白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
第五戒と第六戒の次に第七戒を見ていきましょう。
第七 なんじ、盗むなかれ。
そして、第六戒の場合、第九戒と一緒に見てきたように、ここ第七戒と第十戒と一緒に見ていきましょう。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
第六と第九の戒の相互関係と同じように、第七戒は盗むことに関して外面的な行為を禁じ、そして、第十戒は盗むことについての欲望と思いを禁じるのです。すなわち、外面的な罪と内面的な罪という関係。
内面的な罪も存在します。外観からすると外面的な行為は何もないものの、意志において既に悪を望む時、あるいは悪を追究する時、内面的な罪になりえます。つまり、霊魂において乱れた欲望、乱れた何かがあると、罪になりえます。
第七戒は第五と第六戒の次にきます。第五と第六戒は生命の保護と生命の伝承のために設けられています。それは、生命は天主のものであって、天主のみが生命の御主であるからです。「生命」という時には広い意味で理解しなければなりません。いわゆる、「新しい生命を伝える」としてだけではなく、生まれた新しい命の成長とその完成化をも意味します。
そして、人間の命の完成化は一先ず徳の実践にあります。徳とは自分の動きで善を選んで善の内に生きていくことを常にするということです。そして、道徳的な人生を送るために、つまり、善徳を身につけるために社会が必要であって前提となります。
つまり、人間は本性的に「政治的な動物」なのです。なぜかというと、人々はこの世に生まれてきても必ずしもまだ完成性は何もありません。あるのは、「人間の本性」を持つということだけであり、部分的な完成性を持っているのにすぎません。つまり、生まれた時点では人間はまだ人間の尊厳というものは全くありません。
人間に尊厳を持てるのは、成長してある程度完成化した時であって、つまり、自ら徳において行動していくことが可能となった暁に尊厳であると初めていえるようになります。つまり、本物の「人間らしい」人として行為するようになった時、つまり、ある程度に完成化された意志と知性をもって、善と真の内に行為していける時、人間としての尊厳を得られるということです。
そして、人生というものが発展あるいは成長していくためには、また、社会において善徳の内に、かつ調和の内に成長していくためには、人間の本性に基づく自然法が「所有権」を含むことでもあります。私有の所有権のおかげで、人々は私物を持ててその使用を享受できます。そして、これらの財産を活かして徳において成長しくことができるのです。
というのも、徳において成長するためには、ある程度の物質的な物、財産が必要です。聖トマス・アクイナスはこれを教えています。つまり、善を選び、善へ行くことにするためには最低限の財産、現代風に言うと最低限の生活水準が必要だという意味です。残念ながら、極端に貧窮な状態は徳の実践を困難にさせます。
従って、所有権というのは自然法の一部であって、人間の生まれながらの所有権です。ですから、隣人の物を盗むとか、盗むことを望むとかは、端的にいうと、隣人が善徳を実践することに対する障害となるということです。端的に申しあげましたが、結局、盗むのがなぜ悪いかというと、隣人の善の実践を妨げるからです。これが第七戒の趣旨なのです。
では所有権とは何でしょうか。「所有権とは第三者をさしおいてある物とその効用性を享受する自由(特権)」なのです。そして、皆一人一人は必ず、最低限の「私物」を必要としています。人はいわゆる安定的な「領分(Dominion)」を取得する権利があります。
なぜでしょうか?人にはある程度の安定さを必要としているからです。ですから、所有権という権利は自然法を越えて、天主の法に由来しています。天主は「ぬすむなかれ」というのですが、盗むことを禁じているということは、裏を返せば、当然ながら「私有権」をお望みであるということを示しています。
ですから、所有権を否定しようとしている人々として、特に浮かぶのは「社会主義者」という一般的な呼称で呼ばれる共産主義者などであり、彼らの多くのイデオロギーは、カトリック教会によって否認されたイデオロギーです。教皇ピオ9世とピオ11世の幾つかの回勅は明確にこれらのイデオロギーを否認しました。
これらの思想家は結局、理想主義者にすぎません。なぜ理想主義者なのでしょうか?この思想は所有権を否定して、平和を確立する思想なのです。つまり、簡単にいうと、財産の共産化を実現することによって、ある種の平等、それから平和を実現できると彼らが確信していますが、実際にはその逆の結果を伴います。所有権を否定すると、善徳の実践を困難にさせるから、社会はどんどん乱れていくしかありません。このことは、それについて長く話す必要はなくて、歴史を見れば、また現実を見れば、残念ながら、すぐ確認できることです。
ですから、人間には私物を持つこと、それから所有権を活かすことは必要なことなのです。したがって、所有権を犯すことの深刻な罪になるのです。これは「不正」と呼ばれています。不正に隣人の物を持っているということで、つまり、所有されている誰かの物を奪うということは罪になります。これは「盗む」ということです。誰かの物を奪うということであり、隣人の自由あるいは権利を侵害する行為なのです。
そして、隣人の自由を侵害するというのは、隣人を侮辱することになります。そして、転じて、天主を侮辱することにもなります。これは大変なことです。現代では、隣人に対する罪は必ずしも天主に対する罪ではないと考えられがちですが、それは違います。隣人に対する罪は必ず天主に対する罪となるのです。というのも、所有権をお望みになり、また善をお望みになり、また徳をお望みになる天主に対する罪なのです。ですから、所有権を妨げることは、善を妨げること、徳を妨げることであり、天主に対する罪なのです。盗む行為は、もちろん、第一に隣人に対する罪に端を発するのですが。
窃盗、横領、掠奪、詐欺などは現代で誰もよく見うけられる行為ですが、これらは罪であり、殆どの場合、大罪なのです。
正しくない所持とはこっそりと保持しているということですが、つまり、隣人の物を自分の手元において保持しているという意味です。そして、これによる不正な侵害は、悪意をもって、あるいは軽率によって失われ奪われたせいで隣人が損を負わざるを得ないということです。いわゆる、奪われたことによって自分が利益を得なかったとしても、隣人はその物を失ったことによって負う損は不正な侵害だと言えます。
これらの罪は隣人の善を妨げる行為なのです。また、深刻な罪です。そして、これらの罪は具体的な償いを必要とします。この点を特に強調しましょう。犯された不正を具体的に償う必要があります。つまり、盗む類の行為は「不正な行為をやってしまった!告解に行こう。それで済むから。」ということだけでは足りません。例えば借りた本をいつまでも返さないというようなことも盗む行為の一種となります。
告解の際、罪の赦しを得るために、盗んだ物を具体的に返す義務がありますので、本気で返す意志がない限り、秘跡の効果を得られません。つまり、盗んだ者に盗んだ物を返すべきです。なぜでしょうか?盗まれた物には所有者があります。つまり、その物には主人があるということです。これが大事です。物には主(あるじ)があります。
ですから、何かを盗んだ時、例えばある生徒は同級生のペンを盗んだ時、このペンの占有者を変えてしまいました。ペンは元の同級生の占有物だったのですが、盗んだ生徒の占有物となってしまいます。しかしながら、所有者は依然として元の同級生のままです。これこそは不正の状態なのです。で、ペンを盗んだ生徒は悔い改めて、告解に来てちゃんと罪を明かした時、盗んだペンを返す本気の意志があって初めて悔い改めたと言えます。なぜでしょうか。盗まれたペンは同級生の物ですから。つまり、ペンを盗んだ生徒はペンを占有しているものの、彼の所有物ではありません。占有しているから所有になるわけではありません。
何かを所有するためには、正当に取得する前提があります。不正に占有された物は所有物にはならないで、いわゆる所有権の移転がないまま、不正な占有でありながら元の者の所有のままになっています。
また、不正に取得するということは、狭義の盗みだけではなく、形はいろいろあります。例えば、意図的に悪い契約を結んで相手を騙した結果、何かを取得した場合それは不正な取得となります。ここにも「盗む」行為が発生します。
従って、第七戒はかなり広い掟であって、適用される場合も広いです。動産や不動産について掟でもあるし、いろいろあります。
この掟の目的は隣人の所有物を守ることにあります。そして、社会上、ある程度の平和を維持するための掟でもあります。そして、このような平和のお陰で、善徳が奨励されるのです。要するに、善において行為していくように奨励するための掟です。本物の社会のそもそもの様子は和、調和、平和なのです。つまり、和は社会の共通善そのものであり、それを取り戻すためには不正な行為を償う必要があるということです。
そして、第六戒の場合と同じように、実際に外面的な窃盗はなかったとしても、罪になることはあります。これが第十戒です。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
つまり、隣人の物を積極的に奪うことを望むことはすでに罪です。場合によっては深刻な罪となります。なぜかというと、思いだけでも、隣人の正当なる所有権を否定していることになるからです。もちろん、実際に行為をしなかった限りにおいて、具体的に物を返す必要はありません。具体的に物を返す前提にはもちろん実際に盗んだということがありますね。
つまり、究極的に、この世のあらゆる物事は天主のものなのです。天主は万物の創造者である故、万物の所有者なのです。支配者なのです。ですから、天主こそはご自分の万物を人々に与えて、その二次的な所有者になさいます。
従って、所有権は天主より直接に与えられた特権なのです。繰り返しますが、最終的に万物は天主の物です。ですから、天主は万物を自由に与えたり奪ったりすることができます。ですから、天主は万物の主であるがゆえに、いつでもどこでも私たちから物を奪うこともでき、また与えることもできます。そしてそれは不正でも何でもありません。善き天主こそは(私たちを含めて)万物の正当なる所有者ですから、何かを私から取り上げる時、盗むことではなく、占有権を取り戻して、つまりそれに対する所有権を実行したにすぎません。
たとえば、ヨブの話は有名ですね。たった一日で、ヨブが持っていたすべて(親戚を含めて)を失うことになることを天主は許可されました。ヨブは言っていました。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1、29)天主は万物の御主なのです。
旧約聖書には善き天主が隷属状態にあったヘブライ人をエジプトから解放なさった場面がありますね。その時、天主はヘブライ人に「エジプト人の貴重な物すべてをとれ」と命じました。現代的な感覚でいうと、ヘブライ人はエジプト人から盗んだと言われるかもしれません。しかしながら、そうではありません。ヘブライ人は盗んでいません。天主の命令に従っただけです。万物は天主の物だから、天主はエジプト人の物がヘブライ人の物にすることを決められたわけです。ただ、もちろん、自分を正当化するために「天主の命令だから」といって何かを盗むことは当然ながら誰一人も許されていませんね。
しかしながら、大事なのはすべて、万物は天主の物だということなのです。ですから、この意味で、生きていくためにどうしても必要な物、例えば飢え死にならないため例外的に盗みが許される場合があります。つまり、本当に絶対的に必要としている物だけをとる場合です。もちろん、現代ではこのような場合を想定するのはかなり難しいですが、時代によってかなり日常的な状態でもあったりしました。
例えば、食うものを何も持たない人、つまり非常に貧困に陥っているその人、つまり飢え死にする人は自分が生き残っていくために、つまり、自分の生命が途絶えないためにだけ(これこそが大事です。生命を守るためということです。転じて、善へ行くため、徳の道を歩むために生命を守るという)、必要としている食べ物のみを「とっても」許される場合があります。もちろん、そうすることによって、隣人を飢え死にさせないという前提条件もありますが。
要するに、すべての戒は生命のためにあり、つまり命を守るためにあり、それは、善と徳、またいわゆる「立派に生きる」という意味での「善く生きていく」ためにある掟なのです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百三講 第七戒と第十戒について
第五戒と第六戒の次に第七戒を見ていきましょう。
第七 なんじ、盗むなかれ。
そして、第六戒の場合、第九戒と一緒に見てきたように、ここ第七戒と第十戒と一緒に見ていきましょう。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
第六と第九の戒の相互関係と同じように、第七戒は盗むことに関して外面的な行為を禁じ、そして、第十戒は盗むことについての欲望と思いを禁じるのです。すなわち、外面的な罪と内面的な罪という関係。
内面的な罪も存在します。外観からすると外面的な行為は何もないものの、意志において既に悪を望む時、あるいは悪を追究する時、内面的な罪になりえます。つまり、霊魂において乱れた欲望、乱れた何かがあると、罪になりえます。
第七戒は第五と第六戒の次にきます。第五と第六戒は生命の保護と生命の伝承のために設けられています。それは、生命は天主のものであって、天主のみが生命の御主であるからです。「生命」という時には広い意味で理解しなければなりません。いわゆる、「新しい生命を伝える」としてだけではなく、生まれた新しい命の成長とその完成化をも意味します。
そして、人間の命の完成化は一先ず徳の実践にあります。徳とは自分の動きで善を選んで善の内に生きていくことを常にするということです。そして、道徳的な人生を送るために、つまり、善徳を身につけるために社会が必要であって前提となります。
つまり、人間は本性的に「政治的な動物」なのです。なぜかというと、人々はこの世に生まれてきても必ずしもまだ完成性は何もありません。あるのは、「人間の本性」を持つということだけであり、部分的な完成性を持っているのにすぎません。つまり、生まれた時点では人間はまだ人間の尊厳というものは全くありません。
人間に尊厳を持てるのは、成長してある程度完成化した時であって、つまり、自ら徳において行動していくことが可能となった暁に尊厳であると初めていえるようになります。つまり、本物の「人間らしい」人として行為するようになった時、つまり、ある程度に完成化された意志と知性をもって、善と真の内に行為していける時、人間としての尊厳を得られるということです。
そして、人生というものが発展あるいは成長していくためには、また、社会において善徳の内に、かつ調和の内に成長していくためには、人間の本性に基づく自然法が「所有権」を含むことでもあります。私有の所有権のおかげで、人々は私物を持ててその使用を享受できます。そして、これらの財産を活かして徳において成長しくことができるのです。
というのも、徳において成長するためには、ある程度の物質的な物、財産が必要です。聖トマス・アクイナスはこれを教えています。つまり、善を選び、善へ行くことにするためには最低限の財産、現代風に言うと最低限の生活水準が必要だという意味です。残念ながら、極端に貧窮な状態は徳の実践を困難にさせます。
従って、所有権というのは自然法の一部であって、人間の生まれながらの所有権です。ですから、隣人の物を盗むとか、盗むことを望むとかは、端的にいうと、隣人が善徳を実践することに対する障害となるということです。端的に申しあげましたが、結局、盗むのがなぜ悪いかというと、隣人の善の実践を妨げるからです。これが第七戒の趣旨なのです。
では所有権とは何でしょうか。「所有権とは第三者をさしおいてある物とその効用性を享受する自由(特権)」なのです。そして、皆一人一人は必ず、最低限の「私物」を必要としています。人はいわゆる安定的な「領分(Dominion)」を取得する権利があります。
なぜでしょうか?人にはある程度の安定さを必要としているからです。ですから、所有権という権利は自然法を越えて、天主の法に由来しています。天主は「ぬすむなかれ」というのですが、盗むことを禁じているということは、裏を返せば、当然ながら「私有権」をお望みであるということを示しています。
ですから、所有権を否定しようとしている人々として、特に浮かぶのは「社会主義者」という一般的な呼称で呼ばれる共産主義者などであり、彼らの多くのイデオロギーは、カトリック教会によって否認されたイデオロギーです。教皇ピオ9世とピオ11世の幾つかの回勅は明確にこれらのイデオロギーを否認しました。
これらの思想家は結局、理想主義者にすぎません。なぜ理想主義者なのでしょうか?この思想は所有権を否定して、平和を確立する思想なのです。つまり、簡単にいうと、財産の共産化を実現することによって、ある種の平等、それから平和を実現できると彼らが確信していますが、実際にはその逆の結果を伴います。所有権を否定すると、善徳の実践を困難にさせるから、社会はどんどん乱れていくしかありません。このことは、それについて長く話す必要はなくて、歴史を見れば、また現実を見れば、残念ながら、すぐ確認できることです。
ですから、人間には私物を持つこと、それから所有権を活かすことは必要なことなのです。したがって、所有権を犯すことの深刻な罪になるのです。これは「不正」と呼ばれています。不正に隣人の物を持っているということで、つまり、所有されている誰かの物を奪うということは罪になります。これは「盗む」ということです。誰かの物を奪うということであり、隣人の自由あるいは権利を侵害する行為なのです。
そして、隣人の自由を侵害するというのは、隣人を侮辱することになります。そして、転じて、天主を侮辱することにもなります。これは大変なことです。現代では、隣人に対する罪は必ずしも天主に対する罪ではないと考えられがちですが、それは違います。隣人に対する罪は必ず天主に対する罪となるのです。というのも、所有権をお望みになり、また善をお望みになり、また徳をお望みになる天主に対する罪なのです。ですから、所有権を妨げることは、善を妨げること、徳を妨げることであり、天主に対する罪なのです。盗む行為は、もちろん、第一に隣人に対する罪に端を発するのですが。
窃盗、横領、掠奪、詐欺などは現代で誰もよく見うけられる行為ですが、これらは罪であり、殆どの場合、大罪なのです。
正しくない所持とはこっそりと保持しているということですが、つまり、隣人の物を自分の手元において保持しているという意味です。そして、これによる不正な侵害は、悪意をもって、あるいは軽率によって失われ奪われたせいで隣人が損を負わざるを得ないということです。いわゆる、奪われたことによって自分が利益を得なかったとしても、隣人はその物を失ったことによって負う損は不正な侵害だと言えます。
これらの罪は隣人の善を妨げる行為なのです。また、深刻な罪です。そして、これらの罪は具体的な償いを必要とします。この点を特に強調しましょう。犯された不正を具体的に償う必要があります。つまり、盗む類の行為は「不正な行為をやってしまった!告解に行こう。それで済むから。」ということだけでは足りません。例えば借りた本をいつまでも返さないというようなことも盗む行為の一種となります。
告解の際、罪の赦しを得るために、盗んだ物を具体的に返す義務がありますので、本気で返す意志がない限り、秘跡の効果を得られません。つまり、盗んだ者に盗んだ物を返すべきです。なぜでしょうか?盗まれた物には所有者があります。つまり、その物には主人があるということです。これが大事です。物には主(あるじ)があります。
ですから、何かを盗んだ時、例えばある生徒は同級生のペンを盗んだ時、このペンの占有者を変えてしまいました。ペンは元の同級生の占有物だったのですが、盗んだ生徒の占有物となってしまいます。しかしながら、所有者は依然として元の同級生のままです。これこそは不正の状態なのです。で、ペンを盗んだ生徒は悔い改めて、告解に来てちゃんと罪を明かした時、盗んだペンを返す本気の意志があって初めて悔い改めたと言えます。なぜでしょうか。盗まれたペンは同級生の物ですから。つまり、ペンを盗んだ生徒はペンを占有しているものの、彼の所有物ではありません。占有しているから所有になるわけではありません。
何かを所有するためには、正当に取得する前提があります。不正に占有された物は所有物にはならないで、いわゆる所有権の移転がないまま、不正な占有でありながら元の者の所有のままになっています。
また、不正に取得するということは、狭義の盗みだけではなく、形はいろいろあります。例えば、意図的に悪い契約を結んで相手を騙した結果、何かを取得した場合それは不正な取得となります。ここにも「盗む」行為が発生します。
従って、第七戒はかなり広い掟であって、適用される場合も広いです。動産や不動産について掟でもあるし、いろいろあります。
この掟の目的は隣人の所有物を守ることにあります。そして、社会上、ある程度の平和を維持するための掟でもあります。そして、このような平和のお陰で、善徳が奨励されるのです。要するに、善において行為していくように奨励するための掟です。本物の社会のそもそもの様子は和、調和、平和なのです。つまり、和は社会の共通善そのものであり、それを取り戻すためには不正な行為を償う必要があるということです。
そして、第六戒の場合と同じように、実際に外面的な窃盗はなかったとしても、罪になることはあります。これが第十戒です。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。
つまり、隣人の物を積極的に奪うことを望むことはすでに罪です。場合によっては深刻な罪となります。なぜかというと、思いだけでも、隣人の正当なる所有権を否定していることになるからです。もちろん、実際に行為をしなかった限りにおいて、具体的に物を返す必要はありません。具体的に物を返す前提にはもちろん実際に盗んだということがありますね。
つまり、究極的に、この世のあらゆる物事は天主のものなのです。天主は万物の創造者である故、万物の所有者なのです。支配者なのです。ですから、天主こそはご自分の万物を人々に与えて、その二次的な所有者になさいます。
従って、所有権は天主より直接に与えられた特権なのです。繰り返しますが、最終的に万物は天主の物です。ですから、天主は万物を自由に与えたり奪ったりすることができます。ですから、天主は万物の主であるがゆえに、いつでもどこでも私たちから物を奪うこともでき、また与えることもできます。そしてそれは不正でも何でもありません。善き天主こそは(私たちを含めて)万物の正当なる所有者ですから、何かを私から取り上げる時、盗むことではなく、占有権を取り戻して、つまりそれに対する所有権を実行したにすぎません。
たとえば、ヨブの話は有名ですね。たった一日で、ヨブが持っていたすべて(親戚を含めて)を失うことになることを天主は許可されました。ヨブは言っていました。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1、29)天主は万物の御主なのです。
旧約聖書には善き天主が隷属状態にあったヘブライ人をエジプトから解放なさった場面がありますね。その時、天主はヘブライ人に「エジプト人の貴重な物すべてをとれ」と命じました。現代的な感覚でいうと、ヘブライ人はエジプト人から盗んだと言われるかもしれません。しかしながら、そうではありません。ヘブライ人は盗んでいません。天主の命令に従っただけです。万物は天主の物だから、天主はエジプト人の物がヘブライ人の物にすることを決められたわけです。ただ、もちろん、自分を正当化するために「天主の命令だから」といって何かを盗むことは当然ながら誰一人も許されていませんね。
しかしながら、大事なのはすべて、万物は天主の物だということなのです。ですから、この意味で、生きていくためにどうしても必要な物、例えば飢え死にならないため例外的に盗みが許される場合があります。つまり、本当に絶対的に必要としている物だけをとる場合です。もちろん、現代ではこのような場合を想定するのはかなり難しいですが、時代によってかなり日常的な状態でもあったりしました。
例えば、食うものを何も持たない人、つまり非常に貧困に陥っているその人、つまり飢え死にする人は自分が生き残っていくために、つまり、自分の生命が途絶えないためにだけ(これこそが大事です。生命を守るためということです。転じて、善へ行くため、徳の道を歩むために生命を守るという)、必要としている食べ物のみを「とっても」許される場合があります。もちろん、そうすることによって、隣人を飢え死にさせないという前提条件もありますが。
要するに、すべての戒は生命のためにあり、つまり命を守るためにあり、それは、善と徳、またいわゆる「立派に生きる」という意味での「善く生きていく」ためにある掟なのです。