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神を信じる者を救おうとしているのが究極の神。。。その結論から見たユダヤ教問題

2023-10-22 01:41:49 | 政治
今日はイスラムでもハマスでもなく、「ユダヤ教問題」と題しました、それには理由があります
別の機会には「イスラム教問題」を書くこともあるかと思います。。。それは、ユダヤ教にのみ問題があるわけではないからです
きょう、「ユダヤ教問題」と題して日記を書こうと思った動機は一つ
ハマス-イスラエル問題の本質は宗教問題であり、もう一段階掘り下げていくと、その結論は「メシア問題」に集約されるからです
「ユダヤ教徒たちが「メシア」を誤解したところから、すべての問題が発生している」というのが、私のきょうの日記の結論となります

ユダヤ教徒の間には、長らく「メシア信仰」があります
元々、メシアという言葉は古代ヘブライ語の「油をそそがれし者」という意味であり、古代イスラエルでは王に香油をかけ洗礼の儀式をしたことから
「油をそそがれし者(マシア)」がメシアとなり、メシアのギリシャ語読みが「クリストス」であることから、メシアの別名はキリストとなりました
マグダラのマリアが香油に浸した髪でイエスの足をぬぐい祝福したのも、イエスをメシアであると認めたからにほかなりません
ユダヤ教では、まあメシアは預言された救世主という意味ではあるのですが、どちらかというと、ユダヤの王として民を率い
ユダヤの民を救い出す存在となる、という意味合いが強かったわけです。。。モーゼやソロモン王やダビデ王のように。。。ですね
ユダヤの民の中では、長らくサドカイ派という司祭階級からメシアは生まれる、という信仰があったため
サドカイ派からも、知識(学者)階級であるパリサイ派からも、イエスはメシアとは認められなかった、といいます
特に、「愛の教え」を説くイエスは弱弱しく、司祭階級から見て、救世主としてユダヤの民を率いる王のような存在には思えなかったようです

キリスト教の聖書解説などによると、イエスは人類の罪を背負い、自らが血を流すことで人類の罪を洗い流してくださった
という説明がなされることが多いようです。。。ですが私はキリスト教の牧師さんらとは見解が違います
イエスの教えを見ると、当時のパリサイ派の律法学者の言うように、モーゼ五書を厳格に守ることのみを重視する聖書解釈中心主義や
サドカイ派のようにローマと結びつき、権力を重視して司祭の権威を重視する権威主義など
権威や権力に固執する派閥に関係なく、隣人愛や自己犠牲の精神の大切さを説いています
イエスは、身分に関係なく隣人への愛を説き、愛に生きるためには自己犠牲もいとわない。。。そうした姿勢を見せているのだと思います

要するに、形や権威だけに固執して、本来の神の教えが分からなくなったユダヤの民たちに
究極の神の教えとして「隣人を愛すること」を教え
「自らの命を犠牲にしてでも神の教えを残す」という、究極の愛を実践して見せたのだと思います
要は、ユダヤ教の教えが形骸化して、神の教えの何たるかが分からなくなったユダヤの民に、自らの体を呈して教えを説いたわけです
「目には目を」だの、憎しみを増幅させるようなことをしてはいけませんよと、イエスは教えたのです
これが、権威に固まったユダヤ教徒たちには分からなかった。。。イエスが本物の神の使途、メシアであることが理解できなかった
そして、イエスを捕まえ、十字架の刑に処してしまった時点で、彼らは「本物の神の教えを否定してしまった」わけです

要はですね、今も同じことが言えるわけですが、究極の神の教えは形じゃないんですよ
ユダヤ教とかキリスト教とか、イスラム教とか、そういう宗派でもないんですね
同じアブラハムを始祖にもつユダヤ人とアラブ人が、宗派の違いで争う事を神は教えていないんです
ユダヤの民。。。特にサドカイ派とか、パリサイ派とか、こうした権威主義に傾いたユダヤ教徒の国イスラエルは
イエス没後70年をもって滅ぼされ、マサダの砦にて滅亡の憂き目にあいましたが
神は当時もイエスという信仰の糸を垂らしていたのであり、その教えに従って真なる神の教えに気がついたならば
ユダヤの民はきっと、今とは違う歴史を紡いでいたはずだと思います
今はそのキリスト教にもたくさんの異物が混入し、権威主義となり、当時のイエスの教えが形骸化し、神の教えが分からなくなっています
要するに、神の教えは、その時代時代に、その地域地域に、その時の人類に相応しい形で、新たな教えを説く人が現れるわけです

シェイクスピアの名著で「ヴェニスの商人」という戯曲があります
実はこれを私が見たのは確か、小学校1~2年生の頃で、私の通っていた小学校に劇団が来て演じたのがこれでした
当時の劇の内容はまったく覚えていないのですが、心温まる演技が、とても印象にのこったことだけ覚えています
このヴェニスの商人に、悪徳ユダヤ人金貸しとして出てくるシャイロックという人物がいます
シャイロックはやむを得ない事情でお金を借りに来た知人アントニオに、「利子が払えなければ、お前の体の肉1ポンドを切り取る」
ことを条件としてお金を貸します。。。要はシャイロックはアントニオを殺したいほど憎んでいたわけです
最終的にはシャイロックはアントニオの命を奪おうとしていた罪によって死刑となり財産を没収されそうになるわけですが
アントニオは、キリスト教徒の「汝の敵を愛しなさい」という隣人愛の精神を見せ、シャイロックを許し、罪を減じるよう求めます
そして、シャイロックもまたキリスト教徒に改宗させられる。。。という物語なのですが
まあ、ゴリゴリマッチョのユダヤ教徒と、愛深きキリスト教徒の対比を上手く描いた作品ですね

ユダヤ教徒は、今から2000年前、確かにマサダの砦で滅びに至ったという悲劇があり
今度は決して滅ぼされない。。。。相手をせん滅してでも勝つ。。。そう決意していることは分かります
イスラエル軍の兵士たちは、それぞれ今も、マサダの砦において、「不敗の誓い」を立てるそうですからね
しかし、彼らには、この地上の命を長らえ、民族の生き残りに固執するあまり、異教徒の命に対する「許しの心」を忘れてしまっています
この寛容の心のなさが、実は他民族をして、迫害を加えさせている原因となっている。。。という風に考えるべきで
実は神の心もまた因果応報。。。原因と結果の法則は、すべての人類に平等である。。。という事を知るべきであると思います
相手への寛容な心や許しの心、愛の心を持てば、それは巡り巡って我が身に返ってくる
相手を憎しみ、相手への報復のみを考えていれば、相手からも報復を受ける。。。。これが人間の生きるこの世界の法則だと思います

今日は宗教的見地から、イスラエルーハマス問題を考えてみました
それではまた
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