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4   メシア ( 仏陀 ) の法 Messiah (Buddha) Law system of Dharma   4

2022-02-07 19:22:38 | 


 

 

一つはスシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道である。

中心となる気道はスシュムナー管である。これは、さきにものべたように、尾武骨から始まって、延髄に至っている。

特殊な意念の力でクンダリニーが目ざめると、そのエネルギーは爆発的な勢いで、スシュムナー管を延髄まで上昇する。同時に、クンダリニーは、ピンガラ、イダーの気道を上昇し、クンダリニーのエネルギー調節その他補助的なはたらきをする。

脊髄の右側にあるピンガラは、太陽の気道と呼ばれ、熱を統御する気道とされる。

左側のイダーは、月の気道と呼ばれ、冷気の流れを統御する。もし誤ってピンガラを通ってクンダリニーが目ざめると、外から全くコントロールのきかないすさまじい体内熱のために、修行者は、最悪の場合、文字通り真っ黒になって焼け死んでしまうことがあるという。

 

クンダリニー』の著者、ゴーピ・クリシュナは、この過ちのためにかれ自身、危うく死をまぬがれた体験を記している。

 

わたくしが、仏陀を、クンダリニー・ヨーガの完成者であると断定するのは、この点からである。

さきにあげたミラクルの池の伝説や、雑阿含経に説かれる仏陀の奇蹟- 上半身から火を出し、下半身から水を出すという奇は、このピンガラとイダーを使ってのエネルギー放射なのである。この奇蹟は、クンダリニー・ヨーガ完成者独特のものなのだ。

さて、クンダリニーが目ざめ、スムーズにエネルギーが気道を上下するうちに、修行が順調に進むと、クンダリニーはサハスラーラ・チャクラに到達し、ここで修行が完成する。(ただし、ここまで到達できる修行者は、古今、稀である)
このように、クンダリニーは、尾祇骨から延髄にまで到達し、それからさらに上昇して、究極的には頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達することになっているのだが、延髄からさきの、サハスラーラに至る経路がどのようになっているのか、明瞭で

尾武骨から延髄までは、脊柱が通っていて、いうならば一本道であるから、はっきりしている。しかし、延髄からさき、サハスラーラに至るルートは、一体どういう気
2
わたくしは、さきに、仏陀が弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかった
のは、過激すぎるからだといったけれども、それはそれだけではなかったのである。

クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発法は、不安定であり、不確実だったのである。

仏陀は完璧な成仏法を作製して、弟子たちに教えたのである。

仏陀の修行法はまだつづく。

 


クンダリニー・プラーナ


わたくしは、さきに、仏陀は修行法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかったといった。

たしかにその通りである。仏陀は四神足法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかった。しかし、クンダリニー・エネルギーはとり入れていたのである。

人間の持つエネルギーで、ダリクンニーほど強大なエネルギーはない。人間を改造する原動力として、これに匹敵するものはない。いや、このエネルギーを使わなかっため、人間の改造など不可能といっていいだろう。だから。仏成は発を開いた。

クンダリニーから生ずるエネルギー経のである、強がる母娘の熱、あるいは資るだけではない。

初対の展然のは、意志にまな鉄道である。後発者、クンダリニーを愛。
るに十分だけの意表をつと、強力になった後の本は、クンダリニー賞録に向けあれる。クンダリニーを焼線するための部位売所所ある。そこでましい剣激があたえられると、クンダリニーに目ある。Q都合に、にしたがって、熱心地に「こられなければならない。

対容疑ん中に、いくつか。必ず意識、あるい選落を演熱し演奏家を発演する製談が出てくるが、その、激和線、タッタッターをあるらしているのか。

てよい。お家。リクンニーは、三つの頭を持った機、あるい漫たつの演を、た整の姿で変域でいるのである。統合経継料を差飛翼然公認試練。強然を塞継速過の物語ではなく、一般学、機械で、だめなが手をに、クンダリー・ルーコンタロー物に現場したことを成しているのかを。

道を通るのか、明確ではないのである。クンダリニーが目ざめさえすれば、目ざめた
クンダリニーは、自動的にサハスラーラ・チャクラに到達することになっているので
あって、修行者自身には、その経路はまったくわからないわけである。
これにたいし、仏陀の気道はどうであろうか。
仏陀の気道も、クンダリニー・ヨーガと共通する部分がある。
それは、尾祇骨から延髄に至る脊柱の部分を通る気道である。スシュムナー管とほ
とんど変わらない気道である。しかし、クンダリニー・ヨーガのスシュムナー管は延
績で終わっているが、仏陀の気道はさらに進んで、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質を
めぐって、間脳から視床下部にまで到達しているのである。そして、そのはっきりし
たルートを持っているのである。
びていこう
びちゅう
それだけではない。ルートはさらに前額部に進み、眉間から鼻柱の奥を通ってか
いや喉にくだる。つまり、サハスラーラからアージュニャー、そしてその周辺の神経
経路をめぐって脳下垂体前葉、下垂体後葉に至っているのである。そしていまいった
ように、これらのルートは、明確に示されているのだ。熟達した導師の指導を受けれ

 

ば、初心の修行者でも把握が可能である。
どちらがすぐれているかは、いうまでもないことであろう。

これは、基本的に、クンダリニー・ヨーガの修行法と、仏陀の成仏法の、修行方の違いによるものである。

仏陀の方法は、プラーナを「行らせる」という方法である。これは、修行者が自の意念(意志)によっておこなうことを意味する。したがって、修行者は、プラーナを導いていくルートを知っていなければならないわけである。プラーナのいくさきを、
プラーナにまかせるのではなく、修行者が決定して進めていくのである。だから、修行者はその道すじを知っていなければならないのである。

 

クンダリニー・ヨーガの場合はこれとまったく違っている。

クンダリニーを目ざめさせるためには修行者の意志の力を必要とするが、一旦めざめたクンダリニーは、修行者の意志にかかわりなく、一気にスシュムナー気道を爆発的に上昇していくのである。それは、修行者が「めぐらす」などというものではない。
そしてそのあとも、クンダリニーまかせということになる。

最上深秘の呼吸法


 

だから、仏陀のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、クンダリニー・ヨーガの手法とまったく異なり、クンダリニーを完全にコントロールしつつ使うのである。つまり、クンダリニー・エネルギーを「行らせる」という手法である。

それはどのようにして、なされるのだろうか?


ピンガラどイダーを使う仏陀の秘法

いい気持で眠っているゴジラを叩き起こすようなバカな真似はしないほうが賢明であろう。

仏陀の法では、怪物クンダリニーを、ごくおだやかに、上機嫌(?)に目ざめさせるのである。

のように?

道教はクンダリニーを知らない。しかし、クンダリニーには到底およばないけれど超常的な強い「気」のエネルギーを呼び起こす経穴(ツボ)を知ってこれを使ってチャクラいる。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マ
スペロがその著書で、ちょっとこれにふれている)この経穴(中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考ている)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいったように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

仏陀の四神足法では、この道教のチャクラを使って、まず、強い「気」のエネルギーを呼び起こす。次いで、この「気」を本命のクンダリニー・チャクラに送りこむ。

クンダリニーの眠る部位の周囲に、この「気」をゆるやかに行らせてゆくのである。

クンダリニーは、徐々に、おだやかに目ざめはじめる。

わたくしは思うのだが、道教は、この「気」を使ってクンダリニーを目ざめさせるという秘法を落としてしまって、「気」だけを使う法を完成したのではなかろうか。

或いは、これは仏陀の極秘の法として、ごく一部の高弟だけに伝え、外部に洩らさず、いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クンダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、道教に伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが――、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、仏陀はわれわれに教示するのである。
それは、ひと口にいうと、ピンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使うのだといったらよいであろう。ただし、こが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、仏陀があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、クンダリニー・ヨーガのピンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュムナー管の両側を上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹
部を上下するからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からしこちらて、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろ

 

うと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという名称で呼ぶことにする。いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているのピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。

イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。

つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。

それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管


さきにのべた通り、クンダリニー・ヨーガでは、尾骨部分から延髄にかけて、脊
柱を真っ直ぐ、スシュムナー管が通っている。目ざめたクンダリニーは、ここを上昇仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニー・ヨーガと正反対、尾低骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、輪を経て、喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、

この腹部スシュムナー管をも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チャクラを開発、覚醒するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。

つまり、脳端から約五ないし八センチ(人によって個人差があるほど下の辺で、腹部スシュムナーから分岐し、各チャクラおよび関連機器、神経を行って上昇し、また、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、眉間の深部へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を行り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナー皆と合流する。

この二つの気道の技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくして
チャクラの完全な開発・覚醒は不可能といってもいいであろう。

 

Buddha's Law

 

 

 

One is the Sushmuner tube and the other two are the Pingala and Eider airways.

The central airway is the Sschmuner's canal. It starts with the tail bone and ends with the medulla oblongata, as mentioned earlier.

When the Kundalini awakens with the power of a special idea, the energy explosively rises the Sschmuner's canal to the medulla oblongata. At the same time, the kundalini rises in the airways of Pingala and Ida, and acts as an energy regulator and other auxiliary for the kundalini.

The pingala on the right side of the spinal cord is called the airway of the sun and is the airway that controls heat.

The ider on the left, called the lunar airway, controls the flow of cold air. If the kundalini wakes up accidentally through Pingala, the practitioner can literally turn black and burn to death in the worst case due to the tremendous internal heat that is completely out of control.

 

The author of Kundalini, Gopi Krishna, describes his own nearly deadly experience due to this mistake.

 

It is from this point that I conclude that the Buddha is the perfector of Kundalini Yoga.

The legend of the Miracle Pond mentioned earlier and the miracle of the Buddha described in Sasamyo-The miracle of putting out fire from the upper body and water from the lower body is the energy radiation using this Pingara and Ida. This miracle is unique to the Kundalini Yoga perfector.

Now, as the kundalini awakens and the energy moves up and down the airway smoothly, the training progresses smoothly, and the kundalini reaches the Sahaslara chakra, where the training is completed. (However, practitioners who can reach this point are rare in ancient times.)
Thus, the kundalini is supposed to reach the medulla oblongata from the caudal bone and then ascend further to the Sahaslara chakra on the crown, but from the medulla oblongata to the Sahaslara. It is clear what the route to

From the tail bone to the medulla oblongata, the spinal column runs, so to speak, it is a straight road, so it is clear. However, what is the route from the medulla oblongata to Sahaslara?
2
I did not let the Buddha use Kundalini Yoga earlier for his disciples.
It's because it's too radical, but it wasn't the only thing.

The Kundalini Yoga chakra development method was unstable and uncertain.

The Buddha created the perfect Buddhahood method and taught it to his disciples.

The Buddhist practice is still going on.

Kundalini prana

I said earlier that the Buddha did not incorporate Kundalini yoga into his training.

That's true. The Buddha did not incorporate Kundalini Yoga into the Iddhipada method. However, Kundalini energy was taken in.

The energy of human beings is not as powerful as that of Darikunnie. There is no comparable driving force for remodeling humans. No, because it doesn't use this energy, it can be said that it is impossible to remodel humans. that's why. Buddha opened the door.

It's not just the growing heat of the mother and daughter, or the contribution, which is the energy process that results from Kundalini.

The first pair of exhibitions is a railroad that is willing to do. I love the latecomer, Kundalini.
With enough surprises, the book, after becoming powerful, is directed to the Kundalini Awards. There is a part sales office for burning kundalini. When a sword fierce is given there, Kundalini has an eye on it. Q For convenience, I have to come to the heat.

Some during the suspicion. There will always be talks about consciousness, or a selection that will be performed and a performer will be performed, but is there a gekiwa line or tatter?

You can do it. Home. Rikunnie is a three-headed machine, a Tatsuno performance, in the form of a tune. The integrated succession fee is officially recognized by Tsubasa. It's not a story of a rush to squeeze the force, but a general science, a machine, and a kundalini-rucontaro thing with a bad hand.

It is not clear whether it will take the road. As long as the kundalini awakens, he awakens
Kundalini is supposed to reach the Sahasrara chakra automatically
Therefore, the practitioner himself does not know the route at all.
What about the Buddha's airway?
The Buddha's airway also has something in common with Kundalini Yoga.
It is the airway through the part of the spinal column from the caudal bone to the medulla oblongata. Sushmuner tube Toho
It is an airway that does not change much. However, Kundalini Yoga's Sushmuner tube has been extended.
Although it ends with a record, the airway of the Buddha goes further and goes through the neocortex, old cortex, and paleocortex of the cerebrum.
It reaches from the diencephalon to the hypothalamus. And that clarity
I have a route.
Let's go
Bichu
That is not all. The route goes further to the forehead, from between the eyebrows to the back of the nose pillar.
No, it's throaty. In other words, the nerves from Sahaslara to Ajnya and its surroundings.
The route leads to the anterior pituitary gland and the posterior pituitary gland. And now
As such, these routes are clearly shown. Under the guidance of a skilled guru

 

For example, even a novice practitioner can grasp it.
It goes without saying which one is better.

This is basically due to the difference in practice between the Kundalini Yoga practice and the Buddhahood Buddhahood practice.

The Buddha's method is to "go" prana. This means that the practitioner does it by his own will. Therefore, the practitioner must know the route that leads Prana. The way of prana,
Instead of leaving it to Prana, the practitioner decides and proceeds. Therefore, the practitioner must know the path.

 

In the case of Kundalini Yoga, this is completely different.

The power of the practitioner's will is required to awaken the kundalini, but once awakened, the kundalini explosively rises in the Sushmuner airway regardless of the practitioner's will. It is not something that the practitioner is "megurasu".
And after that, it will be left to Kundalini.

The most secret breathing method

 

Therefore, the way of using the kundalini energy of the Buddha is completely different from the method of the kundalini yoga, and the kundalini is used with complete control. In other words, it is a method of "making" Kundalini energy.

How is it done?

The secret method of the Buddha using Pingara and Ida

It would be wise not to do stupid imitations that would provoke a sleeping Godzilla with a good feeling.

According to the Buddha's law, the monster Kundalini is awakened in a very gentle and good mood (?).

like?

Taoism does not know Kundalini. However, although it is far from Kundalini, he knows the acupuncture points (pots) that evoke the paranormal and strong energy of "Qi" and uses them for chakra.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (Henri Ma
This acupuncture point (which I think is a type of chakra in China) is a little further away from the Kundalini chakra. Taoism, as it is now, uses this chakra to evoke a strong "ki". It can be said to be an alternative to Kundalini. I don't know Kundalini itself.

In the Buddha's Iddhipada method, this Taoist chakra is used to first evoke a strong "Qi" energy. Next, send this "ki" to the favorite Kundalini chakra.

This "ki" is slowly moved around the sleeping area of ​​the kundalini.

The kundalini gradually begins to wake up gently.

I think that Taoism has dropped the secret method of using this "ki" to awaken the kundalini, and has completed the method of using only "ki".

Or, as the Buddha's top secret law, I tell only a few high-ranking younger brothers, and I wonder if it disappeared someday without leaking to the outside. In other words, I think that only a small starting motor for starting a huge motor called Kundalini was transmitted to Taoism.

I can only admire this secret method of the Buddha, who uses the radical energy of Kundalini in a wonderfully controlled manner.

However, this is not the only secret method of the Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.
In a nutshell, the airways of Pingala and Eider are used for accelerators and brakes. However, I don't know if this is Kundalini Yoga's Pingala, Eider itself.

Or it may be the airway that the Buddha created newly. For Kundalini Yoga's Pingala and Ida, as mentioned earlier, rise on both sides of the Sushmuner's canal through the spinal column, but the two airways of the Buddha are on the opposite side, the belly.
This is because the part goes up and down. However, because of the functions of these two airways, I am still Pingala and Ida, and the Buddha was changed in this way.

 

I'm thinking. Therefore, we will call these two airways by the names of Pingala and Ida. Now, from the functions of these two airways, what kind of function does the Pingara airway have for kundalini energy?

Eider's airways have the function of calming and condensing.

In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake.

It is used as follows.

Two Sushmuner tubes
As mentioned earlier, in Kundalini yoga, from the coccyx to the medulla oblongata, the spine
The Sschmuner pipe runs straight through the pillar. Awakened Kundalini rises here In Buddha's law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Opposite to Kundalini Yoga, it is the airway from the tail low bone through the perineum, straight through the midline of the abdomen, through the ring, to the throat. The awakened Kundalini, along with the Sushmuner tube on the back,
This abdominal Sschmuner tube also rises. It is the Buddha's Pingala and Ida airways that develop and awaken each chakra while controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner (which raises rather than rises).
That is, about 5 to 8 cm from the end of the brain (at the lower side, which varies from person to person, it branches off from the abdominal sushmuner, goes up and down through each chakra and related equipment, nerves, or goes down, or the throat. From there, it rises further inside the brain to the depths of the nasal column and deep between the eyebrows, goes through the chakras of the brain, nerve pathways, etc., and joins all the back Sushmuner at the medulla oblongata cerebral part.

These two airway techniques are absolutely necessary for chakra development and awakening, without them.
It can be said that the complete development and awakening of the chakra is impossible.

 
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4   メシア ( 仏陀 ) の法 Messiah (Buddha) Law system of Dharma   4

2022-02-07 19:22:38 | 


 

 

一つはスシュムナー管、他の二つは、ピンガラ、イダーの気道である。

中心となる気道はスシュムナー管である。これは、さきにものべたように、尾武骨から始まって、延髄に至っている。

特殊な意念の力でクンダリニーが目ざめると、そのエネルギーは爆発的な勢いで、スシュムナー管を延髄まで上昇する。同時に、クンダリニーは、ピンガラ、イダーの気道を上昇し、クンダリニーのエネルギー調節その他補助的なはたらきをする。

脊髄の右側にあるピンガラは、太陽の気道と呼ばれ、熱を統御する気道とされる。

左側のイダーは、月の気道と呼ばれ、冷気の流れを統御する。もし誤ってピンガラを通ってクンダリニーが目ざめると、外から全くコントロールのきかないすさまじい体内熱のために、修行者は、最悪の場合、文字通り真っ黒になって焼け死んでしまうことがあるという。

 

クンダリニー』の著者、ゴーピ・クリシュナは、この過ちのためにかれ自身、危うく死をまぬがれた体験を記している。

 

わたくしが、仏陀を、クンダリニー・ヨーガの完成者であると断定するのは、この点からである。

さきにあげたミラクルの池の伝説や、雑阿含経に説かれる仏陀の奇蹟- 上半身から火を出し、下半身から水を出すという奇は、このピンガラとイダーを使ってのエネルギー放射なのである。この奇蹟は、クンダリニー・ヨーガ完成者独特のものなのだ。

