野球人気の低下が叫ばれている中、「ファンの立場から野球人気を盛り上げて行こう!」という動きが、野球を愛するブロガーの間で盛り上がりを見せている。カネシゲタカシ様の呼び掛けに、しけたろう様が応じられて始まったムーブメントなのだが、こういった草の根運動的な盛り上げは非常に良い事だと思う。
野球の魅力は、選手個々人の卓抜した技術と選手同士の真剣勝負に在るのは言う迄もないが、試合中及び試合を離れて繰り広げられる選手達の”人間ドラマ”も挙げられるだろう。*1得てして日本の野球界は、「野球というものに教育的概念を求めたがる」傾向が強く、そういった方向性にはウンザリした思いを持ってしまう。しかし、野球を介した人間ドラマから教えられる事が在るのも事実。押し付けではなく、自ら感じ取ったものだけに、心に深く刻まれる事も多い。
今回の記事では、そんな人間ドラマの一端を紹介させて戴く。この事で、一人でも野球に興味を持ってくれる方が現れたならば、本望以外の何物でない。
今から20年程前の80年代後半、ジャイアンツではショートのポジションを巡って熾烈なレギュラー争いが繰り広げられていた。V9終焉後に、ジャイアンツのショート・ポジションをガッチリ握っていた河埜和正選手が引退したこの頃、4人の男がこのポジションを射止めようと鎬を削っていた。男達の名前は、「岡崎郁(おかざき かおる)」、「鴻野淳基(こうの じゅんき)」、「勝呂博憲(すぐろ ひろのり)」、そして「川相昌弘(かわい まさひろ)」。
当時の彼等に対しては、次の様な印象を持っていた。
***************************
(岡崎郁選手)
勝負強さは在るものの、守備に不安。*2足も遅い。
(鴻野淳基選手)
一発長打の魅力と足の速さは魅力も、好不調の波が激しい。守備面でのぽかも多く、安定性に欠ける。
(勝呂博憲選手)
ラッキー・ボーイとしての魅力は大も、総合的に打撃面では岡崎&鴻野選手に、守備面では川相選手の後塵を拝する感が否めない。
(川相昌弘選手)
守備面に関しては非常に堅実だが、打撃面で非力さを感じる。全体的に地味な存在。
***************************
こんな感じだったので、レギュラーに近い順番は「岡崎選手>鴻野選手>勝呂選手>川相選手」という思いを持っていた。恐らく、当時の野球ファンの多くは同じ様な思いを持っていたのではないだろうか。
時を経て、打撃面で勝負強さを見せるものの守備面で不安を感じさせた岡崎選手は、ポジションを三塁手に変えてレギュラー定着。鴻野&勝呂両選手は、致命的な失策からチームを追われ、ホエールズ&ブルーウェーブに移籍。そして、結果的にショートのポジションを奪い取ったのは、最も地味で影が薄い存在であった川相選手であった。
勝負事には、「天の時、地の利、人の和」が重要と言われるが、川相選手に”天の時”が味方したのも確かだろう。しかし、それだけではなく、どんな状況下に在っても腐らず、地道に自己研鑽を積んで来た彼の総合力が優ったのだと思う。
「継続は力なり」とか「人間万事塞翁が馬」等と言った言葉を面と向かって言われると、抹香臭い教訓話かとそっぽを向かれてしまいがちだが、こういった人間ドラマを目にすると、すんなり納得出来てしまうのだ。
そして、あれから20年近く経過した今、ドラゴンズで現役選手として働いている川相選手を除いては、3選手共既に引退している。焼肉店を営んでいる岡崎氏は、今年からヤンキースに留学。ホエールズに移籍した後、韓国球界に渡った鴻野氏はプロ野球マスターズリーグに在籍。移籍先のブルーウェーブで才能を開花させた勝呂氏は、ホークスでコーチを務めている。嘗て熾烈なショート争いをした男達が、その後様々な運命を辿った上で、今も野球に携わっている事に何とも言えないセンチメンタリズムを覚えてしまう。
*1 1988年7月6日、札幌の円山球場で同僚の吉村禎章選手と試合中に激突し、彼の選手生命を脅かす程の大怪我を負わせてしまった元ジャイアンツの栄村忠広選手も、人間ドラマを感じさせる人物の一人だ。ジャイアンツ・ファンからも「吉村選手の選手人生を台無しにした男」といった不当な誹謗中傷を受けた彼のその後の人生は、「運命(アクシデント)」という本でも取り上げられている。ジャイアンツを追われた彼は、ブルーウェーブに移籍するも2年後には解雇。台湾プロ野球に挑戦するも不合格となり、今は会社員として働いているという情報が載っていた。不運の一言で片付けてしまうのは何なのだが、どうしても不運という言葉が思い浮かんでしまう。
*2 守備面の不安を感じていた岡崎選手だが、今回の記事を書くに当たって幾つかの資料をチェックした所、「連続無失策記録」を作っていた事が判明。かなり意外である。
野球の魅力は、選手個々人の卓抜した技術と選手同士の真剣勝負に在るのは言う迄もないが、試合中及び試合を離れて繰り広げられる選手達の”人間ドラマ”も挙げられるだろう。*1得てして日本の野球界は、「野球というものに教育的概念を求めたがる」傾向が強く、そういった方向性にはウンザリした思いを持ってしまう。しかし、野球を介した人間ドラマから教えられる事が在るのも事実。押し付けではなく、自ら感じ取ったものだけに、心に深く刻まれる事も多い。
今回の記事では、そんな人間ドラマの一端を紹介させて戴く。この事で、一人でも野球に興味を持ってくれる方が現れたならば、本望以外の何物でない。
今から20年程前の80年代後半、ジャイアンツではショートのポジションを巡って熾烈なレギュラー争いが繰り広げられていた。V9終焉後に、ジャイアンツのショート・ポジションをガッチリ握っていた河埜和正選手が引退したこの頃、4人の男がこのポジションを射止めようと鎬を削っていた。男達の名前は、「岡崎郁(おかざき かおる)」、「鴻野淳基(こうの じゅんき)」、「勝呂博憲(すぐろ ひろのり)」、そして「川相昌弘(かわい まさひろ)」。
当時の彼等に対しては、次の様な印象を持っていた。
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(岡崎郁選手)
勝負強さは在るものの、守備に不安。*2足も遅い。
(鴻野淳基選手)
一発長打の魅力と足の速さは魅力も、好不調の波が激しい。守備面でのぽかも多く、安定性に欠ける。
(勝呂博憲選手)
ラッキー・ボーイとしての魅力は大も、総合的に打撃面では岡崎&鴻野選手に、守備面では川相選手の後塵を拝する感が否めない。
(川相昌弘選手)
守備面に関しては非常に堅実だが、打撃面で非力さを感じる。全体的に地味な存在。
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こんな感じだったので、レギュラーに近い順番は「岡崎選手>鴻野選手>勝呂選手>川相選手」という思いを持っていた。恐らく、当時の野球ファンの多くは同じ様な思いを持っていたのではないだろうか。
時を経て、打撃面で勝負強さを見せるものの守備面で不安を感じさせた岡崎選手は、ポジションを三塁手に変えてレギュラー定着。鴻野&勝呂両選手は、致命的な失策からチームを追われ、ホエールズ&ブルーウェーブに移籍。そして、結果的にショートのポジションを奪い取ったのは、最も地味で影が薄い存在であった川相選手であった。
勝負事には、「天の時、地の利、人の和」が重要と言われるが、川相選手に”天の時”が味方したのも確かだろう。しかし、それだけではなく、どんな状況下に在っても腐らず、地道に自己研鑽を積んで来た彼の総合力が優ったのだと思う。
「継続は力なり」とか「人間万事塞翁が馬」等と言った言葉を面と向かって言われると、抹香臭い教訓話かとそっぽを向かれてしまいがちだが、こういった人間ドラマを目にすると、すんなり納得出来てしまうのだ。
そして、あれから20年近く経過した今、ドラゴンズで現役選手として働いている川相選手を除いては、3選手共既に引退している。焼肉店を営んでいる岡崎氏は、今年からヤンキースに留学。ホエールズに移籍した後、韓国球界に渡った鴻野氏はプロ野球マスターズリーグに在籍。移籍先のブルーウェーブで才能を開花させた勝呂氏は、ホークスでコーチを務めている。嘗て熾烈なショート争いをした男達が、その後様々な運命を辿った上で、今も野球に携わっている事に何とも言えないセンチメンタリズムを覚えてしまう。
*1 1988年7月6日、札幌の円山球場で同僚の吉村禎章選手と試合中に激突し、彼の選手生命を脅かす程の大怪我を負わせてしまった元ジャイアンツの栄村忠広選手も、人間ドラマを感じさせる人物の一人だ。ジャイアンツ・ファンからも「吉村選手の選手人生を台無しにした男」といった不当な誹謗中傷を受けた彼のその後の人生は、「運命(アクシデント)」という本でも取り上げられている。ジャイアンツを追われた彼は、ブルーウェーブに移籍するも2年後には解雇。台湾プロ野球に挑戦するも不合格となり、今は会社員として働いているという情報が載っていた。不運の一言で片付けてしまうのは何なのだが、どうしても不運という言葉が思い浮かんでしまう。
*2 守備面の不安を感じていた岡崎選手だが、今回の記事を書くに当たって幾つかの資料をチェックした所、「連続無失策記録」を作っていた事が判明。かなり意外である。
盛り上げて行こう!」という動きって素敵ですね!
みんな、ひょうきん族を見るようになって、きなこは、いやドリフだ!
と思っていた、そんな気持ちを思い出しました。
サッカーにいっている人が多い中で、プロ野球って、ずっと応援している
人って何か共感を覚えちゃいます。ドリフのことがあるから。
あんま、今回のブログのコメントと関係なくなっちゃったかも・・・。
ば○こう○ちの様の「仮面ライダーごっこをする際には、ツバサ大僧正や
キバ男爵といった超マニアックな大幹部の役を喜んでしていた自分です」
というコメントに思わずニヤってしてしまいました。
そうか、これなら死人コウモリや吸血マンモス役もできて、一粒で二度
おいしいと思わずにはいられなかったからです。
勝手ながら、ば○こう○ち様に「親しみ」を感じてしまいました。
私は 25年近く巨人ファンなもんで
野球関連の記事は 特に面白いです
ちなみに 川相大好きですし、清原大好きですし
ほんと 選手の裏情報なんかも知れて
面白いです!!!
ここで取り上げられている選手は
ドラゴンズファンの立場としましては
やはり現中日ドラゴンズで現役プレーヤーとして
活躍している川相選手に絡みたいところなんですが、
私の記憶に鮮明に残っている選手がいるので触れておきます。
その選手とは鴻野淳基なんですが、確かヤクルトスワローズとの開幕戦(東京ドーム)で巨人リードで迎えた9回表ヤクルトの攻撃で、2アウトだったと思います。あと一人で開幕戦勝利と言うところでなんでもないショートゴロを鴻野淳基が一塁へ悪送球してバッターランナーが塁に出て、それをきっかけにヤクルト打線が繋がり逆転し、結局このゲームはヤクルトが勝利して、その年は巨人が優勝できませんでした。
その原因はこの年の最初のゲームである開幕戦で
鴻野淳基のエラーをきっかけに落としてしまったのが
このシーズンずっと引きずったのではないかと私は今でも覚えています。
川相が高校(岡山南高)時代、甲子園の岡山県予選の決勝戦で、岡山南は9回裏ノーアウト満塁の局面で、クリーンナップを迎えました。川相は5番でした。
期待された3番、4番が力が入って凡退し、延長戦かと思われたとき、5番の川相の打球はセンター前へ、岡山南がサヨナラ勝ちで甲子園へ駒を進めました(20年以上前の私の記憶に基づきますので、記憶違いがあるかもしれません)。
その勝負強さを見て川相は体は小さいけれどプロで通用するかもしれないな、と思ったものでした。また、同期で巨人軍に入った斎藤雅樹は後にエースとなりましたが、入団当初は「もし斎藤をショートにすれば、巨人軍のショートは10年間安泰だ。」と言われていました。そうならなかったのも川相の運かもしれません。
監督が藤田氏だったからこそ、という運もあるわけですが、その運をしっかりつかんだのは、川相選手の実力以外の何者でもありませんな。
ドラゴンズでも選手たちの先生になってるみたいですね。
自分は『巨人のショート』といえば、野球に興味持ち始めた時、ショートを守ってた川相選手ですね^^
巨人の2番は川相!!って感じでしたからね
あの~緒方選手を忘れていませんか?
広島戦で、続けて2つのエラーをしたにもかかわらず交代されることなくつかわれたのは、確か緒方であったと思います。
当時、巨人ファンでtoshi16でした。
あのころの、2軍から1軍への選手供給量は驚異的でした。