今日は前回に引き続き、大川紫央著「パングルへの変身」に焦点を当てて、研究してみたいと思います
正直、この本は大川紫央さんへのインタビューが中心で、大川隆法総裁の補足のついた対話禄なので、すごく読みやすい本なのですが
その語られている内容たるや、宗教修業に縁のない人には分からない。。。とてもじゃないけど「分かる人にしか分からない」という内容の本です
物凄く高度な内容なので、全然理解できない人も、もしかするといるかもしれません
昨年、「呪い返し師 塩子誕生」という映画が劇場公開されましたが、大川紫央さんは、この主人公の塩子のモデルになった方です
私自身の経験から言っても「世に呪いの種は尽きず」と言いますか。。世の中にはきっと、無数の生霊が飛びかっているんでしょうね
例によって、私自身の過去の経験について、この書籍に書かれていることをもとに反省してみたいと思います
読み進めていくと、「宗教修業とは、本当に厳しいものなのだな」と、しみじみ感じます
生霊が誰かのもとに飛んでいく、というのは、「生霊を飛ばしてやろう」と考えてのことでないことがほとんどです
それでも、知らず知らずのうちに生霊が相手のところに行くパターンとしては
「相手に何らかの恨みや不満を持っている」
「知らず知らず、相手を嫉妬している」
「相手に好意をもっており、自分のことを気にかけて欲しいと思っている」
「尊敬する相手に、自分のことを認めて欲しいと強く思っている」
こうしたことが原因としてあげられるようです
よく、宗教家の与国秀行氏が、「宗教家とは、心の修業を行っている修行者である」ということをよく言います
でも、宗教家の心の修業は、一般の方が表面的に見ているよりも、もっともっと、実に厳しいものなんです
私の言う宗教修業が厳しいという意味は、「心の中で思っていることにまで、宗教家は責任を問われる」からです
それも、「表面的な思い」だけでなく「潜在意識下で思っていること」にまで、責任を問われるからです
これが実に難しい。。。
仮に、心の中で誰かに嫉妬する気持ちが出てきたとしますね、すると、宗教修業をやっている人なら普通
「いや、こんな思いはいけない、嫉妬するんじゃなくて、相手を祝福しなければいけない」と考えます
これが宗教家の心の修業の一つなのですが、もっと突き詰めて言うと、宗教家の宗教修業はこれでは終わらないのです
これがもっと高度な修行になってくると、「なぜ嫉妬心が出てきたのか?」という、その嫉妬心の”原因”にまでメスが入るのです
そうすると、心の中に「自分はあいつより優秀なんだ」という「強い自我」の思いがあるという事が分かるわけです
「自分はあいつより優秀なんだから、あいつより評価されるべきなのに、今の処遇は納得いかない」というわけです
その自己評価が正当なものであればまだいいのですが、往々にして、他人から見た自分の評価は、自己評価ほど高くないことが多いわけです
以前私は、10歳年上の部下に嫉妬されて生霊に巻き付かれていた、という話をしましたが
考えてみると、私自身、嫉妬で生霊を受けていたと思ってはいたものの、その部下の嫉妬心が正当なものであったかどうか
それをきちんと検証していませんでした
よくよく考えてみるに、確かに、私自身の「実力不足があったことは確か」です
彼の人格には難はありましたけれどもね(笑)だから、上は彼を抜擢しなかったわけでして。。。
ただ、当時幹部候補だった私は、明らかに仕事で行き詰っていまして、でも、彼も行き詰っていて、業界自体が酷い不況であったことも確かで
当時の状況は非常に厳しい状態で、自己客観視がきちんとできていなかったですね
ただ、私自身について言えばやはり、「彼を納得させるほどの実力はなかった」と言うべきでしょう
宗教における反省行とは、こうして、「なぜ嫉妬を受けたか?」についても、心当たりがあれば反省しなければならないわけです
自分自身の実力不足を知って、謙虚に努力する姿勢があり、「自分の方が偉い」などという気持ちがなければ
「嫉妬されるのは理不尽だ」とも思わなかったでしょう。。。結局は、自分もまた、地位に胡坐をかいて天狗になっていたわけです
時間が時間なのでこの辺で終わりますが、今後、この6年後のパンダ学「パングルへの変身」については、もっと考察を深めていきたいと思います
正直、この本は大川紫央さんへのインタビューが中心で、大川隆法総裁の補足のついた対話禄なので、すごく読みやすい本なのですが
その語られている内容たるや、宗教修業に縁のない人には分からない。。。とてもじゃないけど「分かる人にしか分からない」という内容の本です
物凄く高度な内容なので、全然理解できない人も、もしかするといるかもしれません
昨年、「呪い返し師 塩子誕生」という映画が劇場公開されましたが、大川紫央さんは、この主人公の塩子のモデルになった方です
私自身の経験から言っても「世に呪いの種は尽きず」と言いますか。。世の中にはきっと、無数の生霊が飛びかっているんでしょうね
例によって、私自身の過去の経験について、この書籍に書かれていることをもとに反省してみたいと思います
読み進めていくと、「宗教修業とは、本当に厳しいものなのだな」と、しみじみ感じます
生霊が誰かのもとに飛んでいく、というのは、「生霊を飛ばしてやろう」と考えてのことでないことがほとんどです
それでも、知らず知らずのうちに生霊が相手のところに行くパターンとしては
「相手に何らかの恨みや不満を持っている」
「知らず知らず、相手を嫉妬している」
「相手に好意をもっており、自分のことを気にかけて欲しいと思っている」
「尊敬する相手に、自分のことを認めて欲しいと強く思っている」
こうしたことが原因としてあげられるようです
よく、宗教家の与国秀行氏が、「宗教家とは、心の修業を行っている修行者である」ということをよく言います
でも、宗教家の心の修業は、一般の方が表面的に見ているよりも、もっともっと、実に厳しいものなんです
私の言う宗教修業が厳しいという意味は、「心の中で思っていることにまで、宗教家は責任を問われる」からです
それも、「表面的な思い」だけでなく「潜在意識下で思っていること」にまで、責任を問われるからです
これが実に難しい。。。
仮に、心の中で誰かに嫉妬する気持ちが出てきたとしますね、すると、宗教修業をやっている人なら普通
「いや、こんな思いはいけない、嫉妬するんじゃなくて、相手を祝福しなければいけない」と考えます
これが宗教家の心の修業の一つなのですが、もっと突き詰めて言うと、宗教家の宗教修業はこれでは終わらないのです
これがもっと高度な修行になってくると、「なぜ嫉妬心が出てきたのか?」という、その嫉妬心の”原因”にまでメスが入るのです
そうすると、心の中に「自分はあいつより優秀なんだ」という「強い自我」の思いがあるという事が分かるわけです
「自分はあいつより優秀なんだから、あいつより評価されるべきなのに、今の処遇は納得いかない」というわけです
その自己評価が正当なものであればまだいいのですが、往々にして、他人から見た自分の評価は、自己評価ほど高くないことが多いわけです
以前私は、10歳年上の部下に嫉妬されて生霊に巻き付かれていた、という話をしましたが
考えてみると、私自身、嫉妬で生霊を受けていたと思ってはいたものの、その部下の嫉妬心が正当なものであったかどうか
それをきちんと検証していませんでした
よくよく考えてみるに、確かに、私自身の「実力不足があったことは確か」です
彼の人格には難はありましたけれどもね(笑)だから、上は彼を抜擢しなかったわけでして。。。
ただ、当時幹部候補だった私は、明らかに仕事で行き詰っていまして、でも、彼も行き詰っていて、業界自体が酷い不況であったことも確かで
当時の状況は非常に厳しい状態で、自己客観視がきちんとできていなかったですね
ただ、私自身について言えばやはり、「彼を納得させるほどの実力はなかった」と言うべきでしょう
宗教における反省行とは、こうして、「なぜ嫉妬を受けたか?」についても、心当たりがあれば反省しなければならないわけです
自分自身の実力不足を知って、謙虚に努力する姿勢があり、「自分の方が偉い」などという気持ちがなければ
「嫉妬されるのは理不尽だ」とも思わなかったでしょう。。。結局は、自分もまた、地位に胡坐をかいて天狗になっていたわけです
時間が時間なのでこの辺で終わりますが、今後、この6年後のパンダ学「パングルへの変身」については、もっと考察を深めていきたいと思います
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