白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教「怒りと赦し」
2020年06月27日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
「兄弟を怒る人は審判を受けるだろう、また兄弟に向かって愚者(おろかもの)よという人は、衆議所に渡されるだろう、また気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう。」(マテオ、5,20-24)
いと愛する兄弟の皆様、福音書のこの教えは過剰に厳しいに見えるかもしれません。というのも、絶対に怒らない人は一体いるだろうかということで、永遠の劫罰が避けられないのではないかというような疑問を持つ人がいるかもしれません。
我らの主イエズス・キリストは悪を根絶するためにこのように教えられます。悪の種自体をなくすように教えられています。つまり愛徳を壊す悪、切りのない、終わらない敵愾心を産む悪、イエズスの神秘体の構成員たちを対立させる悪、天主が愛しておられる平和を遠ざける悪、サタンのための道を開ける悪、サタンの力を増やす悪を根絶するために教えられています。ですから、悪魔の力を破壊するために、愛徳の凱旋のために、我らの主イエズス・キリストは本日の福音書にある掟を制定されたわけです。
ご覧のように、福音書には怒りの三つの程度に合わせて、三種類の刑罰が規定されています。
第一の程度は、怒りという激情に同意しているものの、一応心の内に抑えられている時です。苛立ちの僅(わず)かな動きのような、何かの予想外の不愉快あるいは失敗に溢(あふ)れる不機嫌のような時です。つまり、思いの罪であり、あるいは隣人に対する恨みの思い、または隣人に悪いことが起きるように願う思い、あるいは隣人がなにか失敗している時の喜び、あるいは逆に隣人が成功している時、悲しむ思いというような思いの罪です。また、復讐の計画を心の内に企てて満足するような思いの罪です。
ここで注意していただきたい点があります。我らの主はあらゆる怒りを断罪しているわけではありません。兄弟に対する怒りを断罪しているのです。我らの主は明らかに仰せになって、兄弟という言葉と使われておられます。言いかえると隣人に対する怒りを断罪しておられるのです。いと愛する兄弟の皆様、これは重要です。罪源である怒り、悪徳である怒りを、この世にある多くの罪に対する正当な憤怒と混同してはいけません。
悪自体に対して憤怒するということは怒りの罪にならなくて、単なる判断です。さらにいうと、もしも憎むべきことにたいして憤怒しなければ、我らの徳はもはや徳でなくなって、むしろ怠惰さ、卑怯さになるだけです。聖アウグスティヌスはこのとても重要な区別について明解にしてくれます。「兄弟が犯した罪に対して怒る人は兄弟に対して怒るのではない。」そこに大事な区別があります。
要するに、愛する兄弟が犯した罪に対して怒ることは批判すべきことではないどころか、善いことです。善を愛しているゆえに、聖なる愛徳の実践を愛しているゆえに、隣人を愛しているゆえに、隣人は罪を糺(ただ)して改善するための怒りなら、悪い怒りではないのです。
逆に自尊心が傷つけられたから怒るのなら、激情に負けて冷静でなくなるのなら、不正にも卑(いや)しくも怒るのなら、必ず罪になるのです。
ですから、このように善き怒りもあります。正当な落ち着いた怒りもあります。このような聖なる怒りは相手を追い詰めようとするのではなく、逆に相手を和らげようとするのです。聖なる憤怒です。ですから、隣人を本当に愛する時に、愛する人が罪を犯すことに対して怒らないでいられないのです。
またこの世に蔓延(はびこ)るスキャンダル、悪徳、悪行の前に、天主様を侮辱する物事の前に怒らないでいられないのです。このような怒りは高貴な怒りとなります。このような怒りは兄弟に対して怒るのではなく、兄弟のために怒る時の怒りです。聖アウグスティヌスがいうように、つまり罪を打つ怒りでありながら、罪人を助ける怒りです。また、相手を治そうとして、解放してあげようとする怒りであります。いわゆる医者のように、死にかけている病者を治療しようとするとき、病者が痛くて医者を罵っても医者が平気にいられるようなことです。
しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、もちろん、兄弟を糺(ただ)すことは非常にデリケートなことであって、簡単なことではないことは言うまでもありません。そうするために、権威、忍耐さ、ある種の静謐(せいひつ)な心境を必要としています。ですから、もしも兄弟を糺(ただ)さざるを得ない場合が出たら、恐れ多くて、何らかの恨み、復讐の思いは絶対に入ってこないようにくれぐれも警戒しながら、熱心に兄弟を糺(ただ)すしかないのです。
怒りの第二の程度とは、怒りの激情のあまりに、心の中に留まることができなくて、「言葉」で怒りを表す時です。それほど意味を成さない言葉になるかもしれないが、とにかく相手を傷つける言葉を発する時です。喧嘩する時の文句、わめきなどです。もちろん、このような場合になると、思いにとどまった罪よりも深刻な罪となります。福音書にあるように、「愚者(おろかもの)」よという人は、衆議所に渡されるだろう」と。
辛辣になった熱心さ、悪だけを齎(もたら)す気難しさなどです。福音書にある「Raca」という言葉は軽蔑的な表現なのです。ある種の罵言だと言いましょう。あるいは冷やかしのような言葉です。つまり、非常に深刻な罵りでもないという感じですが、侮辱する気持ちを表すことなのです。いわゆる、つい言い出された言葉で、それほど罪深いことでもないように見ると思われるかもしれませんが、善き天主は我々が完成者になるようにお望みで、どれほどの僅かな罪の根絶ですら求めておられます。
いつも、我々はお互いに敬意を払いながら、敬意のしるしを与えながら降り舞うようにと天主は我々に命じておられます。そうすると、より深刻な混乱にならないために事前にこのような混乱を防ぐためでもあります。ですから、このような怒りにならないために、何か言いたいときに、何かやりたいときに、必ず前もって随分に考えておく習慣を身につけるのがよいと思われます。そうすると、激情が発生してもわれわれは動じないように修行するということです。
第三の怒りの程度ははっきりとした間違いのない侮辱の行為です。福音書には、「気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう」とありますね。いわゆる、単なるついに言い出した憤怒の言葉よりも深刻な罵りです。キリシタンに対してこのような罵りを発することはなお更に深刻な罪となります。というのも、洗礼を受けた者は天主の養子になった分、さらに天主に対する深刻な侮辱の行為になるからです。
また、いわゆる恨みの念に同意して、嫌悪感になってしまうような怒りです。このようになると、天主の前に死に値する罪となります。つまり大罪です。福音書によると「ゲヘンナの火を受ける」罰になりうる罪です。
ちなみに、ゲヘンナとはヒンノムの子供の谷という場所でした。この場所はモロク神へ捧げられた子供たちの生贄によって冒涜された場所で呪われた場所です。また、そのあと、エルサレムのゴミ捨て場となって、蛆(うじ)が蔓延(はびこ)っていた場所でした。そういったような場所だったので、転じて、地獄を指すために使われた言葉となりました。
つまり、死体を貪(むさぼ)る蛆(うじ)が永遠に死なない地獄、燃やす火が永遠に消えない場所である地獄です。深刻な怒りという罪を犯す人々のために用意されている地獄です。
聖ヨハネも書簡においてこのように書きます。「私たちが死から命に移ったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中に留まっていることを私たちは知っている。兄弟を憎む者は人殺しであって、人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている。」(ヨハネの第一の手紙、3,14-15)
この言葉によって本日の福音書にある我らの主の言葉は確認されています。
たとえてみるとこのように怒る者は蜂(はち)であるかのようです。追いかける人の身体に針を刺していく蜂が針を失うとともに命をも失います。
このように、死をもたらす怒りに陥れる人は自分の心に悪魔に避難所を与えるのです。そして悪魔は実際にあった侮辱の行為を過剰に大げさに見せかけて、感情と精神を煽り、理性と判断力を濁らせるのです。そして、怒りによって盲目となった人はどういった罪を犯しているかもどういった危険に自分をされているかも見えなくなります。
また、このような怒りの結果、喧嘩、暴言、中傷、誹謗、冒涜、呪詛、祟り、戦争、分離などが生まれるわけです。このような怒りは不正行為を招いて、また妬(ねた)みの気持ちを増やして、また悪意を持った行動、復讐、殺人などを齎(もたら)すのです。
時には、この怒りは天主までを直接に対象にして、軽率にも天主に対する文句、非難、不公平などをいうのです。
このような怒りを治すために天主への愛を基(もとい)にしている愛徳の実践によってしか治療できないのです。
