白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
苦行の力
2021年06月24日 洗者聖ヨハネの誕生
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日は典礼上も稀なことに、ある聖人の、洗者聖ヨハネの地上での誕生を祝います。普通は聖人を祝う時、その亡くなった日であり、つまり天国に生まれた日を祝います。つまり聖人の超自然上の誕生、もはや失わない永遠の栄光を得た日、聖寵に生まれた日を祝うのです。
地上に誕生した日を祝うのは、三人だけです。ご存じのように、イエズス・キリストのご降誕、9月8日聖母マリアの誕生と本日の洗者聖ヨハネの誕生です。これは特別なことです。イエズス・キリストは原罪を負っていないわけで、聖母マリアは原罪から守られたわけで、洗者聖ヨハネは母の胎内にいた時、(キリストによって)原罪を清められたわけです。
ですから、洗者聖ヨハネは誕生した時、もはや原罪という汚点はなかったので、教会は聖ヨハネを祝うのです。もちろん、洗者聖ヨハネは誕生した時からこの上なく聖徳に満ちているので、我らの目から見て無比に見えるかもしれませんが、洗者聖ヨハネは我々にとって模範となり、倣うべき模範です。で、現代、実際に実践すべき模範です。
本日の福音書にも話されていますが、ミサ聖祭の最期の福音書、いわゆる福音書の「序」においても示されています。
「Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Joannes.」(ヨハネ、1,6)「天主から使わされた一人の人がいた、その名をヨハネといった。」
「Hic venit in testimonium perhiberet de lumine, ut omnes crederent per illum.」(ヨハネ、1,7)「彼は證明のために来た、光について證明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。」光とは真理です。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、このように我々は聖ヨハネに倣うべきです。聖ヨハネはつまり、メシアを知らなかった世における光でした。あるいはメシアを確認することのできなかった世の中の光でした。聖ヨハネは具体的に、イエズスを指さして「彼は天主の羊である」と宣言しました。言いかえると「彼は救い主であり、また生贄ひいては犠牲者であり、贖罪によって天主の御赦しを得しめて、人々のために天国の門を開け給うメシアだよ」という意味です。
要するに、洗者聖ヨハネはメシアとなる我らの主、イエズス・キリストを具体的に指さしてくれました。我らの主は歴史の最後に私たちを裁くために再臨しますが、我々も聖ヨハネのようにイエズス・キリストを指し示さなければなりません。聖ヨハネと違って身をふるって指をさすことはできないものの、精神的にいくらでもできて、やるべきです。
このように洗者聖ヨハネに倣いましょう。つまり、彼に続いて、我々も光の證明者となるべきです。彼に続いて、現代の暗闇の内に生きている我々は光について證明しなければなりません。そして具体的にどうすればよいでしょうか?洗者聖ヨハネと同じやり方ですればよいのです。つまり、言葉を通じて、それから行為を通じて。
言葉をもって、洗者聖ヨハネは悔い改めの洗礼を宣言していました。そうすることによって、メシアの到来の準備をすると教えていました。また、きっと、洗者聖ヨハネは聖書の知識も高くて、ユダヤ人たちはメシアが来たら誰であるかを知ることができるように教えていたのです。
私たちも言葉をもって、常に周りの人々にイエズス・キリストについて話せるようにすべきです。イエズス・キリストへの我々の愛を示さなければなりません。我らも光について證明しなければなりません。ですから、イエズス・キリストを知っていることを示しましょう。そうすることによって、我々はイエズス・キリストを愛していることも示されるでしょう。
このように、知らない人々のために、道を探している人々のために、迷っている人々のために、彼らにイエズス・キリストのことを喋ってあげなければならない、イエズス・キリストについて示さなければならないわけです。そして、そうすることによって、少しずつ彼らもイエズス・キリストへの愛に導かれるように。これは洗者聖ヨハネに倣うための第一の方法です。
第二の方法は実践をつうじてです。ある諺がいうように、「言葉によって感動するが、行為によって心に届いて捉えられる」。このように、洗者聖ヨハネに倣うためには、光について証明するだけではなく、イエズス・キリストの光によって満たされて輝かなければならないわけです。我らの主、イエズス・キリストの光によって、我々の行為は輝かならなければなりません。
さらにいうと、具体的に二つの種類の行為を特に洗者聖ヨハネが実践したのは、慎みと苦行です。このような実際の行為によって我々の周りにいる迷っている人々を啓蒙する、照らしていくわけです。つつしみと苦行という聖徳は近代人がもはや忘れたわけです。というのも、近代になって、人間を天主にしているからです。あるいは、人間を天主にしなくても、少なくとも天主との対等な存在であるとされています。
このように、天主様に対してもはや我々は責任がないかのような誤解を信じ込んでいる時代となりました。まさに、傲慢という罪に他ならなくて、広くこの世に浸透してきています。そして傲慢の罪こそはその他の多くの罪を産んでいきます。その源泉です。
洗者聖ヨハネはイエズスを指し示した時、言いました。「私はその履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ、1,27)と言ったとおりです。また、「彼は栄え、私は引き去らねばならぬ」(ヨハネ、3,30)と洗者聖ヨハネはいいました。洗者聖ヨハネの謙遜さはそのような言葉で要約されています。我らも、あえて言えば、イエズス・キリストの内に自分の身を隠すことによって、我々が透明になるかのようにイエズス・キリストは透けて見えるように努力しましょう。
慎み深くして、謙遜でいられるということは、我らにとって、自分の本来の身分、つまり被創造物に値する相応しい地位のままで生きていくということです。信徒にとって、謙遜に生きるということは、常に天主の内に生きることであって、また天主なしに何もできないことをいつも思い出すことです。このような想いで生きていけたら謙遜に居られます。我らにとって天主は全てであることをよく知り、思い起こし、自分だけでは何でもない、惨めなぞんざいであることを常に知り、生きていけたら、はじめて本当に謙遜を実践していくようになります。
そして、このように生きていくと、自然に無意識にも周りの人々はその謙遜さをみて心にふれることとなります。謙遜というのは、天主の前に自分を引き下げて、へりくだるのですが、地上では力となっていきます。もしかしたら、皆様も経験したかもしれません。友達あるいは同僚からの何らかの言葉で分かったかもしれません。いわゆる、謙遜を実践することによって、天主は自分自身の代わりになっていくかのように、輝かしい力が溢れていきます。全能なる天主はつつましい人々のためにこそ助け給うのです。
そして、洗者聖ヨハネに倣うための二つ目の聖徳は苦行です。言うまでもないのですが、洗者聖ヨハネはこの上なく苦行を行った聖人です。福音書はその苦行の姿を強調しています。ですから、洗者聖ヨハネに我らも苦行を成せるように願いましょう。苦行の内に生きていられるように願いましょう。
現代は快楽の世界となっています。豪楽、娯楽、享楽、快楽主義、物質主義の世界となって、この世は感情、五感、感覚を満たすために邁進していて、溺れているのです。瞬間に容易に何でも手に入れるといって、自己犠牲ができなくなっている世となっています。物事を見捨てることができなくなる世となっています。我らはこの世と反対すべきで、これと全く逆の世界を示さなければなりません。
我らの苦行の実践によって、この世と戦うために、自己犠牲して、自制できて、快楽を見捨てて断つように。そしてこのような抑制と自己犠牲においてこそ幸せになっていくことを證明しましょう。というのも、地上のことを見捨ててれば見捨てるほど、天主を享受していけますので、どんどん幸せになっていきます。また、この世の物事を見捨てて悲しみを感じれば感じるほど、天主はその報いとして喜びを与え給うのです。
このように、苦行をすればするほど、確たる喜びになっていきます。というのも、苦行という時、この世の何らかを見捨てるという負の側面がありますが、同時に、正の側面もあります。正の側面は地上の物事の拘束から解放される分、天主は我々の霊魂においてより完全に居を構え給うことになります。そして、そうすることによって、天主の喜びと平和の内に生きていかれます。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々も真理について証明しましょう。我らの主、イエズス・キリストの証言者、証明者となりましょう。洗者聖ヨハネのように、イエズス・キリストへの道を示していきましょう。ご聖体への道を示していきましょう。そしてその道の目的地は天国です。
また聖母マリアに願いましょう。毅然とした態度でいられるように、また善いタイミング善い言葉を言えるように聖母マリアに祈りましょう。また、謙遜と苦行が実践できるように謙遜の皇后である聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
苦行の力
2021年06月24日 洗者聖ヨハネの誕生
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日は典礼上も稀なことに、ある聖人の、洗者聖ヨハネの地上での誕生を祝います。普通は聖人を祝う時、その亡くなった日であり、つまり天国に生まれた日を祝います。つまり聖人の超自然上の誕生、もはや失わない永遠の栄光を得た日、聖寵に生まれた日を祝うのです。
地上に誕生した日を祝うのは、三人だけです。ご存じのように、イエズス・キリストのご降誕、9月8日聖母マリアの誕生と本日の洗者聖ヨハネの誕生です。これは特別なことです。イエズス・キリストは原罪を負っていないわけで、聖母マリアは原罪から守られたわけで、洗者聖ヨハネは母の胎内にいた時、(キリストによって)原罪を清められたわけです。
ですから、洗者聖ヨハネは誕生した時、もはや原罪という汚点はなかったので、教会は聖ヨハネを祝うのです。もちろん、洗者聖ヨハネは誕生した時からこの上なく聖徳に満ちているので、我らの目から見て無比に見えるかもしれませんが、洗者聖ヨハネは我々にとって模範となり、倣うべき模範です。で、現代、実際に実践すべき模範です。
本日の福音書にも話されていますが、ミサ聖祭の最期の福音書、いわゆる福音書の「序」においても示されています。
「Fuit homo missus a Deo, cui nomen erat Joannes.」(ヨハネ、1,6)「天主から使わされた一人の人がいた、その名をヨハネといった。」
「Hic venit in testimonium perhiberet de lumine, ut omnes crederent per illum.」(ヨハネ、1,7)「彼は證明のために来た、光について證明し、またすべての人が、彼によって信ずるためであった。」光とは真理です。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、このように我々は聖ヨハネに倣うべきです。聖ヨハネはつまり、メシアを知らなかった世における光でした。あるいはメシアを確認することのできなかった世の中の光でした。聖ヨハネは具体的に、イエズスを指さして「彼は天主の羊である」と宣言しました。言いかえると「彼は救い主であり、また生贄ひいては犠牲者であり、贖罪によって天主の御赦しを得しめて、人々のために天国の門を開け給うメシアだよ」という意味です。
要するに、洗者聖ヨハネはメシアとなる我らの主、イエズス・キリストを具体的に指さしてくれました。我らの主は歴史の最後に私たちを裁くために再臨しますが、我々も聖ヨハネのようにイエズス・キリストを指し示さなければなりません。聖ヨハネと違って身をふるって指をさすことはできないものの、精神的にいくらでもできて、やるべきです。
このように洗者聖ヨハネに倣いましょう。つまり、彼に続いて、我々も光の證明者となるべきです。彼に続いて、現代の暗闇の内に生きている我々は光について證明しなければなりません。そして具体的にどうすればよいでしょうか?洗者聖ヨハネと同じやり方ですればよいのです。つまり、言葉を通じて、それから行為を通じて。
言葉をもって、洗者聖ヨハネは悔い改めの洗礼を宣言していました。そうすることによって、メシアの到来の準備をすると教えていました。また、きっと、洗者聖ヨハネは聖書の知識も高くて、ユダヤ人たちはメシアが来たら誰であるかを知ることができるように教えていたのです。
私たちも言葉をもって、常に周りの人々にイエズス・キリストについて話せるようにすべきです。イエズス・キリストへの我々の愛を示さなければなりません。我らも光について證明しなければなりません。ですから、イエズス・キリストを知っていることを示しましょう。そうすることによって、我々はイエズス・キリストを愛していることも示されるでしょう。
このように、知らない人々のために、道を探している人々のために、迷っている人々のために、彼らにイエズス・キリストのことを喋ってあげなければならない、イエズス・キリストについて示さなければならないわけです。そして、そうすることによって、少しずつ彼らもイエズス・キリストへの愛に導かれるように。これは洗者聖ヨハネに倣うための第一の方法です。
第二の方法は実践をつうじてです。ある諺がいうように、「言葉によって感動するが、行為によって心に届いて捉えられる」。このように、洗者聖ヨハネに倣うためには、光について証明するだけではなく、イエズス・キリストの光によって満たされて輝かなければならないわけです。我らの主、イエズス・キリストの光によって、我々の行為は輝かならなければなりません。
さらにいうと、具体的に二つの種類の行為を特に洗者聖ヨハネが実践したのは、慎みと苦行です。このような実際の行為によって我々の周りにいる迷っている人々を啓蒙する、照らしていくわけです。つつしみと苦行という聖徳は近代人がもはや忘れたわけです。というのも、近代になって、人間を天主にしているからです。あるいは、人間を天主にしなくても、少なくとも天主との対等な存在であるとされています。
このように、天主様に対してもはや我々は責任がないかのような誤解を信じ込んでいる時代となりました。まさに、傲慢という罪に他ならなくて、広くこの世に浸透してきています。そして傲慢の罪こそはその他の多くの罪を産んでいきます。その源泉です。
洗者聖ヨハネはイエズスを指し示した時、言いました。「私はその履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ、1,27)と言ったとおりです。また、「彼は栄え、私は引き去らねばならぬ」(ヨハネ、3,30)と洗者聖ヨハネはいいました。洗者聖ヨハネの謙遜さはそのような言葉で要約されています。我らも、あえて言えば、イエズス・キリストの内に自分の身を隠すことによって、我々が透明になるかのようにイエズス・キリストは透けて見えるように努力しましょう。
慎み深くして、謙遜でいられるということは、我らにとって、自分の本来の身分、つまり被創造物に値する相応しい地位のままで生きていくということです。信徒にとって、謙遜に生きるということは、常に天主の内に生きることであって、また天主なしに何もできないことをいつも思い出すことです。このような想いで生きていけたら謙遜に居られます。我らにとって天主は全てであることをよく知り、思い起こし、自分だけでは何でもない、惨めなぞんざいであることを常に知り、生きていけたら、はじめて本当に謙遜を実践していくようになります。
そして、このように生きていくと、自然に無意識にも周りの人々はその謙遜さをみて心にふれることとなります。謙遜というのは、天主の前に自分を引き下げて、へりくだるのですが、地上では力となっていきます。もしかしたら、皆様も経験したかもしれません。友達あるいは同僚からの何らかの言葉で分かったかもしれません。いわゆる、謙遜を実践することによって、天主は自分自身の代わりになっていくかのように、輝かしい力が溢れていきます。全能なる天主はつつましい人々のためにこそ助け給うのです。
そして、洗者聖ヨハネに倣うための二つ目の聖徳は苦行です。言うまでもないのですが、洗者聖ヨハネはこの上なく苦行を行った聖人です。福音書はその苦行の姿を強調しています。ですから、洗者聖ヨハネに我らも苦行を成せるように願いましょう。苦行の内に生きていられるように願いましょう。
現代は快楽の世界となっています。豪楽、娯楽、享楽、快楽主義、物質主義の世界となって、この世は感情、五感、感覚を満たすために邁進していて、溺れているのです。瞬間に容易に何でも手に入れるといって、自己犠牲ができなくなっている世となっています。物事を見捨てることができなくなる世となっています。我らはこの世と反対すべきで、これと全く逆の世界を示さなければなりません。
我らの苦行の実践によって、この世と戦うために、自己犠牲して、自制できて、快楽を見捨てて断つように。そしてこのような抑制と自己犠牲においてこそ幸せになっていくことを證明しましょう。というのも、地上のことを見捨ててれば見捨てるほど、天主を享受していけますので、どんどん幸せになっていきます。また、この世の物事を見捨てて悲しみを感じれば感じるほど、天主はその報いとして喜びを与え給うのです。
このように、苦行をすればするほど、確たる喜びになっていきます。というのも、苦行という時、この世の何らかを見捨てるという負の側面がありますが、同時に、正の側面もあります。正の側面は地上の物事の拘束から解放される分、天主は我々の霊魂においてより完全に居を構え給うことになります。そして、そうすることによって、天主の喜びと平和の内に生きていかれます。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々も真理について証明しましょう。我らの主、イエズス・キリストの証言者、証明者となりましょう。洗者聖ヨハネのように、イエズス・キリストへの道を示していきましょう。ご聖体への道を示していきましょう。そしてその道の目的地は天国です。
また聖母マリアに願いましょう。毅然とした態度でいられるように、また善いタイミング善い言葉を言えるように聖母マリアに祈りましょう。また、謙遜と苦行が実践できるように謙遜の皇后である聖母マリアに祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン