白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
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クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教
選ばれた巌(いわお)、選ばれた器(うつわ)
2020年07月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、今朝、聖ペトロと聖パウロの記念ミサを祝うことになっております。殉教死を遂げられたこの二人の大使徒を黙想しましょう。二人とも超自然の友情の絆によって密接に結ばれていて一致していました。典礼においても聖ペトロと聖パウロはいつも一緒に祝われている所以です。
自分の命をお捧げして、投げることによって、二人はカトリック教会の二つの柱となりました。
まず、聖ペトロから。最初はシモンという名でしたが、イエズスは彼を呼び求められたとき、つまり召命の時に、彼を改名されました。ヘブライ語の「ケファス」となりますが巌という意味です。はい、このようにペトロは巌となりまして、地獄の門は勝利しないだろうという巌となりました。ゲネサレ湖にあるベツサイダの村に生まれました。彼の兄弟なるアンドレとヨハネとともに、イエズスの最初の弟子に数えられています。
魚の奇跡的な漁を経て、人々の霊的な漁をするようにイエズスによって呼び求められました。そして、我らの主、イエズス・キリストが制定しておられた教会の礎として聖ペトロを選び給いました。イエズスはご自分の全部の群において、聖ペトロに権威上も権限上も優位性を与え給いました。地上において天主の御子の目に見える代理人として、至上の牧者としてイエズスはペトロを親任なさいました。
それから、ペトロはいつもイエズスの傍にいまして、イエズスによっていつも特別に扱われてその優位性を強調しておられます。ヤイロの娘を蘇らせる時あるいは御変容の時などの時に強調されますし、イエズスのご苦悶の際、ゲッセマネ園の時にもペトロはいます。聖ペトロは激烈な性格の持ち主であった分、言葉においても行いにおいても性急によく軽率な行動をしました。また、主を三度も否認されたのはそののち、慎みの教訓となりました。救い主のご昇天の後、聖寵によって強められて変貌した聖ペトロは真理の番人となり、真理の兵士となり、実践と命の威信のある教会の頭となりました。先ほどの朗読にあったように、ペトロは「地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる」(マテオ、18,18)。
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聖ペトロはまた、聖霊降臨後の最初のお説教を述べ、最初の異教徒の洗礼を授けます。百人隊長コルネリウスです。7年間ほど、アンティオキアで布教して、そのあと、司教座をローマへ移しました。当時、ローマは異教世界の都でした。ローマでのペトロの司教活動は25年間続きました。42年から67年までです。在位の間、熱心な信仰を示し、不動の望徳に溢れ、天主と霊魂のために激烈な愛徳を実践されました。というのも、聖ペトロは燃えるような熱心に溢れていたからです。不正、誤謬、罪に対しても燃えるように激烈に踏ん張り、戦っていました。また同時に隣人たちの精神上と身体上の苦しみをこの上なく憐れんでいることでも有名でした。また、試練を受けていた時、聖ペトロはいつも静謐にして喜ばしい心でいられました。天主の御栄光のために、人となり給う天主、イエズスの御血によって贖われた霊魂たちのために何の苦しみをも惜しまなかった聖ペトロです。
そして、ネロ皇帝が始めた激しい迫害の時が来ました。このおかげで大勢の殉教者が輩出していきました。そしてこれらの殉教者の内に一番貴い生贄は聖ペトロと聖パウロの大使徒たちでした。二人とも67年6月29日、同じ日に死刑執行されました。その前、数か月ほど、カンピドリオのマメルティヌスの牢獄で過ごされました。テベル川の向こうで主に倣って同じく磔刑で殺されました。ただし、慎み深い弟子は最期の願いとして、執行人に十字架を逆さまにするように頼んで、このように殉教死を遂げられました。これほど大弟子でありながら、教皇である聖ペトロの慎み深さを知りましょう。
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また、聖ペトロも新約聖書において二つの書簡を残されました。キリシタン圏の人々宛の最初の司教教書なのです。聖ペトロのお墓は一番古い教会となっていまして、ローマにある聖ペトロ大聖堂の丸天井には次の言葉が書かれています。「汝はペトロなり、この岩の上にわれ、わが教会を建てん」。
