昨日の記事では、小泉首相と中山文科相の発言のピンボケぶりを指摘したが、今日は中山文科相の発言で「一理在り!」と思わされた事柄に触れてみたい。
一昨日、松江市で開かれた教育改革タウンミーティングで次の様な遣り取りが在ったそうだ。
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小学校教諭:「文科省が進める習熟度別学習や学力テスト導入等の教育改革は、競争を助長しているのではないか?」
中山文科相: 「徒競走で手を繋いでゴールインする様に、今迄の教育は『競争は悪だ。』という教育だと思うが、社会に出ると激しい競争の社会で、子供達が落差に戸惑ってしまう。フリーターやニートの予備軍を大量に生産する事に手を貸しているんじゃないか。学力だけでなく、運動会で活躍する子も居る。得意分野では負けないぞという競い合う気持ちが、世の中を生き抜く子供を育てる。」
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学校の現状教育が、即、フリーターやニートを大量生産しているというのは、些か飛躍し過ぎているとは思うが、”過度な”平等主義や事なかれ主義が教育界に蔓延っている現状に、自分も懸念を持っていた。
何時の頃からか学校では、運動会で順位付けをするのは差別に当たるとして全員同着扱いを始め出した。社会に出れば、厳然とした激しい競争が待っているのにも拘らず、現実を敢えて見させない、何重ものオブラートで包み隠したやり方と言えるだろう。
又、成績表の学習&生活態度欄には、生徒の悪い点は一切書かないというのが主流となった。「どんな子でも必ず良い所が在る。」という考え方が背景に在るのかもしれないが、「親からのクレームを受けたくない。」という事なかれ主義も見え隠れする。大体、客観的に自身の悪い点を指摘されて始めて、一般社会とのブレを知る事が出来ると思うのだ。そのブレが絶対的に社会で受け容れられないもので在れば別だが、そうでない限りに於いては、ブレを直す直さないは、その生徒個々人の意識に委ねるべきだろう。大事なのは、「一般社会との”温度差”を、相手が子供であってもきちんと判らせる。」事だと思う。
一昨日、松江市で開かれた教育改革タウンミーティングで次の様な遣り取りが在ったそうだ。
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小学校教諭:「文科省が進める習熟度別学習や学力テスト導入等の教育改革は、競争を助長しているのではないか?」
中山文科相: 「徒競走で手を繋いでゴールインする様に、今迄の教育は『競争は悪だ。』という教育だと思うが、社会に出ると激しい競争の社会で、子供達が落差に戸惑ってしまう。フリーターやニートの予備軍を大量に生産する事に手を貸しているんじゃないか。学力だけでなく、運動会で活躍する子も居る。得意分野では負けないぞという競い合う気持ちが、世の中を生き抜く子供を育てる。」
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学校の現状教育が、即、フリーターやニートを大量生産しているというのは、些か飛躍し過ぎているとは思うが、”過度な”平等主義や事なかれ主義が教育界に蔓延っている現状に、自分も懸念を持っていた。
何時の頃からか学校では、運動会で順位付けをするのは差別に当たるとして全員同着扱いを始め出した。社会に出れば、厳然とした激しい競争が待っているのにも拘らず、現実を敢えて見させない、何重ものオブラートで包み隠したやり方と言えるだろう。
又、成績表の学習&生活態度欄には、生徒の悪い点は一切書かないというのが主流となった。「どんな子でも必ず良い所が在る。」という考え方が背景に在るのかもしれないが、「親からのクレームを受けたくない。」という事なかれ主義も見え隠れする。大体、客観的に自身の悪い点を指摘されて始めて、一般社会とのブレを知る事が出来ると思うのだ。そのブレが絶対的に社会で受け容れられないもので在れば別だが、そうでない限りに於いては、ブレを直す直さないは、その生徒個々人の意識に委ねるべきだろう。大事なのは、「一般社会との”温度差”を、相手が子供であってもきちんと判らせる。」事だと思う。

でも、それは「努力をしたくない」「努力が面倒」ということ
だったと、今は思えるようになりました。
昔は、スポーツオンチでしたが、楽しみながら覚えたスポーツ
は、自分に自信をつけたり、いい人間関係を作りました。
努力はしたくないですが、楽しく覚えたいです。
世の中、競争、競争なので、きなこのこの考えは
アマちゃんなのかもしれません。
でも、きなこは、自分の中で、自分を越える競争に力を入れたい
です。今までも・・・
「人前で話したい」「スキーがすべりたい」「テニスしたい」
「結婚式でギターを弾きたい」
と、思いついたら、進めました。ウマイヘタは、別にして。
自分がどこにいきたいか?
それが、思いつくことができるようになれば
人と競争しなくても大丈夫ですかね?
きなこは、絶対、ニートにならないぞ!
「人のために働く」って素敵です!どんな仕事でも!
悪い仕事はダメよん!
寂聴さんが「働くとは生きること」って言ってました。
なんか、いい言葉です。
よし、きなこも生きるぞ!
なんか、いろいろ考えさせて頂き、ありがとうござました。
中山文科相が珍しくまともな発言したようですね。だいたい資本主義国家が「競争は悪」などという教育をすること自体ナンセンスだと私は思っています。競争があるから経済が発展する、経済が発展すればもっとハイレベルな競争が繰り広げられる、その好循環で日本という国は世界有数の経済大国に台頭してきたのですから、競争の概念を小さい頃から植え付けることは非常に重要であると考えています。
「ナンバーワンにならなくていいからオンリーワンになれ」と聞こえの良い台詞を昨今よく耳にしますが、言うは易しでオンリーワンになることだって非常に困難なことですよね。ならばオンリーワンになるよりナンバーワンを目指して努力するほうが、合理的に行えるし実質的なものを生み出せるのではないかと思います。そしてその努力には、順位付けによる競争が一番のモチベーションになるのではないでしょうか。
なんか思いついたことをタラタラ書いてしまい、拙文&長文失礼しました。^^;
この手の議論を散々したんですよ。
実は、この中山文相の発言のような意見って、
本当に良く見られていまして、
でも、私は、それに懐疑的な意見なんですね。
なんで、
その当時の記事をTBさせて頂きますね。
(リンクしていない記事で申し訳ありませんけども・・・)
競争することで自分を高めることができると思うし。
自分も運動がダメで、徒競走とか運動会は嫌なものでしたが、運動がダメなら勉強だと思うことができたし、何か自分に取り柄はあるはずと色々考えることあったし。
全員同着とかするぐらいなら運動会などするなって思うんですけどね。
ゆとり教育に始まる今の教育の制度。言いたいことは沢山あるけど、上手くまとめれないのでこんぐらいでやめときます。
私は二児の父ですが、子供には優しい子に、思いやりのある子になって欲しいと思っています。だから全て私から子供への言葉はこの思いが根底になっています。競争社会を生んだ時代、中卒集団就職金の卵で出世に苦労する父親と同じにならないように、エリートコースを進む道を親は願いました。そして日本国民ほぼ100%高卒、大卒当たり前になりました。達成した弊害が認知されて「ゆとり教育」に変換しました。いつの世も親の思うとおりに子供は育つもんです。子供は親を喜ばせたいんだから。
私なりには、親の目線がどんどん目先になってきているのが原因だと思っています。夢とか希望の何が「好き?」将来何に「なりたい?」なんか遠い将来よりも、有名学校に「入れ」公務員に「なれ」って。
それと長生きしすぎていること。
競争(他者との関係に於いてのみならず自分自身に於いてもですが。)が自身を高め、ひいては良くも悪くも人類を進化させて行ったと思っています。ですから、競争=悪と決め付けてしまうのは違うと思うし、(度を越したのは問題ですが)競争も在るべきだと考えています。
唯、問題なのは(上に書き込んで下さった)めたか様がブログで書かれておられる様に、「勝者=絶対的正義で、敗者=絶対的悪」といった唯一無二的な価値観が罷り通っている事。価値観というものは多種多様で在り、決して一つの価値観だけが正しい訳ではないという事を教えて行く教育が求められいるのだと思います。
競争があり、努力したものには敗者復活戦があり、競争しないという生き方もあり、というのが良いなあ、と甘ちゃんの私は思ってしまいます。
ニートを大量生産できるほど、子供が生産されていないような気もしますが、子なし夫婦なので文句は言えませんな。
競争することになるから・・とか、
そもそも普段の学習成果を発表する会なので普段やってない競争はしない・・とか。
ナンバー1にならなくてもいい、というのが風潮ですが、
どこかの一流企業で入社式に社長が
「流行っているあんな歌を信じているような人間は必要ない。」と言ったとか。
社会にでれば誰もが自分をいたわってくれるわけでもなく、
平気で踏みにじられたりする事もあるのです。
せめて学校時代はそんなことの無い、理想の苑にすべきなのか、
社会に出ていきなり荒波に飲まれないようにきちっと解らせておくべきなのか・・・。
理想としたら前者かもしれないけど、
こんな世の中を見ると、必要なのは後者だと思います。
やっぱり競争は必要だと思います。
そして、一位の子がビリの子をバカにしたときに、そういう心無いことをしてはいけないのだと、君は一位になったことを誇りに思って敗者にも敬意を払え と教えるべきだと思うのです。
そして敗者は、その悔しさと折り合いをつけたり、頑張ることを覚えるきっかけにするべきなのです。
教えるべきは、敗者と勝者が生まれる社会で、どうやってお互いに思いやりを持って生きていくかということであって、勝者と敗者を作らないことではないはずです。
勝者をたたえない世界では、血のにじむような努力もまた称えられません。
スポーツも勉学もそれは一緒だと思います。
元記事にあるような、教官のような人生で生まれてから学校という組織しかしらず、競争もなく生きているオールド教員にはそのことがわからんのだと思います。
暖かさだけでできていない世の中、どちらかというと厳しいことでできている世の中で、どうやって、自分は人にやさしくするか?ということは、やっぱり小さい頃から徐々になれていかないと身につかないのだと思います。
高校まで狂信的な平等教育をして、社会に出てフリーターになろうが、ニートになろうが、欝になろうが、競争できなかろうが知ったことではないという教官は、教え子を戦場には送らないかもしれないが、厳しい世間には裸で教育もなく出すことを恥じもしない。
困ったものです。
ニートや不登校について最近自分自身がニートなので、その事について色々と自分なりに考えておりました所、御記事に行き当たった次第です。
こちらでは既に終了した記事だとは思うのですが、非常に参考になりましたので、トラックバックさせて頂きました。
それではでは失礼致します。