つまり、我らは皆、天におられる同じ父の養子になる資格を持っている人々であることを常に思い起こすことが重要です。また洗礼者なら、同じ神秘体の一員であり、同じ永遠の命のために選ばれた者であるということについて思い起こし、隣人への愛徳を実践するということです。ですから、このようなことを知り、つまり全人類は救霊の対象であり、同じ永遠の命のために造られた者であるなどの真理は、嫌悪感と相容(あいい)れないわけです。
「ゆえにもしもあなたが、祭壇に供え物を捧げるとき、兄弟から恨まれることがあると、そこで、思い出すならば、供え物を、そこ、祭壇の前にのこしおき、先ず行って兄弟と和睦し、その後に来て供え物をささげよ」(マテオ、5、24)
我らの主は「私への礼拝は中止してでも、愛徳を大切にせよ」と言わんばかりです。というのも、これは、本物の礼拝を私たちができるように助けてくださるということだからです。イエズスとその御父に値する唯一なる真の礼拝であるミサ聖祭のために、イエズスは聖なる生贄を捧げるために、我々に清く聖なる心境であるように求めておられます。というのも、愛徳の精神と恨みの気持ちに邁進(まいしん)する心と一体何か共通しているでしょうか。何もありません。
ですから、お祈りするためにも、自分の霊魂は天主のすぐ近くにいるように心の準備をすべきです。そして、恨(うら)みや侮辱(ぶじょく)の思いなどはこのような祈りに対する大なる障害です。赦免(しゃめん)、人々の罪を赦すことなどは、逆に天主にまで我々の祈りが届けるための最高の準備です。
いと愛する兄弟の皆様、最初の時代の時、天主はアベルが捧げた生贄(いけにえ)を召し給うことを見よ。正義を全うして、素直に捧げられた生贄でした。一方、天主はカインが捧げた生贄を退けられました。カインの心には兄弟、アベルに対する妬(ねた)み、憎しみがあったからです。要するに、自分の心の奉献を伴わない生贄、供え物は天主に召されないのです。我らの主は我らを彼とともに父に捧げることにしておられます。また、天主はどの供え物、犠牲よりも、我々自分自身の奉献、犠牲を求めておられます。
我らの主の生贄はまさに赦免(しゃめん)、お赦(ゆる)しの生贄です。御父の赦免を得しめるために、イエズス・キリストは自分の御血を流すことを惜(お)しまれなかったほどです。しかしながら、我らは同じ人間である隣人、つまり、天主に対して全く同等である隣人の赦免を得るために、僅(わず)かな一言ですら言わないことにするとはなんたることか。
聖壇に近づいてイエズス・キリストご聖体を拝領する前に、一旦(いったん)このようなことを考えてみましょう。心の平和がなければ、天主の平和に近づくことは一体どうやってあり得ることですしょうか。隣人の借りをチャラにしてあげられないのに、自分に対する恩があるからといって、恩を着せるような隣人をきつく扱っているのに、我々は一体どうやって天主に自分の借りへのチャラをお願いできるでしょうか。また、兄弟に対して苛立っているままであるのに、いったいどうやって御父を鎮められるでしょうか。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々はもしも、怒りによって罪を犯した場合、侮辱を受けた時、赦免してあげましょう。和睦(わぼく)しましょう。思いによって隣人を侮辱した場合、思いにおいて内面の心の祭壇の前に和睦を果たしましょう。言葉によって隣人を侮辱した場合、言葉によって和睦しましょう。そして、より重大な具体的な弊害を隣人に与えた場合、何らかの具体的な恩恵を与えて、全てを施(ほどこ)すことによって和睦しましょう。
逆に、自分は隣人の怒りの犠牲になった時、つまり、自分は侮辱された時、この場合に限ってもちろん、侮辱した者に「お赦し」を願う筋はありませんが、天主に赦しをいただきたいほど、隣人を速やかに赦しあげましょう。
イエズス・キリストは福音書において「兄弟から恨(うら)まれることがあると」とだけ仰せになって、状況は何も限定されていない言い回しです。公平に恨まれるか(自分が何らか悪いことをやったので、相手が怒って自分を侮辱して復讐した時)、不公平にも恨まれるか(自分が何もしていないのに、あるいは善いことしているのに、相手が怒って自分を侮辱して復讐する時)という両方の場合が想定されています。
それは、我々は無限に愛徳を実践するように我らの主は推奨しておられるわけです。つまり、御聖体を受けるために、私が誰かを侮辱した場合、事前に和睦する義務がもちろんあります。ところが、さらにいうと、不公平に怒られたとしても、義務にならないものの、完全に愛徳を実践するために、それでも和睦するために、隣人の動きを待たないで、自分から手を出すように勧められています。アーメン