聖パウロは最初、サウロと呼ばれています。イエズス・キリストのご降誕の二三年前ぐらい、貿易で盛んだったタルススという町に生まれました。親はユダヤ人でした。早くからエルサレムへ行き、当時、一番評判のあったガマリエルというラビの下に学びました。
パウロはひよわで、持病もあったのですが、霊魂は精神は燃えていたのです。激烈でした。並外れの精力がありました。剛毅とした態度でありながら、非常に柔和でした。立派で聡明な方でした。
それから回心してから、イエズス・キリストのために激烈な愛によって燃えていました。選ばれた器なる聖パウロはみ摂理によって準備されて異教徒の回心のために遣わされました。なぜなら、聖パウロはユダヤ人に生まれてユダヤ人の教育を受けながら、生まれた町によってまた言語によってギリシア人であり、そしてローマ市民でした。要するに、ちょうど、三つの文化の交差点にいる稀な人物でした。そのためにもそのようにみ摂理は聖パウロを用意されました。
エルサレムで迫害が始まった時、ユダヤ民の伝統を厳守していたサウロは天主の教会に対する熱狂ぶりで注目されました。というのも、熱心だったサウロはキリシタンを迫害したリーダーのひとりでした。最初の殉教者、助祭ステファノの投石死においても深くかかわっており、かれはその迫害を起した重要な人物でした。
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地上におけるイエズスに一度もあったことなかったサウロはダマスへ赴く途中、聖寵の奇跡によって、イエズスはご出現されて、サウロは回心しました。アナニアから洗礼を授かってからそのあとの使命に向けて心構えしました。その時、イエズスからの偉大な啓示を頂きました。聖パウロは人々から福音やイエズスの教えを貰うことはありませんでした。イエズス・キリストご自身のご啓示から直接に教えられたのです。
ダマスへ帰って宣教活動に励んだ結果、現地のユダヤ人たちは彼の死を謀りました。死から逃れるには逃亡するしかなかったのです。聖パウロの人生は使徒活動上、多くの立派な犠牲、働きと苦しみに溢れて、我々のための偉大な模範であります。世界四方まで海陸で、五回の巡回の旅を行いました。20年以上にわたるキリストの真理のための立派な宣教師でした。おおよそ30ケ国を訪れました。小アジア、欧州などなどを巡歴して、40以上の町においてキリシタンの集団を設立して、組織化して、強化しました。
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聖パウロのすべての旅行は絶えない働きを尽くし、イエズスのためにずっと多くの危険に晒して、苦しみを受けて、迫害を受けました。鞭打ち、投獄、殴打、海上の遭難、裏切りなどでした。また常に諸教会の世話による多くの心配事と悩み事もありました。聖パウロもこれらを書簡において書かれます。しかしながら、この多くの未練を受けても、いつも忍耐強く、つねに喜びに満ちて毅然とした態度で応じました。というのも、我らの主のための愛のために、兄弟たちへの愛のために、聖パウロは苦しんで何の苦労を惜しまなかったからです。牢番の人々ですら聖パウロによって回心されたり、三階から落ちて死んだ若い男を蘇らせたりしたのです。
宣教のための旅は罪と暗闇の支配からできるだけ多くの国々と人々を解放するための作戦でした。真理、聖徳の実践などのイエズス・キリストの王国のためにできるだけ多くの霊魂をしろしめした(統治した、征服した)のです。
聖パウロの言葉、そしてその書簡はミサの時よく読まれてはいますが、司牧上も教義上も美しくて立派です。聖パウロは救い主の聖寵とイエズス・キリストのみ名を多くの異教の国々へ齎(もたら)していきました。
異教徒の使徒と呼ばれた聖パウロは言います。「しかし天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント人への第一の手紙)。これは、大使徒の人生を要約する言葉です。
何の功績のないサウロ、キリシタンを迫害して、それによってイエズスを迫害していたサウロを天主は呼び求めたのです。聖パウロは聖寵の呼びかけに応じたのです。そして、召命に応じてその使命を果たすために、彼が持っていた能力、力を尽くして、尽きるまで踏ん張り続けました。
聖パウロの使徒活動は67年、ローマで最期を迎えました。聖ペトロと一緒にマメルティヌスの牢獄で九か月の投獄を経て死刑執行されました。聖伝によると、二人の使徒は死刑の場に連行された時、ラテン門のところで二人は分けられて、それぞれの執行場へ連行されました。というのも、聖パウロは「ローマ市民」としての特権で、剣によって斬刑に処されました。そのように栄光の冠を得ました。首が斬られた時、首は三度も跳ねました。そして、首が跳ねた地面の三か所には水が湧きました。今のローマにある、三つの湧き水聖パウロ教会ではいまだに、湧き水が流れています。
