此の世に生を享けてからウン十年経つが、脳裏に焼き付いて忘れられないニュース映像が結構在る。「日本航空123便墜落事故」や「三菱銀行人質事件」、「深川通り魔殺人事件」、「豊田商事会長刺殺事件」、「村井秀夫刺殺事件」、「阪神・淡路大震災」、「東日本大震災」等々の関連映像がそうで、余りに衝撃的だった事から、此れからもずっと忘れられないと思う。
1982年2月8日に発生した「ホテルニュージャパン火災」(動画)のニュース映像も、強烈に覚えている。午前3時24分に出火し、鎮火する迄9時間を要した。「燃え盛る火や有毒ガスを含んだ煙から逃れる為、高層階の窓枠に結び付けたシーツをロープ代わりにして、下の階に降りる人の姿。」、「暑さに耐え切れず、高層階の窓から飛び降りる人の姿。」、「猛火が迫る中、外壁にしがみ付いて助けを待つ男性の姿。」等、“阿鼻叫喚”という表現しかない悲惨な光景。33人の死者数を出した此の大火災から、30年が経過した。
週刊新潮(2月9日号)では「死者33人『ホテルニュージャパン』火災から30年 『私はこうして死から逃れた』」という特集記事が組まれ、九死に一生を得た人々(又は其の関係者)や救出に当たった人達による証言が紹介されている。特別救助隊隊長だった高野甲子雄氏(当時33歳)が語る現場の様子は、想像していた以上に過酷で、そんな状況下で救出出来た人達が少なからず居たという事に驚かされる。現在63歳の高野氏は、3年前に退官してヴォランティア団体を設立。東日本大震災では、救援活動を行われているという事だ。
4階に宿泊していた広島県在住のA氏(当時45歳)は、新宿に在る金属関係の会社との取り引きで頻繁に上京していて、地の利の良さからホテルニュージャパンを良く利用していた。大火災が発生した日は友人のB氏(当時46歳)と2人でツインの部屋に泊まっていたが、午前5時頃に大きな物音で目が覚めたと言う。
「ドン、ドンと大きな音がして、目が覚めた。外を見ると警察や消防の車が集まっている。ふと窓から横を見ると、隣の部屋から赤い炎が出ている。あ、火事だと慌てて部屋を飛び出しましたが、Bを連れて行かないといけないと思い、部屋に戻り、寝ていた彼を起こしました。私も相当に気が動転していたのでしょう。ズボンを穿こうとしましたが、穿けない。後ろ前が反対だったんです。冷静な判断が出来ませんでした。取り敢えずズボンを穿き、コートを引っ掛けて部屋を逃げ出しました。Bはワイシャツを着ただけの格好でしたね。廊下中に焦げ臭い煙が充満していて目が痛かった。ホテル内部は放水の圧力で到る所で窓ガラスが割れていました。外を覗くと、突然、上から大きな女性が落ちて来て、2階の屋根に身体を打ち付けられました。ピクピクと痙攣をして、其れっ切り動かなくなりました。」
2人は意を決して、2階の屋根に飛び降りたそうだ。
「助かった、とホッとしていると、別の消防隊員が遣って来て、『負傷者を降ろすので手伝え。』と言うのです。2階の屋根には遺体が10体程横たわっていました。私は、『此れは負傷者じゃない。死んでいます。』と言ったのですが、隊員は「其れは医者の言う事だ。兎に角降ろせ。』です。Bと2人で遺体を毛布に包んで、梯子車に移しました。遺体を持ち上げると、丁度ドリップしたコーヒー液の様に毛布から血がタラーっと滴りました。作業を終えると、私達は地上に降ろされました。」
自分がA氏やB氏の立場だったら、余りの凄惨な状況に失神していたかもしれない。消防隊員達も然る事乍ら、被害者なのにも拘らず作業に従事した彼等にも頭が下がる思い。A氏は現在76歳で、地元の公安委員として活躍されているが、B氏は3年前に癌で亡くなられたと言う。
「犠牲者が多く出た9階にチェックインするも、新宿のバーで朝迄迄飲み明かしていた事で、命拾いをした。」と、当時報道された男性C氏(当時69歳)が居た。彼は1954年に死者1,155人を出した「洞爺丸事故」、そして1971年に死者68人を出した「ばんだい号墜落事故」の何れにも搭乗する予定だったのだが、乗り遅れたり、直前にキャンセルした事で命拾いをした人物でも在り、「3度も死を免れた男性」という事でも有名になった。其の彼に付いて親類の男性が証言しているのだが、C氏はホテルニュージャパン火災の時に新宿のバーでは無く、新宿の愛人宅に居たのだとか。又、洞爺丸事故及びばんだい号墜落事故の際にも、其れ其れの地に居た愛人との都合で搭乗出来なかったというのが真実らしい。「艶福家故に、何度も命拾いをした。」とも言える此の男性は、5年前に94歳で天寿を全う。
ホテルニュージャパン火災の当時のニュース報道で、恐らく多くの人が一番印象に残っている映像と言えば、「猛火が迫る中、外壁にしがみ付いて助けを待つ男性の姿。」だろう。彼は富山県から来ていたD氏(当時56歳)で、救出された際にはホテルの周囲に集まった人達の間から、大きな拍手が巻き起こったと言う。九死に一生を得た彼だったが、「本人は20年程前に病気で亡くなりました。折角彼の事故で助かったのに、寿命には敵いませんでしたね。」とD氏の家族は語っていた。命拾いをしたのに、其の約10年後には病で亡くなられていた・・・「三井物産マニラ支店長誘拐事件」で無事救出されるも、其の約2年後に病死された若王子信行元支店長を思い起こさせる、何とも切ない話だ。
大火災から助かった人達、其の後の人生は色々。一番驚いたのは、「大学受験の為に宿泊していた広島市の女子高生E(当時18歳?)」の其の後。
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<Eさんは寝間着の上にガウンを羽織った儘裸足で廊下に飛び出し、悲鳴と怒号の中を非常階段を伝って一気に駆け降りた。>(中國新聞、1982年2月9日付け朝刊)と地元紙は彼女の火災の体験を紹介したが、其の23年後、件の女子高生は、<知人に犯行告白 41歳女指名手配 西五反田の女性刺殺>(東京新聞、2005年5月26日付け夕刊)と、殺人容疑者に成り果ててしまうので在る。女の名はE。東京の大学に進んだものの、銀座のホステスに身を転じ、其の後、新宿2丁目でゲイバーを開業する。そして同性愛関係に在った同居女性を刺殺。2年間の逃亡の末、2007年3月24日に逮捕され、目下服役中で在る。広島に在る実家の隣人は言う。「近所の人達は、折角拾った命を人殺しに使うのは何だと怒っています。」
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当時、ホテルニュージャパンの所有者で、被害者及び犠牲者の家族達に不誠実な対応をしていた、“戦後最大の乗っ取り屋”こと横井英樹元社長。彼が亡くなって、今年でもう14年になる。
http://www.youtube.com/watch?v=5qTRzfofqXU&feature=related
主犯の一人は海外逃亡している終わらない現実をどう感じているのだろうと思いました。
(暴力学生のアイドルだった大道寺あや子ももう60いくつでしょうが、生きてるのかな?)
>ニュージャパン
人生色々ですね、広島の学生さんは都会の誘惑に負けたんでしょうか。1980年代は女子大生ブーム。甘言に惑わされて性風俗の世界に進出する学生が増えた時代ですね。
事件や事故の裏側には、部外者が中々窺い知る事が出来ない「関係者の人間模様」が色々在ったりするもの。況してや多くの人間が関係している事件や事故だと、複雑なケースが少なくない気がします。
「週刊新潮(2月9日号)」の巻頭グラビアでは、横井英樹元社長が眠る納骨堂の写真(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yokoi_h.html)が紹介されていました。亡き母親の為に地下室完備の豪勢な納骨堂を作った横井元社長ですが、其の地下室が雨水で水没したのを機会に、遺族が地下室を埋め、納骨堂の周りを覆っていた大理石(だったか?)を全部剥がし、コンクリート剥き出しの状態に変えたとか。火災で亡くなられた方々への配慮も在って、質素に変えたのだと思われますが・・・。