先日、新聞に「親による子供への治療拒否」に付いて書かれていた。これは、厚生労働省研究班の調査で浮かび上がった事実の数々。
・ 数年前に関東の某公立病院で起こった話。耳や口、胸部の骨等に障害が有り、手足の関節も曲がったまま動かない赤ん坊が生まれた。医療チームとの話し合いで、父親は「うちに引き取る事は出来ない。治療を受けさせる気もない。」と頑な姿勢を崩さなかった。母親からも前向きな言葉はなく、積極的な治療を出来ないまま栄養補給のみ続けられた赤ん坊は、半年後に亡くなった。
・ 2年前に西日本の某救急病院に、腎不全が悪化し心肺停止状態で運び込まれ、助からなかった子供が居た。蘇生措置を施そうとする医師に対し、「止めろ!」と遮った親は新興宗教の信者だった。医療行為を否定する教義に基づき、子供に治療を受けさせなかったのだ。医師は子供の死亡を警察に届け出たが、「病死」扱いで親の刑事責任は問われなかったという。
・ 東京都内の病院では、脊椎の形成が不十分な「二分脊椎」の赤ん坊が居た。両親は赤ん坊を愛しんでいたという。手術すれば、障害は残っても人生を全う出来る筈だったが、両親が出した結論は手術拒否だった。「障害で苦しむ我が子に、更にメスを加えさせたくない。」という気持ちからだった。赤ん坊は自宅に引き取られたが、その後、感染症とみられる発熱で病院に戻され、母親に抱かれながら最期を迎えた。
或る医師は語る。「どんな選択をしても、親はその責任を一生背負う事になる。愛情を持った上での決断なら、我々はそれに従うしかないのでは。」
こういった問題には、賛否両論在ると思う。世間体を考える親、確固たる宗教観を持った親、我が子の苦しみを耐え難いと思う親等々、様々な思惑や考えが存在するからだ。どれが正しくて、どれが間違っている判断かというのは軽々に断じられないのかもしれない。でも、個人的には最期のケースは理解出来てしまう。最愛の身内には長く行き続けて欲しい。でも、苦しみながら”生かされる”のであれば、それは本当に生きているという事なのだろうか?という思いも在るからだ。
・ 数年前に関東の某公立病院で起こった話。耳や口、胸部の骨等に障害が有り、手足の関節も曲がったまま動かない赤ん坊が生まれた。医療チームとの話し合いで、父親は「うちに引き取る事は出来ない。治療を受けさせる気もない。」と頑な姿勢を崩さなかった。母親からも前向きな言葉はなく、積極的な治療を出来ないまま栄養補給のみ続けられた赤ん坊は、半年後に亡くなった。
・ 2年前に西日本の某救急病院に、腎不全が悪化し心肺停止状態で運び込まれ、助からなかった子供が居た。蘇生措置を施そうとする医師に対し、「止めろ!」と遮った親は新興宗教の信者だった。医療行為を否定する教義に基づき、子供に治療を受けさせなかったのだ。医師は子供の死亡を警察に届け出たが、「病死」扱いで親の刑事責任は問われなかったという。
・ 東京都内の病院では、脊椎の形成が不十分な「二分脊椎」の赤ん坊が居た。両親は赤ん坊を愛しんでいたという。手術すれば、障害は残っても人生を全う出来る筈だったが、両親が出した結論は手術拒否だった。「障害で苦しむ我が子に、更にメスを加えさせたくない。」という気持ちからだった。赤ん坊は自宅に引き取られたが、その後、感染症とみられる発熱で病院に戻され、母親に抱かれながら最期を迎えた。
或る医師は語る。「どんな選択をしても、親はその責任を一生背負う事になる。愛情を持った上での決断なら、我々はそれに従うしかないのでは。」
こういった問題には、賛否両論在ると思う。世間体を考える親、確固たる宗教観を持った親、我が子の苦しみを耐え難いと思う親等々、様々な思惑や考えが存在するからだ。どれが正しくて、どれが間違っている判断かというのは軽々に断じられないのかもしれない。でも、個人的には最期のケースは理解出来てしまう。最愛の身内には長く行き続けて欲しい。でも、苦しみながら”生かされる”のであれば、それは本当に生きているという事なのだろうか?という思いも在るからだ。
生殺与奪の権を握っている親の権利を何処まで認めるのか,行政の介入する余地はあるのか.私には結論が出せません.
親の権利はどこまで? というけんぼーさんの問いかけにも、答えは出ません。育てていくのは親なんですものね。
人道的にいえば、苦しみながらと親は考えても、本人は苦しんでいるのかどうか? 生きたいと思っていないのかどうか? それを表現できないうちに命を断つのはどうなのか……とも思うのですけどね。