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永遠なる町、ローマは二人の大使徒の遺体を預かる最大の恩恵を頂きました。そして同じ日に聖パウロと聖ペトロを祝います。この祝日に合わせて、聖務日課書において、教皇聖レオの教えは記載されています。このように述べました。
「ローマよ!偉大なるこの二人の御方はあなた、ローマのために福音の輝かしい光を照らしてくれた!ローマよ、あなたは誤謬の大主だった。誤謬を教えていたのに、二人の大使徒のお陰で、真理の弟子、真理の奉仕者となった。ローマは確かにあらゆる誤謬、すべての国のあらゆる神々などの奴隷となっていた。ローマの神々にはどんどん、多くの国々の神々を入れていって。そして、このように、多くの神々を入れてくれていたので、人々はローマについて高く評価していて、平和を好み、寛大な国だと思い込んでいた。」
聖レオの以上の言葉を聞いて、現代になってかなり思い起させることがあります。というのも、現代、教会内にまで潜り込んでしてしまったとんでもない誤謬が思い起こされるからです。つまり、すべての宗教は平等である、同じ価値があるとする誤謬です。このような偽りのエキュメニズムはすべての宗教を肯定して、つまり悪魔によって作られた偽りの宗教を肯定するなんて、異教のローマに戻ったかのようではないでしょうか。
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聖パウロと聖パウロをはじめ、全時代のすべての殉教者たちは「キリシタン」という名を宣言して、我らの主、イエズスの弟子だと言っていたから迫害を受けました。そして、福音を告白して、宣言して、偽りの宗教の信徒たちはどんどん回心していきました。偽りの宗教に浸かっていた人々はどんどんイエズス・キリストのみ名を認めて、回心していった分、イエズスのみ名を拒んでいた人々は逆にイエズスに対する憎しみに溢れて、「キリシタン」という名は嫌悪の対象となっていきました。
聖ペトロと聖パウロは偉大な使徒にして、聖人でした。十字架上に死なれ、死者の内より蘇られたイエズス・キリストのみ名を通じてしか人々は救いを得られないということを知っていたので、全人生、休まずに踏ん張り続けました。彼等は絶えまなく宣言していました。
「我々は唯一なる天主を仰ぎます。我らの主、イエズス・キリストです。天に行って救われたいと思うなら、イエズス・キリストに回心しなければなりません。我々が救われるために、天下には我らの主イエズスのみ名以外にありません」
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殉教者となった使徒たちはこのように宣教していました
いまだに我々の教訓と模範になります。
聖ペトロと聖パウロが、我々の信仰、望徳、愛徳を常にかきたててくださいますように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
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クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様の説教
選ばれた巌(いわお)、選ばれた器(うつわ)
2020年07月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、今朝、聖ペトロと聖パウロの記念ミサを祝うことになっております。殉教死を遂げられたこの二人の大使徒を黙想しましょう。二人とも超自然の友情の絆によって密接に結ばれていて一致していました。典礼においても聖ペトロと聖パウロはいつも一緒に祝われている所以です。
自分の命をお捧げして、投げることによって、二人はカトリック教会の二つの柱となりました。
まず、聖ペトロから。最初はシモンという名でしたが、イエズスは彼を呼び求められたとき、つまり召命の時に、彼を改名されました。ヘブライ語の「ケファス」となりますが巌という意味です。はい、このようにペトロは巌となりまして、地獄の門は勝利しないだろうという巌となりました。ゲネサレ湖にあるベツサイダの村に生まれました。彼の兄弟なるアンドレとヨハネとともに、イエズスの最初の弟子に数えられています。
魚の奇跡的な漁を経て、人々の霊的な漁をするようにイエズスによって呼び求められました。そして、我らの主、イエズス・キリストが制定しておられた教会の礎として聖ペトロを選び給いました。イエズスはご自分の全部の群において、聖ペトロに権威上も権限上も優位性を与え給いました。地上において天主の御子の目に見える代理人として、至上の牧者としてイエズスはペトロを親任なさいました。
