白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
2022年7月10日
血まみれの夏
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、今まさに夏まっさかりになろうとしています。多くの人々は夏休みを取るでしょう。夏休みを取らない人々でも、夏の雰囲気になるでしょう。つまり、気が緩む気分になりがちであって、のんきになるような空気になる季節ですね。忙しいはずなのに、この世はそもそも、のんきで無頓着ですが、夏になると更にこの傾向はひどくなります。
キリスト教徒にとっては、この季節は、勇敢に戦うよい時期といえます。戦いを好み、戦いに挑み、無頓着にならないように、のんきにならないように、この世の誘惑にしてやられないように戦うための最高の時期なのです。
映像史料を見ると、昔の映像を閲覧することができます。一番驚くべき年は1939年の夏に上映された映画のリストでしょう。有給制度が確立したことを受けて、1939年の夏の映像には多くの子供をはじめ、多くの家族が山なり海辺なりに行って、だらだらと風呂に入ったり水遊びしたりするような映像が多いです。もう、のんきという空気は映像をみるだけでもひどく感じ取れます。ひどいものです。なぜなら、夏休みが終わった瞬間、9月1日、戦争布告されて、戦争がはじまりました。どれほど大変な戦争になったかは言うまでもありません。
現代でも変わらないのです。残念なことに。国際状況を思い出してください。ウクライナで、西洋の諸国は苦戦を強いられて足もとがすくわれつつあります。この理不尽な国際外交のせいで、国際上の危機を引き起こす可能性は高まりつづけています。不幸なことに、前代未聞の大変な難事の時代が訪れる恐れすらあります。
そして、あちこちの人々、とくに指導者などの頑固なまでに現実を見ないふりをする光景は悲惨そのものです。これほど、頑固に見ないふりをして、目をつぶっているふりをしているなど、あり得ないのです。理にかなわない、バカげた制裁を加えても、それは戦争を止めることにはならないバカな行為です。高度な武器をどれほど提供しても、それは戦争を止めないばかりか、戦争を激化させるだけです。このようなやり方で平和を世界にもたらそうと思うのですか。核兵器の脅迫などまったく世界に平和をもたらすことにはなりません。これらは空想にすぎません。幻想です。
本当に世界に平和を取り戻したいと思うなら、唯一天主のみもとに戻るしかありません。天主への本物の回心を通じてしか本物の平和を得られないのです。
紀元前六世紀ごろ、ユダ王国の崩壊のちょっと前に、王国は二つの大勢力の間で、何とか、しのいでいました。北東ではバビロニア帝国の勢力があって、南方ではエジプト帝国がありました。ユダ王国は小さな国であって、これらの二つの大勢力の間に翻弄されていたのです。これらの大勢力の間にあったため、両帝国の影響圏のなかで戦場にもなりました。
エレミヤをはじめ、多くの預言者はユダ王国の国王にくりかえし警告していました。「天主にのみ、信頼をおくこと。エジプト人に頼ってはいけない。バビロニア人に頼ってはいけない」というような警告でした。
しかしながら、ユダ国王はエジプト帝国と同盟を組むことにしました。その結果、どうなったでしょうか。エジプト帝国はその同盟を利用して、バビロニア帝国に対して戦争を開始しましたが、敗北してしまいました。犠牲になったのはユダ王国でした。王国の解体とエリートの強制移住という苦い結果となりました。
愛する兄弟の皆さま、夏は心を改めて、より深く回心する時期になるように努めましょう。我ら、キリスト教徒にとって、夏はその時期です。
ニュースを見ると、いつも驚くことですけど、夏になると、多くは休みの時期なので、大きな事件、国際事情などの報道を取り上げることは少なくなって、その代わり、いわゆる三面記事に関する報道が急に増えます。そして、印象に残るのは事故死の数です。特に、遊びに行っていた若い人々の事故死などに関するニュースです。これを見ると、この人生はどれほどはかないかは思い起こさせます。我らの主が福音書において仰せになっている通りに、「警戒せよ、あなたたちはその日その時を知らない」(マテオ、25,13)。
これらの事故死をみると、まごうことない現実である死ということが思い起こされます。また、これら多くの若い者を夏休みに行かせっぱなしにしてしまう結果、徳を失い、貞操を失う光景は見苦しいものです。そしてこれらの若い者は夏休みから帰ったら、悪徳におちいっているまま帰ってしまうだけではなく、自分自身に対して否応にも嫌悪な気持で満ちているものです。
愛する兄弟の皆さま、このようなみじめな結果を避けるために、天主のご加護のもとにいなければなりません。ご存じのように6月は聖心の月でしたが7月は我らの主の貴き御血に奉献されています。ですから、我らの主の貴き御血のご保護の下に自分を置くようにお勧めします。
思い出してみください。出エジプトの際、御民の解放を妨げるエジプト人を罰するために、天主は天使を送ろうとしておられたのですが、天主はその通りに天使を送って、エジプト人のすべての一族の長男に対する天罰を下したのです。この天罰を自分の家から遠ざけるために、ヘブライの民に天主は命じます。子羊一匹を屠(ほふ)って、その血をもって、家の門のかもいに十字架を血で描くように命じ給いました。すると、天主の復讐を行う天使は仔羊の血で描かれた十字架つきの家に止まらないで、天罰から逃れられます。
ご存じのように、旧約聖書のこの場面は罪を除き給う仔羊なる我らの主の前兆であって、イエズス・キリストの到来を告げるのです。
ですから、それは今も変わることなく、イエズス・キリストの十字架とその御血によってこそ、あらゆる天罰から守られているのです。御血に頼るしか守られないのです。
そして、その御血は門のかもいにあるというだけではなく、我らの額に御血を塗って、夏休みにも御血を塗りましょう。我らの主、イエズス・キリストの御血という御印を我らの夏休みにつけておきましょう。ですから、この意味で、我らの夏休みは「血まみれの夏」になるように望みましょう!
はい、貴き御血への信心をますます深めてください。この信心はカトリック教会の制定の時から存在してきました。教会が勧めている御血への信心は十字架上の犠牲の時に生まれました。ローマ兵士が槍でイエズスの聖心を貫いた時に、貴き御血への信心は生まれました。聖心から御血は流されました。その時、御体と御血は分かれてしまいました。聖心と御体があたかも分裂したかのようです。それを通じて、イエズス・キリストは本当の意味で十字架上に死に給うたことが示されています。そして、この死をもってこそ、我々の罪を贖いたまい、我々を救い給うたのです。このようにしてイエズスの御血によってこそ我々は守られているのです。
天主は人間の血を望んではいないのです。人間の血が流されても、天主のお怒りは静まらないのです。人々の血は天主のお怒りを鎮めることはできません。ところが、お一人だけは違います。御自分の御子の御血なら、天主はその犠牲をお気に召されるのです。なぜなら、御子の御血はすなわち天主ご自身の御血であるからです。我らの主、イエズス・キリストの御血は人の血であるだけではなく、同時に天主の御血であるが故に、十字架上の犠牲は効果的なのです。
「貴き御血」と言われていますが、なぜでしょうか。まず、もちろん、この上なく価値のある御血、評価できないほどに貴重であるからの「貴き御血」なのですが、それに加えて、天主の御血である故に、「貴き御血」というのです。我々のために御血を流すことになさった天主の御血なのです。我々の代わりに、生贄として御自分自身を捧げられた天主の御血なのです。
また、「貴き御血」と言われるのは、我々の救済の対価であるからです。我々を悪から解放し、我々を悪魔の隷属から買い戻したもうために、天主はご自分の御血を流し給うたゆえに「貴き御血」だと言います。このように御血は限りなく貴重です。ですから、御血を捧げ、祈る人々は天主のご加護の下にいるということになり、天主から守られているのです。
愛する兄弟の皆さま、ですから、ぜひともお勧めします。毎日のミサ典礼書でも、祈祷集でも、貴き御血の連祷はありますので、それを唱えるようにお勧めします。できれば、7月は毎日唱えてください。貴き御血の連祷は美しいです。インターネットでもどこでもこの連祷を見つけることができますので、どうぞ。
しかも比較的短くて、カトリック教義の良くまとまった要約版でもありますので、信徳を支えるためにも効果的です。御受難の御血、イエズス・キリストの御血、鞭打ちの御血、茨の冠の戴冠の御血、十字架上に流血した御血は我々の心にしみ、唱える祈祷です。我らの平和になるように、我らを守るように、我らが信仰を宣言する恩寵を与えるように、我らにますます聖徳がみのるように、とくに清潔、貞操の聖徳が実るように、などなど誓願されている連祷です。現代においてこそ、このような恩寵は必要不可欠です。
愛する兄弟の皆さま、風俗が堕落している中で必要不可欠です。以前、身なりや服装の話もしましたが、もちろん、身なりは一番重要なことではありませんが、いわゆるその堕落を一番見える形で示しているという意味で目立つのです。風俗の退廃を示す一つの手がかりです。夏になってパリを歩いても、あちこちの町を歩いたら、多くの女性はかつての売春婦ですらあり得なかった服装を平気でやっている時代となっていますよ。これはキリスト教世界の反対となりました。ですから、いとも清きイエズス・キリストの御血に貞潔、清潔の徳を希いましょう。
また、夏休みは、故郷に帰り、家族で集まるための良い時期です。また巡礼するための良い機会です。あるいは、行ったことのない巡礼地、聖域を訪れるための良い時期です。海辺ではなく、海辺よりも幾倍よい夏休みを過ごすための場所は一杯あります。
夏休みになると、ミサ聖祭に与ることが少なくなる傾向があります。その悪習もなくして、家族連れでも、夏休みに、日曜日であれば、よい聖伝ミサを現地で見つけて、遠出してみましょう。そこでの司祭、信徒たちとの交流をする善い機会ですし、弁当でも持っていって、美しい環境で家族で食事もできますし。天主と家族と一緒に休みを過ごしましょう。
先日、欧州での旅行をしていた観光客にお会いしましたが、彼らの住んでいた場所では聖伝ミサがなかったので、その旅を機に、聖伝ミサに是非与かってみたいということで、ここに来ました。彼らにとっては初めての発見でした。もちろん、以前、動画とかでちょっと見ていたかもしれないが、実際に与るとまるで違っており、発見でした。「実際に与かってみて、すべては変わりました」と。彼らにとって素晴らしいことでした。
愛する兄弟の皆さま、このように熱心に、冒険する気概を取り戻しましょう。戦いは激しくても、旅に行くのは喜びでもあります。やむを得ない大変な夏だからといって、なおざりにしないで、逆に励んで踏ん張る機会として受け入れましょう。
本日のミサ聖祭でも、これから御体へのパンの聖変化、そして、ワインを御血への聖変化の際には、貴き御血を礼拝しましょう。司祭は聖杯を取り上げて、イエズスの御血をお捧げします。最後の晩餐の際、ミサ聖祭を制定なさった時にイエズスが仰せになった同じ言葉を司祭がとなえると、ワインは御血となります。
例えば、旅行でスペインにいく予定があったら、ヴァレンシアの大聖堂でも訪れたらどうでしょうか。そこの一つの小聖堂には、数世紀にわたって使われ続けてきたまことの聖杯が安置されています。つまり、キリストご自身が最初のミサを捧げた時にイエズスが使われた聖杯という聖遺物です。
専門家によって分析された聖遺物ですが、その結果、聖遺物の素材はある宝石からなっていますが、イエズス・キリストの時代の物であることが判明しました。聖伝によると、聖ペトロはミサ聖祭を捧げていたとき、この聖杯を使っていたのです。
ですから、(聖ペトロによって伝えられた)カノンの祈りにおいて、「この聖杯を取り」という風に祈られています。実際、当時、イエズス・キリストが使われていた聖杯を聖ペトロが使っていたことから来ています。
このように初期、聖ペトロはミサ聖祭を捧げていたとき、イエズス・キリストご自身が捧げられた聖杯を使っていました。このような素晴らしい聖遺物は世界中で無数にありますので、休みを機にぜひともこのような旅行をしたらどうでしょうか。無駄に時間を費やすのは惜しいですから、聖なる休み、神聖な形で休みをとりましょう!
愛する兄弟の皆さま、この上なく貴き御血、イエズスの御血は我々の永遠の命を担保してくださる御血です。御血を礼拝する人は永遠の命に達する保証があるという意味ですが、御血は聖母マリアのご体内で成長しておられました。いとも清き童貞マリアです。
このように、ご体内でいとも清き御血を産むお方だった故に、天主は無原罪のままにおられる特権を聖母マリアに与え給いました。このようにイエズスの御母はいとも聖なる霊魂をもち、罪の痕跡が全くない清い霊魂でした。それに加えて聖母マリアの体も原罪の痕跡が一つも残っていない清い体です。無原罪の帰結により特別に天主によって守られた聖母マリアだからです。
このように、我らの主イエズス・キリストの貴き御血への信心と無原罪の御宿りへの信心は密接に繋がっています。
ですから、聖母マリアに祈りましょう。今年の夏のあいだずっと、今よりも信仰においても聖徳の実践においてもますます強くなるように、勇敢になるように祈りましょう。このようにして、本当の意味でこの世に打ち勝ちましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
2022年7月10日
血まみれの夏
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、今まさに夏まっさかりになろうとしています。多くの人々は夏休みを取るでしょう。夏休みを取らない人々でも、夏の雰囲気になるでしょう。つまり、気が緩む気分になりがちであって、のんきになるような空気になる季節ですね。忙しいはずなのに、この世はそもそも、のんきで無頓着ですが、夏になると更にこの傾向はひどくなります。
キリスト教徒にとっては、この季節は、勇敢に戦うよい時期といえます。戦いを好み、戦いに挑み、無頓着にならないように、のんきにならないように、この世の誘惑にしてやられないように戦うための最高の時期なのです。
映像史料を見ると、昔の映像を閲覧することができます。一番驚くべき年は1939年の夏に上映された映画のリストでしょう。有給制度が確立したことを受けて、1939年の夏の映像には多くの子供をはじめ、多くの家族が山なり海辺なりに行って、だらだらと風呂に入ったり水遊びしたりするような映像が多いです。もう、のんきという空気は映像をみるだけでもひどく感じ取れます。ひどいものです。なぜなら、夏休みが終わった瞬間、9月1日、戦争布告されて、戦争がはじまりました。どれほど大変な戦争になったかは言うまでもありません。
現代でも変わらないのです。残念なことに。国際状況を思い出してください。ウクライナで、西洋の諸国は苦戦を強いられて足もとがすくわれつつあります。この理不尽な国際外交のせいで、国際上の危機を引き起こす可能性は高まりつづけています。不幸なことに、前代未聞の大変な難事の時代が訪れる恐れすらあります。
そして、あちこちの人々、とくに指導者などの頑固なまでに現実を見ないふりをする光景は悲惨そのものです。これほど、頑固に見ないふりをして、目をつぶっているふりをしているなど、あり得ないのです。理にかなわない、バカげた制裁を加えても、それは戦争を止めることにはならないバカな行為です。高度な武器をどれほど提供しても、それは戦争を止めないばかりか、戦争を激化させるだけです。このようなやり方で平和を世界にもたらそうと思うのですか。核兵器の脅迫などまったく世界に平和をもたらすことにはなりません。これらは空想にすぎません。幻想です。
本当に世界に平和を取り戻したいと思うなら、唯一天主のみもとに戻るしかありません。天主への本物の回心を通じてしか本物の平和を得られないのです。
紀元前六世紀ごろ、ユダ王国の崩壊のちょっと前に、王国は二つの大勢力の間で、何とか、しのいでいました。北東ではバビロニア帝国の勢力があって、南方ではエジプト帝国がありました。ユダ王国は小さな国であって、これらの二つの大勢力の間に翻弄されていたのです。これらの大勢力の間にあったため、両帝国の影響圏のなかで戦場にもなりました。
エレミヤをはじめ、多くの預言者はユダ王国の国王にくりかえし警告していました。「天主にのみ、信頼をおくこと。エジプト人に頼ってはいけない。バビロニア人に頼ってはいけない」というような警告でした。
しかしながら、ユダ国王はエジプト帝国と同盟を組むことにしました。その結果、どうなったでしょうか。エジプト帝国はその同盟を利用して、バビロニア帝国に対して戦争を開始しましたが、敗北してしまいました。犠牲になったのはユダ王国でした。王国の解体とエリートの強制移住という苦い結果となりました。
愛する兄弟の皆さま、夏は心を改めて、より深く回心する時期になるように努めましょう。我ら、キリスト教徒にとって、夏はその時期です。