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教「怒りと赦し」
2020年06月27日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
「兄弟を怒る人は審判を受けるだろう、また兄弟に向かって愚者(おろかもの)よという人は、衆議所に渡されるだろう、また気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう。」(マテオ、5,20-24)
いと愛する兄弟の皆様、福音書のこの教えは過剰に厳しいに見えるかもしれません。というのも、絶対に怒らない人は一体いるだろうかということで、永遠の劫罰が避けられないのではないかというような疑問を持つ人がいるかもしれません。
我らの主イエズス・キリストは悪を根絶するためにこのように教えられます。悪の種自体をなくすように教えられています。つまり愛徳を壊す悪、切りのない、終わらない敵愾心を産む悪、イエズスの神秘体の構成員たちを対立させる悪、天主が愛しておられる平和を遠ざける悪、サタンのための道を開ける悪、サタンの力を増やす悪を根絶するために教えられています。ですから、悪魔の力を破壊するために、愛徳の凱旋のために、我らの主イエズス・キリストは本日の福音書にある掟を制定されたわけです。
ご覧のように、福音書には怒りの三つの程度に合わせて、三種類の刑罰が規定されています。
第一の程度は、怒りという激情に同意しているものの、一応心の内に抑えられている時です。苛立ちの僅(わず)かな動きのような、何かの予想外の不愉快あるいは失敗に溢(あふ)れる不機嫌のような時です。つまり、思いの罪であり、あるいは隣人に対する恨みの思い、または隣人に悪いことが起きるように願う思い、あるいは隣人がなにか失敗している時の喜び、あるいは逆に隣人が成功している時、悲しむ思いというような思いの罪です。また、復讐の計画を心の内に企てて満足するような思いの罪です。
ここで注意していただきたい点があります。我らの主はあらゆる怒りを断罪しているわけではありません。兄弟に対する怒りを断罪しているのです。我らの主は明らかに仰せになって、兄弟という言葉と使われておられます。言いかえると隣人に対する怒りを断罪しておられるのです。いと愛する兄弟の皆様、これは重要です。罪源である怒り、悪徳である怒りを、この世にある多くの罪に対する正当な憤怒と混同してはいけません。
悪自体に対して憤怒するということは怒りの罪にならなくて、単なる判断です。さらにいうと、もしも憎むべきことにたいして憤怒しなければ、我らの徳はもはや徳でなくなって、むしろ怠惰さ、卑怯さになるだけです。聖アウグスティヌスはこのとても重要な区別について明解にしてくれます。「兄弟が犯した罪に対して怒る人は兄弟に対して怒るのではない。」そこに大事な区別があります。
要するに、愛する兄弟が犯した罪に対して怒ることは批判すべきことではないどころか、善いことです。善を愛しているゆえに、聖なる愛徳の実践を愛しているゆえに、隣人を愛しているゆえに、隣人は罪を糺(ただ)して改善するための怒りなら、悪い怒りではないのです。
逆に自尊心が傷つけられたから怒るのなら、激情に負けて冷静でなくなるのなら、不正にも卑(いや)しくも怒るのなら、必ず罪になるのです。
ですから、このように善き怒りもあります。正当な落ち着いた怒りもあります。このような聖なる怒りは相手を追い詰めようとするのではなく、逆に相手を和らげようとするのです。聖なる憤怒です。ですから、隣人を本当に愛する時に、愛する人が罪を犯すことに対して怒らないでいられないのです。
またこの世に蔓延(はびこ)るスキャンダル、悪徳、悪行の前に、天主様を侮辱する物事の前に怒らないでいられないのです。このような怒りは高貴な怒りとなります。このような怒りは兄弟に対して怒るのではなく、兄弟のために怒る時の怒りです。聖アウグスティヌスがいうように、つまり罪を打つ怒りでありながら、罪人を助ける怒りです。また、相手を治そうとして、解放してあげようとする怒りであります。いわゆる医者のように、死にかけている病者を治療しようとするとき、病者が痛くて医者を罵っても医者が平気にいられるようなことです。
しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、もちろん、兄弟を糺(ただ)すことは非常にデリケートなことであって、簡単なことではないことは言うまでもありません。そうするために、権威、忍耐さ、ある種の静謐(せいひつ)な心境を必要としています。ですから、もしも兄弟を糺(ただ)さざるを得ない場合が出たら、恐れ多くて、何らかの恨み、復讐の思いは絶対に入ってこないようにくれぐれも警戒しながら、熱心に兄弟を糺(ただ)すしかないのです。
怒りの第二の程度とは、怒りの激情のあまりに、心の中に留まることができなくて、「言葉」で怒りを表す時です。それほど意味を成さない言葉になるかもしれないが、とにかく相手を傷つける言葉を発する時です。喧嘩する時の文句、わめきなどです。もちろん、このような場合になると、思いにとどまった罪よりも深刻な罪となります。福音書にあるように、「愚者(おろかもの)」よという人は、衆議所に渡されるだろう」と。
辛辣になった熱心さ、悪だけを齎(もたら)す気難しさなどです。福音書にある「Raca」という言葉は軽蔑的な表現なのです。ある種の罵言だと言いましょう。あるいは冷やかしのような言葉です。つまり、非常に深刻な罵りでもないという感じですが、侮辱する気持ちを表すことなのです。いわゆる、つい言い出された言葉で、それほど罪深いことでもないように見ると思われるかもしれませんが、善き天主は我々が完成者になるようにお望みで、どれほどの僅かな罪の根絶ですら求めておられます。
いつも、我々はお互いに敬意を払いながら、敬意のしるしを与えながら降り舞うようにと天主は我々に命じておられます。そうすると、より深刻な混乱にならないために事前にこのような混乱を防ぐためでもあります。ですから、このような怒りにならないために、何か言いたいときに、何かやりたいときに、必ず前もって随分に考えておく習慣を身につけるのがよいと思われます。そうすると、激情が発生してもわれわれは動じないように修行するということです。
第三の怒りの程度ははっきりとした間違いのない侮辱の行為です。福音書には、「気狂者よという人は、ゲヘンナの火を受けるだろう」とありますね。いわゆる、単なるついに言い出した憤怒の言葉よりも深刻な罵りです。キリシタンに対してこのような罵りを発することはなお更に深刻な罪となります。というのも、洗礼を受けた者は天主の養子になった分、さらに天主に対する深刻な侮辱の行為になるからです。
また、いわゆる恨みの念に同意して、嫌悪感になってしまうような怒りです。このようになると、天主の前に死に値する罪となります。つまり大罪です。福音書によると「ゲヘンナの火を受ける」罰になりうる罪です。
ちなみに、ゲヘンナとはヒンノムの子供の谷という場所でした。この場所はモロク神へ捧げられた子供たちの生贄によって冒涜された場所で呪われた場所です。また、そのあと、エルサレムのゴミ捨て場となって、蛆(うじ)が蔓延(はびこ)っていた場所でした。そういったような場所だったので、転じて、地獄を指すために使われた言葉となりました。
つまり、死体を貪(むさぼ)る蛆(うじ)が永遠に死なない地獄、燃やす火が永遠に消えない場所である地獄です。深刻な怒りという罪を犯す人々のために用意されている地獄です。
聖ヨハネも書簡においてこのように書きます。「私たちが死から命に移ったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中に留まっていることを私たちは知っている。兄弟を憎む者は人殺しであって、人殺しはその中に永遠の命をとどめていないことをあなたたちは知っている。」(ヨハネの第一の手紙、3,14-15)
この言葉によって本日の福音書にある我らの主の言葉は確認されています。
たとえてみるとこのように怒る者は蜂(はち)であるかのようです。追いかける人の身体に針を刺していく蜂が針を失うとともに命をも失います。
このように、死をもたらす怒りに陥れる人は自分の心に悪魔に避難所を与えるのです。そして悪魔は実際にあった侮辱の行為を過剰に大げさに見せかけて、感情と精神を煽り、理性と判断力を濁らせるのです。そして、怒りによって盲目となった人はどういった罪を犯しているかもどういった危険に自分をされているかも見えなくなります。
また、このような怒りの結果、喧嘩、暴言、中傷、誹謗、冒涜、呪詛、祟り、戦争、分離などが生まれるわけです。このような怒りは不正行為を招いて、また妬(ねた)みの気持ちを増やして、また悪意を持った行動、復讐、殺人などを齎(もたら)すのです。
時には、この怒りは天主までを直接に対象にして、軽率にも天主に対する文句、非難、不公平などをいうのです。
このような怒りを治すために天主への愛を基(もとい)にしている愛徳の実践によってしか治療できないのです。