それから、ペトロはいつもイエズスの傍にいまして、イエズスによっていつも特別に扱われてその優位性を強調しておられます。ヤイロの娘を蘇らせる時あるいは御変容の時などの時に強調されますし、イエズスのご苦悶の際、ゲッセマネ園の時にもペトロはいます。聖ペトロは激烈な性格の持ち主であった分、言葉においても行いにおいても性急によく軽率な行動をしました。また、主を三度も否認されたのはそののち、慎みの教訓となりました。救い主のご昇天の後、聖寵によって強められて変貌した聖ペトロは真理の番人となり、真理の兵士となり、実践と命の威信のある教会の頭となりました。先ほどの朗読にあったように、ペトロは「地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる」(マテオ、18,18)。
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聖ペトロはまた、聖霊降臨後の最初のお説教を述べ、最初の異教徒の洗礼を授けます。百人隊長コルネリウスです。7年間ほど、アンティオキアで布教して、そのあと、司教座をローマへ移しました。当時、ローマは異教世界の都でした。ローマでのペトロの司教活動は25年間続きました。42年から67年までです。在位の間、熱心な信仰を示し、不動の望徳に溢れ、天主と霊魂のために激烈な愛徳を実践されました。というのも、聖ペトロは燃えるような熱心に溢れていたからです。不正、誤謬、罪に対しても燃えるように激烈に踏ん張り、戦っていました。また同時に隣人たちの精神上と身体上の苦しみをこの上なく憐れんでいることでも有名でした。また、試練を受けていた時、聖ペトロはいつも静謐にして喜ばしい心でいられました。天主の御栄光のために、人となり給う天主、イエズスの御血によって贖われた霊魂たちのために何の苦しみをも惜しまなかった聖ペトロです。
そして、ネロ皇帝が始めた激しい迫害の時が来ました。このおかげで大勢の殉教者が輩出していきました。そしてこれらの殉教者の内に一番貴い生贄は聖ペトロと聖パウロの大使徒たちでした。二人とも67年6月29日、同じ日に死刑執行されました。その前、数か月ほど、カンピドリオのマメルティヌスの牢獄で過ごされました。テベル川の向こうで主に倣って同じく磔刑で殺されました。ただし、慎み深い弟子は最期の願いとして、執行人に十字架を逆さまにするように頼んで、このように殉教死を遂げられました。これほど大弟子でありながら、教皇である聖ペトロの慎み深さを知りましょう。
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また、聖ペトロも新約聖書において二つの書簡を残されました。キリシタン圏の人々宛の最初の司教教書なのです。聖ペトロのお墓は一番古い教会となっていまして、ローマにある聖ペトロ大聖堂の丸天井には次の言葉が書かれています。「汝はペトロなり、この岩の上にわれ、わが教会を建てん」。
聖パウロは最初、サウロと呼ばれています。イエズス・キリストのご降誕の二三年前ぐらい、貿易で盛んだったタルススという町に生まれました。親はユダヤ人でした。早くからエルサレムへ行き、当時、一番評判のあったガマリエルというラビの下に学びました。
パウロはひよわで、持病もあったのですが、霊魂は精神は燃えていたのです。激烈でした。並外れの精力がありました。剛毅とした態度でありながら、非常に柔和でした。立派で聡明な方でした。
それから回心してから、イエズス・キリストのために激烈な愛によって燃えていました。選ばれた器なる聖パウロはみ摂理によって準備されて異教徒の回心のために遣わされました。なぜなら、聖パウロはユダヤ人に生まれてユダヤ人の教育を受けながら、生まれた町によってまた言語によってギリシア人であり、そしてローマ市民でした。要するに、ちょうど、三つの文化の交差点にいる稀な人物でした。そのためにもそのようにみ摂理は聖パウロを用意されました。
エルサレムで迫害が始まった時、ユダヤ民の伝統を厳守していたサウロは天主の教会に対する熱狂ぶりで注目されました。というのも、熱心だったサウロはキリシタンを迫害したリーダーのひとりでした。最初の殉教者、助祭ステファノの投石死においても深くかかわっており、かれはその迫害を起した重要な人物でした。
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地上におけるイエズスに一度もあったことなかったサウロはダマスへ赴く途中、聖寵の奇跡によって、イエズスはご出現されて、サウロは回心しました。アナニアから洗礼を授かってからそのあとの使命に向けて心構えしました。その時、イエズスからの偉大な啓示を頂きました。聖パウロは人々から福音やイエズスの教えを貰うことはありませんでした。イエズス・キリストご自身のご啓示から直接に教えられたのです。
ダマスへ帰って宣教活動に励んだ結果、現地のユダヤ人たちは彼の死を謀りました。死から逃れるには逃亡するしかなかったのです。聖パウロの人生は使徒活動上、多くの立派な犠牲、働きと苦しみに溢れて、我々のための偉大な模範であります。世界四方まで海陸で、五回の巡回の旅を行いました。20年以上にわたるキリストの真理のための立派な宣教師でした。おおよそ30ケ国を訪れました。小アジア、欧州などなどを巡歴して、40以上の町においてキリシタンの集団を設立して、組織化して、強化しました。
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聖パウロのすべての旅行は絶えない働きを尽くし、イエズスのためにずっと多くの危険に晒して、苦しみを受けて、迫害を受けました。鞭打ち、投獄、殴打、海上の遭難、裏切りなどでした。また常に諸教会の世話による多くの心配事と悩み事もありました。聖パウロもこれらを書簡において書かれます。しかしながら、この多くの未練を受けても、いつも忍耐強く、つねに喜びに満ちて毅然とした態度で応じました。というのも、我らの主のための愛のために、兄弟たちへの愛のために、聖パウロは苦しんで何の苦労を惜しまなかったからです。牢番の人々ですら聖パウロによって回心されたり、三階から落ちて死んだ若い男を蘇らせたりしたのです。
宣教のための旅は罪と暗闇の支配からできるだけ多くの国々と人々を解放するための作戦でした。真理、聖徳の実践などのイエズス・キリストの王国のためにできるだけ多くの霊魂をしろしめした(統治した、征服した)のです。
聖パウロの言葉、そしてその書簡はミサの時よく読まれてはいますが、司牧上も教義上も美しくて立派です。聖パウロは救い主の聖寵とイエズス・キリストのみ名を多くの異教の国々へ齎(もたら)していきました。
異教徒の使徒と呼ばれた聖パウロは言います。「しかし天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント人への第一の手紙)。これは、大使徒の人生を要約する言葉です。
何の功績のないサウロ、キリシタンを迫害して、それによってイエズスを迫害していたサウロを天主は呼び求めたのです。聖パウロは聖寵の呼びかけに応じたのです。そして、召命に応じてその使命を果たすために、彼が持っていた能力、力を尽くして、尽きるまで踏ん張り続けました。
聖パウロの使徒活動は67年、ローマで最期を迎えました。聖ペトロと一緒にマメルティヌスの牢獄で九か月の投獄を経て死刑執行されました。聖伝によると、二人の使徒は死刑の場に連行された時、ラテン門のところで二人は分けられて、それぞれの執行場へ連行されました。というのも、聖パウロは「ローマ市民」としての特権で、剣によって斬刑に処されました。そのように栄光の冠を得ました。首が斬られた時、首は三度も跳ねました。そして、首が跳ねた地面の三か所には水が湧きました。今のローマにある、三つの湧き水聖パウロ教会ではいまだに、湧き水が流れています。
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永遠なる町、ローマは二人の大使徒の遺体を預かる最大の恩恵を頂きました。そして同じ日に聖パウロと聖ペトロを祝います。この祝日に合わせて、聖務日課書において、教皇聖レオの教えは記載されています。このように述べました。
「ローマよ!偉大なるこの二人の御方はあなた、ローマのために福音の輝かしい光を照らしてくれた!ローマよ、あなたは誤謬の大主だった。誤謬を教えていたのに、二人の大使徒のお陰で、真理の弟子、真理の奉仕者となった。ローマは確かにあらゆる誤謬、すべての国のあらゆる神々などの奴隷となっていた。ローマの神々にはどんどん、多くの国々の神々を入れていって。そして、このように、多くの神々を入れてくれていたので、人々はローマについて高く評価していて、平和を好み、寛大な国だと思い込んでいた。」
聖レオの以上の言葉を聞いて、現代になってかなり思い起させることがあります。というのも、現代、教会内にまで潜り込んでしてしまったとんでもない誤謬が思い起こされるからです。つまり、すべての宗教は平等である、同じ価値があるとする誤謬です。このような偽りのエキュメニズムはすべての宗教を肯定して、つまり悪魔によって作られた偽りの宗教を肯定するなんて、異教のローマに戻ったかのようではないでしょうか。
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聖ペトロと聖パウロは偉大な使徒にして、聖人でした。十字架上に死なれ、死者の内より蘇られたイエズス・キリストのみ名を通じてしか人々は救いを得られないということを知っていたので、全人生、休まずに踏ん張り続けました。彼等は絶えまなく宣言していました。
「我々は唯一なる天主を仰ぎます。我らの主、イエズス・キリストです。天に行って救われたいと思うなら、イエズス・キリストに回心しなければなりません。我々が救われるために、天下には我らの主イエズスのみ名以外にありません」
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いまだに我々の教訓と模範になります。
聖ペトロと聖パウロが、我々の信仰、望徳、愛徳を常にかきたててくださいますように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン