不正に隣人に負わせることです。つまり、これらに関する現実がないのに、隣人に勝手に負わせるということで、つまり嘘です。そして、この罪は不正に根拠なしに隣人の名声を破壊しているということです。深刻な罪です。要するに、隣人の欠点について嘘をつくということです。たとえば、「この人は(性格上?)、どうしても物を盗んでしまうやつだ」といったような。つまり、泥棒ではないのに、隣人を害するためにあえて泥棒であるという嘘をつくといったようなことです。たとえば、隣人が昇進しないようにさせるためとか原因は何でもいいですけど。中傷は大罪です。
そして、このような罪を犯した場合、真理を傷つけた人にはこの不正な言葉を糺す義務があります。中傷はまさに不正な行為なのです。盗んだ物をその持ち主に返す義務があると同じように、奪った名声をその持ち主に嘘を糺すことによって返す義務があります。
中傷ではないのですが、悪口については、聖フィリッポ・ネリに関する有名な話があります。告解の際、悪口を頻繁に明かしている女性の信徒に聖フィリッポ・ネリが次の償いを提案します。「羽の枕をとって、これを裂いて外ですべての羽を散らかす」という償いを提案します。女性は喜んで「よかった!軽い償いですむ」と思ったら、次にまた告解にきて、また悪口を明かしてしまいます。そして「今回、前回に散らかした羽を拾いにいってきて、枕にもどす」という償いを提案します。信徒は「これは無理だわ」といいます。そして、聖フィリッポ・ネリは答えます。「悪口するとき、羽を外で散らかす時と同じように悪口は広まります」。ということは、悪口を償うことは簡単なことではありません。大変難しいことです。場合によって無理になる時もあります。ですから、言葉を非常に慎しみましょう。
中傷の次に悪口があります。いわゆる、悪いことを言うということです。フランス語で悪口は「呪い」と同じ語源の言葉です。悪口の厳密な定義は「隠されている隣人の罪、あるいは欠点をばらす」ということです。つまり、厳密にいうと嘘ではありません。ばらす罪あるいは欠点が隣人に本当にある場合ですがばらされています。悪口はこのような隠された罪と欠点をばらすことを意味します。こうすることによって、隣人を害する行為なので罪です。例えば、人前で、大きな声で、ばれていない何かの罪、時にはいわゆる家の秘密とかを公にするような悪口という罪です。
悪口の罪を犯した場合、悪口を償う、糺す義務があります。困難ですが義務です。悪口の場合、中傷と違って、撤回することはありません。ばらしたこと自体は嘘ではないから、撤回したら今度は嘘になります。いや、そうではなくて、悪口のせいで与えた損害を償う形で悪口を償う義務があります。いわゆる、精神的な損害だけではなく、具体的な社会上と政治上の損害も結構あるのです。悪口を償う義務があります。簡単ではなくて、デリケートですが、舌による罪は大変です。聖ヤコブがいうように、舌は人間が持つ一番小さな器官であるかもしれませんが、なかなか多くの損害をもたらす舌なのです。
それから、隣人の名声を害するもう一つの種類があります。「軽率な判断」です。軽率な判断とは根拠が足りないのに隣人を断罪するときです。なんか、何かについて疑いがあって、多少の根拠もあるかもしれませんが、確実な結論を出すには足りないのに判断するときです。これは確実になっていないから、嘘でも悪口でもなくて、中傷と悪口の間にある「軽率な判断」です。根拠は足りないものの、隣人に関する悪いことを言う時です。隣人の良い名声を害する行為なのです。「軽率な判断」です。
最後に、第八戒は隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。つまり、隣人の名声を損なう行為だけではなく、隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。隣人に対して払うべき敬意です。ののしりなどもあります。言葉を以て、あるいは行為をもってののしることもありえます(つまり、失礼あるいは無礼なことをやるとき)。隣人をののしり、あるいは無礼なことをするというのは、隣人に表すべき敬意に対する罪です。敬意の種類はいろいろありますが、このような失礼、無礼、ののしりの行為を償う義務もあります。
以上は、第八戒に関する紹介でした。
第七戒は物質的な物に関する掟なので、かなり具体的だった分、精神上の「財産」としての名声に関する掟である第八戒は多少、抽象的だったかもしれません。とまれ、第八戒は名声と真実を損なう行為を禁じている掟です。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百四講 第八戒について 「なんじ、嘘をつくなかれ」。
第五、第六、第七の次、第八戒を見ておきましょう。
第八 なんじ、嘘をつくなかれ。
あるいは
第八 なんじ、偽証するなかれ。 ともあります。
前の数戒の次に来る流れは自然なのです。どちらかというと、十戒の順番はたまたまであるではなく、その順番に意味があります。
第五戒は人の命を守るための掟です。
第六戒は人類の命を守るための掟です。いわゆる人類の存続のための掟です。
第七戒は人の命を助ける物質的な物を守るための掟です。「なんじ、盗むなかれ。」
そして、第八戒は精神上の命を守るための掟です。第五戒の時に見たスキャンダルとしての精神上の命を守るのではなくて、第八戒の場合、評判・名声としての精神上の命を守るための掟です。思い出しましょう。第七戒は隣人の主に物質的な持ち物への侵害を禁じる掟です。
一方、第八戒は隣人の霊的な持ち物への侵害を禁じる掟です。霊的な持ち物とは主に隣人の名声なのです。人間ならばだれでもどうしても名声を大切にしています。これは面白いことに、人間が霊的な存在でもあることを裏付ける現象なのです。時には、物質的な財産よりも、名声を優先していることも少なくありません。大きな費用を払って裁判に行ってまで自分の名声を守ることは珍しくありません。いわゆる、名誉毀損を晴らして名声を取り戻したいという気持ちは自然です。人々は自分の名声を大切にしているのです。そしてこれは正当なことであって人間の本性に沿っています。
そして、第八戒は隣人の名声への侵害を禁じています。要するに、隣人の名声を毀損するということは、真理あるいは真実に背く行為なのです。
従って、第八戒は、第一、真理に背く行為を禁じています。第二、名声を侵害することを禁じています。第三、名誉を毀損することを禁じています。
真理に背くというのは、広義の真理に対する行為を禁じるということです。名声を侵害するということは、個別の真理となる隣人の名声という意味になります。そして、名誉というのは、隣人に対して払うべき敬意を表すための行為(礼儀作法)であり、第八戒は広義にいう真理を守るための掟なのです。
第八誡に反対する、つまり真理を守るための掟に反対する第一の罪は嘘なのです。嘘とは周知のことですね。嘘は全く自然なことではありません。例えば、幼い子供が嘘をついたら、すぐ自然に赤面してしまいます。あるいは、大人でも、嘘をつく悪徳を持たない人が嘘をついた時、見え見えになることが多いです。なんか、つい、目を伏せるようなことがありますね。いわゆる、良心が嘘はだめだということを強く訴えるような時です。やはり、嘘は自然なことではありません。人間の本性に背くものなのです。
では、嘘とは何でしょうか?まず、しるしなのです。必ずしも言葉ではないということです。つまり、意図的に相手を騙すために自分が思っていることとの反対のことを表す仕草あるいは言葉といったようなしるしを行うということを「嘘」と言います。しるしですから、言葉の他に、頭の合図、あるいは体の仕草、何でもいいですが、このしるしを以て思っていることとの反対のことを示すのです。つまり、外的に表現していることと内面的に思っていることとの不一致があるということです。そして、相手を騙す意図も嘘の条件なのです。これが嘘を特徴づける三つの条件です。
思っていることと違うことを外的に表す上、相手を騙す意図がある時、嘘となります。
そして、「嘘をつくなかれ」というのは、例外なく、すべての嘘は禁じられているということです。これは理解しづらいかもしれません。時に、やむを得ず、嘘をつかざるを得ない場合があると思いがちですが、実際にはそんなことはありません。嘘をついてもよい場合は一切ありません。
脱出の書には「いつわりのある訴訟を避けよ。」(23,7)「(主、あなたは)うそをつく者を滅ぼし」(詩編、5、7)。
それから、聖ヨハネの福音にも嘘に関する場面があります。私たちの主、イエズス・キリストは悪魔を指して「彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ、8、44)。
悪魔はエワに嘘をつきました。そして、その嘘のせいで、罪は初めてこの世に登場しました。ですから、嘘をついてもよい場合は一切ありません。繰り返しますが、一切ありません。
嘘をつくことにあたって、いくつかのありようがあります。
第一、「善意の嘘」ということがあります。この場合、自分の利益あるいは善、あるいは隣人の利益あるいは善のために嘘をつくといって、嘘を正当化しようとする場合です。この「善意の嘘」ですら禁止されています。
聖アウグスティヌスはこのように説明しています。
「隣人の命を守るために人々は最善を尽くすべきです。しかしながら、隣人の命を守るために天主を侮辱する選択肢しか残らない時、何もやってはいけません。というのも、このような場合、残っている選択肢は悪い行為なので、これを行うわけにはいかないからです。」
つまり、隣人を救うためだったとしても嘘をつくよりも黙った方がよいということです。
それから、「有害の嘘」もあります。この場合、嘘をつくによって隣人を害することになります。
それから、「浮かれた嘘」もあります。「浮かれた嘘」とはいわゆる楽しむため、おかしく楽しくするため、お洒落するための嘘です。もちろん、冗談は禁止されるわけではありません。つまり、当然ながら言っている事は真実ではないことがはっきりとしていたら、だれもわかっていたら嘘になりません。相手を騙す意図はないからです。例えば、ある事情で、あるいは明らかなことに言っていることが真実ではないことが当然で当たり前な場合、嘘になりません。相手を騙す意図はない時、嘘になりません。いわゆる気晴らしというのはもちろん禁止されているわけではありません。繰り返しますが、騙す意図はない時、嘘になりません。
それから、嘘に続いて、偽証あるいは偽りの宣誓があります。言いかえると、天主の前に、天主を証人にしているのに嘘をつく時です。天主に関する掟を紹介した時に説明した偽証です。これは、必ず大罪となります。
あと、偽りの証言もあります。これは裁判あるいは訴訟の際、真実に反する発言をした時の嘘です。これも大罪となります。真実に対する深刻な罪である上、宗教に対する深刻な罪でもあります。それに、隣人への愛徳と隣人への正義に反する罪でもあります。
それから、嘘をつくもう一つの種類があります。「自分のありのままを偽って自分のありのままと違うようにみせることにする」時です。「偽善」ですね。偽悪もいえますが。有名な話は、いわゆるモリエールが描いた「偽りの敬虔な信徒」は典型でしょう。まさにタルチュフです。偽善者ですね。人々の尊敬を引くために、道徳的であるふりをしている偽善者です。まあ、かなり普遍的な現象でしょう。昔も今も何かの地位あるいは職などを貰いたい時、軽い形でもよく自分をより善く見せかけて、ある種の偽善は結構ありますね。
また、偽善の次に、「へつらい」もあります。「へつらい」とは嘘の称賛です。あるいは、大げさな讃辞です。要するに、真理に反する「お世辞」です。真実を傷つくへつらいです。そして、相手の傲慢を刺激してしまうというへつらいでもあります。これは、つまり、へつらいは相手にとって罪の切っ掛けになることもあります。ですから、隣人の善に反する罪であり、また隣人の名声に反する罪でもあります。
それから、偽善と似た種類ですが、「うぬぼれ」あるいは「高慢」もあります。つまり、持っていないのに、持っているふりをするという嘘の類いです。偽善に近いですが、偽善はより外面的な仕業であったら、うぬぼれはより言葉を通じての罪です。あるいは持っていることを大げさにすることも高慢となります。
また、真理に対するもう一つの種類の罪があります。失言です。つまり、真実を語るあまり、秘密だった真実を漏らすという罪です。つまり、秘密を守らないということです。いわゆる、自然次元の秘密ですが、言われたことを誰にも言わないことを約束したのにばらしてしまったというような時です。また、守秘を誓われた秘密もあります。いわゆる、仕事においての秘密を守る義務がある時です。医者あるいは弁護士、あるいは聴罪司祭などです。いわゆる、職業で義務となる秘密があります。あるいは、だれにも言わないと約束した時の秘密でもあります。このような秘密を隣人にばらすことは罪です。
以上は、真理に反する罪の幾つかの例でした。意外と多くあります。
そして、より個別的な意味で、隣人に関する真実に反する嘘をつくことによって罪を犯す時です。言いかえると、隣人の名声に対する罪の時です。名声とは「ある人に関して人々がもっている善い印象」となります。そして、自然に、人々は自分に関する周辺の良い印象を大切にしています。ですから、隣人に対する善い印象を傷つけるのは罪となります。自分に対してそういう目に合わせられたらいやであると同じように、隣人の良い名声を害するのは罪であり、殆どの場合、大罪となります。
隣人の良い名声に対する罪には、「誹謗」あるいは「中傷」があります。まず、言葉を通じての中傷ですが、中傷というのは深刻な罪です。なぜでしょうか?中傷とはなんでしょうか?「欠点、あるいは悪徳、あるいは過失」を不正に隣人に負わせることです。つまり、これらに関する現実がないのに、隣人に勝手に負わせるということで、つまり嘘です。そして、この罪は不正に根拠なしに隣人の名声を破壊しているということです。深刻な罪です。要するに、隣人の欠点について嘘をつくということです。たとえば、「この人は(性格上?)、どうしても物を盗んでしまうやつだ」といったような。つまり、泥棒ではないのに、隣人を害するためにあえて泥棒であるという嘘をつくといったようなことです。たとえば、隣人が昇進しないようにさせるためとか原因は何でもいいですけど。中傷は大罪です。
そして、このような罪を犯した場合、真理を傷つけた人にはこの不正な言葉を糺す義務があります。中傷はまさに不正な行為なのです。盗んだ物をその持ち主に返す義務があると同じように、奪った名声をその持ち主に嘘を糺すことによって返す義務があります。
中傷ではないのですが、悪口については、聖フィリッポ・ネリに関する有名な話があります。告解の際、悪口を頻繁に明かしている女性の信徒に聖フィリッポ・ネリが次の償いを提案します。「羽の枕をとって、これを裂いて外ですべての羽を散らかす」という償いを提案します。女性は喜んで「よかった!軽い償いですむ」と思ったら、次にまた告解にきて、また悪口を明かしてしまいます。そして「今回、前回に散らかした羽を拾いにいってきて、枕にもどす」という償いを提案します。信徒は「これは無理だわ」といいます。そして、聖フィリッポ・ネリは答えます。「悪口するとき、羽を外で散らかす時と同じように悪口は広まります」。ということは、悪口を償うことは簡単なことではありません。大変難しいことです。場合によって無理になる時もあります。ですから、言葉を非常に慎しみましょう。
中傷の次に悪口があります。いわゆる、悪いことを言うということです。フランス語で悪口は「呪い」と同じ語源の言葉です。悪口の厳密な定義は「隠されている隣人の罪、あるいは欠点をばらす」ということです。つまり、厳密にいうと嘘ではありません。ばらす罪あるいは欠点が隣人に本当にある場合ですがばらされています。悪口はこのような隠された罪と欠点をばらすことを意味します。こうすることによって、隣人を害する行為なので罪です。例えば、人前で、大きな声で、ばれていない何かの罪、時にはいわゆる家の秘密とかを公にするような悪口という罪です。
悪口の罪を犯した場合、悪口を償う、糺す義務があります。困難ですが義務です。悪口の場合、中傷と違って、撤回することはありません。ばらしたこと自体は嘘ではないから、撤回したら今度は嘘になります。いや、そうではなくて、悪口のせいで与えた損害を償う形で悪口を償う義務があります。いわゆる、精神的な損害だけではなく、具体的な社会上と政治上の損害も結構あるのです。悪口を償う義務があります。簡単ではなくて、デリケートですが、舌による罪は大変です。聖ヤコブがいうように、舌は人間が持つ一番小さな器官であるかもしれませんが、なかなか多くの損害をもたらす舌なのです。
それから、隣人の名声を害するもう一つの種類があります。「軽率な判断」です。軽率な判断とは根拠が足りないのに隣人を断罪するときです。なんか、何かについて疑いがあって、多少の根拠もあるかもしれませんが、確実な結論を出すには足りないのに判断するときです。これは確実になっていないから、嘘でも悪口でもなくて、中傷と悪口の間にある「軽率な判断」です。根拠は足りないものの、隣人に関する悪いことを言う時です。隣人の良い名声を害する行為なのです。「軽率な判断」です。
最後に、第八戒は隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。つまり、隣人の名声を損なう行為だけではなく、隣人の名誉を損なう行為をも禁じています。隣人に対して払うべき敬意です。ののしりなどもあります。言葉を以て、あるいは行為をもってののしることもありえます(つまり、失礼あるいは無礼なことをやるとき)。隣人をののしり、あるいは無礼なことをするというのは、隣人に表すべき敬意に対する罪です。敬意の種類はいろいろありますが、このような失礼、無礼、ののしりの行為を償う義務もあります。
以上は、第八戒に関する紹介でした。
第七戒は物質的な物に関する掟なので、かなり具体的だった分、精神上の「財産」としての名声に関する掟である第八戒は多少、抽象的だったかもしれません。とまれ、第八戒は名声と真実を損なう行為を禁じている掟です。