ニュースを見ると、いつも驚くことですけど、夏になると、多くは休みの時期なので、大きな事件、国際事情などの報道を取り上げることは少なくなって、その代わり、いわゆる三面記事に関する報道が急に増えます。そして、印象に残るのは事故死の数です。特に、遊びに行っていた若い人々の事故死などに関するニュースです。これを見ると、この人生はどれほどはかないかは思い起こさせます。我らの主が福音書において仰せになっている通りに、「警戒せよ、あなたたちはその日その時を知らない」(マテオ、25,13)。
これらの事故死をみると、まごうことない現実である死ということが思い起こされます。また、これら多くの若い者を夏休みに行かせっぱなしにしてしまう結果、徳を失い、貞操を失う光景は見苦しいものです。そしてこれらの若い者は夏休みから帰ったら、悪徳におちいっているまま帰ってしまうだけではなく、自分自身に対して否応にも嫌悪な気持で満ちているものです。
愛する兄弟の皆さま、このようなみじめな結果を避けるために、天主のご加護のもとにいなければなりません。ご存じのように6月は聖心の月でしたが7月は我らの主の貴き御血に奉献されています。ですから、我らの主の貴き御血のご保護の下に自分を置くようにお勧めします。
思い出してみください。出エジプトの際、御民の解放を妨げるエジプト人を罰するために、天主は天使を送ろうとしておられたのですが、天主はその通りに天使を送って、エジプト人のすべての一族の長男に対する天罰を下したのです。この天罰を自分の家から遠ざけるために、ヘブライの民に天主は命じます。子羊一匹を屠(ほふ)って、その血をもって、家の門のかもいに十字架を血で描くように命じ給いました。すると、天主の復讐を行う天使は仔羊の血で描かれた十字架つきの家に止まらないで、天罰から逃れられます。
ご存じのように、旧約聖書のこの場面は罪を除き給う仔羊なる我らの主の前兆であって、イエズス・キリストの到来を告げるのです。
ですから、それは今も変わることなく、イエズス・キリストの十字架とその御血によってこそ、あらゆる天罰から守られているのです。御血に頼るしか守られないのです。
そして、その御血は門のかもいにあるというだけではなく、我らの額に御血を塗って、夏休みにも御血を塗りましょう。我らの主、イエズス・キリストの御血という御印を我らの夏休みにつけておきましょう。ですから、この意味で、我らの夏休みは「血まみれの夏」になるように望みましょう!
はい、貴き御血への信心をますます深めてください。この信心はカトリック教会の制定の時から存在してきました。教会が勧めている御血への信心は十字架上の犠牲の時に生まれました。ローマ兵士が槍でイエズスの聖心を貫いた時に、貴き御血への信心は生まれました。聖心から御血は流されました。その時、御体と御血は分かれてしまいました。聖心と御体があたかも分裂したかのようです。それを通じて、イエズス・キリストは本当の意味で十字架上に死に給うたことが示されています。そして、この死をもってこそ、我々の罪を贖いたまい、我々を救い給うたのです。このようにしてイエズスの御血によってこそ我々は守られているのです。
天主は人間の血を望んではいないのです。人間の血が流されても、天主のお怒りは静まらないのです。人々の血は天主のお怒りを鎮めることはできません。ところが、お一人だけは違います。御自分の御子の御血なら、天主はその犠牲をお気に召されるのです。なぜなら、御子の御血はすなわち天主ご自身の御血であるからです。我らの主、イエズス・キリストの御血は人の血であるだけではなく、同時に天主の御血であるが故に、十字架上の犠牲は効果的なのです。
「貴き御血」と言われていますが、なぜでしょうか。まず、もちろん、この上なく価値のある御血、評価できないほどに貴重であるからの「貴き御血」なのですが、それに加えて、天主の御血である故に、「貴き御血」というのです。我々のために御血を流すことになさった天主の御血なのです。我々の代わりに、生贄として御自分自身を捧げられた天主の御血なのです。
また、「貴き御血」と言われるのは、我々の救済の対価であるからです。我々を悪から解放し、我々を悪魔の隷属から買い戻したもうために、天主はご自分の御血を流し給うたゆえに「貴き御血」だと言います。このように御血は限りなく貴重です。ですから、御血を捧げ、祈る人々は天主のご加護の下にいるということになり、天主から守られているのです。
愛する兄弟の皆さま、ですから、ぜひともお勧めします。毎日のミサ典礼書でも、祈祷集でも、貴き御血の連祷はありますので、それを唱えるようにお勧めします。できれば、7月は毎日唱えてください。貴き御血の連祷は美しいです。インターネットでもどこでもこの連祷を見つけることができますので、どうぞ。
しかも比較的短くて、カトリック教義の良くまとまった要約版でもありますので、信徳を支えるためにも効果的です。御受難の御血、イエズス・キリストの御血、鞭打ちの御血、茨の冠の戴冠の御血、十字架上に流血した御血は我々の心にしみ、唱える祈祷です。我らの平和になるように、我らを守るように、我らが信仰を宣言する恩寵を与えるように、我らにますます聖徳がみのるように、とくに清潔、貞操の聖徳が実るように、などなど誓願されている連祷です。現代においてこそ、このような恩寵は必要不可欠です。
愛する兄弟の皆さま、風俗が堕落している中で必要不可欠です。以前、身なりや服装の話もしましたが、もちろん、身なりは一番重要なことではありませんが、いわゆるその堕落を一番見える形で示しているという意味で目立つのです。風俗の退廃を示す一つの手がかりです。夏になってパリを歩いても、あちこちの町を歩いたら、多くの女性はかつての売春婦ですらあり得なかった服装を平気でやっている時代となっていますよ。これはキリスト教世界の反対となりました。ですから、いとも清きイエズス・キリストの御血に貞潔、清潔の徳を希いましょう。
また、夏休みは、故郷に帰り、家族で集まるための良い時期です。また巡礼するための良い機会です。あるいは、行ったことのない巡礼地、聖域を訪れるための良い時期です。海辺ではなく、海辺よりも幾倍よい夏休みを過ごすための場所は一杯あります。
夏休みになると、ミサ聖祭に与ることが少なくなる傾向があります。その悪習もなくして、家族連れでも、夏休みに、日曜日であれば、よい聖伝ミサを現地で見つけて、遠出してみましょう。そこでの司祭、信徒たちとの交流をする善い機会ですし、弁当でも持っていって、美しい環境で家族で食事もできますし。天主と家族と一緒に休みを過ごしましょう。
先日、欧州での旅行をしていた観光客にお会いしましたが、彼らの住んでいた場所では聖伝ミサがなかったので、その旅を機に、聖伝ミサに是非与かってみたいということで、ここに来ました。彼らにとっては初めての発見でした。もちろん、以前、動画とかでちょっと見ていたかもしれないが、実際に与るとまるで違っており、発見でした。「実際に与かってみて、すべては変わりました」と。彼らにとって素晴らしいことでした。
愛する兄弟の皆さま、このように熱心に、冒険する気概を取り戻しましょう。戦いは激しくても、旅に行くのは喜びでもあります。やむを得ない大変な夏だからといって、なおざりにしないで、逆に励んで踏ん張る機会として受け入れましょう。
本日のミサ聖祭でも、これから御体へのパンの聖変化、そして、ワインを御血への聖変化の際には、貴き御血を礼拝しましょう。司祭は聖杯を取り上げて、イエズスの御血をお捧げします。最後の晩餐の際、ミサ聖祭を制定なさった時にイエズスが仰せになった同じ言葉を司祭がとなえると、ワインは御血となります。
例えば、旅行でスペインにいく予定があったら、ヴァレンシアの大聖堂でも訪れたらどうでしょうか。そこの一つの小聖堂には、数世紀にわたって使われ続けてきたまことの聖杯が安置されています。つまり、キリストご自身が最初のミサを捧げた時にイエズスが使われた聖杯という聖遺物です。
専門家によって分析された聖遺物ですが、その結果、聖遺物の素材はある宝石からなっていますが、イエズス・キリストの時代の物であることが判明しました。聖伝によると、聖ペトロはミサ聖祭を捧げていたとき、この聖杯を使っていたのです。
ですから、(聖ペトロによって伝えられた)カノンの祈りにおいて、「この聖杯を取り」という風に祈られています。実際、当時、イエズス・キリストが使われていた聖杯を聖ペトロが使っていたことから来ています。
このように初期、聖ペトロはミサ聖祭を捧げていたとき、イエズス・キリストご自身が捧げられた聖杯を使っていました。このような素晴らしい聖遺物は世界中で無数にありますので、休みを機にぜひともこのような旅行をしたらどうでしょうか。無駄に時間を費やすのは惜しいですから、聖なる休み、神聖な形で休みをとりましょう!
愛する兄弟の皆さま、この上なく貴き御血、イエズスの御血は我々の永遠の命を担保してくださる御血です。御血を礼拝する人は永遠の命に達する保証があるという意味ですが、御血は聖母マリアのご体内で成長しておられました。いとも清き童貞マリアです。
このように、ご体内でいとも清き御血を産むお方だった故に、天主は無原罪のままにおられる特権を聖母マリアに与え給いました。このようにイエズスの御母はいとも聖なる霊魂をもち、罪の痕跡が全くない清い霊魂でした。それに加えて聖母マリアの体も原罪の痕跡が一つも残っていない清い体です。無原罪の帰結により特別に天主によって守られた聖母マリアだからです。
このように、我らの主イエズス・キリストの貴き御血への信心と無原罪の御宿りへの信心は密接に繋がっています。
ですから、聖母マリアに祈りましょう。今年の夏のあいだずっと、今よりも信仰においても聖徳の実践においてもますます強くなるように、勇敢になるように祈りましょう。このようにして、本当の意味でこの世に打ち勝ちましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン