間も無く“権力の座”を降りる事になる菅義偉首相。彼が第99代首相の座に就いたのは2020年9月16日の事だから、1年一寸経った訳だ。昨年8月の記事「『〇〇〇で無ければ、物を言ってはならない!』という事」の中でも触れた様に、「彼は官房長官として、“余りにも異常な安倍政権”を中枢で支えて来た1人で在る事。」に加え、「其の官房長官としても、記者から厳しい質問を受けた際、無表情で『問題在りません。』、『大丈夫です。』等と、全く根拠を示さない“質問打ち切りフレーズを多用する事で、誤魔化し続けていた事。」(こんな好い加減な対応で誤魔化し続けている“だけ”の人間を、“最強の官房長官”なんぞと評価している国民が少なからず存在している事に、自分はずっと危機感を覚えていた。)から、自分は首相に相応しく無い人間と考えていた。だから、「1年間も、良く持ったなあ。」という思いが在る。(申し訳無いが、其れだけ国民が“劣化”しているという証左でも在ろう。)
彼の駄目さを感じる機会は少なく無かったが、「官僚が作成した文章を、常に読み上げているだけ。」というのもそうだ。「彼が、“自分の言葉”で語った。」というのは、皆無に等しいだろう。
「官僚が作成した文章を、常に読み上げているだけ。」だから、感情が全く感じられない。「感情が全く感じられない。」から、「国民の心に全く響かない。」という悪循環。
彼が文章を読み上げている時に良く感じたのは、「此の人って、読書を余りしない人なのでは?」という事。官僚が書いた文章を棒読みするにしても、読書をする習慣が少しでも在る人ならば、“書かれている文章の意味合い”を無意識の内にでもするだろう。“書かれている文章の意味合い”を無意識の内にでもしていれば、考えられない様なミスが、彼には本当に多かった。「文章を、丸々読み抜かしてしまった。」なんて事が在ったけれど、“書かれている文章の意味合い”を少しでも考えて読めば、そんなミスは無いだろうに。
一番気になったのは、「てにをは」の間違いが非常に多い点。例えば「北朝鮮がミサイルを撃った事に対し、遺憾の意を表する。」という官僚が書いた文章が在るとする。其れを「北朝鮮“に”ミサイル“が”撃った事に対し、遺憾の意“に”表する。」と読み上げた“ならば”、「此の人って、意味を判って言ってるの?」と思う事だろう。そんな感じの「てにをは」の間違いが余りにも多かったので、「読書を余りしない人なんだろうな。」と思わざるを得なかったのだ。