今の日本の宗教界には、大きく分けて2つの問題があると思っています
一つは、中村元を「教祖」とする「無神論仏教」の問題です
中村元氏は1912年~1999年、東京大学名誉教授、インド哲学専攻仏教学者・哲学者です
この人は、仏教を単なる唯物論にしてしまった人として、非常に有名な方です
正直、仏教が唯物論を説いているとしてしまっては、もう救済力も何もない。。。つまり、「身も蓋もない」わけです
仏教は単なるお葬式の作法であり、現代人には時代錯誤的で必要のない、「単なる道徳論」になってしまったのでした
もう一つは、日本神道に代表される、「ご利益信仰」です
この神道の信仰観が、日本人の信仰の「浅薄さ」を助長してしまっていることは否めないと、私は感じています
信仰というと、「イワシの頭も信心から」ではありませんが、「信じるとおかげがある」のが信仰。。。
こんな信仰を信仰だと、日本人は思い込んでいる節があります
だから、統一教会の問題においても、「高額な壺を買わせて、それがまったく意味がなかった。。。だから詐欺だ」
となるわけです。。。つまり、信仰は商売と一緒、「おかげ」が来なかったら単なる詐欺。。。これが一般的日本人の感覚ですね
でも、私に言わせれば、こんなものが本物の信仰のわけがないんですよ
霊感商法というのは、確かに「この世の中で得られる現世利益」を目的として、人の「欲望」に付け込みます
だから、現世利益がなく、財産をだまし取られたとして、「詐欺だ」となるわけですが
はっきり言って、騙された側にも問題があると私は思っています
こんな信仰観。。。日本人は大抵持っているんじゃないでしょうかね?
この二つの宗教の問題点ですが、共通している点があると私は思うのですよ
その共通点とは、「この世を中心に物事を考えている」という点です
考え、思考の中心軸が、現世、つまりこの三次元世界にあるわけです
無神論は勿論、この世に視点があり、「犯罪にさえならなければ、何をやってもいい」という考えであり
ジョージ・ソロスのように、検察や裁判員でさえ買収できるだけの資産があれば、「犯罪をやっても、もみ消しすればOK」なわけです
なので、仏教が無神論化してしまえば、道徳はお題目の綺麗事ばかりで、なにも意味がない事になります。。これが問題なわけです
無神論仏教はジョージ・ソロスを説得することなどできないわけですよ。。。道徳なんて綺麗事ですから、「何言ってんだ」ぐらいなものです
もう一つ、ご利益信仰においては、「この世の利益を貰えれば信じる」というもので
信仰する目的が、「現世利益」なわけです
よくありますね、会社などの屋上や工場敷地内に鳥居と社を建てて、よく神様を祭ってますね
これなども「商売繁盛」という「現世利益」を目的とするものです
神社にお参りすることも全く同じで、お賽銭を投げる行為の動機もまた、健康、結婚、家内安全、厄除けなどの「現世利益」なのです
ですから、統一教会の霊感商法とどこが違うのかと言えば、まず「金額が違う」ことはありますよね?
霊感商法の壺は高額だから。。という事もありますが、でもね
神社などでは初詣の時に屋台で「熊手」を売っていると思いますが、縁起ものとして5万円とか10万円とか、もっと高額なものもあります
これなども、霊感商法といえなくもない訳です。。。でもまあ一般的に、買った人が納得すれば詐欺にはならないわけです(笑)
じゃあ統一教会の霊感商法がなぜ犯罪に当たると言えるのか?と言えば、一つにそれは、その買わせる手口に「嘘がある」からですね
縁起物の熊手なら、「昔からあるからそんなものだ」と思っているから、買った人の会社が倒産しても「詐欺だ」とはならない(笑)
でも、法律的に見れば、熊手と霊感商法の壺の違いについての線引きは難しいでしょうね。。熊手を買って倒産したらね。。。。
「縁起物なんて嘘じゃないか」と言われたら。。。少額でも詐欺になるとすれば、これは大変なことです
「なんで熊手は詐欺にならないのか?」と問われたら、これを法律で明文化するのは極めて難しい問題だと思います
だからね、まあ政党女子48党の黒川敦彦氏なんかは、その違いをきちんと把握しないで、カルトだなんだと暴言を吐きながら
宗教施設前でデモ行為なんかして宗教弾圧しているのは、後々問題になるのではないかと思いますね。。。
政治家として思慮が足りず、本当に浅はかだと思います
こういう行為を見ると、黒川氏は基本的な宗教の違いを全く理解していないことが、私には分かります
ただ、私は霊感商法が詐欺なのか、そうでないのかをここで述べようとしているのではありません
宗教としての「考え方の筋」を示そうとしてこれを書いています
ここで本題に戻り、日本になぜ神仏習合が起きたのか?聖徳太子はなぜ日本に仏教を入れ、国教として憲法にまで取り入れたのか?
それが、宗教としての「考え方の筋」というものを考えるうえで、極めて大事な論点なのです
聖徳太子から少し後の、飛鳥時代から奈良時代にかけて、行基という名僧が出て、仏教が大変なブームになりました
この行基の時代に、仏教寺院が数多く建立され、奈良の東大寺と大仏が建立され、行基は聖武天皇の帰依を受けて大僧正になり
ここに「神仏習合(神道と仏教が融合すること)」が成立しました
では、仏教はなぜこの時代に広がったのか?
それは、単なる現世利益を求める神道の信仰では、国を一つにまとめることが難しかったからであろうと、私は推測しています
仏教にあって神道にないもの。。。それは、「実在世界(死後の世界)まで含めた世界観と心の教え」なんですよ、これ、分かりますかね?
仏教には死後の世界観があるんです。。。天国と言われる善人の住む世界や、地獄、餓鬼道、畜生道、阿修羅界
そしてもっと上の神仏(天)の世界といった、人間がこの世を去った後の世界観です
そして、転生輪廻という「生まれ変わりの思想」も入っています
また、それに連動するように、哲学的に「どういう生き方をすればどういう死後が待っているか?どういう生まれ変わりになるか?」
という因果の理法に基づく教えが説かれているのです
つまり、仏教には民衆を教化するための、善因善果、悪因悪果という修身(身を正す)の教えがあるんです
それも、死後の世界まで含めた修身の教えであり、単なるお題目の道徳とは違います
そして、釈迦時代に説かれた教えとして、布施の精神、「三輪清浄の教え」がありますが
これは霊感商法とは全く視点の違うものなのです
仏教における最も尊い布施とは何かというと、これは「法施」です
「法施」、法を施すとはどういう意味かというと、「仏の教えを伝える」という意味です。。。これが最も尊いんですよ
だから、寺院を建立することによって仏教を広めることができるため、寺院建立のためのお布施は尊い事だとされていました
そして、法を広め、無明の民衆に教えを伝えてくださる僧侶にお布施したりすることは、最も尊いことだとされたんです
これが本来のお布施の精神なんです
三輪清浄の教えは、施者(布施を出す人)、受者(布施を受ける人)、施物(お布施そのもの)に穢れがあってはいけないという教えです
つまり、施者が不純な動機でお布施を出すことや、犯罪を犯して稼いだお金を出すことはダメ
受者が、相手を騙してお金を出させたり、嘘の用途にお布施を使ったりして、不純であってもダメ
施物が汚れたお金。。。詐欺や強盗や、その他の不正なお金やものであってはダメ
行基が大仏建立の時に、全国から布施を募ったのですが、その際には、財産のない者も沢山いたわけです
ですが、貧者の一灯という教えがあり、貧しいものは藁の一束、土を運ぶ労力
こうした「自分のできる最高の真心」もまた、尊い布施の精神とされたわけです
これが本来の布施の精神です。。もちろん、四国八十八か所のお遍路さんに一夜の宿や食べ物などを施す風習である「お接待」もまた
信仰心をもつ遍路さんに布施を施す尊い行為の一つなのです
布施の精神とは、「現世利益」を超えたものが含まれているのです。。。この世的な見返りを求めなくとも布施の精神は成り立つのです
世界のメジャーになった宗教(ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教等)には、いずれも神の教えとして修身の教えがあり
天国地獄といった世界観が、仏教以外は不完全ながらも、きちんと存在しています
キリスト教にだって寄付を美徳とする教えがありますが、それは教会が心を救うための大切な場所であるからです
そしてキリストの教えを広めるための大切な場所である教会に寄付することは美徳とされています
だから、欧米では教会に対する寄付は無税であるのです。。。
今はすいぶん穢れが入っていることは事実ですが、それでも、本来は寄付行為に課税することはナンセンスなことなのです
女子48党の黒川氏は、こうした事も知らないでしょう
そして前回の日記で紹介した、カール・ポパーが批判したギリシャ哲学のプラトンの教えも
きちんと天国地獄の世界観と転生輪廻の思想、それに伴う哲学的な修身の教えが入っているわけです
世界的な宗教や哲学には、普遍的なものとして、それが入っているのです
残念ながら、神道にはそれがなかったのです
ですから、日本人の神道的な感覚で寄付やお布施を「現世利益を求める人を騙して出させる詐欺行為」と考えるのは間違っているのです
本来、信仰とは国民を教化し、素晴らしい国を作るための教育の根底にあるべきものなのです
今日はそのことを結論として書いておきたいと思います
ありがとうございました
一つは、中村元を「教祖」とする「無神論仏教」の問題です
中村元氏は1912年~1999年、東京大学名誉教授、インド哲学専攻仏教学者・哲学者です
この人は、仏教を単なる唯物論にしてしまった人として、非常に有名な方です
正直、仏教が唯物論を説いているとしてしまっては、もう救済力も何もない。。。つまり、「身も蓋もない」わけです
仏教は単なるお葬式の作法であり、現代人には時代錯誤的で必要のない、「単なる道徳論」になってしまったのでした
もう一つは、日本神道に代表される、「ご利益信仰」です
この神道の信仰観が、日本人の信仰の「浅薄さ」を助長してしまっていることは否めないと、私は感じています
信仰というと、「イワシの頭も信心から」ではありませんが、「信じるとおかげがある」のが信仰。。。
こんな信仰を信仰だと、日本人は思い込んでいる節があります
だから、統一教会の問題においても、「高額な壺を買わせて、それがまったく意味がなかった。。。だから詐欺だ」
となるわけです。。。つまり、信仰は商売と一緒、「おかげ」が来なかったら単なる詐欺。。。これが一般的日本人の感覚ですね
でも、私に言わせれば、こんなものが本物の信仰のわけがないんですよ
霊感商法というのは、確かに「この世の中で得られる現世利益」を目的として、人の「欲望」に付け込みます
だから、現世利益がなく、財産をだまし取られたとして、「詐欺だ」となるわけですが
はっきり言って、騙された側にも問題があると私は思っています
こんな信仰観。。。日本人は大抵持っているんじゃないでしょうかね?
この二つの宗教の問題点ですが、共通している点があると私は思うのですよ
その共通点とは、「この世を中心に物事を考えている」という点です
考え、思考の中心軸が、現世、つまりこの三次元世界にあるわけです
無神論は勿論、この世に視点があり、「犯罪にさえならなければ、何をやってもいい」という考えであり
ジョージ・ソロスのように、検察や裁判員でさえ買収できるだけの資産があれば、「犯罪をやっても、もみ消しすればOK」なわけです
なので、仏教が無神論化してしまえば、道徳はお題目の綺麗事ばかりで、なにも意味がない事になります。。これが問題なわけです
無神論仏教はジョージ・ソロスを説得することなどできないわけですよ。。。道徳なんて綺麗事ですから、「何言ってんだ」ぐらいなものです
もう一つ、ご利益信仰においては、「この世の利益を貰えれば信じる」というもので
信仰する目的が、「現世利益」なわけです
よくありますね、会社などの屋上や工場敷地内に鳥居と社を建てて、よく神様を祭ってますね
これなども「商売繁盛」という「現世利益」を目的とするものです
神社にお参りすることも全く同じで、お賽銭を投げる行為の動機もまた、健康、結婚、家内安全、厄除けなどの「現世利益」なのです
ですから、統一教会の霊感商法とどこが違うのかと言えば、まず「金額が違う」ことはありますよね?
霊感商法の壺は高額だから。。という事もありますが、でもね
神社などでは初詣の時に屋台で「熊手」を売っていると思いますが、縁起ものとして5万円とか10万円とか、もっと高額なものもあります
これなども、霊感商法といえなくもない訳です。。。でもまあ一般的に、買った人が納得すれば詐欺にはならないわけです(笑)
じゃあ統一教会の霊感商法がなぜ犯罪に当たると言えるのか?と言えば、一つにそれは、その買わせる手口に「嘘がある」からですね
縁起物の熊手なら、「昔からあるからそんなものだ」と思っているから、買った人の会社が倒産しても「詐欺だ」とはならない(笑)
でも、法律的に見れば、熊手と霊感商法の壺の違いについての線引きは難しいでしょうね。。熊手を買って倒産したらね。。。。
「縁起物なんて嘘じゃないか」と言われたら。。。少額でも詐欺になるとすれば、これは大変なことです
「なんで熊手は詐欺にならないのか?」と問われたら、これを法律で明文化するのは極めて難しい問題だと思います
だからね、まあ政党女子48党の黒川敦彦氏なんかは、その違いをきちんと把握しないで、カルトだなんだと暴言を吐きながら
宗教施設前でデモ行為なんかして宗教弾圧しているのは、後々問題になるのではないかと思いますね。。。
政治家として思慮が足りず、本当に浅はかだと思います
こういう行為を見ると、黒川氏は基本的な宗教の違いを全く理解していないことが、私には分かります
ただ、私は霊感商法が詐欺なのか、そうでないのかをここで述べようとしているのではありません
宗教としての「考え方の筋」を示そうとしてこれを書いています
ここで本題に戻り、日本になぜ神仏習合が起きたのか?聖徳太子はなぜ日本に仏教を入れ、国教として憲法にまで取り入れたのか?
それが、宗教としての「考え方の筋」というものを考えるうえで、極めて大事な論点なのです
聖徳太子から少し後の、飛鳥時代から奈良時代にかけて、行基という名僧が出て、仏教が大変なブームになりました
この行基の時代に、仏教寺院が数多く建立され、奈良の東大寺と大仏が建立され、行基は聖武天皇の帰依を受けて大僧正になり
ここに「神仏習合(神道と仏教が融合すること)」が成立しました
では、仏教はなぜこの時代に広がったのか?
それは、単なる現世利益を求める神道の信仰では、国を一つにまとめることが難しかったからであろうと、私は推測しています
仏教にあって神道にないもの。。。それは、「実在世界(死後の世界)まで含めた世界観と心の教え」なんですよ、これ、分かりますかね?
仏教には死後の世界観があるんです。。。天国と言われる善人の住む世界や、地獄、餓鬼道、畜生道、阿修羅界
そしてもっと上の神仏(天)の世界といった、人間がこの世を去った後の世界観です
そして、転生輪廻という「生まれ変わりの思想」も入っています
また、それに連動するように、哲学的に「どういう生き方をすればどういう死後が待っているか?どういう生まれ変わりになるか?」
という因果の理法に基づく教えが説かれているのです
つまり、仏教には民衆を教化するための、善因善果、悪因悪果という修身(身を正す)の教えがあるんです
それも、死後の世界まで含めた修身の教えであり、単なるお題目の道徳とは違います
そして、釈迦時代に説かれた教えとして、布施の精神、「三輪清浄の教え」がありますが
これは霊感商法とは全く視点の違うものなのです
仏教における最も尊い布施とは何かというと、これは「法施」です
「法施」、法を施すとはどういう意味かというと、「仏の教えを伝える」という意味です。。。これが最も尊いんですよ
だから、寺院を建立することによって仏教を広めることができるため、寺院建立のためのお布施は尊い事だとされていました
そして、法を広め、無明の民衆に教えを伝えてくださる僧侶にお布施したりすることは、最も尊いことだとされたんです
これが本来のお布施の精神なんです
三輪清浄の教えは、施者(布施を出す人)、受者(布施を受ける人)、施物(お布施そのもの)に穢れがあってはいけないという教えです
つまり、施者が不純な動機でお布施を出すことや、犯罪を犯して稼いだお金を出すことはダメ
受者が、相手を騙してお金を出させたり、嘘の用途にお布施を使ったりして、不純であってもダメ
施物が汚れたお金。。。詐欺や強盗や、その他の不正なお金やものであってはダメ
行基が大仏建立の時に、全国から布施を募ったのですが、その際には、財産のない者も沢山いたわけです
ですが、貧者の一灯という教えがあり、貧しいものは藁の一束、土を運ぶ労力
こうした「自分のできる最高の真心」もまた、尊い布施の精神とされたわけです
これが本来の布施の精神です。。もちろん、四国八十八か所のお遍路さんに一夜の宿や食べ物などを施す風習である「お接待」もまた
信仰心をもつ遍路さんに布施を施す尊い行為の一つなのです
布施の精神とは、「現世利益」を超えたものが含まれているのです。。。この世的な見返りを求めなくとも布施の精神は成り立つのです
世界のメジャーになった宗教(ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教等)には、いずれも神の教えとして修身の教えがあり
天国地獄といった世界観が、仏教以外は不完全ながらも、きちんと存在しています
キリスト教にだって寄付を美徳とする教えがありますが、それは教会が心を救うための大切な場所であるからです
そしてキリストの教えを広めるための大切な場所である教会に寄付することは美徳とされています
だから、欧米では教会に対する寄付は無税であるのです。。。
今はすいぶん穢れが入っていることは事実ですが、それでも、本来は寄付行為に課税することはナンセンスなことなのです
女子48党の黒川氏は、こうした事も知らないでしょう
そして前回の日記で紹介した、カール・ポパーが批判したギリシャ哲学のプラトンの教えも
きちんと天国地獄の世界観と転生輪廻の思想、それに伴う哲学的な修身の教えが入っているわけです
世界的な宗教や哲学には、普遍的なものとして、それが入っているのです
残念ながら、神道にはそれがなかったのです
ですから、日本人の神道的な感覚で寄付やお布施を「現世利益を求める人を騙して出させる詐欺行為」と考えるのは間違っているのです
本来、信仰とは国民を教化し、素晴らしい国を作るための教育の根底にあるべきものなのです
今日はそのことを結論として書いておきたいと思います
ありがとうございました
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