不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

屠殺

2007年07月12日 | 其の他
****************************
食育基本法附則より】

食育とは「生きる上での基本で在って、知育、徳育及び体育の基礎となる可き物。」で在り、「様々な経験を通じて『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践する事。」で在る。
****************************

週刊現代(6月9日号)」に「いまだから考える『屠畜と食育』」という記事が載っている。これは映画監督でも在る森達也氏とイラスト・ルポライターの内澤旬子さん*1による特別対談。森氏は「いのちの食べかた」、そして内澤さんは「世界屠蓄紀行」という本をそれぞれ著される等、食べ物に付いて深い関心を持っている。

****************************
森氏: 食育っていうと、世の母親達が『御飯は20回噛みなさい。』とか「朝食をきちんと食べましょう。』なんて、事細かに子供に教えているでしょう。ならば、毎日食卓に並ぶ肉という食材に付いても、きちんと教える可き。栄養素や食事のマナーも大事ですが、何より先に『食』の基本で在る、『他の生き物を殺して食べる。』という事を知らなくては。

内澤さん: 私もそれが食育の基本だと思います。私が屠蓄を初めて見たのは、15年程前、バックパッカーをして世界中を歩き回っていた時でした。モンゴルの大草原で、遊牧民が御客を持て成す為に屠蓄している所に遭遇したんです。血の色で真っ赤なタライの中で、内臓をチャプチャプ洗っているのを見て匂いを嗅いで、『今からこれを食べるんだ!』って衝撃を受けました。後略
****************************

「屠蓄」は「」とも言い、要は「食肉や皮革等を得る為に、家畜等の動物を殺す事。」を指している。元記事にも触れられているが、我が国ではそもそも「仏教不殺生の教えと古来からのアニミズムが合わさって、牛馬や豚等を殺したり食べたりするのは不浄な事。」と見做され、それに加えて「16世紀末頃から『士農工商』という差別的身分制度が導入され、理不尽にも卑しき身分として『』や『』という身分が四民の下に設けられた。」歴史が在る。は「皮革業者や犯人の逮捕&処刑等に従事する職業」、そしては「犯罪人の追捕、監禁、町内に於ける盗賊の逮捕をする職業」に専ら従事させられ、その結果、不毛な差別意識が助長されて今に到っている訳だ。「動物が殺害される現場等見たくない!」と嫌悪する思いと、「他の生き物の尊い命を奪い、それを食する事で我々は生かされているのだ。」という事を子供達に実感させようと思っても、屠蓄に差別問題がどうしても絡んで来てしまっている現状が、屠蓄現場に触れる事をタブーの様に思わせてしまう雰囲気が在るのは事実だろう。

****************************
内澤さん: 「見たくない物を排除しようとするのは欧米でも一緒です。都市化が進んだ時点で、食肉の生産加工の現場と都会に住んでいる消費者が完全に乖離しました。アメリカの食肉工場は日本以上に食肉処理がオートメーション化されていて、大手食肉企業の『エクセル・ミート』は、1日で4,700頭の牛を1ラインで潰し、そのままノンストップで出荷します。工場を出る時には牛の原形等跡形も無い。動物が血を流して殺されるのを見る事無く、加工された肉だけを食べていたいという気持ちは恐らく世界共通。今ではモンゴルでも、(都会の)ウランバートルに住んでいる子供の中には、『羊の解体なんか見るのも嫌。』という子も居るです。」

森氏: 「日本の場合は屠蓄に差別問題が絡んでいるから、不可視の領域がより大きい。大人が見ない振りをする程、当然子供が知る機会が無くなってしまう。」

内澤さん: 屠蓄に対する考え方は、国によって全然違います。例えば、バリでは殆どの男性が自分で屠蓄をしますし、チェコドイツでは御肉屋さんの社会的地位が凄く高いんです。逆に韓国インドには根強い職業差別が在って、屠蓄に対して閉鎖的な雰囲気が在ります。欧米も閉鎖的ですが、動物愛護運動が非常に強い為、少しニュアンスが違います。
****************************

動物が殺害されるシーンを見たくないというのは多くの人が思っている事だろう。斯く言う自分もその一人だ。しかし上記した様に、我々人間が他の生き物の尊い命を奪い、それを食する事で生かされているのは否定出来ない現実。その現実から「見たくない。」というだけで目を逸らし続けていても良いのかな?という思いも在る。

子供達が取っ組み合いの喧嘩を余りしなくなったと言われる要になってからかなりになる。自分が子供の時分には、取っ組み合いの喧嘩なんて日常茶飯事。殴り合ったり、蹴り合ったり、引っ掻き合ったりして、軽く血を流すなんて事は良く在った。こういった事を100%良いなんて肯定する気は毛頭無いが、唯、こういった喧嘩の中で御互いに「痛み」を感じたし、「血を流す(流させる)事の恐ろしさ」というのを体得していった気がする。「危険だから。」という理由だけでナイフを使用する機会を奪ってしまった事が、果物等をナイフで剥いた際に失敗して指を切ったりし、その結果感じる「痛み」を判らなくさせてしまった様に、触れる機会を奪ってしまったが故に重要な”何か”を体得させられなくなっているというのはまま在るのではないだろうか。

何方の著書だったかは失念してしまったが、以前、現場を描いた本を読んだ。全く知らなかったその工程も然る事乍ら、に従事されている方々の技に圧倒された。それは正しく”職人技”と呼べる域の物で、実際にその現場を見続けていたら、恐怖も失せて見惚れてしまう様な気がする程。元記事の中でもその工程が記されているので、最後にそれを紹介したい。

****************************
内澤さん: 牛の屠蓄の場合は、先ず牛を1頭ずつ狭い通路に追い込んで、其処で額にピストルの様な物で穴を開けるんです。これを『ノッキング』って言うんだけど、ノッキングされた牛は脳震盪を起こして、傾斜を滑り落ちて行く。すると、今度は下で待ち構えていた作業員が、額に開けられた穴に素早くワイヤーを差し込むんです。牛は脊髄が破壊され全身が麻痺します。それと同時に、もう一人の作業員が牛の頚動脈をナイフで切り、天井から下がる鎖に片足を引っ掛けて、機械で逆さまに吊り上げる。『ノッキング』からこの『放血』迄、たった数十秒間の内に行います。

森氏: 「血を抜かないと肉が美味しくならないし、腐り易くなる。だから心臓を止めずに動脈を切って、体内の血液を抜くのですね。」

内澤さん: 「その後、牛を吊るしたまま頭を切り落とし、脚先を切断します。皮剥き機で皮を剥がした後、腹を割ると、白い脂肪の付いた内臓が湯気を立てながら一繋がりに零れ落ちます。牛も豚も解体は熟練を要する危険な作業ですが、良く切れるナイフでスッスッと肉を裂いて行く姿は名人芸という言葉がピッタリです。」
****************************

*1 「現代では家畜等の動物が擬人化され過ぎている気がします。動物を余りにメルヘンチックに擬人化して行くと、その動物の肉を食べているという現実が見え難くなる。エジプトで、家族で羊を屠蓄する現場を取材した時、その家族の一人が、『2歳の子は動物の声に驚いて泣き出す。もう少し大きくなると、時分が怪我をした時に血が出る事を連想して泣き出す。6歳になると、後に御馳走が待っている事が判って楽しくなる。』と言っていました。子供には『自分が生きて行く為に他の生き物を犠牲にしている。』という事を、理屈抜きに教えなければいけない。それが本当の食育ではないでしょうか。」とも内澤さんは語っている。

コメント (5)    この記事についてブログを書く
« 「婿殿!」 | トップ | 正念場を迎えた我がジャイアンツ »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
シャーロットの涙とか見てしまうと食べられないかもしれませんね (マヌケ)
2007-07-12 11:15:48
夏休み家族で母の田舎に帰省すると祖父が晩のご馳走のために鶏を絞めました。 祖父から来いと言われまして、井戸の前に行きますと、小屋から出してきた鶏の足をつかんだ祖父がおりまして、手斧で鶏の首を落としちゃいました。 反射的に首のない鶏が走って来たのにとても驚いて、晩御飯のかしわご飯は食べることができませんでした。 それ以来、トラウマでしてケンタッキーなど一度も食したことがありません。 

同じく田舎で過ごした夏休み、線路脇の草むらで見つけたキリギリスと田舎の兄弟がつかまえてくれたオニヤンマをうれしくて、親戚へのあいさつ回りから戻った両親に「ほらっ!すごいやろ」と言いながら両手に持った二匹を突き出したところキリギリスがオニヤンマの頭をパクリと食べてしまい、驚いた私は二匹とも地面に落としてしまいました。 頭のないオニヤンマは地面で羽をバタバタさせ、キリギリスは大きな後ろ足の片足が取れて不恰好にはねながら逃げて行きました。 その様子があまりに気持ち悪く、それまで昆虫好きだった私は大の昆虫嫌いになってしまいました。 食べたり食べられたりは命の奪い合いで奪われた命は私たちの体を作る糧となるわけですね。 加工されてきれいに包装された食品としての肉や魚しか目にしていない日ごろの生活の中では、命が口に運ばれる形に加工される過程をじかに目にしたり身近に触れる機会はほとんどありりませんが、あらてめて思うと感謝しなくてはという気持ちが起こりますね。 そしてその過程に携わる人々が存在することにもありがたやと思わねばなりませんね。
返信する
泣きながら食べた思い出 (おりがみ)
2007-07-12 14:26:30
祖父の〆たにわとりがかわいそうなのに、おいしいなあと食べた私です。
おさないころ見た、母の料理の本は鳥のしめかたが図解入りでのってました。何度見ても貧血もので・・。

今週末、我が保育所のおとまりかいではカモを食べます。山形の田んぼで害虫を取ってくれたかもさん。パックで送られてくる、すでにお肉状態のかもさんを手羽とかモモとかを切り分けるだけですが、それでも幼児には強烈な印象です。
返信する
子供に教えることも大切ですね (マヌケ)
2007-07-12 14:58:26
私の時代にはまだ理科で解剖がありました。 フナのお腹を開いて浮き袋や動いている心臓を見て、スケッチを行いました。 不思議と泣いたり、気持ち悪がったりする友達はいなかったように思います。 それから教科書の図解で見た脊椎カエルの実験、反射と伝達の実験のために脳を切除して、つるしたカエルに電流を流すと脊椎だけで反応して体を動かすことから神経の信号の伝達の理屈を知るものでしたが、今思えばとてもグロテスクでカエルには気の毒な実験内容です。
実験が終わったらフナは花壇に埋めてみんなで手を合わせました。 その時は子供心にごめんなさいみたいな気持ちがわきました。 その時は目を閉じていつまでも手を合わせている友達もいました。 今は生き物を切り刻んだりすると子供に良くない影響があるかもしれないということから解剖の時間はないそうですね。 そういうこともあるのかもしれませんが、生き物の命の大切さを学ぶ機会でもあるとも思います。 教師の教え方にもよるとも思います。 
返信する
>マヌケ様 (giants-55)
2007-07-12 15:27:11
書き込み有難う御座いました。

以前、岸本加世子さんが幼少の頃の話をされていましたが、その内容が強烈で今でも忘れられません。決して裕福では無かった彼女の家では、当時鶏を飼っていたそうです。人懐っこいその鶏を彼女は可愛がって育てていたそうですが、或る日学校から帰るとその鶏の姿が見当たらず、家人に尋ねた所「食する為に”絞めた”。」と言われ、物凄いショックを受けたそうです。夜の食卓には鶏肉料理が出て来たのを見て、彼女は涙が止まらなかったそうですが、家人から促されて涙を流しながら食したと語っていました。他の生き物の”命”を頂戴し乍ら”生かされている”筈の我々なのに、今はその事(命を頂戴しているという事)が認識し難い(乃至は認識出来ない)状況に置かれているというのは、「嫌な物を見なくて良い。」という事で果たして良いものなのでしょうか。

以前、「『昭和の小学生』大百科」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/e8f4890b9b5b0671f13e55dd3b6e9732)という記事でも触れましたが、自分が小学生だった時分には学校で鮒や蛙の解剖をしていました。正直言って「気持ち悪い。」という思いが多くの子供達の心の中に在ったと思うのですが、ドックンドックンと動く心臓、そしてその心臓が止まってしまう過程を眼前にして、生命というものを身近に感じたものでした。「気持ち悪いから見せない。」という事だけで「解剖授業」が無くなってしまった(少なくなってしまった)としたら、現実に存する物を見せないという事が果たして良いのかなあと思ってしまいます。
返信する
今の小学校では (ハムぞー)
2007-07-12 21:55:25
解剖をやらなくなってるのですか・・
虫は子供たちに非常に人気らしいのですが。

このままでは真剣に「かまとと」な子供たちばかりに
なるかもしれませんね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。