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司祭は真理を教え、態度を通じて真理を証明しなければならない|司祭職とは「真理」を証明し、「憐れみ」を実践することだから

2021年09月06日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教 「司祭職と自由」    
2021年07月04日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する神父様、いと愛する兄弟の皆様、クリスマス、ご降誕の祝日、我らの主は肉体になり給うことを祝う際、典礼を通じて教会は繰り返し詩編第84篇の一句を詠わせていただくのです。次のように歌います。
「真理と慈悲が出合い、正義と平和が互いに口づけした」

新しい司祭が叙階されると代わりのキリストが造られているかのようです。この地上に代わりのもう一人のキリストが現れてきます。我らの主、イエズス・キリストの僕(しもべ)なる司祭はメシアの働きをつづけることに尽くします。要するに、司祭はこの世で、「真理と慈悲が出合った」ことを示されています。いと愛する神父様、司祭職の使命はそこにあってこの使命を果たすように主から命じられています。
司祭職とは具体的な日常の働きを通じて真理と慈悲が常に出会うように尽くし努めることにあります。

というのも司祭職とは何よりも真理を中心にした働きだからです。皆様、六年間もの間、神学校では多くの科目を勉強してきたと思います。教義、道徳、聖書、教訓に溢れる教会の歴史、教会法、または教義上の真理を支える哲学などを勉強してまいりました。皆様、司祭になっても勉強は終わらないのです。死ぬまで司祭は勉強し続ける義務があるからです。

しかしながら、勉強よりも、得られた真理を輝かせていただかなければなりません。真理に溢れて真理で輝かしくいられるように。神父は真理のための人です。現代ではなおさらのことです。我らの主、イエズス・キリストはご自分自身を指して、「私は真理である」と仰せになった上、真理を証明するために生まれたと言っておられます。代わりのキリストとしての司祭、ここにいる神父様も真理を証明することになります。まず司祭の態度とその振舞いを通じて真理を証明することですが、また、ことに、何を行うか、何を教えるかによって真理を証明することになります。

というのも、司祭は真理を教えていくべきです。つまり善き知らせ(福音)を教えていきます。福音書では我らの主が約束しておられたように、真理によって自由になれるということです。「あなたは真理を知り、真理はあなたたちを自由な者とするだろう」(ヨハネ、8,32)と仰せになりました。ですから、司祭は真理を教えることによって自由を教えるわけです。天主様の子たらんとする自由です。我らの救いという善き知らせが齎(もたら)してくれる自由です。つまり罪への隷属から解放してくれる自由です。



要するに、司祭は真理を教えていくのですが、御托身という真理、贖罪という真理、他の真理を教えて、天主の子の自由をも教えていきます。
ですから、イエズス・キリストのことを教えていくこととなります。また、イエズス・キリストを完全に徹底的に教えていくということです。つまり、イエズス・キリストをありのままに彼を教えていくということで、真の人としても真の天主としても教えていくということです。

本日の福音の朗読で聞いたように、聖ペトロは我らの主、イエズス・キリストが天主であることを告白し宣言されました。この宣言の後、イエズスは聖ペトロを教会の頭として任じられました。
聖ペトロに倣って、イエズスの使命をつづける司祭は特にイエズスが真の天主であることを強調して教えていくべきです。というのも、現代ではイエズス・キリストが天主であることは貶(おとし)められており、真理は侮辱されており、軽視されているのです。イエズスが真の天主であることを軽視し、イエズスの人間性だけを過剰に強調して、いわゆる「人間の尊重」ばかりが見られます。

ですから、神父様、真の天主である故に我々を救えたという真理を教えていかなければなりません。そして、この素晴らしく輝かしい真理を教えていくと同時に、霊魂たちに向けて、我々、人間の現状、人間の現実を教えていかなければなりません。つまり、我々は罪人であること、真理を繰り返し確認して教えていかなればなりません。

はい、皆、一人の例外もなく、罪人であるからです。司祭にせよ信徒にせよ、皆、必ず罪人であるわけです。原罪の内に生まれてしまったわけです。確かに、洗礼を受けて、我らの霊魂は原罪が清められたのですが、それでも我々の中には傷は必ず残っています。人々によって多少大小深浅があるかもしれませんが、傷は残っています。そして、これらの傷を明らかにして、定義して区別して、信徒たちにどんな傷があるのかを教えてさしあげなければなりません。



それは、罪人である故に、救われるために我々の回心が必要であることを示されることになります。また、我々の犠牲も必要であるという真理を示すためです。確かに、このような真理はつらいですが、真理は真理で、このようなつらい真理こそは我々を解放してくれています。というのも、我々は犠牲を捧げることによって、罪の状態から脱出することになりますが、犠牲によって、つまり、罪から解放されていくからです。

また、真理を教えていくということは、裏を返せば、誤謬に対して戦っていくということを意味します。この世において誤謬は蔓延(はびこ)っているし、人々は都合のよいことだけを聞きたいわけですから、聖パウロが言うように、「みことばを宣教せよ。よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧めよ。」(ティモテオへの第二の手紙、4、2)

真理を宣教することは基本ですが、それに欠かせないこととして、誤謬を否認することです。そして、現代において特に危険になるのは、「将来はよくなるぞ」というようなこの世の誘惑に耳を傾けないように努めることが重要です。また、間違ったことを宣言している人々がいるということを明らかに訴えることも簡単なことではありません。場合によって異端者がいればいるよと素直に言うのは簡単ではありません。

しかしながら、司祭としてこのような心配してはいけません。素直に真理を語り、誤謬に反駁していきます。「リベラル、自由主義者」になってはいけません。これは現代の最もなる危険であるので、リベラルにならないように、リベラルにならないための聖徳を特に聖母マリアに願いましょう。というのも、聖母マリアは一度もためらうこともなく、言い逃れをされたこともなかったからです。ですから、毎日毎日、聖母マリアにより頼んで、言い逃れしないように、ためらうことがないように聖徳をあたえくださいと懇願しましょう。また、真理に対して徹底的に忠実でいられるように、つまり、諸世紀にわたって引き継がれてきた真理の聖伝の継承に忠実でいられるように。

要するに、真理の美しさによって信徒たちの霊魂を照らすだけではなく、誤謬をはっきりと否認することによって信徒たちの霊魂を守ることも重要です。神父様は叙階式の記念のために選ばれた絵は真理のための働きをよく示されています。
「私は世の光である」(ヨハネ、8,12)と選ばれたのです。はい、その通りです。イエズスはこの世の光であって、真理を教えて、誤謬を退けるために、我らの知性をも啓蒙して照らしたまうのです。要するに、信仰についての真理を教えていくべきです。

そして、真理の上に、司祭職を果たす働きは何よりも慈悲、憐みの働きです。現代のように狂気の沙汰になっているこの世において、自然徳の慈悲は言うまでもないが、神父様、これから多くの霊魂と出会うことになりますが、その内、悲しみに溺れる霊魂、落胆している霊魂、絶望に陥れている霊魂と出会うことはよくあるでしょう。このように、司祭としてこれらの霊魂を起こすべきです。希望、勇気、喜びを与えて、また剛毅、そして戦いに挑む歓喜などを与えていかなければなりません。これは憐みが命じる働きです。現代においてこそ特に欠かせない働きです。というのも、現代の社会も残念ながら一般的な教会ですら、霊魂を上へ高まるように励まなくなったどころか、現代の社会は霊魂たちを地獄へ落としていくばかりです。

はい、神父様、憐みをぐれぐれも実践してください。すでに、告解の秘跡を授けることによってこの働きを始められたかと思います。
現代に置かれている霊魂たち、我々の信徒たちはいつもいつも罪に落ちるように多くの誘惑に攻撃されているのが現状です。都会はなおさらでしょうが、田舎でもどこでも社会というか、この世は美しい霊魂、良き霊魂をどうしても罪へ落とそうとしているのです。

そして、我々の可愛そうな信徒たちはこの世の悲惨事を見ながら、それに抵抗するために、司祭が授ける秘跡と典礼だけが拠り所となって助けとなっていくわけです。典礼と秘蹟によって、これらの霊魂の励みになり、引き立てられ、立ちなおるのです。
ですから、絶望が普及している現代である分、厳しくするよりも、憐み深くていられるようにしましょう。ですから、神父様たち、霊魂と出会って、いつもいつも憐み深くていてください。先週の福音で仰せになったようにイエズス・キリストに倣って行きましょう。「私はこの人々を哀れに思う。空腹のままに帰らせるに忍びぬ。途中で倒れてしまうかもしれない」(マテオ、15,32)

ですから、神父様たちよ、与えられた信徒たちを憐み、彼らの転びや落ちを憐れんでください。彼らの悲惨事を憐み、彼らを慰め、助けて引き立てるのです。同時に、罪と戦うことを怠らないでください。憐み、慈悲の聖徳というのは、絶対に罪への妥協、あるいは許可ではありません。その逆です。本物の慈悲は悲惨事を助けるということで、罪をなくすことによって、惨めな人を楽にさせるわけです。ですから、信徒たちの霊魂とともに、踏ん張って罪と戦ってください。

また、憐みと慈悲の実践は同僚たちにたいして実践するように言っておきましょう。司祭兄弟会なので、兄弟とみなしてともに生きていくことになります。また兄弟のようにお互いに選びあっていないものの、お互いに愛徳を実践していかなければならないのです。これから、いくつかの仕事に任命されたりして、場合によって上司としても任命されることになりかもしれません。すべての任命において、同僚へのもっともなる憐みで振舞いなさい。殊に、年配の同僚へはなおさらのことです。年配の方々は長年にわたって司祭職を果たすために全力を尽くし何も惜しまなかったからです。また、いつの時代のことでもあるのですが、現代においてこそ、長年にわたっての忠実な働きによる、絶えずに諸前線で戦い続けなければならないことから生じる疲労もたまっているでしょう。

最後に、司祭職を果たす時、慈悲と真理は出会うでしょうが、ことに十字架上の下に入る時にこそ、真理と慈悲は出会うということです。はい、司祭職に勤しむ時、真理のために尽くす時も慈悲のために尽くす時も、それを果たすための力は、我らの主、イエズス・キリストの十字架においてこそ得ていくわけです。ことに、毎日、お捧げするミサ聖祭においてです。

ある聖歌で、十字架は雄弁者の説教壇であるよと歌っているように、ミサ聖祭はまさに雄弁者の説教壇です。そして、全力を尽くして何も惜しまないで厳守している聖伝ミサこそは雄弁者の説教壇です。ですから、保障します。迷っていた多くの霊魂ははじめてミサ聖祭と典礼と接触して、回心して避難所に戻ったら、あなたたちにいうでしょう。この典礼こそ、ラテン語ができていないのにラテン語であっても、このミサはどれほどいろいろなことを語ってくれるか、慰めてくれるか、齎(もたら)してくれるか、天主の偉大さ、栄光などを示してくれるか、我々への主の憐みを示してくれるかは、信徒たちによってよく言われています。

十字架即ちミサ聖祭は雄弁者の説教壇です。つまり、司祭の使徒職の中心はミサ聖祭です。他のすべての働きと信徒たちのために行っていく物事は、ミサ聖祭から自然に湧いてくるまでです。また、ミサ聖祭と同じように、十字架こそは生命の源なのです。ですから、この命の源の水を信徒たちに分かち合っていき、憐みを与えていくことです。

また、カトリック信徒の生活の輝きは聖体拝領にあるということを深く理解して、信徒たちに理解してもらうように努めなさい。また、とくに現代において、聖体拝領によってこそ霊魂はどれほど強化されること。聖体拝領は真の人、真の天主であるイエズス・キリストご自身を霊魂に与えられる素晴らしいことです。つまり、我々、この世の旅人であるのですが、イエズス・キリストは聖体拝領によって、我々の案内の人になってくださって、我々を慰めるために、癒すために、我々の道連れになってくださいます。
また、エンマウスの弟子たちのように、「Mane Domine, Mane nobiscum」「私たちとともに泊りください」とよく誓願するように信徒たちと一緒によく祈るようにならってください。

十字架こそは天主を要約します。十字架こそ、天主の愛を要約します。また、叙階式の記念絵にある「私は世の光だ」と十字架は非常によく示しているのです。
神父様、イエズスに従って、イエズスに倣って、イエズスに続いて、あなたもこの世の光になっていくことです。真理を証明して、真理を教えていくことによって世の光になるのです。また、人々のために憐みを実践していくことによって、希望を与えて、その火を霊魂にあたえることによっても世の光になっていくことです。光とは温まるものです。十字架とミサ聖祭によって、あなたがた神父様、信徒たちの霊魂を温めるのです。天主の愛徳によって霊魂は温まるのです。

司祭職はどれほど立派な使命であるかな!偉大な使命であるかな!我々の主、イエズス・キリストはこのような偉大な司祭職を果たすように我々を呼び求めたので喜びましょう。真理と慈悲の使命であり、またイエズスに従って祭壇に、司祭と犠牲者になっていく使命です。

聖母マリアに祈りましょう。特に、み摂理的にも、本教会で特に崇拝している聖職者たちの聖母に祈りましょう。司祭職の使命にずっとずっと忠実であり続けるように。また、何があってもどれほど混乱しても、いつもいつも熱心でいられるように。解放してくれる真理への熱心。救ってくれる憐みへの熱心。我々を永遠に活かしてくれる十字架のへの熱心。アーメン。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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