白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ランパン神父様(Rampon)のお説教
2022年09月25日
聖テレジアに倣って苦行をしましょう!
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
神父様、親愛する兄弟の皆様、幼きイエズスの聖テレジアを本日、祝います。
1897年9月30日、聖テレジアが天国に生まれました。そして、ピオ十一世の決定によって、聖テレジアはフランスの二位の守護者となりました。聖テレジアという聖人はきっと現代の一番有名な聖人でしょう。聖ピオ十世が述べていたように、聖テレジアは「この時代の一番偉大な聖人である」のです。
聖テレジアが行った奇跡は数多くありますが、ここは時間の問題で省きます。
一つだけを取り上げると、第一次世界大戦の際、多くの兵士たちが聖テレジアの執り成しの恩恵をうけました。
このように聖テレジアは我々に近いのですが、同時に遠い聖人でもあります。
聖テレジアの人生の間に、聖テレジアが大がかりな奇跡を行ったことがありませんでした。この意味で我々に近い聖人です。歴史には水面上を歩く聖人もいれば、未来を予言する聖人もいたし、相手の心を読みとれる聖人も数多くいました。ところが、聖テレジアはそのようなことはありませんでした。聖テレジアは平凡な人生、日常を送ってきました。
このポイントが大事です。聖人になるために何が一番重要なのかを思い起こしてくれるのが聖テレジアです。聖人になるにはひとまず対神徳の優れた実践が必要です。それからキリストに倣ってのキリスト教的な生活上のすべての聖徳の実践が必要です。
しかしながら、一方で聖テレジアを見ると、我々から遠い存在でもあることを感じることがあるでしょう。なぜなら、聖テレジアの覚悟と精神上の剛毅さは桁違いであるからです。罪に対して聖テレジアは一度も脆弱な態度を見せたことはありませんでした。もちろん、どの聖人とも同じように、いくつかの脆弱さによって罪を犯したことがありますが、最期まで大罪を犯したことはありませんでした。
このようにして最期を迎えていた聖テレジアは次のように明かしていました。「三歳の時から、天主からのみ旨を一つも拒んだことがなかった」。
これは聖テレジアの精神上の剛毅さを語ります。我々なら、このような剛毅さからはなかなか遠いでしょう。いつも、崩れることなく、誘惑に負けない剛毅さを聖テレジアほど持てる人は誰かいるでしょうか。
さて、聖テレジアは霊魂ですごい剛毅さがありました。それはどこから来ていたのでしょうか。どうやってその剛毅さを継続できたのでしょうか。これほど固く覚悟して、誘惑に負けず、聖人になれた剛毅さの秘密はなんなのでしょうか。
ここで細かい検討は無理ですが、一番大事な点だけを覚えていただきたいと思います。聖テレジアは苦行を愛し、徹底的に苦行を実践してきたのです。
聖テレジアはよく薔薇をもつ姿で描かれます。それは確かにそうですが、薔薇には多くの茨があることを忘れてはいけません。
聖テレジアは薔薇と共に茨を愛しました。
苦行とは何でしょうか。我々が持つ悪い傾向、原罪の帰結なるこれらの悪い傾向に対する戦いです。原罪による傷のせいで、我々の感情などは自分の理性に対して反乱をおかすことが多いのです。このように、苦行という行為、苦行という実践はこれらの悪い傾向と戦い、我々の本性にある下等な部分である感情、感覚などを理性と意志に従わせることです。こうした苦行によって、最終的に我々の意思と理性を天主のみ旨に従わせるのです。
苦行をするためのやり方は無数にあります。聖テレジアは例えば、食べる時、材料などを交えないことにしていました。なぜなら、それらの材料の味を薄くさせるためでした。あるいは、不本意にスプーンなどを皿に落としてしまったら、聖テレジアがあえてそのスプーンを洗わないで取り直して、改悛の精神でそういった苦行ですらしていました。
また、正当に文句を言えたのに、聖テレジアは何の文句も言わないことにしていました。具体的には、掃除で服などを洗っていた時、ちょっと虐められていたことがあって、汚水で振りかけられることがありましたが、それでも文句を言わないで、その場を去らないで、その作業を続けていました。
