大のミステリー好き故、昨夜から日本テレビで放送開始となったドラマ「探偵学園Q」はしっかりと録画。リアル・タイムで見なかったのは、同時刻に何時も見ている「報道ステーション」が在った為だが、ザッピングしていてふと或るドラマに目が吸い寄せられ、結局このドラマを最後迄見てしまった。やはり昨日からフジテレビ系列で放送開始となった「牛に願いを Love&Farm」がそれだ。北海道の酪農家が舞台で、其処に牧場実習にやって来た農業大学の男女6人を中心とした青春群像劇。ストーリーの詳細はこちらを読んで戴くとして、酪農家の厳しい現実(主人公が「一生懸命作り上げた牛乳を廃棄しなければならなかったこの町に未来は無い。僕はそんな町に帰るつもりは在りません。」と語るシーンが印象的。)や漠然と学生生活を送っている若者達が実習を通じて何かを感じ取って行く姿が丁寧に描かれている。この方に何処となく似ている気がしてならない大杉漣氏を始めとしたキャスティングが光っている。特に、若手のキャスティングがなかなか良いのは珍しいと言えるだろう。「フジテレビ」、「北海道」、そして「登場人物の一人が中島朋子さん」となると、どうしてもドラマ「北の国から」を思い浮かべてしまう方も少なくないだろうが、テイストとしては同じフジテレビ系列で放送されたドラマ「白線流し」に近い気がする。来週以降も「探偵学園Q」は録画、そしてリアル・タイムで「牛に願いを Love&Farm」を見るという事になりそうだ。
閑話休題。昨日、久間章生氏が防衛大臣の職を辞した。先月の30日に行われた講演会で1945年8月にアメリカ軍が日本に原爆を投下した事に触れ、「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている。」と発言した事が大問題化した責任を取っての辞任。「原爆投下を正当化したと受け取れる発言を、唯一の被爆国で在る国の、それも防衛大臣がしたのは許せない。」という事なのだが、正直な気持ちを言えば「原爆が投下された事により、日本が敗戦の受け容れを早める事となった。」という趣旨は理解出来ない訳では無い。そういった側面も確かに在ったと思う。しかし戦勝国が自らの正当性に付いて口にしたり、歴史家がそういった見解を出すならばまだしも、我が国の防衛大臣が「原爆投下はしょうがない。」と大勢の自国民が殺害されて事迄も正当化している”様に取られかねない”発言をしたというのは、やはり軽率に過ぎたと言わざる得を得ない。政治家たる者、時には国民にとって耳障りの良くない事を言わなければならない時も在るが、少なくとも今回の発言は原爆で身内を亡くされた遺族の多くに不快感を与えただけで、”意味の在る”発言だったとは思えない。
又、与野党を問わず今回の辞任劇を、「参院選に影響が出る。」云々の切り口でばかり語っていたのは、「結局、彼等の心の中は国民不在という事なのだなあ。」と辟易とさせられたし、「インタビューの際は記者の方を見るのでは無く、カメラ目線で話した方が国民受けが良いです。」と自民党の広報担当者から言われたとかで、何とかの一つ覚えの様に一心不乱にカメラ目線で答え続けている安倍晋三首相が、今回”も”カメラ目線で話しているのを目にして、「この人は本当に”応用力”の無い人なのだなあ。」と哀れみすら感じてしまった。
防衛大臣の後任に選ばれたのは、小池百合子総理大臣補佐官だった。当人は「女性初の防衛大臣。」という事をやけに強調していたが、別に能力さえ在れば男性だろうが女性だろうが、若かろうが年を食っていようがどうでも良い話。彼女に能力が無いとは言わないが、「参院選を闘う上でイメージ・アップを少しでも図る為には、女性を担ぎ出せば良いだろう。」という政府の安直さがどうしても感じられてしまう人事。
昨日、CS放送の朝日ニュースターで「ニュースの深層evolution」という番組が放送され、「政治とカネ」というテーマで新党大地の鈴木宗男氏がゲスト出演。今回の辞任&就任劇に付いてもコメントしていたのだが、なかなか納得させられる内容だった。
「外交と国防は国家の重要な課題で在り、それを担当する外務大臣と防衛大臣の重責度は本来、他の大臣の比では無い筈。だから海外では何処の国でも、外務大臣や防衛大臣には最高指導者に次ぐ二番手&三番手の人間が就いている。そうでないと対外的のみならず、対内的にも相手を従わせる事は難しいからだ。それに対して我が国では、残念ながらそういった考えで人選をして来ていないし、”見栄えの良い”人物を配するケースが多い様に思う。特に”仲良しグループ”といった感じの安倍内閣では、そういった傾向が強いのではないだろうか。」といった趣旨の発言だったが、皆様はどう思われるだろうか?
閑話休題。昨日、久間章生氏が防衛大臣の職を辞した。先月の30日に行われた講演会で1945年8月にアメリカ軍が日本に原爆を投下した事に触れ、「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている。」と発言した事が大問題化した責任を取っての辞任。「原爆投下を正当化したと受け取れる発言を、唯一の被爆国で在る国の、それも防衛大臣がしたのは許せない。」という事なのだが、正直な気持ちを言えば「原爆が投下された事により、日本が敗戦の受け容れを早める事となった。」という趣旨は理解出来ない訳では無い。そういった側面も確かに在ったと思う。しかし戦勝国が自らの正当性に付いて口にしたり、歴史家がそういった見解を出すならばまだしも、我が国の防衛大臣が「原爆投下はしょうがない。」と大勢の自国民が殺害されて事迄も正当化している”様に取られかねない”発言をしたというのは、やはり軽率に過ぎたと言わざる得を得ない。政治家たる者、時には国民にとって耳障りの良くない事を言わなければならない時も在るが、少なくとも今回の発言は原爆で身内を亡くされた遺族の多くに不快感を与えただけで、”意味の在る”発言だったとは思えない。
又、与野党を問わず今回の辞任劇を、「参院選に影響が出る。」云々の切り口でばかり語っていたのは、「結局、彼等の心の中は国民不在という事なのだなあ。」と辟易とさせられたし、「インタビューの際は記者の方を見るのでは無く、カメラ目線で話した方が国民受けが良いです。」と自民党の広報担当者から言われたとかで、何とかの一つ覚えの様に一心不乱にカメラ目線で答え続けている安倍晋三首相が、今回”も”カメラ目線で話しているのを目にして、「この人は本当に”応用力”の無い人なのだなあ。」と哀れみすら感じてしまった。
防衛大臣の後任に選ばれたのは、小池百合子総理大臣補佐官だった。当人は「女性初の防衛大臣。」という事をやけに強調していたが、別に能力さえ在れば男性だろうが女性だろうが、若かろうが年を食っていようがどうでも良い話。彼女に能力が無いとは言わないが、「参院選を闘う上でイメージ・アップを少しでも図る為には、女性を担ぎ出せば良いだろう。」という政府の安直さがどうしても感じられてしまう人事。
昨日、CS放送の朝日ニュースターで「ニュースの深層evolution」という番組が放送され、「政治とカネ」というテーマで新党大地の鈴木宗男氏がゲスト出演。今回の辞任&就任劇に付いてもコメントしていたのだが、なかなか納得させられる内容だった。
「外交と国防は国家の重要な課題で在り、それを担当する外務大臣と防衛大臣の重責度は本来、他の大臣の比では無い筈。だから海外では何処の国でも、外務大臣や防衛大臣には最高指導者に次ぐ二番手&三番手の人間が就いている。そうでないと対外的のみならず、対内的にも相手を従わせる事は難しいからだ。それに対して我が国では、残念ながらそういった考えで人選をして来ていないし、”見栄えの良い”人物を配するケースが多い様に思う。特に”仲良しグループ”といった感じの安倍内閣では、そういった傾向が強いのではないだろうか。」といった趣旨の発言だったが、皆様はどう思われるだろうか?

「熱し易く冷め易い」、「良くも悪くも柔軟」というのが我が国の国民性と言われます。以前にも書きましたが、戦時中は「鬼畜米英」を国家的スローガンとして掲げていたにも拘らず、戦後は欧米文化を嬉々として受け容れて行ったの我が国。(終戦後、英和辞書が爆発的に売れたとか。)
過去に過剰に固執し、これからに眼を一切向けないというのでは困りますが、でも自国民があれ程迄に酷い目に遭い、今も苦しんでいる人達が居るという事が頭の片隅にも無い”様な”発言を、それも我が国の大臣たる者が口にするというのは問題でしょうね。どういう思想&信条を持とうが勝手ですが、それを然る可き立場の人が公言する際には、それなりの配慮が求められる(言わないという事も含め。)のは当然かと。
他の方のコメントでも触れましたが、自分は小学生の頃に「はだしのゲン」で原爆の悲惨さを痛烈に思い知らされましたし、祖父が投下から数ヵ月後に広島入りしていた事も在りますので、原爆という物に対してはどうしても他人事と片付ける事が出来ません。
我が国の政治家は概して、自らの言葉に対して余りにも無責任で軽率な人が少なくないのは困ったものです。
今回の久間氏の言動はやはり軽率だったのではないかと思います。アメリカ人や中国人・韓国人・朝鮮人など敵対した側、日本に被害をこうむった側の国々の人が言うならわかりますが彼はれっきとした日本人まして被爆地長崎県民の応援を受けて議員になった立場を忘れてはいけなかったと思います。原爆資料館を訪れた南部出身のアメリカ人が「我々の受けた南北戦争でのシャーマン将軍の幅100キロに渡る「海への進軍」よりも酷いじゃないか!何で日本人はヤンキーに怒らないんだ!」と激昂したという情報も入っているのに、日本の防衛庁の最高司令官が怒るどころか原爆投下を仕方ないというのは・・・。このような調子では困りますね。私も日常あまり国のことを考えない自由主義者ですが、原爆投下に関しては激しい憤りと抵抗感を今もって感じ、「畜生!ヤンキーめ」と恨めしくなります。ただ久間罷免ではい結構という現在の政治家達のあり方にも本当に疑問を感じます。汚い言葉連発で申し訳ありませんが「ていたらく」ですね。
今回の久間氏の辞任に対し、「単なる揚げ足取りではないか。」という発言もチラホラ見受けられます。確かに野党の側に「与党に関する事には、何でもかんでも噛み付け!」といった節が感じられない訳でも在りませんが、今回の件に限って言えば「単なる揚げ足取り」という問題では無い様に自分は思っています。
一国の立場が左右される様な問題に”直面”し、その問題が歴史認識とリンクしている場合、政治家が毅然と歴史認識を”論拠”を掲げた上で主張するのは当然でしょうが、今回はそういったケースとは全く異なるでしょう。日本の政治家の場合は、とかく不必要に歴史認識を、それも論拠を掲げる事無く感情だけで主張するケースが少なくない様な気がします。特に戦争に纏わる問題では、戦勝国だろうが敗戦国だろうが”自国に都合の悪い証拠”は徹底的に廃棄するのが普通。それなのに「証拠が無いから、○○という事実は皆無!」と言い切ってしまうのはどうかと常々感じています。10の出来事を2万だ3万だと誇大視するのもおかしなものなら、それを全くのゼロと矮小化するのもおかしな話ではないかと。
個人的に不思議でならないのは、他国から指摘された事柄に関しては過剰にそれが皆無と主張する人達の中から、「沖縄戦の過程で軍部に自決を強要された。」という証言を”自国民”が口にしているのにも拘らず、それをあたかも事実では無かったかの様に持って行く流れに対して異議を口にする人が見受けられないのでしょうか?もし「自国に都合の悪い事は一切目を瞑る。」という発想ならば、それは本当におかしな事だと思います。自虐史観に凝り固まるのもおかしなものなら、手前勝手な史観に凝り固まるのも同様におかしなものの筈ではないかと思うのですが。
ですが、国民に多大の苦痛を強いた戦争だったがゆえに、それを終わらせてくれた“恵みの雨”という認識が広島・長崎以外の住人にはあったかもしれませんね。
しかし戦争はまだ終わっていなかったんで、アメリカは“戦後”も日本弱体化のために日本に対する思想的工作を開始しはじめたのです。今だって日本にあれこれ干渉しているじゃないですか。
状況次第でアメリカはいつまた核攻撃を行使するか分かったものではない。
防衛大臣たるものが「あれで戦争が終わったんだ」という認識では困る。
結果論から言えば原爆2発でようやく日本は「ふんぎりがついた」とも言えます。それを原爆のおかげとするか、戦争責任者のあきらめの悪さとするかは意見が分かれるのではないかと思います。
しょうがない発言ですが、気のよさそうな久間さんを責め立てるのは少し気の毒な気もしますが、為政者の「しょうがない」には目くじらを立てるべきだと思います。日本人は諦めが良いといいますか、淡白といいますか、既成事実をしょうがないで済ます傾向がありますし、先の戦争でも一気に太平洋戦争に入ったわけでなく、満州事変から軍部が既成事実を積み上げて行った結果です。
久間さんの後任の小池さんですが、やはり側近からの任命になりました。後任のなり手もいなかったのかもしれませんが、安倍さんは学習しない人だと思いました。鈴木さんの発言と同様の感想をもっていました。
「君子重からざれば威あらず。学べば固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。過ち手は改むるに憚ること勿れ。」(学而第一)
日本の政治家は論語も読まなくなったようですな。
仲良しグループだけでやってきたツケが回ってきたのかもしれません。
「君子は周して比せず。小人は比して周せず」(為政第二)
このレベルの内閣が主導している教育改革とは何なんでしょう?
ヤンキー先生に教えて頂きたいものです(笑)
今は亡き祖父は、原爆が落とされてから数ヵ月後の広島に足を踏み入れたそうです。広島に恐ろしい爆弾が落とされたというのは知っていたものの、それがどれ程迄に恐ろしい代物なのかは知り得ずに訪れたという事でした。祖父及びその子供達に放射能による影響は出なかったものの、一つ間違えれば被爆者の方々と同じ苦しみを抱える事に為り得た訳で、その意味でも原爆に付いては全く他人事とは思えません。
小学校の頃、図書館に置かれていた漫画「はだしのゲン」を読み、原爆の恐ろしさをヴィジュアル的にも痛感させられました。原爆投下が日本敗戦を早めさせた面は100%否定は出来ないものの、だからと言って自国民があれ程迄に悲惨な目に遭わせられ、仰る様にその地獄の苦しみは後遺症という形で未だに続いている以上、為政者として原爆投下を肯定している”かの様”な発言は慎む可き事。政治家たる者は”言葉”という物には充分な配慮をす可きで、「言葉足らずでした。ゴメンなさい。」では済まない事”も”在る。政治家の存在が軽く感じられてならないのは、そういった慎重さが無い事も影響しているのでしょうね。