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看護師の月岡美琴(つきおか みこと)は、松本市郊外に在る梓川病院に勤めて3年目になる。此の小規模病院は、高齢の患者が多い。 特に内科病棟は、半ば高齢者の介護施設の様な状態だった。
其の内科へ、での研修期間を終えた研修医・桂正太郎(かつら しょうたろう)が遣って来た。草臥れた風貌、実家が花屋で花に詳しい・・・何処か掴み所が無い其の研修医は、然し患者に対して真摯に向き合い、不慣れ乍らも、懸命に診療を熟していた。
或る日、美琴は桂と共に、膵癌を患っていた長坂(ながさか)さんを看取る。妻子を遺して亡くなった長坂さんを思い、「神様というのは、酷い物です。」と静かに気持ちを吐露する桂。一方で、誤嚥性肺炎で入院している88歳の新村(にいむら)さんの生きる姿に希望も見出だす。患者の数だけ在る生と死の在り方に悩み乍らも、真っ直ぐに歩みを進める2人。
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現役の医師でも在る小説家・夏川草介氏の「勿忘草の咲く町で ~安曇野診察記~」は、彼の代表作「神様のカルテ・シリーズ」と似た雰囲気を持つ作品。
日本が“超高齢社会”に突入して13年目となった今、病院、特に地方の病院は高齢患者の割合が増加し続けている。そういう中、胃瘻等の形で“生かされている人”の数も少なく無い。以前に何度か書いた事だが、「日本の平均寿命は毎年の様に伸び続けているけれど、“人として生きている人”は別にして、“機械的に生かされているだけの人”が増えた中での平均寿命アップは、本当に幸せな事なのだろうか?」という思いが、自分の中にずっと在る。
高齢患者の割合が非常に高い梓川病院で研修医として働く桂正太郎は、「“機械的に生かされているだけの人”になろうとも、何とかして患者を生かす。」という思いが強く、「機械的に生かされている事にすべきでは無い。」と考えるヴェテラン医師と時に対立し、時に悩む。「意識も無く、単に生かされているだけなら、そういう状態になりたくない。」と考える自分としては、桂の気持ちも判らないでは無いけれど、ヴェテラン医師の考えに、より共感する。とは言え、自分が愛する人が対象だと、「苦しい思いをする事が無ければ、機械的に生かされているだけで在っても、生かし続けて欲しい。」という気持ちが無くも無く、非常に難しい問題では在る。
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・「これはね、氷山の一角なんです。目に見えないところで似たようなことがたくさん起こっている。繰り返す高齢者の肺炎に延々と抗生剤が使われることで発生する危険な多剤耐性菌は、明らかに次の世代の医療にとって脅威となりつつある。もっと身近な例が聞きたいなら、大量の寝たきり患者を抱えて過労死した若い医者の話をしましょうか。この国はもう、かつての夢のような医療大国ではないんです。山のような高齢者の重みに耐えかねて悲鳴を上げている。倒壊寸前の陋屋です。倒れないためには、限られた医療資源を的確に効率よく配分しなければいけない。そのためには切り捨てなければいけない領域がある。」。
・「人が生きるとはどういうことなのか。歩けることが大事なのか、寝たきりでも会話さえできれば満足なのか、会話もできなくても心臓さえ動いていれば良いのか。こういった問いに、正解があるわけではない。しかし正解のないこの問題に、向き合うことはぜひとも必要だ。けれども今の社会は、死や病を日常から完全に切り離し、病院や施設に投げ込んで、考えることそのものを放棄している。谷崎(たにざき)君はある意味で、投げ捨てられてしまったその問題を、ひとりで正面から受け止めているのだよ。」。
・「医療は今、ひとつの限界点に来ている。『生』ではなく『死』と向き合うという限界点だ。乱暴な言い方をすれば、大量の高齢者たちを、いかに生かすかではなく、いかに死なせるかという問題だ。(後略)」。
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「神様のカルテ・シリーズ」もそうだが、夏川作品には“人の死”という非常に重い場面が良く登場する。そういう場面に触れると、「何故、彼(又は彼女)が死ななければいけないのだ。」という遣り切れない思いに打ち拉がれるのだが、読み終えた時には清々しさが残る。透明感の在る自然描写(今回の作品では、花が需要な役割を果たしている。)も在るが、「非常に厳しい医療状況に在っても、希望を決して捨てない医師達の姿が描かれている。」というのが、清々しさを感じる一番の理由だろう。
総合評価は、星4つとする。