このような苦行はほぼだれにも気付かれませんでしたが、考えてみると、それを行うための剛毅さは凄いものがあります。
聖テレジアは修練期のシスターたちにこう述べていました。
「これらの小さな行い(苦行)は自分の健康にも悪くもないし、誰にも気づかれないし、自分の霊魂だけが超自然の熱心さを常に養ってくれる」
もちろん、現代では苦行といったら多くの人々が嫌悪感を抱くかもしれません。現代はかなり物質主義的であり、エゴイズムであり、自己満足、自分の利益、自己実現、自分の出世を何よりも優先するので、驚くことではありません。
ですから、このような世界では苦行をあまり考えたがらない傾向があります。そして、残念ながら、信徒の間でも苦行を行うことが足りないことは珍しくありません。苦行の精神が足りないこともあります。
しかしながら、苦行は必要不可欠です。
第一、 時々、苦行は義務化されています。時期、場所によって。我らの主が仰せになりました。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。」(マテオ、5,28)
つまり、罪深い眼差しもあるので、それを避けるための苦行が必要です。このような場合、苦行は任意ではありません。常に苦行を繰り返すことによる訓練のようなものです。大きな誘惑あるいは試練が来たら、抵抗できるための訓練としての苦行です。小さなことで誘惑に負けたら、大きな誘惑に抵抗することはあり得ないのです。
それから、もう一つあります。我々の心の中に、現世欲の源泉というものがあります。言いかえると、洗礼を受けることによって原罪が消されます。しかしながら、原罪が消されても、霊魂には現世欲の源泉が残っていて、傷であるかのように、そこから罪へ引っ張る悪い傾向などが出てきます。それに対して戦う必要があります。戦うには苦行が必要です。
このような現世欲の源泉は火のようなものです。火のように、火に燃料を補給すればするほど、火が強くなっていきます。そして火が強ければ強いほど、これを消すことは難しくなっていきます。逆に、火から燃料の補給を止めたら、火はどんどん弱くなっていきます。最初、小さな弱い炎だけになるでしょう。
現世欲についても、以上の火と全く同じようなありようがあります。時には正当な楽しみも含めて、毎日のように現世欲を煽っていたら現世欲を強めて拡大させる羽目になります。
逆に、正当な楽しみをも含めて、意志的にそれを拒むことを頻繁にしたら、現世欲も弱くなります。例えば、インターネット上の動画を見たり、好奇心だけで何かを視たりするような時、それは正当な楽しみであるのに、あえてそれを見捨てるような苦行などいろいろ考えられます。このような苦行によって、自分の欲望、現世欲をよりよく支配できるようになります。
それから、何よりも我らの主に倣いましょう。このように我らの主は生まれた時から最期まで、常に断念して自己犠牲を行っていらっしゃいました。「人の子には枕するところもない」(マテオ、8,20)と仰せになったほどの苦行を行われました。
そして、もちろん、ご受難の時、なおさらです。我らの主はつねに、自己犠牲、謙遜、清貧などの模範を見せ給いました。ですから、遊楽と自己満足を追求したら、イエズスに倣うことができなくなります。
イエズスご自身は以上のことを思い起こさせてくださり、仰せになりました。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。」(マテオ、16,24)
最後に、苦行は誘惑に対して抵抗するために非常に役立つことを覚えておきましょう。なぜでしょうか。誘惑が来た時、誘惑に負けたとしましょう。なぜ誘惑に負けるでしょうか。理由は主に二つあります。
ひとつは遊楽への愛着があります。偽りの遊楽によって騙される霊魂は誘惑に負けるわけです。つまり、単なる遊楽であるのに、幸せあるいは幸福であるかのようにみあやまり、遊楽へ飛び込む羽目になります。
苦行によって、このような乱れた遊楽を征服することが出来て、本物の幸せと喜びとはこれらの遊楽にはないことを常に思い出させ、この世での本物の喜びは霊的な喜びだけだということを身につけさせますs。
誘惑に負けるもう一つの理由があります。いわゆる、誘惑に抵抗するために生じる苦しみと疲労への恐れがあります。しんどいから、苦しいから、この戦いが難しいから、誘惑に負けることにしてしまうことです。
苦行は、誘惑との戦いに鍛えるための訓練です。少しずつ、意志は苦行によって鍛えられて強くなっていきます。そして、天主の恩寵によって霊魂は誘惑に対して剛毅となっていきます。
このように、自分の聖化のためにも同じようなことがあります。よりよく聖化していきたい、聖徳を実践していきたいと思っていてもつい、怠けてしまう、聖徳の実践が難しいからといって、のんびりとなってしまうようなことがあるでしょう。
聖徳の実践で足もとがすくわれることがある時、誘惑に対する戦いとの同じ二つの原因があります。それは遊楽、この世の喜びなどへの愛着、または十字架に対する恐れです。ですから、常に苦行がどれほど役立つかを思い起こしましょう。
聖テレジアが最期を迎えた時、また次のことを述べました。「私は大きく苦しんだ。霊魂たちにそのことを知らせよう。」
はい、確かです。聖テレジアはこの世で非常に苦しんだのです。多くの苦行をも果たしました。その結果、聖テレジアは次のように明かしてくれます。「この世で過ごせる最高の幸せな人生を送ってきた」
聖パウロも書簡で同じようなことを述べておられます。「私は慰めに満たされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント人への第二の手紙、7,4)
はい、苦行のおかげで、試練のおかげで、天主の子になる本物の自由を取得できることを知っている恩恵を我々は受けています。一番最高の喜びはこれらの試練から得られる天主の子になる自由をもって行う善業にあります。
ですから、よくよく思い出しましょう。苦行は必要不可欠です。また苦行は悲しいことではなく、むしろ、霊魂に多くの喜びを伴わせます。
ですから、我らの主にも、聖母にも、聖テレジアにも、毎日、多くの小さな苦行を果たせるようにと希いましょう。そうすることによって、毎日、いつも、どんどん我らの主、イエズスに倣えるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ランパン神父様(Rampon)のお説教
2022年09月25日
聖テレジアに倣って苦行をしましょう!
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
神父様、親愛する兄弟の皆様、幼きイエズスの聖テレジアを本日、祝います。
1897年9月30日、聖テレジアが天国に生まれました。そして、ピオ十一世の決定によって、聖テレジアはフランスの二位の守護者となりました。聖テレジアという聖人はきっと現代の一番有名な聖人でしょう。聖ピオ十世が述べていたように、聖テレジアは「この時代の一番偉大な聖人である」のです。
聖テレジアが行った奇跡は数多くありますが、ここは時間の問題で省きます。
一つだけを取り上げると、第一次世界大戦の際、多くの兵士たちが聖テレジアの執り成しの恩恵をうけました。
このように聖テレジアは我々に近いのですが、同時に遠い聖人でもあります。
聖テレジアの人生の間に、聖テレジアが大がかりな奇跡を行ったことがありませんでした。この意味で我々に近い聖人です。歴史には水面上を歩く聖人もいれば、未来を予言する聖人もいたし、相手の心を読みとれる聖人も数多くいました。ところが、聖テレジアはそのようなことはありませんでした。聖テレジアは平凡な人生、日常を送ってきました。
このポイントが大事です。聖人になるために何が一番重要なのかを思い起こしてくれるのが聖テレジアです。聖人になるにはひとまず対神徳の優れた実践が必要です。それからキリストに倣ってのキリスト教的な生活上のすべての聖徳の実践が必要です。
しかしながら、一方で聖テレジアを見ると、我々から遠い存在でもあることを感じることがあるでしょう。なぜなら、聖テレジアの覚悟と精神上の剛毅さは桁違いであるからです。罪に対して聖テレジアは一度も脆弱な態度を見せたことはありませんでした。もちろん、どの聖人とも同じように、いくつかの脆弱さによって罪を犯したことがありますが、最期まで大罪を犯したことはありませんでした。
このようにして最期を迎えていた聖テレジアは次のように明かしていました。「三歳の時から、天主からのみ旨を一つも拒んだことがなかった」。
これは聖テレジアの精神上の剛毅さを語ります。我々なら、このような剛毅さからはなかなか遠いでしょう。いつも、崩れることなく、誘惑に負けない剛毅さを聖テレジアほど持てる人は誰かいるでしょうか。
さて、聖テレジアは霊魂ですごい剛毅さがありました。それはどこから来ていたのでしょうか。どうやってその剛毅さを継続できたのでしょうか。これほど固く覚悟して、誘惑に負けず、聖人になれた剛毅さの秘密はなんなのでしょうか。
ここで細かい検討は無理ですが、一番大事な点だけを覚えていただきたいと思います。聖テレジアは苦行を愛し、徹底的に苦行を実践してきたのです。
聖テレジアはよく薔薇をもつ姿で描かれます。それは確かにそうですが、薔薇には多くの茨があることを忘れてはいけません。
聖テレジアは薔薇と共に茨を愛しました。
苦行とは何でしょうか。我々が持つ悪い傾向、原罪の帰結なるこれらの悪い傾向に対する戦いです。原罪による傷のせいで、我々の感情などは自分の理性に対して反乱をおかすことが多いのです。このように、苦行という行為、苦行という実践はこれらの悪い傾向と戦い、我々の本性にある下等な部分である感情、感覚などを理性と意志に従わせることです。こうした苦行によって、最終的に我々の意思と理性を天主のみ旨に従わせるのです。
苦行をするためのやり方は無数にあります。聖テレジアは例えば、食べる時、材料などを交えないことにしていました。なぜなら、それらの材料の味を薄くさせるためでした。あるいは、不本意にスプーンなどを皿に落としてしまったら、聖テレジアがあえてそのスプーンを洗わないで取り直して、改悛の精神でそういった苦行ですらしていました。
また、正当に文句を言えたのに、聖テレジアは何の文句も言わないことにしていました。具体的には、掃除で服などを洗っていた時、ちょっと虐められていたことがあって、汚水で振りかけられることがありましたが、それでも文句を言わないで、その場を去らないで、その作業を続けていました。
このような苦行はほぼだれにも気付かれませんでしたが、考えてみると、それを行うための剛毅さは凄いものがあります。
聖テレジアは修練期のシスターたちにこう述べていました。
「これらの小さな行い(苦行)は自分の健康にも悪くもないし、誰にも気づかれないし、自分の霊魂だけが超自然の熱心さを常に養ってくれる」
もちろん、現代では苦行といったら多くの人々が嫌悪感を抱くかもしれません。現代はかなり物質主義的であり、エゴイズムであり、自己満足、自分の利益、自己実現、自分の出世を何よりも優先するので、驚くことではありません。
ですから、このような世界では苦行をあまり考えたがらない傾向があります。そして、残念ながら、信徒の間でも苦行を行うことが足りないことは珍しくありません。苦行の精神が足りないこともあります。
しかしながら、苦行は必要不可欠です。
第一、 時々、苦行は義務化されています。時期、場所によって。我らの主が仰せになりました。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。」(マテオ、5,28)
つまり、罪深い眼差しもあるので、それを避けるための苦行が必要です。このような場合、苦行は任意ではありません。常に苦行を繰り返すことによる訓練のようなものです。大きな誘惑あるいは試練が来たら、抵抗できるための訓練としての苦行です。小さなことで誘惑に負けたら、大きな誘惑に抵抗することはあり得ないのです。
それから、もう一つあります。我々の心の中に、現世欲の源泉というものがあります。言いかえると、洗礼を受けることによって原罪が消されます。しかしながら、原罪が消されても、霊魂には現世欲の源泉が残っていて、傷であるかのように、そこから罪へ引っ張る悪い傾向などが出てきます。それに対して戦う必要があります。戦うには苦行が必要です。
このような現世欲の源泉は火のようなものです。火のように、火に燃料を補給すればするほど、火が強くなっていきます。そして火が強ければ強いほど、これを消すことは難しくなっていきます。逆に、火から燃料の補給を止めたら、火はどんどん弱くなっていきます。最初、小さな弱い炎だけになるでしょう。
現世欲についても、以上の火と全く同じようなありようがあります。時には正当な楽しみも含めて、毎日のように現世欲を煽っていたら現世欲を強めて拡大させる羽目になります。
逆に、正当な楽しみをも含めて、意志的にそれを拒むことを頻繁にしたら、現世欲も弱くなります。例えば、インターネット上の動画を見たり、好奇心だけで何かを視たりするような時、それは正当な楽しみであるのに、あえてそれを見捨てるような苦行などいろいろ考えられます。このような苦行によって、自分の欲望、現世欲をよりよく支配できるようになります。
それから、何よりも我らの主に倣いましょう。このように我らの主は生まれた時から最期まで、常に断念して自己犠牲を行っていらっしゃいました。「人の子には枕するところもない」(マテオ、8,20)と仰せになったほどの苦行を行われました。
そして、もちろん、ご受難の時、なおさらです。我らの主はつねに、自己犠牲、謙遜、清貧などの模範を見せ給いました。ですから、遊楽と自己満足を追求したら、イエズスに倣うことができなくなります。
イエズスご自身は以上のことを思い起こさせてくださり、仰せになりました。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。」(マテオ、16,24)
最後に、苦行は誘惑に対して抵抗するために非常に役立つことを覚えておきましょう。なぜでしょうか。誘惑が来た時、誘惑に負けたとしましょう。なぜ誘惑に負けるでしょうか。理由は主に二つあります。
ひとつは遊楽への愛着があります。偽りの遊楽によって騙される霊魂は誘惑に負けるわけです。つまり、単なる遊楽であるのに、幸せあるいは幸福であるかのようにみあやまり、遊楽へ飛び込む羽目になります。
苦行によって、このような乱れた遊楽を征服することが出来て、本物の幸せと喜びとはこれらの遊楽にはないことを常に思い出させ、この世での本物の喜びは霊的な喜びだけだということを身につけさせますs。
誘惑に負けるもう一つの理由があります。いわゆる、誘惑に抵抗するために生じる苦しみと疲労への恐れがあります。しんどいから、苦しいから、この戦いが難しいから、誘惑に負けることにしてしまうことです。
苦行は、誘惑との戦いに鍛えるための訓練です。少しずつ、意志は苦行によって鍛えられて強くなっていきます。そして、天主の恩寵によって霊魂は誘惑に対して剛毅となっていきます。
このように、自分の聖化のためにも同じようなことがあります。よりよく聖化していきたい、聖徳を実践していきたいと思っていてもつい、怠けてしまう、聖徳の実践が難しいからといって、のんびりとなってしまうようなことがあるでしょう。
聖徳の実践で足もとがすくわれることがある時、誘惑に対する戦いとの同じ二つの原因があります。それは遊楽、この世の喜びなどへの愛着、または十字架に対する恐れです。ですから、常に苦行がどれほど役立つかを思い起こしましょう。
聖テレジアが最期を迎えた時、また次のことを述べました。「私は大きく苦しんだ。霊魂たちにそのことを知らせよう。」
はい、確かです。聖テレジアはこの世で非常に苦しんだのです。多くの苦行をも果たしました。その結果、聖テレジアは次のように明かしてくれます。「この世で過ごせる最高の幸せな人生を送ってきた」
聖パウロも書簡で同じようなことを述べておられます。「私は慰めに満たされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント人への第二の手紙、7,4)
はい、苦行のおかげで、試練のおかげで、天主の子になる本物の自由を取得できることを知っている恩恵を我々は受けています。一番最高の喜びはこれらの試練から得られる天主の子になる自由をもって行う善業にあります。
ですから、よくよく思い出しましょう。苦行は必要不可欠です。また苦行は悲しいことではなく、むしろ、霊魂に多くの喜びを伴わせます。
ですから、我らの主にも、聖母にも、聖テレジアにも、毎日、多くの小さな苦行を果たせるようにと希いましょう。そうすることによって、毎日、いつも、どんどん我らの主、イエズスに倣えるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン