ファチマの聖母の会・プロライフ

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いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて

2021年09月20日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランポン(Rampon)助祭によるお説教をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております


ランポン(Rampon)助祭の説教 
2021年07月02日  
いとも聖なる童貞マリアの御取り次ぎについて
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

主任司祭様、愛する兄弟の皆様、本日、童貞聖マリアのご訪問をお祝いします。そのちょっと前、御告げの日に、聖ガブリエルは聖母マリアに救い主に母になることを告げられました。聖霊の奇跡によって(無原罪の)御宿りになると告げられました。また、その際、聖ガブリエル大天使は従姉エリザベートが老人にして子を宿されたとも告げられました。これももう一つの奇跡でした。というのも、エリザベートは子をもうけるためには年を取りすぎていたからです。



しかしながら、老人になっても妊娠するというような奇跡は新しいことではなくて、旧約聖書において何度かありました。天主様は不毛な女、あるいは年配の女性に子を与えることがありました。そのたび、子には特別な運命が与えられて、天主様の特別な使命を与えられておりました。このように、善き天主は旧約聖書の時代から、聖母マリアのおなかに天主様ご自身である幼きイエズス、救い主の奇跡的な御宿りの準備として備えておられて、救い主が来る時に皆がそれに認識できるようにされています。

聖母マリアは被創造物の中で一番清くて従順でしたので、天使に伝えられた御告げに従って従姉を手伝うためにエリザベートのところまで行きます。そして、エリザベートの家に到着します。本日の祝日を記念する玄義はエリザベートと聖母マリアの出会いであります。「エリザベートに挨拶した。エリザベートがその挨拶を聞くと、子が体内で躍った。」(ルカ、1、40-41)
これを感じてエリザベートはマリアが主の母であることを知り、マリアが天主の御母であることを告げるのです。

このように、御告げの玄義とご訪問の玄義の間には類似性があります。御告げの時、天使を通じて、天使を派遣して聖母マリアに天主様はこの世に来給うことを告げられます。


そして、ご訪問の時、エリザベート、それから洗礼者聖ヨハネひいてはある意味ですべての人々にも(聖ヨハネは人々に救い主の到来を準備する先駆者となっていくから)、聖母マリアは天使から受けた大事なお告げを伝えていきます。
このようにして、御告げの玄義はすこしずつ、段階を追って伝えられていきます。天主様から仲介者として、天使、それから聖母マリア、それから聖ヨハネとなります。
特に、天主様は聖母マリアを御托身の玄義を知らせるために特に選ばれた仲介者であるとして、聖母マリアを「御取り次ぎ者」と称されています。

これから、「御取り次ぎ者」、取りなし手、仲介者というのはなんであるか、聖母マリアは聖寵の御取り次ぎ者になっているという意味はどういうことかをちょっとご紹介していきたいと思います。

「取り次ぎの者」はラテン語の「Medius」に由来して、つまり二人の間にある人だという意味です。ラテン語の意味は二つの端の間の中央にあることを意味します。取り次ぎ者になるために二つの条件があります。二人の間にいる者として、一人より低くて、もう一人より高い者でなければなりません。それから、取り次ぎの者は「仲介者」としての使命を果たす、つまり何らかの形で仲介者に値する働きを行います。



この意味で、教会はいつも、イエズス・キリストこそがこの上ない取り次ぎの者であると思い起こし続けました。というのも、我らの主、イエズス・キリストは真の人であり、真の天主であるからです。真の人としては、イエズスは天主より低いわけです。このように、聖ヨハネの福音書において、イエズスは仰せになります。「父は私より偉大なお方である」(ヨハネ、14,28)。しかしながら、同時に、イエズスは真の天主であるとして、すべての人々よりも偉いわけです。つまり、イエズス・キリストはいわゆる位格結合という玄義により、真の人、真の天主であるわけです。

また、イエズス・キリストは天主様と人類との間の仲介者の働きをこの上なく果たされました。これは十字架上にかけられて、御取り次ぎの行為である生贄として捧げられ給うたおかげで、イエズス・キリストこそがこの上なく御取り次ぎ者であるというのです。
このように、聖パウロが言うように、「Unus Mediator」、取り次ぎ者は唯一であるということです。すなわち、イエズス・キリストです。


しかしながら、童貞聖マリアも取り次ぎ者なのです。なぜなら、まず、天主の御母だからです。ですから、天主より低い存在でありながら、天主様に最も近くて、御母として、一番偉い天使よりもどの被創造物よりも天主に近いわけです。そして、聖母マリアはすべての人々より偉いわけです。なぜなら、聖母マリアは(天主の生命である)聖寵を完全にお持ちであるからであって、すべての天使や人々の聖寵よりも、聖母マリアは聖寵に満ちているからです。

また、聖母マリアは御取り次ぎの特別な働きを果たされました。つまり、聖母マリアによって、聖母マリアを通じて御托身は実現されたということで、また十字架の生贄の際にも、聖母マリアは十字架の下にいて、御子を生贄としてお捧げすることに同意しました。
ですから聖母マリアも天主と人間の間の取り次ぎ者です。が、御子が御取り次ぎ者であることとちょっと違う意味での取り次ぎ者になります。聖母マリアは第二次の取り次ぎ者となります。

さて、聖母マリアの御取り次ぎの性格を見ていきましょう。そうすることによって、我々はどれほど聖母マリアの御取り次ぎを必要にしているかが思い起こされるように。

第一に、聖母マリアは御子の到来の準備を行います。現代も、我々の霊魂におけるイエズスの到来、我々の霊魂はイエズスを迎え入れるように、聖母マリアはその準備のために手伝ってくださいます。イエズスに行くために霊魂は皆、必ず聖母マリアを通じなければなりません。
第二に、聖母マリアは贖罪のある意味での会計係であるかのようです。つまり、我々に与えられるご贖罪の宝、言いかえると人生の間に我々が頂く多くの恩恵、聖寵は必ず聖母マリアの御取り次ぎによってしか得られないのです。この意味で、聖母マリアの御取り次ぎはさらにイエズス・キリストの唯一なる御取り次ぎを綺麗にさせます。



天主様は聖母マリアがいなかったとしても、聖寵をもちろん与えられるのですが、天主様はあえてそうしないで、普段なら、聖母マリアを通じてしか天主の生命を頂かないことにされたのです。

さらにいうと、他のすべての聖人のとりなしに比べても、聖母マリアの御取り次ぎは勝っています。優れています。
ある聖人は天主様にお願いする時、贖罪によって得られた実りを地上に人々に当てられるようにお願いします。
そこで、聖母マリアはご贖罪の玄義の実現の際、直接に参加された方であり、あえていえば、聖母マリアは贖罪によって得られた実りへの所有権を持つかのようです。このように、カナの場面に起る奇跡で現れる通りに、聖母マリアは天主の下に単純にお願いするのではなくて、何がしてほしいかを聖母マリアは御子に示されて、御子は御母の依頼に答え給うのです。あえていえば、聖母マリアは御子に対して拒めないほどの「要請」という権限を持ちます。

ですから、我々の救霊のために必要となるすべての恩恵を聖母マリアは我々の代わりになって御子から得られる御方です。天主様の子になるための洗礼から得られる聖寵もそうですし、また天主を裏切って侮辱した時、つまり大罪を犯した時に、天主様の赦しを得て、その仲直りをするために告解に与ることからくる聖寵もそうですし、また、忍耐力など他にも完徳になるために必要なすべてのあらゆるの聖寵も聖母マリアが御取り次ぎをされることで、はじめて、イエズス様からのこれらの恩恵を我らの代わりに得られるわけです。

このように、11世紀の聖ベルナルドは聖母マリアについて「首」というイメージで示されます。教会という神秘体においての首だと比喩します。この神秘体はイエズス・キリストの神秘体であるとして、その頭はイエズス・キリストご自身であり、肢体は我々信徒たちであり、頭からの命、つまり聖寵を頂くために、首なる聖母マリアを通らなければならないと聖ベルナルドは説明する通りです。

ですから、我々は地上にいる間の旅の間、つまりこの人生に頂いたすべての恩恵、聖寵は一つも残らず、聖母マリアを通じてなされたということが言い切れるのです。言いかえると、イエズス・キリストは我々に恩恵を与えるように、いつも聖母マリアは私たちのそばに取り次いでくださっているのです。

このように、御告げの日に聖母マリアの御取り次ぎはなぜあったか、ご訪問の日に、ご体内において聖ヨハネは喜びに満ちてなぜ躍ったか、聖エリザベートは聖母マリアが天主の御母であることをなぜ告白したかというと、聖母マリアが傍にいらっしゃったからです。

ですから、我々も常にいつも聖母マリアは我々の傍にいられるように、我々の心に居られるように努力しましょう。祈りましょう。そうするために、一番早くて簡単な方法はロザリオです。ファチマでご出現された時も、聖母マリアはどれほどロザリオは重要であるか、祈るべきかを思い起こさせてくださいました。またロザリオを祈ることは簡単です。時間の余裕がないわけがないのです。一連ずつでも、一日中に何度も分けてでも祈ったら、すぐ5連になるのです。ですから、ぜひともぜひともロザリオを祈ることによって、いつもつねに聖母マリアは我々の人生とともにおられて、御子イエズス・キリストまで導いてくださるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン</font>


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