つまり、我らは皆、天におられる同じ父の養子になる資格を持っている人々であることを常に思い起こすことが重要です。また洗礼者なら、同じ神秘体の一員であり、同じ永遠の命のために選ばれた者であるということについて思い起こし、隣人への愛徳を実践するということです。ですから、このようなことを知り、つまり全人類は救霊の対象であり、同じ永遠の命のために造られた者であるなどの真理は、嫌悪感と相容(あいい)れないわけです。
「ゆえにもしもあなたが、祭壇に供え物を捧げるとき、兄弟から恨まれることがあると、そこで、思い出すならば、供え物を、そこ、祭壇の前にのこしおき、先ず行って兄弟と和睦し、その後に来て供え物をささげよ」(マテオ、5、24)
我らの主は「私への礼拝は中止してでも、愛徳を大切にせよ」と言わんばかりです。というのも、これは、本物の礼拝を私たちができるように助けてくださるということだからです。イエズスとその御父に値する唯一なる真の礼拝であるミサ聖祭のために、イエズスは聖なる生贄を捧げるために、我々に清く聖なる心境であるように求めておられます。というのも、愛徳の精神と恨みの気持ちに邁進(まいしん)する心と一体何か共通しているでしょうか。何もありません。
ですから、お祈りするためにも、自分の霊魂は天主のすぐ近くにいるように心の準備をすべきです。そして、恨(うら)みや侮辱(ぶじょく)の思いなどはこのような祈りに対する大なる障害です。赦免(しゃめん)、人々の罪を赦すことなどは、逆に天主にまで我々の祈りが届けるための最高の準備です。
いと愛する兄弟の皆様、最初の時代の時、天主はアベルが捧げた生贄(いけにえ)を召し給うことを見よ。正義を全うして、素直に捧げられた生贄でした。一方、天主はカインが捧げた生贄を退けられました。カインの心には兄弟、アベルに対する妬(ねた)み、憎しみがあったからです。要するに、自分の心の奉献を伴わない生贄、供え物は天主に召されないのです。我らの主は我らを彼とともに父に捧げることにしておられます。また、天主はどの供え物、犠牲よりも、我々自分自身の奉献、犠牲を求めておられます。
我らの主の生贄はまさに赦免(しゃめん)、お赦(ゆる)しの生贄です。御父の赦免を得しめるために、イエズス・キリストは自分の御血を流すことを惜(お)しまれなかったほどです。しかしながら、我らは同じ人間である隣人、つまり、天主に対して全く同等である隣人の赦免を得るために、僅(わず)かな一言ですら言わないことにするとはなんたることか。
聖壇に近づいてイエズス・キリストご聖体を拝領する前に、一旦(いったん)このようなことを考えてみましょう。心の平和がなければ、天主の平和に近づくことは一体どうやってあり得ることですしょうか。隣人の借りをチャラにしてあげられないのに、自分に対する恩があるからといって、恩を着せるような隣人をきつく扱っているのに、我々は一体どうやって天主に自分の借りへのチャラをお願いできるでしょうか。また、兄弟に対して苛立っているままであるのに、いったいどうやって御父を鎮められるでしょうか。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々はもしも、怒りによって罪を犯した場合、侮辱を受けた時、赦免してあげましょう。和睦(わぼく)しましょう。思いによって隣人を侮辱した場合、思いにおいて内面の心の祭壇の前に和睦を果たしましょう。言葉によって隣人を侮辱した場合、言葉によって和睦しましょう。そして、より重大な具体的な弊害を隣人に与えた場合、何らかの具体的な恩恵を与えて、全てを施(ほどこ)すことによって和睦しましょう。
逆に、自分は隣人の怒りの犠牲になった時、つまり、自分は侮辱された時、この場合に限ってもちろん、侮辱した者に「お赦し」を願う筋はありませんが、天主に赦しをいただきたいほど、隣人を速やかに赦しあげましょう。
イエズス・キリストは福音書において「兄弟から恨(うら)まれることがあると」とだけ仰せになって、状況は何も限定されていない言い回しです。公平に恨まれるか(自分が何らか悪いことをやったので、相手が怒って自分を侮辱して復讐した時)、不公平にも恨まれるか(自分が何もしていないのに、あるいは善いことしているのに、相手が怒って自分を侮辱して復讐する時)という両方の場合が想定されています。
それは、我々は無限に愛徳を実践するように我らの主は推奨しておられるわけです。つまり、御聖体を受けるために、私が誰かを侮辱した場合、事前に和睦する義務がもちろんあります。ところが、さらにいうと、不公平に怒られたとしても、義務にならないものの、完全に愛徳を実践するために、それでも和睦するために、隣人の動きを待たないで、自分から手を出すように勧められています。アーメン
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン