白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
巨人たちを倒す方法について
2021年06月20日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、聖務日課には早課があります。早課とは具体的に九つの詩編を詠唱するのですが、夜間の日課です。また、毎日九つの詩編の後、聖なる教会はいくつかの読誦を加えています。毎日変わりますが、読誦は具体的にどのようでしょうか。聖書の知識を養うためという意味でも、聖書の文章はたくさんあります。そのおかげで、聖書のすべての書を読めることになってかなりためになります。読誦といったら、また教父たちによる文章も多くて、多くの場合、福音書を解釈する文章になります。または福音書読誦もあります。
さて、今の時期になると、司祭たちは早課を詠唱するにあたって、列王の書の読誦となっています。旧約聖書において、列王はいわゆる「士師」の時代の次に来た時代です。それはエジプトから解放された後、イスラエル人達は聖地を取り戻して、「士師」という人々を通じて、天主は直接にイスラエルの民を統治しました。言いかえると、その時代には王あるいは指導者などはいませんでした。平時であるとこのように平和に何とかできましたが、何らかの脅威あるいは戦争は起きた場合、天主は「士師」と呼ばれる人を選び出されて、この士師はイスラエル民のトップとなって、敵を破って、秩序を取り戻して、通常の物事についても決定したりしましたが、一旦平時に戻ったら、士師は「士師」を「やめて」自分の家に帰って死ぬまで平和に住んでいました。
ある日、イスラエル民は一揆して、「他の国々と同じように王が欲しい」と要求しだしました。そしてそれは叶って、初代の王はサウル王でした。
ちょうど最近の読誦ではサウル王がペリシテ人に戦に挑むところになっています。ある山腹(山の中腹)の上にいるサウル王は下への谷と川を展望しています。そして、向こうの山の中腹にペリシテ人の軍隊は構えています。両陣営は開戦を待ちながら立ち向かいつつお互いに見合っています。ただし、ペリシテ人の軍隊にはある男がいます。ゴリアテという兵士です。かれは巨人です。本当に背高くて文字通りに巨人であり、架空ではありません。聖書において彼の身長は明記されていて、およそ340センチメーターとなっていました。ですから、かなりの身長の巨人で、皆かれを恐れていました。あと背が高かっただけではなく、デカくて力が強かったわけです。聖書にはゴリアテの鎧の重さが明記されています。この鎧を着てもゴリアテは普通に手際よく戦えたと書いてあります。鎧の重さはおよそ70キロでした。以上はゴリアテの描写です。
そして毎日、ペリシテ人の陣営のあるテントからゴリアテが出て、谷へ降りて、そこにある川の岸まで近づいて、つまりサウル王が率いたイスラエル人の陣営の一番近いところまで行っていました。そこで、ゴリアテは大声でイスラエル人たちを脅かしていました。「おまえらの内の一人が我々と決闘せよ!この決闘の結果次第で、戦争の結果が決まって、勝った側は敵の民を支配することになるとしよう!」
そして以上のように、40日間毎日、ゴリアテは同じく、降りて決闘という挑発をします。また同時にイスラエル人の卑怯さと弱さを罵りながら挑みだします。そしてそうすることによって、文脈でいうと、イスラエル人を通じて、イスラエル人の神をも侮辱することになります。
サウル王の軍隊は挑まれても動きませんでした。恐れています。イスラエル人の軍隊には巨人もいないし、いったい誰がこの恐ろしい巨人ゴリアテと戦えるかは見当たらないままです。
ある日、ダヴィド王が登場します。その時、すでに王となっています。聖別式に与って塗油を受けたから王となっています。イスラエル人の陣営に16歳で到着します。ダヴィド王は末っ子でしたが父によって送られたわけです。なぜならダヴィド王の兄さんたちはサウル王の兵士としてそこにいたからです。で、ダヴィドの父は兄さんたちのために差し入れをするためにダヴィドを送ったわけです。またいくつかの物を陣営から故郷へ運ぶためにも送られました。
このように、ダヴィドは陣営に到着して、三人の兄さんを捜して、父から預かった差し入れを渡します。すると、ちょうどその時、ゴリアテの声が聞こえて、イスラエル人を罵り、天主を罵ることばが聞こえました。聖霊によって感化されたダヴィドはそれを聞いて「何もせずにいられるわけがない。天主をこのように侮辱されてじっといられない」ということで、ダヴィドはサウル王のところにいって、ゴリアテと戦う許可を頼みます。
当然のことですが、サウル王は15-16歳のダヴィドを見てちょっと若いなあと思って、また弱いなあと思いました。ダヴィドは巨人でもないし、体も細かったです。ですから、サウル王は許可を与えることに関してためらうのです。また、ダヴィドは兵士の間で馬鹿にされることになります。兄さんたちも「君が何をやっているか、子供の遊びではない。帰れ」とね。
しかしながら、ダヴィドはそれでもしつこく頼み続けます。ダヴィドを通じての天主の聖旨ですが、ダヴィドは「その人と戦うよ。天主はこれ以上侮辱させられないことを確信している」と。
すると、サウル王は結局、ダヴィドの頼みに応じてゴリアテとの決闘に行かせます。サウル王はまた、ダヴィドに鎧を与えます。ダヴィドは一応鎧を着ますが、はじめて武装することになるので、ぜんぜん覚束なくて、居心地が悪いわけです。結局、ダヴィドは鎧を脱いで「大丈夫だよ、いつもの身なりでいって、自分の武器をもって戦うからさ」。つまりその武器とは鳥を狩るためにずだ袋に収まっている投石器とここまで来るための棒で、それで戦うのです。
このようにダヴィドは投石器と棒を手にしながら、ゴリアテがイスラエル人を罵りに来る時に合わせて、巨人ゴリアテのところに行きます。そうすると、ダヴィドは川まで行って入って、五個の小石を拾って、ゴリアテの決闘に応じます。このような小さな子供が巨人である自分と戦うなんて侮辱だと受け止めて、ダヴィドを指して「犬め」と罵ります。そして、ひきつづきに、冒涜しながら天主を侮辱しつづけます。
そして、聖書によると、ダヴィドはゴリアテを回りながら、彼が戦いに応じるように挑発します。ゴリアテは勝利を確信しているので、何も用心なく立ち向かいます。すると、ダヴィドはずだ袋から石を出して、投石器に入れてこれを振りまわし始めます。ゴリアテは目の前にある子供を見て、侮辱として受け止めます。
そして、ダヴィドは石をゴリアテの額へ投げて、当たって額が貫かれておそらく小脳に当たって、ゴリアテは地面に堂々と倒されます。少なくともゴリアテは気絶していたのですが、死んでいるかどうかはまだ判明しておらず、ダヴィドはもう動かない巨人の身体へ走り出します。ゴリアテの剣を鞘からぬいて、ゴリアテの首を跳ねます。
すると、ペリシテ人は恐怖におちいります。無敵の巨人が死んだということで逃亡しだします。イスラエル人は逃亡する軍隊を追いかけてできるだけ多くの敵の兵士を殺しました。
いと愛する兄弟の皆様、以上の話は物語でもなんでもなく、史実ですが、そこから多くの教訓が得られます。聖アウグスティヌスは時に重要な教訓を示してくれます。
ペリシテ人は悪魔の陣営をしめしています。ゴリアテは悪魔らの頭を示します。悪魔らの王、闇の君主、サタンを示します。イエズス・キリストの人々をどうしても殺そうとしている悪魔らの頭を示します。イスラエル人とサウル王はいわゆる、善い陣営を示しますが、間違った力を使っているわけです。なぜなら、イスラエル人の陣営とサウル王の軍隊は自分らの力に頼って戦おうとしますが、自分の力だけではゴリアテに対して何もできないわけです。
そこから、第一の教訓を述べましょう。我々は、人間の力だけでは、人間に与えられる力だけでは、天使である悪魔らに対して何もできなくて無力であるということです。天使は遥かに人間を越えているだけではなく、更に言うと、原罪を負っている人間になると、なおさらのことです。ですから、自分の力だけでは、つまり人間だけの力では、悪魔に対して何もできないで、無力で、足が掬われて麻痺してしまいます。場合によって大変なことになります。
その時、15歳の若い当事者は登場します。ダヴィドです。彼は清さを示して、無垢、素直さをしめしています。つまり福音書において「子供のようになりなさい」(マテオ、18,3あたり)とイエズスが仰せになったことが思い起こされます。
棒を手にしてダヴィドは来ます。この棒はイエズス・キリストの「十字架」を示しています。ですから、ゴリアテはダヴィドを罵ります。「棒だけをとって来やがるね。犬め」と罵ります。はい、イエズス・キリストは悪魔と戦い、勝利して倒しましたが、それは十字架によって勝ちました。また五個の石は、教父たちによると、イエズスの聖なる生贄の五つの御傷を示しています。
要するに、ゴリアテの前に進むダヴィドは十字架とイエズスの御傷から出た御血から流される聖寵を示します。
聖書も明記しているように、なぜダヴィドは戦うことにしたかというと、天主が全能であることを知って、天主の御力に信頼していたからと書いてあります。そして、天主こそはゴリアテに勝利したわけです。
教訓はどこにあるでしょうか?
我々も、悪魔に対して勝利するのは、自分の力ではなく、イエズス・キリストの御力によって悪魔は破られることになるということです。また、イエズス・キリストの十字架のお陰で、我々は送られる誘惑に対して勝利するでしょうということです。十字架は我々がお捧げする犠牲であり、五個の小石は我らの主の御傷から流れる御血であります。我々はこの御血を秘蹟によって受け入れます。ですから、十字架と秘蹟を手にしているのなら、我々も悪魔を倒すことができるのです。
いと愛する兄弟の皆様、以上のような教訓は我々の人生において思い起こしましょう。悪魔を過小評価していけませんよ。我々を敵にしている勢力を過小評価してはいけませんよ。どれほど多くの罪がおかされているかを見たらその勢力の強さはわかります。また残念ながらも、我々の内にも罪を犯しているわけです。我々は傷つけられているから、悪魔は我々に比べて強くて我らよりも遥かに強いわけです。
しかしながら、だからといって、絶望してはいけませんよ。天主の聖寵に自分自身を完全に託しましょう。キリストの十字架に自分自身を完全に託しましょう。イエズスの十字架は現世と死と悪魔を破って勝利しました。「死よ、私はあなたの死だ」。
我らの主の十字架というのは、イエズス・キリストに自分自身の霊魂をお捧げする勝利であって、悪魔の敗北を意味します。
ですから、以上の教訓を具体的に我々の人生において踏まえるべきです。つまり、超自然の手段を活かしてこそ、悪魔と戦うということです。
しかしながら、その上、現代の教会の危機において、活かすべき教訓です。つまり、人間臭い手段、つまり自然上の手段を使って教会を救えないわけです。社会ですら、社会の復興を得るために、自然レベルの手段を使おうとしても無駄です。最終的に教会の復興も社会の復興も聖寵と秘蹟を通じてはじめて可能となります。
現代、我々が経験しているカトリック教会の危機は深刻です。いと愛する兄弟の皆様、一番攻撃されているのはミサ聖祭をはじめとする秘蹟なのです。要するに、ゴリアテを倒すための棒と小石は攻撃されているということです。ですから、本当に教会の危機が終わってほしいと思ったら、信仰に対して忠誠を尽くそうと思ったら、我々もいつものミサ聖祭と秘蹟と信仰と望徳に忠実を尽くすべきです。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、ミサ聖祭においてこそ我々は希望を据えて期待しましょう。頻繁に秘跡に与ることこそは我々の救霊や社会などの復興につながることを確信しましょう。人間らしい手段、人間臭い手段に期待して、教会の危機などの解決を希望していけないのです。
残念ながらも、第二ヴァチカン公会議ぼけ(現状や真理を把握しようとしない知識の欠如や危機感の低さのこと:編集者追記)の、聖伝を拒んでいる現代の多くのカトリック信徒はまさにこの罠に陥りました。彼らは義足の傷を焼こうとするような無駄なことをやっているかのようです。つまり、「福祉」などの人間臭い手段を使おうとして教会を復興しようとする無駄なことほどがありません。残念ながら、このような手段では、戦いはもはや負けになっています。サウル王もイスラエル人の兵士たちもそれを認識していたのに、我々も認識すべきことです。
いと愛する兄弟の皆様、聖母マリアの手にすべてを託しましょう。聖母マリアがいつもいつも天主なる御子の御手にすべてを託されたように。
天主の母になることを頼みに来た天使が聖母マリアの前に現れた時、聖母マリアははっきりと言われます。自分の力でそういうことはできないという「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」(ルカ、1,34)とマリアは聞きます。言いかえると、聖母マリアは自分を天主に奉献して一生貞潔を守る誓願をしたので、救い主の母になれないという質問ですが、それに応じて天使は「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。」(ルカ、1,35)。つまり、天使は聖霊と聖寵によってこそ、これらの不思議なことは起きると告げました。
また従姉のエリザベートに会いに行く時、聖母マリアは言います。「私の魂は主をあがめ」る(ルカ、1,46)と。つまり、自分の力で天主の母になったことはなくて、全能なる天主が自分自身に偉大なことを行っておられるだけである、というつつましい心の現れです。はい、天主こそはすべてを成されておられます。我々は単なる道具ですから、協力することを決意して、自分の意志で協力をしようとしないかぎり、何も始まらないのです。天主こそはすべてを成しておられるわけです。
ですから、聖母マリアに祈りましょう。純粋な超自然な希望でいられるように。人間臭すぎる物事を無視できるように。過剰に感情的なあるいは物質的なものごとを無視できるように。祈りと信仰に自分を捧げられるように。ミサ聖祭に与り、頻繁に秘跡に与れるように。そうすることによってこそ我々は周りにいる多くの巨人に対して凱旋していきます。
はい、それをはっきりと申し上げる義務があります。我々を囲む誤謬は膨大で巨人のようなものです。そして、これらの誤謬に比べて、我らはかなり弱くみえるでしょう。しかしながら、天主の聖寵があれば、聖母マリアの御取り次ぎがあれば、お祈りの助けがあれば、ロザリオの祈りがあれば、凱旋するということを確信できます。というのも、聖母は約束したからです。「最後に私の無原罪の御心は勝利する」と。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
ビルコック(Billecocq)神父様の説教
巨人たちを倒す方法について
2021年06月20日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、聖務日課には早課があります。早課とは具体的に九つの詩編を詠唱するのですが、夜間の日課です。また、毎日九つの詩編の後、聖なる教会はいくつかの読誦を加えています。毎日変わりますが、読誦は具体的にどのようでしょうか。聖書の知識を養うためという意味でも、聖書の文章はたくさんあります。そのおかげで、聖書のすべての書を読めることになってかなりためになります。読誦といったら、また教父たちによる文章も多くて、多くの場合、福音書を解釈する文章になります。または福音書読誦もあります。
さて、今の時期になると、司祭たちは早課を詠唱するにあたって、列王の書の読誦となっています。旧約聖書において、列王はいわゆる「士師」の時代の次に来た時代です。それはエジプトから解放された後、イスラエル人達は聖地を取り戻して、「士師」という人々を通じて、天主は直接にイスラエルの民を統治しました。言いかえると、その時代には王あるいは指導者などはいませんでした。平時であるとこのように平和に何とかできましたが、何らかの脅威あるいは戦争は起きた場合、天主は「士師」と呼ばれる人を選び出されて、この士師はイスラエル民のトップとなって、敵を破って、秩序を取り戻して、通常の物事についても決定したりしましたが、一旦平時に戻ったら、士師は「士師」を「やめて」自分の家に帰って死ぬまで平和に住んでいました。
ある日、イスラエル民は一揆して、「他の国々と同じように王が欲しい」と要求しだしました。そしてそれは叶って、初代の王はサウル王でした。
ちょうど最近の読誦ではサウル王がペリシテ人に戦に挑むところになっています。ある山腹(山の中腹)の上にいるサウル王は下への谷と川を展望しています。そして、向こうの山の中腹にペリシテ人の軍隊は構えています。両陣営は開戦を待ちながら立ち向かいつつお互いに見合っています。ただし、ペリシテ人の軍隊にはある男がいます。ゴリアテという兵士です。かれは巨人です。本当に背高くて文字通りに巨人であり、架空ではありません。聖書において彼の身長は明記されていて、およそ340センチメーターとなっていました。ですから、かなりの身長の巨人で、皆かれを恐れていました。あと背が高かっただけではなく、デカくて力が強かったわけです。聖書にはゴリアテの鎧の重さが明記されています。この鎧を着てもゴリアテは普通に手際よく戦えたと書いてあります。鎧の重さはおよそ70キロでした。以上はゴリアテの描写です。
そして毎日、ペリシテ人の陣営のあるテントからゴリアテが出て、谷へ降りて、そこにある川の岸まで近づいて、つまりサウル王が率いたイスラエル人の陣営の一番近いところまで行っていました。そこで、ゴリアテは大声でイスラエル人たちを脅かしていました。「おまえらの内の一人が我々と決闘せよ!この決闘の結果次第で、戦争の結果が決まって、勝った側は敵の民を支配することになるとしよう!」
そして以上のように、40日間毎日、ゴリアテは同じく、降りて決闘という挑発をします。また同時にイスラエル人の卑怯さと弱さを罵りながら挑みだします。そしてそうすることによって、文脈でいうと、イスラエル人を通じて、イスラエル人の神をも侮辱することになります。
サウル王の軍隊は挑まれても動きませんでした。恐れています。イスラエル人の軍隊には巨人もいないし、いったい誰がこの恐ろしい巨人ゴリアテと戦えるかは見当たらないままです。
ある日、ダヴィド王が登場します。その時、すでに王となっています。聖別式に与って塗油を受けたから王となっています。イスラエル人の陣営に16歳で到着します。ダヴィド王は末っ子でしたが父によって送られたわけです。なぜならダヴィド王の兄さんたちはサウル王の兵士としてそこにいたからです。で、ダヴィドの父は兄さんたちのために差し入れをするためにダヴィドを送ったわけです。またいくつかの物を陣営から故郷へ運ぶためにも送られました。
このように、ダヴィドは陣営に到着して、三人の兄さんを捜して、父から預かった差し入れを渡します。すると、ちょうどその時、ゴリアテの声が聞こえて、イスラエル人を罵り、天主を罵ることばが聞こえました。聖霊によって感化されたダヴィドはそれを聞いて「何もせずにいられるわけがない。天主をこのように侮辱されてじっといられない」ということで、ダヴィドはサウル王のところにいって、ゴリアテと戦う許可を頼みます。
当然のことですが、サウル王は15-16歳のダヴィドを見てちょっと若いなあと思って、また弱いなあと思いました。ダヴィドは巨人でもないし、体も細かったです。ですから、サウル王は許可を与えることに関してためらうのです。また、ダヴィドは兵士の間で馬鹿にされることになります。兄さんたちも「君が何をやっているか、子供の遊びではない。帰れ」とね。
しかしながら、ダヴィドはそれでもしつこく頼み続けます。ダヴィドを通じての天主の聖旨ですが、ダヴィドは「その人と戦うよ。天主はこれ以上侮辱させられないことを確信している」と。
すると、サウル王は結局、ダヴィドの頼みに応じてゴリアテとの決闘に行かせます。サウル王はまた、ダヴィドに鎧を与えます。ダヴィドは一応鎧を着ますが、はじめて武装することになるので、ぜんぜん覚束なくて、居心地が悪いわけです。結局、ダヴィドは鎧を脱いで「大丈夫だよ、いつもの身なりでいって、自分の武器をもって戦うからさ」。つまりその武器とは鳥を狩るためにずだ袋に収まっている投石器とここまで来るための棒で、それで戦うのです。
このようにダヴィドは投石器と棒を手にしながら、ゴリアテがイスラエル人を罵りに来る時に合わせて、巨人ゴリアテのところに行きます。そうすると、ダヴィドは川まで行って入って、五個の小石を拾って、ゴリアテの決闘に応じます。このような小さな子供が巨人である自分と戦うなんて侮辱だと受け止めて、ダヴィドを指して「犬め」と罵ります。そして、ひきつづきに、冒涜しながら天主を侮辱しつづけます。
そして、聖書によると、ダヴィドはゴリアテを回りながら、彼が戦いに応じるように挑発します。ゴリアテは勝利を確信しているので、何も用心なく立ち向かいます。すると、ダヴィドはずだ袋から石を出して、投石器に入れてこれを振りまわし始めます。ゴリアテは目の前にある子供を見て、侮辱として受け止めます。
そして、ダヴィドは石をゴリアテの額へ投げて、当たって額が貫かれておそらく小脳に当たって、ゴリアテは地面に堂々と倒されます。少なくともゴリアテは気絶していたのですが、死んでいるかどうかはまだ判明しておらず、ダヴィドはもう動かない巨人の身体へ走り出します。ゴリアテの剣を鞘からぬいて、ゴリアテの首を跳ねます。
すると、ペリシテ人は恐怖におちいります。無敵の巨人が死んだということで逃亡しだします。イスラエル人は逃亡する軍隊を追いかけてできるだけ多くの敵の兵士を殺しました。
いと愛する兄弟の皆様、以上の話は物語でもなんでもなく、史実ですが、そこから多くの教訓が得られます。聖アウグスティヌスは時に重要な教訓を示してくれます。
ペリシテ人は悪魔の陣営をしめしています。ゴリアテは悪魔らの頭を示します。悪魔らの王、闇の君主、サタンを示します。イエズス・キリストの人々をどうしても殺そうとしている悪魔らの頭を示します。イスラエル人とサウル王はいわゆる、善い陣営を示しますが、間違った力を使っているわけです。なぜなら、イスラエル人の陣営とサウル王の軍隊は自分らの力に頼って戦おうとしますが、自分の力だけではゴリアテに対して何もできないわけです。
そこから、第一の教訓を述べましょう。我々は、人間の力だけでは、人間に与えられる力だけでは、天使である悪魔らに対して何もできなくて無力であるということです。天使は遥かに人間を越えているだけではなく、更に言うと、原罪を負っている人間になると、なおさらのことです。ですから、自分の力だけでは、つまり人間だけの力では、悪魔に対して何もできないで、無力で、足が掬われて麻痺してしまいます。場合によって大変なことになります。
その時、15歳の若い当事者は登場します。ダヴィドです。彼は清さを示して、無垢、素直さをしめしています。つまり福音書において「子供のようになりなさい」(マテオ、18,3あたり)とイエズスが仰せになったことが思い起こされます。
棒を手にしてダヴィドは来ます。この棒はイエズス・キリストの「十字架」を示しています。ですから、ゴリアテはダヴィドを罵ります。「棒だけをとって来やがるね。犬め」と罵ります。はい、イエズス・キリストは悪魔と戦い、勝利して倒しましたが、それは十字架によって勝ちました。また五個の石は、教父たちによると、イエズスの聖なる生贄の五つの御傷を示しています。
要するに、ゴリアテの前に進むダヴィドは十字架とイエズスの御傷から出た御血から流される聖寵を示します。
聖書も明記しているように、なぜダヴィドは戦うことにしたかというと、天主が全能であることを知って、天主の御力に信頼していたからと書いてあります。そして、天主こそはゴリアテに勝利したわけです。
教訓はどこにあるでしょうか?
我々も、悪魔に対して勝利するのは、自分の力ではなく、イエズス・キリストの御力によって悪魔は破られることになるということです。また、イエズス・キリストの十字架のお陰で、我々は送られる誘惑に対して勝利するでしょうということです。十字架は我々がお捧げする犠牲であり、五個の小石は我らの主の御傷から流れる御血であります。我々はこの御血を秘蹟によって受け入れます。ですから、十字架と秘蹟を手にしているのなら、我々も悪魔を倒すことができるのです。
いと愛する兄弟の皆様、以上のような教訓は我々の人生において思い起こしましょう。悪魔を過小評価していけませんよ。我々を敵にしている勢力を過小評価してはいけませんよ。どれほど多くの罪がおかされているかを見たらその勢力の強さはわかります。また残念ながらも、我々の内にも罪を犯しているわけです。我々は傷つけられているから、悪魔は我々に比べて強くて我らよりも遥かに強いわけです。
しかしながら、だからといって、絶望してはいけませんよ。天主の聖寵に自分自身を完全に託しましょう。キリストの十字架に自分自身を完全に託しましょう。イエズスの十字架は現世と死と悪魔を破って勝利しました。「死よ、私はあなたの死だ」。
我らの主の十字架というのは、イエズス・キリストに自分自身の霊魂をお捧げする勝利であって、悪魔の敗北を意味します。
ですから、以上の教訓を具体的に我々の人生において踏まえるべきです。つまり、超自然の手段を活かしてこそ、悪魔と戦うということです。
しかしながら、その上、現代の教会の危機において、活かすべき教訓です。つまり、人間臭い手段、つまり自然上の手段を使って教会を救えないわけです。社会ですら、社会の復興を得るために、自然レベルの手段を使おうとしても無駄です。最終的に教会の復興も社会の復興も聖寵と秘蹟を通じてはじめて可能となります。
現代、我々が経験しているカトリック教会の危機は深刻です。いと愛する兄弟の皆様、一番攻撃されているのはミサ聖祭をはじめとする秘蹟なのです。要するに、ゴリアテを倒すための棒と小石は攻撃されているということです。ですから、本当に教会の危機が終わってほしいと思ったら、信仰に対して忠誠を尽くそうと思ったら、我々もいつものミサ聖祭と秘蹟と信仰と望徳に忠実を尽くすべきです。
いと愛する兄弟の皆様、ですから、ミサ聖祭においてこそ我々は希望を据えて期待しましょう。頻繁に秘跡に与ることこそは我々の救霊や社会などの復興につながることを確信しましょう。人間らしい手段、人間臭い手段に期待して、教会の危機などの解決を希望していけないのです。
残念ながらも、第二ヴァチカン公会議ぼけ(現状や真理を把握しようとしない知識の欠如や危機感の低さのこと:編集者追記)の、聖伝を拒んでいる現代の多くのカトリック信徒はまさにこの罠に陥りました。彼らは義足の傷を焼こうとするような無駄なことをやっているかのようです。つまり、「福祉」などの人間臭い手段を使おうとして教会を復興しようとする無駄なことほどがありません。残念ながら、このような手段では、戦いはもはや負けになっています。サウル王もイスラエル人の兵士たちもそれを認識していたのに、我々も認識すべきことです。
いと愛する兄弟の皆様、聖母マリアの手にすべてを託しましょう。聖母マリアがいつもいつも天主なる御子の御手にすべてを託されたように。
天主の母になることを頼みに来た天使が聖母マリアの前に現れた時、聖母マリアははっきりと言われます。自分の力でそういうことはできないという「私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」(ルカ、1,34)とマリアは聞きます。言いかえると、聖母マリアは自分を天主に奉献して一生貞潔を守る誓願をしたので、救い主の母になれないという質問ですが、それに応じて天使は「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。」(ルカ、1,35)。つまり、天使は聖霊と聖寵によってこそ、これらの不思議なことは起きると告げました。
また従姉のエリザベートに会いに行く時、聖母マリアは言います。「私の魂は主をあがめ」る(ルカ、1,46)と。つまり、自分の力で天主の母になったことはなくて、全能なる天主が自分自身に偉大なことを行っておられるだけである、というつつましい心の現れです。はい、天主こそはすべてを成されておられます。我々は単なる道具ですから、協力することを決意して、自分の意志で協力をしようとしないかぎり、何も始まらないのです。天主こそはすべてを成しておられるわけです。
ですから、聖母マリアに祈りましょう。純粋な超自然な希望でいられるように。人間臭すぎる物事を無視できるように。過剰に感情的なあるいは物質的なものごとを無視できるように。祈りと信仰に自分を捧げられるように。ミサ聖祭に与り、頻繁に秘跡に与れるように。そうすることによってこそ我々は周りにいる多くの巨人に対して凱旋していきます。
はい、それをはっきりと申し上げる義務があります。我々を囲む誤謬は膨大で巨人のようなものです。そして、これらの誤謬に比べて、我らはかなり弱くみえるでしょう。しかしながら、天主の聖寵があれば、聖母マリアの御取り次ぎがあれば、お祈りの助けがあれば、ロザリオの祈りがあれば、凱旋するということを確信できます。というのも、聖母は約束したからです。「最後に私の無原罪の御心は勝利する」と。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン