今日「3月3日」は「雛祭りの日」で在り、「耳の日」でも在る。「『3』という数字が、耳の形に似ている事。」、そして「み(3)み(3)という語呂合わせ。」も在って、3月3日が耳の日に選ばれたと言われている。3月3日」という数字の並びから「みみ」という語呂合わせを思い浮かべ、「嗚呼、今日は耳の日だ。」と思う人も居る事だろう。
語呂合わせでは無く、「月日の数字の並び」で特定の事柄を思い浮かべるケースも在る。先月の話になってしまうが、「2月26日」なんぞも、そういったケースだろう。クーデター未遂事件「二・二六事件」は、1936年2月26日に発生した。
近年、2月26日に「二・二六事件」を取り上げるメディアが減って来ている感は在ったが、今年は「二・二六事件」を取り上げるメディアに出くわさなかった。単に自分が見聞するメディアが取り上げなかっただけで、他のメディアでは取り上げていたのかもしれないが、少なくともメインのメディアではスルーしていた様に感じる。
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どんな世界でも、其の中で仕事をするのなら、其の世界や組織の成り立ちから謙虚に学び、先輩達が残した財産を継承して行く姿勢が大切なのではないか。歴史を学べば、其れを築いて来た先輩達が何を考え、どんな業績を残したのかも判る。成功例だけでは無く、失敗例も幾つも在る筈だから、歴史を学ぶ事は、同じ様な失敗を繰り返さない事にも繋がる筈だ。
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落合博満氏が、自身の著書「采配」の中で記していた文章だ。「過去を振り返っても、全く意味が無い。」と歴史を軽んじる人も居るが、自分は「其れは違う。」と思っている。「歴史を学ぶ事で、先人達が犯した過ちを繰り返さないで済む可能性が高まるし、又、新たな物の見方が出来る様になる事も在る。」と考えているので。なので、落合氏の主張には共感を覚えた。
「自身の考える『正義の形』のみが唯一無二的に正しく、其れと違う考えの持ち主を“排除”するのは当然の事。」と“思い込み”、クーデターを起こそうとした青年将校達。クーデターは未遂に終わったものの、其の後は軍部の暴走を許す事になり、泥沼の戦争へと突入していった歴史を、我々は忘れてはいけないと思う。其の意味で、歴史を振り返る糸口の1つ「二・二六事件」を今年の2月26日、取り上げるメディアに出くわさなかったのは残念だった。
実はコソーリ見に行ってまして、交通規制で車の通らない霞が関界隈。
プレスセンター前から国会議事堂方面を見たら戒厳令っぽかったですよ。
マラソンコースのランナーは平和そのもの。
そう言われてみれば、2月26日は東京マラソンが行われた日でしたね。ランナー達の頑張りに一喜一憂するというのは、本当に平和で在ればこその事。其れは其れで幸いでは在るのだけれど、メディアで「二・二六事件」に関して取り上げられなかった事で、益々「我々とは全く無関係な過去の出来事」という位置付けに追い遣られてしまった様な残念さを感じました。
色んな主張や主義が存在するからこそ、世の中は面白い。とは言え、他者の主義&主張を全て弾圧し、自らの主義&主張を強いるという人が圧倒的多数になってしまうのは、どう考えても良い事では無い。「我々の考えの賛成か否か踏み絵させる。踏まない人間は、沈み行く船に乗れ!」という某政治家のスタンスも、二・二六事件の青年将校的な発想が感じられ、正直怖さを感じます。
「社会保障と税の一体改革に向けた消費税増税」に関して野田首相が、「どうやって共通理解に持って行くかが問われている。『誰が悪者で、私は正しい。』と抵抗勢力を作る手法は取らない。」と衆院予算委員会の質問で答えたとか。「増税先ず在りき。」という前のめりなスタンス等、疑問を感じる点も少なくない野田首相だけれど、「抵抗勢力(仮想敵)を作る手法は取らない。」というのが本音ならば、此れは評価出来る。
自らの主張&主義と寸分でも違うと、やれ「極右」だ「極左」だ「売国奴」だと批判するのは、本当に不毛以外の何物でも無いので。