白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
第六戒と第九戒について
第五戒の次は第六戒があります。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
以上の第六戒は第九戒と一緒に見ることになります。第九戒は外的な行為についてではなく、思いに関する掟となります。第六と第九はその意味で補完的な関係にあってセットとなります。第六戒は純潔に背く外面的な行為に関する掟である一方、第九戒は純潔に背く欲望と思いといった内面的な行為に関する掟であります。
これから以降、第六戒という時、第九戒も含まれているということにしていきます。そして第六戒が第五戒の次に来るということには意味があるということ指摘しておきましょう。
前回、第五戒について申し上げたように、善き天主は気まぐれに掟を決定したことはありません。好き勝手に人間をいじめるために掟を決定したということもありません。いや、そうではなく、(ここでいいたいのは)被創造世界、つまり宇宙には秩序があるということです。そして、この秩序を理解することが大事です。掟は人間がその秩序にしたがうために与えられたわけです。
で、第六戒は第五戒の次にきます。なぜこの位置づけは大事でしょうか?これを理解すると第六戒を実践するための徳をよりよく理解できるということになりますので注意しましょう。
思い出しましょう。第五戒は「人を殺すなかれ」という掟ですね。命は大切だから生命を犯してはいけないということです。そして、第五戒は人々の命についての掟です。そして、一人の人の生命に背く罪である殺人を禁じる掟です。
第六戒は第五戒と同じように生命に関する掟ですが、第六戒は人類の生命に関する掟です。つまり、個人は人類の一員にすぎないということです。そして、それぞれの時代において人々が人類の生命を伸ばしていくことに貢献することは非常に良いことです。ですから、第六戒は第五戒と違って個人の生命の維持を助けるための掟ではなく、人類の生命の延長と継続を助けるための掟です。第六戒を理解するために、人類の生命を守るためにこの掟が制定されたということをよく覚えておきましょう。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
に加えて
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
とあります。これは不倫を禁じる掟です。つまり、人類の存続のために行われていない性的行為は、そして人類の生命の延長という目的の枠外に行われている性的行為は罪になるということです。なぜでしょうか?このような行為をしてしまうと、わがままに自分の欲望を満たすせいで、「人類の存続」という共通善に損害を与えるからです。
そして、一般的な原理原則ですが、「全体の善は一部の善より好ましい」ということです。ですから、全体より一部を優先するという行為は過失であり、偏った行為となります。たとえてみると、絵画にある細部がどれほど立派であるとしても、全体としての絵画を見ない限りにおいてこの細部は無意味ですし理解できません。また同じように身体の四肢の存在理由は身体全体を見て初めて成り立つのです。ですから、身体を自ら害することは罪になりますが、それは全体から大切な一部を奪うから罪となるということです。逆に、身体全体の生命を救うため、腐っているがゆえにやむを得ずして全体の命を脅かす一部の切断は罪ではないのです。
敷衍(ふえん)すると「姦淫」という罪は人類全体の生命を損じる行為であり、罪となります。善き天主は人類の存続のためにある種の器官を与えた上に、人類の存続のために生殖行為にある種の快楽をも与えました。それは人類の生命の延長のためです。
残念ながら、人間は与えられたこの(器官と)快楽を悪用して、わがままのために利用したりします。つまり、本来ならば、全体としての人類に自分を捧げた暁に得られる快楽であるはずが、人類の生命の存続のためという目的から外れてしまう結果、つまり全体のためにあるはずの行為を歪曲した挙句、わがままにして自分自身だけの快楽に歪曲したという大罪になります。
善き天主はアダムとエワに命令しました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世、1,28)
善き天主はこのように命令なさったのですが、この命令を満たすことは徳のある行為であるということです。なぜかというと、善のための行為、善に従っている行為は必ず徳の高い行為だということになるからです。
で、人類という全体の善のために人を向かわせる徳というのは何かというとそれは「貞節」の徳です。貞節の徳とは何でしょうか?ラテン語の由来は「Castigare」にありますが「罰する」あるいは「懲らしめる」という意味です。ここにいう「罰する」というのは罰するために罰するのではなくて、「本来の居場所に物事を戻す」という意味で「罰する」という意味です。
原罪以前には、人間において正しい秩序がありました。恩寵の下に意志と知性は従っていました。そして、意志と知性の下に感情は従っていました。そして、感情の下に身体は従っていました。
しかしながら、原罪によってこの本来の秩序と調和は乱れてしまいました。その結果、本来、下は上に従っていた調和的な一致が砕かれてしまいました。で、下の方は上を無視して自分の方向に勝手に行ってしまうようになってしましました。社会にたとえてみていえば、子供は親に従わない、とか村は祖国に従わず、祖国を無視して勝手に動きだして社会を混乱させるといったような乱れと似ています。
貞節の徳は本来の秩序を取り戻すために働く徳であり、たとえば霊魂は身体への支配権を取り戻すための徳になぞらえます。つまり、貞節の徳とは、霊魂の赴くままに身体が従順させるための徳です。言い換えると、貞節の徳の場合、本来の目的である人類の生命の延長のために身体を使うということにむすびつきます。
このように、貞節の徳は第六戒の中心なる徳です。
貞節の徳は「禁じられた肉体の快楽を控える」ために助ける徳です。ですから、結婚においても貞節の徳はあります。つまり、結婚においての交際を律する貞節があります。
そして、童貞という貞節の徳もあります。つまり、一生、肉体による快楽を控えるという徳です。
貞節の徳は必要不可欠なのです。姦淫の罪に対峙する徳です。また、自然の次元で言っても、超自然の次元で言っても貞節の徳は当然の徳であり、避けられない徳でとても大事です。
というのも、貞節の徳のお陰で、理性に従って、理に適って振舞うことが可能となるからです。一方、姦淫は乱れた行為を推し進める結果、理にかなわなくなって、理性と知性に背く行為になっていくのです。あえていえば、意志にも背く行為になります。なぜかというと、意志とはそもそも善のためにあるなので、悪いことのために意志を用いると、意志を侮辱することになります。
そして、超自然の次元においても、忘れてはいけないことがあります。私たちは聖霊の神殿であることを忘れていけません。聖パウロが記す通り、「あなたたち神の聖所であり、神の霊はその中に住みたもうことを知らないのか。神の聖所を壊す者があれば、神は彼を壊される。神の聖所は聖なるものである。あなたたちはその聖所である。」(コリントへの第一の手紙、3、16-17)。この文章はコリントへの第一の手紙の第三章の他に、第六章にもあります(6、19)。
貞節の徳は立派です。まあ現代人はそう思わないことは多いかもしれませんが、貞節の徳は非常に優れている徳です。確かに、貞節の徳を実践するためには身体を霊魂の下に取り戻すためにある程度の苦行を必要とします。しかしながら、貞節の徳を実践していくと、霊魂において静謐(せいひつ)は生まれてきます。また、裏を返せば、姦淫の内に生きている者は静謐ではなくて、いつもいつも安心できないのです。残念ながら、現代では時に、顔にまでこのような不安定さが現れることもあります。
また、貞節の徳を実践していくと、霊魂において大きな喜びが生まれて、善においての実りも多くなっていきます。つまり、貞節を守る者は善においてより多くの実りを出していきます。
諸聖人の人生を見ると明らかです。福音書においてはなおさらに明らかです。
そして、当然ながら貞節の徳を実践したら、天国においての大きな報いに値します。
第六戒は貞節の徳の実践を要求しています。第六戒は単なる「禁止」だけではありません。それよりもまず「秩序」あるいは「和」なのです。つまり、「和」を得るために必要な徳なのです。または安心、静謐。乱れた時、このような和を得られないわけです。
しかしながら、身体が霊魂に従い、霊魂が天主に従う時、本当の秩序があって、本当の安心と静謐と和の境地に入れます。ですから、第六戒はこのような秩序、和、静謐、安心に達するための戒です。逆に、姦淫はこの和を壊すものです。
ですから、
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
要するに姦淫とは卑猥な快楽への愛着なのです。「卑猥」という時、乱れた快楽という意味であって、つまり結婚以外に求められている快楽であります。そして、結婚とは生殖のために制定された制度です。結婚とは子供を産むために制定された制度です。このようにして、結婚の枠外に求められて得た快楽は卑猥になるということで、罪です。大罪なのです。姦淫は七つの罪源の一つなのです。
また、姦淫というのは外面的な行為を伴わないとしても、内面的にこのような卑猥な快楽を味わうこともあって、これもすでに罪となります。つまり、姦淫による快楽を思って味わうことは罪です。実際に外面的な行為をもって満たされないとしても、意図的に姦淫の行為を望み、欲するのは大罪です。なぜでしょうか?すでに悪を意図的に望む行為だからです。思い出しましょう。罪というのは意志においてこそ成立します。そして、当然ながら、外面的な行為を伴ったら、更にこの行為も大罪となります。
従って、第六戒はすべての卑猥な行為、姦淫の行為、いわゆる孤独の快楽をも厳格に禁止します。つまり、結婚の枠外に犯される行為、あるいは自然に反する行為を厳しく禁じています。残念ながら、最近の社会では自然に反する行為は多くて、いわゆる「同性愛」と呼ばれているところのものです。
また、結婚においても生殖という目的から意図的に逸らされている行為も罪です。たとえば、避妊、ピル、避妊リングなど、避妊を利用するのは大罪となります。避妊あっての行為はその行為の目的から外れる行為となり、乱れた行為となるからです。これは深刻な罪です。なぜでしょうか?物事の本来の目的は物事の完成を意味しますから、その完成化を拒み、物事の目的を拒否することは大変な罪です。
たとえてみましょう。それは、あたかも技術者が機械を作るとして、その作った機械の使途を無視して、関係のないことのためにその機械を使うのと似ています。例えば、洗濯機なのに皿を入れたらどうなるでしょうか?洗濯機も壊れるし、皿も壊れることになります。洗濯機の目的から外れた使用になったので、乱れた使用となったから、弊害をもたらすのです。
同じように、人間の目的は人間の目的地であって、また人間の完成化でもあります。これらは一致します。このように、姦淫の罪は生殖の行為を本来の目的(人類の生命の延長)から外す行為であり、ひいては人間の目的を拒否することとなるので、大罪となるのです。
残念ながら、現代の社会は非常に堕落しています。ソドムとゴモラの時代ほどの乱れた社会になっているかのようです。そして、ソドムとゴモラの二つの都市に対する天罰がどうなったかは、周知のとおりです。ソドムとゴモラは考古学によると、非常に豊かな自然のなかにありましたが、現在、そこでは、何も残っていないのです。不毛の地となっています。いつまでも何も植えられない地となりました。残念ながら、現代社会にいる我々もこのような天罰を覚悟した方がいいでしょう。
続いて、外面的な罪は禁じられるのはもちろん、内面的な罪も禁じられています。例えば、意図的に、あるいは控えようとしない卑猥な不潔な視線という罪があります。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ、5、28)と私たちの主、イエズス・キリストは仰せになりました。またヨブ書にはこのように書いてあります。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目をとめないと。」ヨブの31章にあります。素晴らしいでしょう。
また、このような罪を引き起こしうる状態に意図的に自分を誘惑に晒すことも罪なのです。というのも、罪の機会を意図的に自分に与えるということは、すでに罪を望むようなことです。
次に、姦淫の結果を見ましょう。姦淫はかなり悲惨な結果を伴うことを忘れてはいけません。姦淫によって身体上の快楽が強いあまりに、身体こそが知性と意志を従えることになってしまいます。知性と意志はまさに堕落していきます。つまり、上の者は下の者に従っているという逆さまになるという意味です。従って、殆どの場合、姦淫の結果は、知性が暗んでいきます。
姦淫におぼれている者は例えば、「姦淫な行為がなぜだめなのか」ですらわからなくなっていくのです。そして本当に深刻な姦淫にはまってしまったら、ある意味でもはや姦淫の人は残念ながら、なぜだめなのかをも理解できなくなります。貞節の徳を実践することによって、霊魂は高められてはじめて上から俯瞰できるようになりますが、姦淫の人の霊魂は暗闇に落ちています。
そして、このような霊魂の蒙昧の状態だと、姦淫の人は反省することを非常に嫌がることになります。本当に悪循環です。そういえば、近代の社会はまさに不安定、移り気、そして何よりも浅薄な人々を生んでいきます。現代人の典型的な人々の性格は真理の前に過剰に小心になり、臆病になる傾向にあると言えましょう。そして、裏を返せば、現代人は死の前にビビって、この上なく絶対的な恐怖を感じるようになっていきます。というのも、死というのは好むと好まざるとを問わず、真理へと目を向かわせてくれるからです。
それから、姦淫の結果、他に注意散漫、放心、無節操、意志の弱体化をもたらします。もはや意志は戦えなくなって、戦おうともしなくなるのです。残念ながら、現代はまさに弱体化された意志の時代となっています。弱体されたということは移り気の意志になり、虚弱なもろい意志になっているということです。
それから、姦淫の他の結果として、天主の忘却、それから現世への愛着をもたらします。そして、転じて霊的な生活の忘却と来世の命に対する嫌悪感をもたらします。
それから、社会全体にも悪い結果があって、堕落がはびこります。現代を見たら自明でしょう。衰退と侮辱をもたらすのです。
貞節の徳を実践していくためには、戦う必要があります。そうするために、中心となる徳は羞恥心なのです。羞恥心の徳というのは、霊魂を守るある種の障壁なのです。羞恥心という徳は純潔を犯しうる遠因を常に警戒しているようなもので、純潔さを守っている徳なのです。例えば、服装があります。つまり貞節に適った服装が必要です。いわゆる慎みに適った服装のことです。私たちは天主の神殿ですから。それから、貞節に適った会話。また、貞節に適ったことを見て聞いて、あるいは知り合いなど。
転じて、広告、CM、流行り物なども、貞節に適うか適わないか、この第六戒に関係しています。つまり、これらの物事は貞節の徳の実践を励むか、逆に姦淫を刺激するか、どちらかです。
貞節の徳を守るために、主に三つの超自然の方法があります。祈りと犠牲と秘跡なのです。そして自然な方法として、無為の状態の回避と、善い休息をとる方法があります。これは残念ながら、現代の社会は提供できなくなった善い休息です。
昔は休息するため、くつろぐためには本当に良い形でやっていました。例えば、大自然を眺めるだけでは大きな助けとなっていました。現代、人造的な環境においてばかり住んで、その挙句に、自然なことに関する感覚を失ってしまっている弊害があります。本来ならば、貞節の徳はこのような自然に育まれている徳でもあります。
以上は第六と第九の戒でしたが、現代ではデリケートであるかもしれません。しかしながら、不潔な人に対する善き天主の罰があることを忘れないでおきましょう。そのためには、特に、ソドムとゴモラのことを思うのがよいでしょう。永遠に地上から取り消された都市。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百二講 第六戒と第九戒
第六戒と第九戒について
第五戒の次は第六戒があります。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
以上の第六戒は第九戒と一緒に見ることになります。第九戒は外的な行為についてではなく、思いに関する掟となります。第六と第九はその意味で補完的な関係にあってセットとなります。第六戒は純潔に背く外面的な行為に関する掟である一方、第九戒は純潔に背く欲望と思いといった内面的な行為に関する掟であります。
これから以降、第六戒という時、第九戒も含まれているということにしていきます。そして第六戒が第五戒の次に来るということには意味があるということ指摘しておきましょう。
前回、第五戒について申し上げたように、善き天主は気まぐれに掟を決定したことはありません。好き勝手に人間をいじめるために掟を決定したということもありません。いや、そうではなく、(ここでいいたいのは)被創造世界、つまり宇宙には秩序があるということです。そして、この秩序を理解することが大事です。掟は人間がその秩序にしたがうために与えられたわけです。
で、第六戒は第五戒の次にきます。なぜこの位置づけは大事でしょうか?これを理解すると第六戒を実践するための徳をよりよく理解できるということになりますので注意しましょう。
思い出しましょう。第五戒は「人を殺すなかれ」という掟ですね。命は大切だから生命を犯してはいけないということです。そして、第五戒は人々の命についての掟です。そして、一人の人の生命に背く罪である殺人を禁じる掟です。
第六戒は第五戒と同じように生命に関する掟ですが、第六戒は人類の生命に関する掟です。つまり、個人は人類の一員にすぎないということです。そして、それぞれの時代において人々が人類の生命を伸ばしていくことに貢献することは非常に良いことです。ですから、第六戒は第五戒と違って個人の生命の維持を助けるための掟ではなく、人類の生命の延長と継続を助けるための掟です。第六戒を理解するために、人類の生命を守るためにこの掟が制定されたということをよく覚えておきましょう。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
に加えて
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
とあります。これは不倫を禁じる掟です。つまり、人類の存続のために行われていない性的行為は、そして人類の生命の延長という目的の枠外に行われている性的行為は罪になるということです。なぜでしょうか?このような行為をしてしまうと、わがままに自分の欲望を満たすせいで、「人類の存続」という共通善に損害を与えるからです。
そして、一般的な原理原則ですが、「全体の善は一部の善より好ましい」ということです。ですから、全体より一部を優先するという行為は過失であり、偏った行為となります。たとえてみると、絵画にある細部がどれほど立派であるとしても、全体としての絵画を見ない限りにおいてこの細部は無意味ですし理解できません。また同じように身体の四肢の存在理由は身体全体を見て初めて成り立つのです。ですから、身体を自ら害することは罪になりますが、それは全体から大切な一部を奪うから罪となるということです。逆に、身体全体の生命を救うため、腐っているがゆえにやむを得ずして全体の命を脅かす一部の切断は罪ではないのです。
敷衍(ふえん)すると「姦淫」という罪は人類全体の生命を損じる行為であり、罪となります。善き天主は人類の存続のためにある種の器官を与えた上に、人類の存続のために生殖行為にある種の快楽をも与えました。それは人類の生命の延長のためです。
残念ながら、人間は与えられたこの(器官と)快楽を悪用して、わがままのために利用したりします。つまり、本来ならば、全体としての人類に自分を捧げた暁に得られる快楽であるはずが、人類の生命の存続のためという目的から外れてしまう結果、つまり全体のためにあるはずの行為を歪曲した挙句、わがままにして自分自身だけの快楽に歪曲したという大罪になります。
善き天主はアダムとエワに命令しました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世、1,28)
善き天主はこのように命令なさったのですが、この命令を満たすことは徳のある行為であるということです。なぜかというと、善のための行為、善に従っている行為は必ず徳の高い行為だということになるからです。
で、人類という全体の善のために人を向かわせる徳というのは何かというとそれは「貞節」の徳です。貞節の徳とは何でしょうか?ラテン語の由来は「Castigare」にありますが「罰する」あるいは「懲らしめる」という意味です。ここにいう「罰する」というのは罰するために罰するのではなくて、「本来の居場所に物事を戻す」という意味で「罰する」という意味です。
原罪以前には、人間において正しい秩序がありました。恩寵の下に意志と知性は従っていました。そして、意志と知性の下に感情は従っていました。そして、感情の下に身体は従っていました。
しかしながら、原罪によってこの本来の秩序と調和は乱れてしまいました。その結果、本来、下は上に従っていた調和的な一致が砕かれてしまいました。で、下の方は上を無視して自分の方向に勝手に行ってしまうようになってしましました。社会にたとえてみていえば、子供は親に従わない、とか村は祖国に従わず、祖国を無視して勝手に動きだして社会を混乱させるといったような乱れと似ています。
貞節の徳は本来の秩序を取り戻すために働く徳であり、たとえば霊魂は身体への支配権を取り戻すための徳になぞらえます。つまり、貞節の徳とは、霊魂の赴くままに身体が従順させるための徳です。言い換えると、貞節の徳の場合、本来の目的である人類の生命の延長のために身体を使うということにむすびつきます。
このように、貞節の徳は第六戒の中心なる徳です。
貞節の徳は「禁じられた肉体の快楽を控える」ために助ける徳です。ですから、結婚においても貞節の徳はあります。つまり、結婚においての交際を律する貞節があります。
そして、童貞という貞節の徳もあります。つまり、一生、肉体による快楽を控えるという徳です。
貞節の徳は必要不可欠なのです。姦淫の罪に対峙する徳です。また、自然の次元で言っても、超自然の次元で言っても貞節の徳は当然の徳であり、避けられない徳でとても大事です。
というのも、貞節の徳のお陰で、理性に従って、理に適って振舞うことが可能となるからです。一方、姦淫は乱れた行為を推し進める結果、理にかなわなくなって、理性と知性に背く行為になっていくのです。あえていえば、意志にも背く行為になります。なぜかというと、意志とはそもそも善のためにあるなので、悪いことのために意志を用いると、意志を侮辱することになります。
そして、超自然の次元においても、忘れてはいけないことがあります。私たちは聖霊の神殿であることを忘れていけません。聖パウロが記す通り、「あなたたち神の聖所であり、神の霊はその中に住みたもうことを知らないのか。神の聖所を壊す者があれば、神は彼を壊される。神の聖所は聖なるものである。あなたたちはその聖所である。」(コリントへの第一の手紙、3、16-17)。この文章はコリントへの第一の手紙の第三章の他に、第六章にもあります(6、19)。
貞節の徳は立派です。まあ現代人はそう思わないことは多いかもしれませんが、貞節の徳は非常に優れている徳です。確かに、貞節の徳を実践するためには身体を霊魂の下に取り戻すためにある程度の苦行を必要とします。しかしながら、貞節の徳を実践していくと、霊魂において静謐(せいひつ)は生まれてきます。また、裏を返せば、姦淫の内に生きている者は静謐ではなくて、いつもいつも安心できないのです。残念ながら、現代では時に、顔にまでこのような不安定さが現れることもあります。
また、貞節の徳を実践していくと、霊魂において大きな喜びが生まれて、善においての実りも多くなっていきます。つまり、貞節を守る者は善においてより多くの実りを出していきます。
諸聖人の人生を見ると明らかです。福音書においてはなおさらに明らかです。
そして、当然ながら貞節の徳を実践したら、天国においての大きな報いに値します。
第六戒は貞節の徳の実践を要求しています。第六戒は単なる「禁止」だけではありません。それよりもまず「秩序」あるいは「和」なのです。つまり、「和」を得るために必要な徳なのです。または安心、静謐。乱れた時、このような和を得られないわけです。
しかしながら、身体が霊魂に従い、霊魂が天主に従う時、本当の秩序があって、本当の安心と静謐と和の境地に入れます。ですから、第六戒はこのような秩序、和、静謐、安心に達するための戒です。逆に、姦淫はこの和を壊すものです。
ですから、
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
要するに姦淫とは卑猥な快楽への愛着なのです。「卑猥」という時、乱れた快楽という意味であって、つまり結婚以外に求められている快楽であります。そして、結婚とは生殖のために制定された制度です。結婚とは子供を産むために制定された制度です。このようにして、結婚の枠外に求められて得た快楽は卑猥になるということで、罪です。大罪なのです。姦淫は七つの罪源の一つなのです。
また、姦淫というのは外面的な行為を伴わないとしても、内面的にこのような卑猥な快楽を味わうこともあって、これもすでに罪となります。つまり、姦淫による快楽を思って味わうことは罪です。実際に外面的な行為をもって満たされないとしても、意図的に姦淫の行為を望み、欲するのは大罪です。なぜでしょうか?すでに悪を意図的に望む行為だからです。思い出しましょう。罪というのは意志においてこそ成立します。そして、当然ながら、外面的な行為を伴ったら、更にこの行為も大罪となります。
従って、第六戒はすべての卑猥な行為、姦淫の行為、いわゆる孤独の快楽をも厳格に禁止します。つまり、結婚の枠外に犯される行為、あるいは自然に反する行為を厳しく禁じています。残念ながら、最近の社会では自然に反する行為は多くて、いわゆる「同性愛」と呼ばれているところのものです。
また、結婚においても生殖という目的から意図的に逸らされている行為も罪です。たとえば、避妊、ピル、避妊リングなど、避妊を利用するのは大罪となります。避妊あっての行為はその行為の目的から外れる行為となり、乱れた行為となるからです。これは深刻な罪です。なぜでしょうか?物事の本来の目的は物事の完成を意味しますから、その完成化を拒み、物事の目的を拒否することは大変な罪です。
たとえてみましょう。それは、あたかも技術者が機械を作るとして、その作った機械の使途を無視して、関係のないことのためにその機械を使うのと似ています。例えば、洗濯機なのに皿を入れたらどうなるでしょうか?洗濯機も壊れるし、皿も壊れることになります。洗濯機の目的から外れた使用になったので、乱れた使用となったから、弊害をもたらすのです。
同じように、人間の目的は人間の目的地であって、また人間の完成化でもあります。これらは一致します。このように、姦淫の罪は生殖の行為を本来の目的(人類の生命の延長)から外す行為であり、ひいては人間の目的を拒否することとなるので、大罪となるのです。
残念ながら、現代の社会は非常に堕落しています。ソドムとゴモラの時代ほどの乱れた社会になっているかのようです。そして、ソドムとゴモラの二つの都市に対する天罰がどうなったかは、周知のとおりです。ソドムとゴモラは考古学によると、非常に豊かな自然のなかにありましたが、現在、そこでは、何も残っていないのです。不毛の地となっています。いつまでも何も植えられない地となりました。残念ながら、現代社会にいる我々もこのような天罰を覚悟した方がいいでしょう。
続いて、外面的な罪は禁じられるのはもちろん、内面的な罪も禁じられています。例えば、意図的に、あるいは控えようとしない卑猥な不潔な視線という罪があります。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ、5、28)と私たちの主、イエズス・キリストは仰せになりました。またヨブ書にはこのように書いてあります。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目をとめないと。」ヨブの31章にあります。素晴らしいでしょう。
また、このような罪を引き起こしうる状態に意図的に自分を誘惑に晒すことも罪なのです。というのも、罪の機会を意図的に自分に与えるということは、すでに罪を望むようなことです。
次に、姦淫の結果を見ましょう。姦淫はかなり悲惨な結果を伴うことを忘れてはいけません。姦淫によって身体上の快楽が強いあまりに、身体こそが知性と意志を従えることになってしまいます。知性と意志はまさに堕落していきます。つまり、上の者は下の者に従っているという逆さまになるという意味です。従って、殆どの場合、姦淫の結果は、知性が暗んでいきます。
姦淫におぼれている者は例えば、「姦淫な行為がなぜだめなのか」ですらわからなくなっていくのです。そして本当に深刻な姦淫にはまってしまったら、ある意味でもはや姦淫の人は残念ながら、なぜだめなのかをも理解できなくなります。貞節の徳を実践することによって、霊魂は高められてはじめて上から俯瞰できるようになりますが、姦淫の人の霊魂は暗闇に落ちています。
そして、このような霊魂の蒙昧の状態だと、姦淫の人は反省することを非常に嫌がることになります。本当に悪循環です。そういえば、近代の社会はまさに不安定、移り気、そして何よりも浅薄な人々を生んでいきます。現代人の典型的な人々の性格は真理の前に過剰に小心になり、臆病になる傾向にあると言えましょう。そして、裏を返せば、現代人は死の前にビビって、この上なく絶対的な恐怖を感じるようになっていきます。というのも、死というのは好むと好まざるとを問わず、真理へと目を向かわせてくれるからです。
それから、姦淫の結果、他に注意散漫、放心、無節操、意志の弱体化をもたらします。もはや意志は戦えなくなって、戦おうともしなくなるのです。残念ながら、現代はまさに弱体化された意志の時代となっています。弱体されたということは移り気の意志になり、虚弱なもろい意志になっているということです。
それから、姦淫の他の結果として、天主の忘却、それから現世への愛着をもたらします。そして、転じて霊的な生活の忘却と来世の命に対する嫌悪感をもたらします。
それから、社会全体にも悪い結果があって、堕落がはびこります。現代を見たら自明でしょう。衰退と侮辱をもたらすのです。
貞節の徳を実践していくためには、戦う必要があります。そうするために、中心となる徳は羞恥心なのです。羞恥心の徳というのは、霊魂を守るある種の障壁なのです。羞恥心という徳は純潔を犯しうる遠因を常に警戒しているようなもので、純潔さを守っている徳なのです。例えば、服装があります。つまり貞節に適った服装が必要です。いわゆる慎みに適った服装のことです。私たちは天主の神殿ですから。それから、貞節に適った会話。また、貞節に適ったことを見て聞いて、あるいは知り合いなど。
転じて、広告、CM、流行り物なども、貞節に適うか適わないか、この第六戒に関係しています。つまり、これらの物事は貞節の徳の実践を励むか、逆に姦淫を刺激するか、どちらかです。
貞節の徳を守るために、主に三つの超自然の方法があります。祈りと犠牲と秘跡なのです。そして自然な方法として、無為の状態の回避と、善い休息をとる方法があります。これは残念ながら、現代の社会は提供できなくなった善い休息です。
昔は休息するため、くつろぐためには本当に良い形でやっていました。例えば、大自然を眺めるだけでは大きな助けとなっていました。現代、人造的な環境においてばかり住んで、その挙句に、自然なことに関する感覚を失ってしまっている弊害があります。本来ならば、貞節の徳はこのような自然に育まれている徳でもあります。
以上は第六と第九の戒でしたが、現代ではデリケートであるかもしれません。しかしながら、不潔な人に対する善き天主の罰があることを忘れないでおきましょう。そのためには、特に、ソドムとゴモラのことを思うのがよいでしょう。永遠に地上から取り消された都市。