さて、クンダリニーが目ざめ、スムーズにエネルギーが気道を上下するうちに、修行が順調に進むと、クンダリニーはサハスラーラ・チャクラに到達し、ここで修行が完成する。(ただし、ここまで到達できる修行者は、古今、稀である)
このように、クンダリニーは、尾祇骨から延髄にまで到達し、それからさらに上昇して、究極的には頭頂のサハスラーラ・チャクラにまで到達することになっているのだが、延髄からさきの、サハスラーラに至る経路がどのようになっているのか、明瞭で

尾武骨から延髄までは、脊柱が通っていて、いうならば一本道であるから、はっきりしている。しかし、延髄からさき、サハスラーラに至るルートは、一体どういう気
2
わたくしは、さきに、仏陀が弟子たちにクンダリニー・ヨーガを用いさせなかった
のは、過激すぎるからだといったけれども、それはそれだけではなかったのである。

クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発法は、不安定であり、不確実だったのである。

仏陀は完璧な成仏法を作製して、弟子たちに教えたのである。

仏陀の修行法はまだつづく。

 


クンダリニー・プラーナ


わたくしは、さきに、仏陀は修行法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかったといった。

たしかにその通りである。仏陀は四神足法にクンダリニー・ヨーガをとり入れなかった。しかし、クンダリニー・エネルギーはとり入れていたのである。

人間の持つエネルギーで、ダリクンニーほど強大なエネルギーはない。人間を改造する原動力として、これに匹敵するものはない。いや、このエネルギーを使わなかっため、人間の改造など不可能といっていいだろう。だから。仏成は発を開いた。

クンダリニーから生ずるエネルギー経のである、強がる母娘の熱、あるいは資るだけではない。

初対の展然のは、意志にまな鉄道である。後発者、クンダリニーを愛。
るに十分だけの意表をつと、強力になった後の本は、クンダリニー賞録に向けあれる。クンダリニーを焼線するための部位売所所ある。そこでましい剣激があたえられると、クンダリニーに目ある。Q都合に、にしたがって、熱心地に「こられなければならない。

対容疑ん中に、いくつか。必ず意識、あるい選落を演熱し演奏家を発演する製談が出てくるが、その、激和線、タッタッターをあるらしているのか。

てよい。お家。リクンニーは、三つの頭を持った機、あるい漫たつの演を、た整の姿で変域でいるのである。統合経継料を差飛翼然公認試練。強然を塞継速過の物語ではなく、一般学、機械で、だめなが手をに、クンダリー・ルーコンタロー物に現場したことを成しているのかを。

道を通るのか、明確ではないのである。クンダリニーが目ざめさえすれば、目ざめた
クンダリニーは、自動的にサハスラーラ・チャクラに到達することになっているので
あって、修行者自身には、その経路はまったくわからないわけである。
これにたいし、仏陀の気道はどうであろうか。
仏陀の気道も、クンダリニー・ヨーガと共通する部分がある。
それは、尾祇骨から延髄に至る脊柱の部分を通る気道である。スシュムナー管とほ
とんど変わらない気道である。しかし、クンダリニー・ヨーガのスシュムナー管は延
績で終わっているが、仏陀の気道はさらに進んで、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質を
めぐって、間脳から視床下部にまで到達しているのである。そして、そのはっきりし
たルートを持っているのである。
びていこう
びちゅう
それだけではない。ルートはさらに前額部に進み、眉間から鼻柱の奥を通ってか
いや喉にくだる。つまり、サハスラーラからアージュニャー、そしてその周辺の神経
経路をめぐって脳下垂体前葉、下垂体後葉に至っているのである。そしていまいった
ように、これらのルートは、明確に示されているのだ。熟達した導師の指導を受けれ

 

ば、初心の修行者でも把握が可能である。
どちらがすぐれているかは、いうまでもないことであろう。

これは、基本的に、クンダリニー・ヨーガの修行法と、仏陀の成仏法の、修行方の違いによるものである。

仏陀の方法は、プラーナを「行らせる」という方法である。これは、修行者が自の意念(意志)によっておこなうことを意味する。したがって、修行者は、プラーナを導いていくルートを知っていなければならないわけである。プラーナのいくさきを、
プラーナにまかせるのではなく、修行者が決定して進めていくのである。だから、修行者はその道すじを知っていなければならないのである。

 

クンダリニー・ヨーガの場合はこれとまったく違っている。

クンダリニーを目ざめさせるためには修行者の意志の力を必要とするが、一旦めざめたクンダリニーは、修行者の意志にかかわりなく、一気にスシュムナー気道を爆発的に上昇していくのである。それは、修行者が「めぐらす」などというものではない。
そしてそのあとも、クンダリニーまかせということになる。

最上深秘の呼吸法


 

だから、仏陀のクンダリニー・エネルギーの使いかたは、クンダリニー・ヨーガの手法とまったく異なり、クンダリニーを完全にコントロールしつつ使うのである。つまり、クンダリニー・エネルギーを「行らせる」という手法である。

それはどのようにして、なされるのだろうか?


ピンガラどイダーを使う仏陀の秘法

いい気持で眠っているゴジラを叩き起こすようなバカな真似はしないほうが賢明であろう。

仏陀の法では、怪物クンダリニーを、ごくおだやかに、上機嫌(?)に目ざめさせるのである。

のように?

道教はクンダリニーを知らない。しかし、クンダリニーには到底およばないけれど超常的な強い「気」のエネルギーを呼び起こす経穴(ツボ)を知ってこれを使ってチャクラいる。

これは道教の最極秘伝になっていて、これを知る人はごく稀である。(アンリ・マ
スペロがその著書で、ちょっとこれにふれている)この経穴(中国でツボと呼ぶ部位は、チャクラの一種であるとわたくしは考ている)は、クンダリニーのチャクラから、少し離れたところにある。道教は、いまいったように、このチャクラを使って強い「気」を呼び起こすのである。クンダリニーの代わりといってよいだろう。クンダリニーそのものは、知らないのである。

仏陀の四神足法では、この道教のチャクラを使って、まず、強い「気」のエネルギーを呼び起こす。次いで、この「気」を本命のクンダリニー・チャクラに送りこむ。

クンダリニーの眠る部位の周囲に、この「気」をゆるやかに行らせてゆくのである。

クンダリニーは、徐々に、おだやかに目ざめはじめる。

わたくしは思うのだが、道教は、この「気」を使ってクンダリニーを目ざめさせるという秘法を落としてしまって、「気」だけを使う法を完成したのではなかろうか。

或いは、これは仏陀の極秘の法として、ごく一部の高弟だけに伝え、外部に洩らさず、いつしか消えてしまったのであろうかと、わたくしは考えている。いうならば、クンダリニーという巨大モーターを起動させるための始動用小型モーターだけが、道教に伝えられたと考えるわけだ。

クンダリニーという過激きわまるエネルギーを、みごとにコントロールして使う仏陀のこの秘法には、ただただ感嘆するしかないのである。

だが――、仏陀の秘法はこれだけではないのである。さらにおどろくべき秘技を、仏陀はわれわれに教示するのである。
それは、ひと口にいうと、ピンガラとイダーの気道を、アクセルとブレーキに使うのだといったらよいであろう。ただし、こが、クンダリニー・ヨーガのピンガラ、イダーそのものであるかどうかは、わからない。

或いは、仏陀があたらしくつくり出した気道であるのかも知れない。というのは、クンダリニー・ヨーガのピンガラとイダーは、前にのべたように、脊柱を通るスシュムナー管の両側を上昇するのであるが、仏陀のこの二つの気道は、その反対側の、腹
部を上下するからである。しかし、わたくしは、この二つの気道の果たす機能からしこちらて、やはりこれはピンガラとイダーであって、仏陀がこのように変えられたのであろ

 

うと思っている。したがって、この二つの気道を、やはり、ピンガラとイダーという名称で呼ぶことにする。いま、この二つの気道の機能からして、といったが、どういう機能を持っているのピンガラ気道は、クンダリニー・エネルギーにたいし、発動・昂揚の機能を持つ。

イダーの気道は、沈静・凝縮の機能を持つ。

つまり、さきにいったように、アクセルとブレーキの役目を果たすのだ。

それは、つぎのように使われる。

二本のスシュムナー管


さきにのべた通り、クンダリニー・ヨーガでは、尾骨部分から延髄にかけて、脊
柱を真っ直ぐ、スシュムナー管が通っている。目ざめたクンダリニーは、ここを上昇仏陀の法では、スシュムナー管がもう一本ある。つまり二本あるのだ。クンダリニー・ヨーガと正反対、尾低骨から会陰を通って、腹部の正中線を真っ直ぐ、輪を経て、喉に至る気道である。目ざめたクンダリニーは、背部のスシュムナー管とともに、

この腹部スシュムナー管をも上昇する。(上昇するというより、上昇させるのだ)この腹部スシュムナーのクンダリニー・エネルギーを、コントロールしつつ、各チャクラを開発、覚醒するのが、仏陀のピンガラ、イダーの両気道である。

つまり、脳端から約五ないし八センチ(人によって個人差があるほど下の辺で、腹部スシュムナーから分岐し、各チャクラおよび関連機器、神経を行って上昇し、また、下降する。あるいは、咽喉からさらに脳の内部を、鼻柱の奥ふかく、眉間の深部へと上昇し、脳のチャクラ、神経経路等を行り、延髄の小脳部分で、背部スシュムナー皆と合流する。

この二つの気道の技法は、チャクラの開発・覚醒にぜったい必要で、これなくして
チャクラの完全な開発・覚醒は不可能といってもいいであろう。

 

Buddha's Law

 

 

 

One is the Sushmuner tube and the other two are the Pingala and Eider airways.

The central airway is the Sschmuner's canal. It starts with the tail bone and ends with the medulla oblongata, as mentioned earlier.

When the Kundalini awakens with the power of a special idea, the energy explosively rises the Sschmuner's canal to the medulla oblongata. At the same time, the kundalini rises in the airways of Pingala and Ida, and acts as an energy regulator and other auxiliary for the kundalini.

The pingala on the right side of the spinal cord is called the airway of the sun and is the airway that controls heat.

The ider on the left, called the lunar airway, controls the flow of cold air. If the kundalini wakes up accidentally through Pingala, the practitioner can literally turn black and burn to death in the worst case due to the tremendous internal heat that is completely out of control.

 

The author of Kundalini, Gopi Krishna, describes his own nearly deadly experience due to this mistake.

 

It is from this point that I conclude that the Buddha is the perfector of Kundalini Yoga.

The legend of the Miracle Pond mentioned earlier and the miracle of the Buddha described in Sasamyo-The miracle of putting out fire from the upper body and water from the lower body is the energy radiation using this Pingara and Ida. This miracle is unique to the Kundalini Yoga perfector.

Now, as the kundalini awakens and the energy moves up and down the airway smoothly, the training progresses smoothly, and the kundalini reaches the Sahaslara chakra, where the training is completed. (However, practitioners who can reach this point are rare in ancient times.)
Thus, the kundalini is supposed to reach the medulla oblongata from the caudal bone and then ascend further to the Sahaslara chakra on the crown, but from the medulla oblongata to the Sahaslara. It is clear what the route to

From the tail bone to the medulla oblongata, the spinal column runs, so to speak, it is a straight road, so it is clear. However, what is the route from the medulla oblongata to Sahaslara?
2
I did not let the Buddha use Kundalini Yoga earlier for his disciples.
It's because it's too radical, but it wasn't the only thing.

The Kundalini Yoga chakra development method was unstable and uncertain.

The Buddha created the perfect Buddhahood method and taught it to his disciples.

The Buddhist practice is still going on.

Kundalini prana

I said earlier that the Buddha did not incorporate Kundalini yoga into his training.

That's true. The Buddha did not incorporate Kundalini Yoga into the Iddhipada method. However, Kundalini energy was taken in.

The energy of human beings is not as powerful as that of Darikunnie. There is no comparable driving force for remodeling humans. No, because it doesn't use this energy, it can be said that it is impossible to remodel humans. that's why. Buddha opened the door.

It's not just the growing heat of the mother and daughter, or the contribution, which is the energy process that results from Kundalini.

The first pair of exhibitions is a railroad that is willing to do. I love the latecomer, Kundalini.
With enough surprises, the book, after becoming powerful, is directed to the Kundalini Awards. There is a part sales office for burning kundalini. When a sword fierce is given there, Kundalini has an eye on it. Q For convenience, I have to come to the heat.

Some during the suspicion. There will always be talks about consciousness, or a selection that will be performed and a performer will be performed, but is there a gekiwa line or tatter?

You can do it. Home. Rikunnie is a three-headed machine, a Tatsuno performance, in the form of a tune. The integrated succession fee is officially recognized by Tsubasa. It's not a story of a rush to squeeze the force, but a general science, a machine, and a kundalini-rucontaro thing with a bad hand.

It is not clear whether it will take the road. As long as the kundalini awakens, he awakens
Kundalini is supposed to reach the Sahasrara chakra automatically
Therefore, the practitioner himself does not know the route at all.
What about the Buddha's airway?
The Buddha's airway also has something in common with Kundalini Yoga.
It is the airway through the part of the spinal column from the caudal bone to the medulla oblongata. Sushmuner tube Toho
It is an airway that does not change much. However, Kundalini Yoga's Sushmuner tube has been extended.
Although it ends with a record, the airway of the Buddha goes further and goes through the neocortex, old cortex, and paleocortex of the cerebrum.
It reaches from the diencephalon to the hypothalamus. And that clarity
I have a route.
Let's go
Bichu
That is not all. The route goes further to the forehead, from between the eyebrows to the back of the nose pillar.
No, it's throaty. In other words, the nerves from Sahaslara to Ajnya and its surroundings.
The route leads to the anterior pituitary gland and the posterior pituitary gland. And now
As such, these routes are clearly shown. Under the guidance of a skilled guru

 

For example, even a novice practitioner can grasp it.
It goes without saying which one is better.

This is basically due to the difference in practice between the Kundalini Yoga practice and the Buddhahood Buddhahood practice.

The Buddha's method is to "go" prana. This means that the practitioner does it by his own will. Therefore, the practitioner must know the route that leads Prana. The way of prana,
Instead of leaving it to Prana, the practitioner decides and proceeds. Therefore, the practitioner must know the path.

 

In the case of Kundalini Yoga, this is completely different.

The power of the practitioner's will is required to awaken the kundalini, but once awakened, the kundalini explosively rises in the Sushmuner airway regardless of the practitioner's will. It is not something that the practitioner is "megurasu".
And after that, it will be left to Kundalini.

The most secret breathing method

 

Therefore, the way of using the kundalini energy of the Buddha is completely different from the method of the kundalini yoga, and the kundalini is used with complete control. In other words, it is a method of "making" Kundalini energy.

How is it done?

The secret method of the Buddha using Pingara and Ida

It would be wise not to do stupid imitations that would provoke a sleeping Godzilla with a good feeling.

According to the Buddha's law, the monster Kundalini is awakened in a very gentle and good mood (?).

like?

Taoism does not know Kundalini. However, although it is far from Kundalini, he knows the acupuncture points (pots) that evoke the paranormal and strong energy of "Qi" and uses them for chakra.

This is the most secret of Taoism, and very few people know it. (Henri Ma
This acupuncture point (which I think is a type of chakra in China) is a little further away from the Kundalini chakra. Taoism, as it is now, uses this chakra to evoke a strong "ki". It can be said to be an alternative to Kundalini. I don't know Kundalini itself.

In the Buddha's Iddhipada method, this Taoist chakra is used to first evoke a strong "Qi" energy. Next, send this "ki" to the favorite Kundalini chakra.

This "ki" is slowly moved around the sleeping area of ​​the kundalini.

The kundalini gradually begins to wake up gently.

I think that Taoism has dropped the secret method of using this "ki" to awaken the kundalini, and has completed the method of using only "ki".

Or, as the Buddha's top secret law, I tell only a few high-ranking younger brothers, and I wonder if it disappeared someday without leaking to the outside. In other words, I think that only a small starting motor for starting a huge motor called Kundalini was transmitted to Taoism.

I can only admire this secret method of the Buddha, who uses the radical energy of Kundalini in a wonderfully controlled manner.

However, this is not the only secret method of the Buddha. The Buddha teaches us even more surprising secrets.
In a nutshell, the airways of Pingala and Eider are used for accelerators and brakes. However, I don't know if this is Kundalini Yoga's Pingala, Eider itself.

Or it may be the airway that the Buddha created newly. For Kundalini Yoga's Pingala and Ida, as mentioned earlier, rise on both sides of the Sushmuner's canal through the spinal column, but the two airways of the Buddha are on the opposite side, the belly.
This is because the part goes up and down. However, because of the functions of these two airways, I am still Pingala and Ida, and the Buddha was changed in this way.

 

I'm thinking. Therefore, we will call these two airways by the names of Pingala and Ida. Now, from the functions of these two airways, what kind of function does the Pingara airway have for kundalini energy?

Eider's airways have the function of calming and condensing.

In other words, as I said earlier, it acts as an accelerator and a brake.

It is used as follows.

Two Sushmuner tubes
As mentioned earlier, in Kundalini yoga, from the coccyx to the medulla oblongata, the spine
The Sschmuner pipe runs straight through the pillar. Awakened Kundalini rises here In Buddha's law, there is another Sushmuner tube. In other words, there are two. Opposite to Kundalini Yoga, it is the airway from the tail low bone through the perineum, straight through the midline of the abdomen, through the ring, to the throat. The awakened Kundalini, along with the Sushmuner tube on the back,
This abdominal Sschmuner tube also rises. It is the Buddha's Pingala and Ida airways that develop and awaken each chakra while controlling the kundalini energy of this abdominal sshmuner (which raises rather than rises).
That is, about 5 to 8 cm from the end of the brain (at the lower side, which varies from person to person, it branches off from the abdominal sushmuner, goes up and down through each chakra and related equipment, nerves, or goes down, or the throat. From there, it rises further inside the brain to the depths of the nasal column and deep between the eyebrows, goes through the chakras of the brain, nerve pathways, etc., and joins all the back Sushmuner at the medulla oblongata cerebral part.

These two airway techniques are absolutely necessary for chakra development and awakening, without them.
It can be said that the complete development and awakening of the chakra is impossible.

 
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1 メシア ( 仏陀 ) の法 Messiah (Buddha) Law

2022-01-21 19:29:56 | 
どうしてなのか?
これはど、科学と技術が進歩し、これほど、多くの宗教や、倫理、道徳が説かれているのに、どうして、こんな野蛮な殺戮や戦争が絶えないのであろうか?
戦争をやめるために戦争がはじめられ、不正を正すために戦争がはじめられ、そしてそのために戦争が絶えたことは、一度もない。
うちつづく戦乱と闘争が、暴力、貧困、環境破壊、人間性の荒廃を、無限に拡大している。
いつか、一大破局が訪れるであろうと、多くの人びとが恐れおののいている。

 

なんとかしなければならぬと、人類の大半が憂慮し、永遠の平和を心から望み求めながら、心の底で、絶望を感じている。

どうしてなのか?

二つの原因があげられる。


多くの人びとが気がついていない二つの大きな原因があるのである。


その第一は、人間の脳の持つ構造的欠陥である。


あとでのべるように、人間は、脳に致命的欠陥を持っている。この欠陥を是正・改造せぬかぎり、人類に平和と安穏は永久に来ない。


欠陥脳が欠陥文明を生んだのだ。


今までの宗教、倫理・道徳は、「意識の改造」だけを考えてきた。「諌山」である。


つまり、「ものの考えかたを変える」ということを目ざしたのである。ものの考えかたを変える「教え」を説いたのだ。


しかし、いくら、心がけ、心がまえを変えようとしても、満足する効果をあげることは出来ないのである。なぜならば、それを受け入れる脳に欠陥があるからだ。


意識、考え、を生み出す根源の部分に存在する欠陥を除去せぬかぎり、効果を期待することは出来ない。


「ウマの耳に念仏」という俗諺がある。


いくらよい教えを説いても、人間の脳の一部に、ウマの脳があったらどうなるか?


ウマの部分を除去せぬかぎり、古いことばだが、「意馬心猿」という、けものの心が、いつなんどき動き出すか、わからないのだ。いや、ここ一番という、一番たいせつなときに限って、ウマの脳があばれ出すのだ。


そしてー、あとでのべるように、じっさいにわれわれの脳には、ウマの脳が存在しているのである。この脳を改造せぬかぎり、人類に平和と安穏は永久に来ない。教えや理くつだけでは、欠陥脳は改造できないということを、われわれは充分に認識しなければならぬのである。


第二に、心理学でいわれる反覆強迫観念による「運命の反復」現象である。
多くの人は、このことにあまりにも無知過ぎる。


人間の深層心理に目を向けた近代心理学は、まず、ジークムント・フロイトの、個人の無意識層分析から始まった。次いで、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識層(群衆心理学)に進んだ。これに対し、リポット・ソンディは、この二つの層の中間にある「家族的無意識」という無意識の第三番目の領域を、研究対象としてとりあ
げた。

つまり、それまでの「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけである。

これは、無意識の特別な領域であった。ソンディは、この学説を、

 

「運命分析心理学」


 

と名づけたが、それによると、

個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病および、死亡の形式における無意識的選択行動となって、その運命を決定する。

というのであった。
要するに、特殊な先祖の抑圧された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで運命的に決定してしまう、というのである。
その結果あらわれる現象が、「運命の反復」である。特定の先祖の運命を、そのまま繰り返すという現象である。

 

その繰り返しは、まったくおなじ運命を繰り返すという例と、まったくおなじではなく、あるワク内での相似した運命をたどるというものと、二種類あるが、いずれも、ソンディの発見した一つの原則にしたがってその反復現象は起きるのである。(ソンディは、かず多くの例をあげて論証しているが、特に、バルザック、ドストエーフスキーの二大作家の例証は有名である.

 

どうして運命の反復が起きるのか? ソンディは、その原因を、遺伝趣性にあるとする。
しかし、わたくしが考えるのに、この運命の反復のすべての原因を、遺伝塑性のみに帰するのは無理なのである。他にも原因を考えねばならぬのだ。
というのは、義父母、義祖父母、義祖々父母、等々というように、直接の血縁関係でなく、故に、遺伝子(DNA)が遺伝しない間柄においても、明白に

 

運命の反復現


 

象が起きているからである。つまり、遺伝子によって遺伝されなくても、特殊な祖先の抑圧された欲求や葛藤は、その子孫の無意識の意識にはたらきかけて、その運命を決定してしまうのである。その実例はいくつもあげられる。

これはいったいどういうことか?
端的に言おう。
「個人の無意識層の中に抑圧されている特殊な祖先の欲求」とは、或る個人の無意風のなかに、特殊な祖先(すでに死者となっている)の欲求 (怨念)が抑圧されていて、その個人(子孫)の行動を決定する、ということにほかならない。

つまり、死者の怨念が、生きている者の無意識の意識を動かして、死者の怨念(欲状)を満足させるための行動をとらせる。それが、死者の人生と同一の道をたどらせることになる。それが運命の反復だ。そして、ここで注目しなければならぬことは、

その死者の怨念の伝達機構である。かならずしも遺伝子によらぬとしたら、いったい、なにがその怨念を伝達するのか?

答は、一種のバイブレーション、というしかないであろう。

ところで、一つの国家、民族、種族は、運命共同体であり、一つの家族である。

運命の反復理論は、そのまま、これにあてはめることが出来るであろう。その場合、
「歴史はくり返す」という現象になってあらわれる。個人の場合は、運命の反復、国、。

 

「歴shi家・社会の場合は、繰り返される歴史となってあらわれるのである。
人類の歴史は、戦争の歴史である。
戦争による死者の怨念が、生きている人間たちを、次の戦争へと駆り立てる。かくて、はてしなく戦争の歴史が繰り返されるのである。

このままでは、戦争が止むとき、それは人類が絶滅したとき、ということになろう。
宇宙は、宇宙意識によってみたされている。その宇宙意識のバイブレーションの中から、全地球を覆う死者の怨念を消滅させぬかぎり、地球に平和と安穏は、永久に訪れることがないであろう。

以上げた二つの問題をどう解決するか、また、はたして解決することが出来るのか、次に起きる戦争こそ人類絶滅の戦争であると予言されているいま、人類にとってこの上なく切実、かつ緊迫した問題ではないか。
あなたはどう思うか?

 

 

Why?
Why is this barbaric slaughter and war constant, even though science and technology have advanced and so many religions, ethics, and morals have been preached?
War has never been started to stop the war, to correct injustice, and to stop it.
The ongoing war and struggle are endlessly expanding violence, poverty, environmental destruction and the devastation of humanity.
Many people are afraid that one day a catastrophe will come.

 

Most of humanity is worried that they have to do something about it, and they feel despair from the bottom of their hearts, hoping for eternal peace.

Why?

There are two causes.
There are two major causes that many people are unaware of.
The first is the structural defect of the human brain.
As we will see later, humans have fatal defects in their brains. Unless this defect is corrected and remodeled, peace and peace will never come to humankind.
The defective brain gave birth to the defective civilization.
Until now, religion, ethics, and morality have considered only "remodeling of consciousness." It is "Iwayama".
In other words, the aim was to "change the way we think about things." He preached a "teaching" that would change the way we think about things.
However, no matter how much you try and change your mind, you will not be able to achieve a satisfactory effect. Because there is a defect in the brain that accepts it.
No effect can be expected unless the defects that exist in the root of consciousness, thought, and generation are removed.
There is a popular saying, "Nembutsu in the ears of horses."
No matter how good the teachings are, what if there is a horse brain in a part of the human brain?
Unless the horse part is removed, it is an old word, but I do not know when and how the beast's heart, "Imashinsaru", will start to move. No, the horse's brain is exposed only when it is the most important time here.
And, as we will see later, there is actually a horse's brain in our brain. Unless this brain is remodeled, peace and peace will never come to humankind. We must be fully aware that defective brains cannot be remodeled by teaching and reasoning alone.
The second is the phenomenon of "repetition of fate" due to the rebellious obsession in psychology.
Many are too ignorant of this.

Modern psychology, which focuses on the deep psychology of human beings, began with Sigmund Freud's analysis of the individual's unconscious layer. He then proceeded to Carl Gustav Jung's collective unconscious (crowd psychology). On the other hand, Lipot Sondy focuses on the third area of ​​the unconscious, "family unconscious," which lies between these two layers.
I got it.

In other words, he discovered a "family" between the "individual" and the "crowd".

This was a special area of ​​the unconscious. Sondy wrote this theory,

 

"Fate Analysis Psychology"

 

I named it, but according to it,

The special ancestral desires that are suppressed within the unconscious layer of the individual become the unconscious choice behaviors of the offspring in the form of romance, friendship, occupation, illness, and death, which determine their fate.

It was.
In short, the suppressed desires and conflicts of special ancestors act on the unconscious consciousness of the descendants, and the love (marriage), friendship, occupation, illness, and death of the descendants are destined to be decided. be.
The resulting phenomenon is "repetition of fate." It is a phenomenon in which the fate of a specific ancestor is repeated as it is.

 

There are two types of repetition, one is to repeat the same fate, and the other is to follow a similar fate within a certain vaccine, both of which follow one principle discovered by Sondy. Repetitive phenomena occur. (Sondy argues with many examples, but the examples of the two major writers Balzac and Dostoevsky are particularly famous.

 

Why is the repetition of fate happening? Sondy blames heredity on the cause.
However, I think it is impossible to attribute all the causes of this repetition of fate solely to genetic plasticity. We have to think about other causes.
This is because, such as step-parents, step-grandparents, step-grandparents, etc., not directly related to each other, and therefore, even in relationships where the gene (DNA) is not inherited.

 

Repetitive manifestation of fate

 

Because the elephant is awake. In other words, even if it is not inherited by a gene, the suppressed desires and conflicts of a special ancestor act on the unconscious consciousness of its offspring and determine its fate. There are many examples.

What exactly does this mean?
Let's just say it.
"The desire of a special ancestor suppressed in the unconscious layer of an individual" means that the desire (grudge) of a special ancestor (already dead) is suppressed in the unconsciousness of an individual. It is nothing but determining the behavior of the individual (descendant).

In other words, the grudges of the dead move the unconscious consciousness of the living, and take actions to satisfy the grudges (desires) of the dead. It will follow the same path as the life of the dead. That is the repetition of fate. And what you have to pay attention to here is

It is the transmission mechanism of the grudge of the dead. If it doesn't necessarily depend on genes, what exactly conveys that grudge?

The answer would be a kind of vibration.

By the way, one nation, one race, one race is a fateful community and one family.

The iterative theory of fate could be applied to this as it is. In that case,
It appears as a phenomenon that "history repeats itself". For individuals, the repetition of fate, the country ,.

 

"In the case of the history family / society, it appears as a repeating history.
The history of mankind is the history of war.
The grudges of the dead from the war drive living humans to the next war. Thus, the history of war is endlessly repeated.

At this rate, when the war stops, it will be when humankind is extinct.
The universe is seen by the consciousness of the universe. Peace and peace will never come to the earth unless the grudges of the dead that cover the whole earth are extinguished from the vibration of the cosmic consciousness.

Now that it is predicted that the next war will be the war of extinction of humankind, how to solve these two problems, and how they can be solved, it is not the most urgent and urgent problem for humankind. mosquito.
What do you think?

 
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真正仏舎利を本尊とし、 釈尊直説の成仏法を修行する 

2021-11-13 08:32:16 | 
 

釈尊は、「七覚支」こそそ`の成仏法であるとおっしゃって、念覚支・択法覚支・精進究支・’喜


覚支・狩覚支・定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きになった。


  


 そしてでこの七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られると解説された王で、阿那含果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、~七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、。四神足法、五根法、五力法、七覚文法、八正道です○         

 

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

 

成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊のお弟子となっ▽て成仏法を修行するとしたら、j七覚支の修行が二番よいどお考えになったからだと思い支す。 

 

 というのは、ヽ釈尊の成仏法は、七科目三ナ七種の修行包全部やらなければならないどい ではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはクおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、’お弟子の因縁をみてい七科目の中から、yおまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、という

 

ように選別されてあたえたのであろうと思われます。。時には、科目にに恥まわず、一三十七種の修行法の中から自由にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 一

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしまじきつ。念力をつよくしてバランスをたもつト知的にも非常に高度で、情結面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥にな’りやすいわけです。’芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシ″レを、三日ぐらいたっ七急に笑。い出七て、「ああ、そうだうたのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょダ。。

 

 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない



 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、八かめるという訓練をする。そしてそのいずれに右かたよらないということ。これがまず第一です。 

 しかし、それだけじゃない。

 

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヨトガの修行が入るわけです。   

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

 

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになけます。つまり、「縁起の法」を如実に‘さとることになるわけです。               」               

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代表的な修行法です。                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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軍茶利明王の秘密

2021-10-15 14:06:50 | 

 軍茶利明王の秘密



クンダリニーと軍茶利明王の関係


このクンダリニーが、真言密教の軍茶利明王とふかい関係があったとは、たとえあなたがその道の専門家であったとしても、気がつかなかったのではあるまいか。
さきに私はクンダリニー・ヨーガと真言密教はふかい関係があるといった。その論拠はまさにここにあるのである。私はいままた、クンダリニー・ヨーガと真言密教とふかい関係があるといった、ふかい関係ころか、軍茶利明王とはなにをかくそう、クンダリニーそのものにほかなといったところで、あなたが真言僧侶でもないかぎりよくおわかりにならないであろうから、


少しすることにする。


員、および語辞林をひいてみよう。


家刻画王、五大国主のひとつである。軍茶握(Kundata=耳環,・蛇の意)に、所有をあらおすす》たるを軍茶利という。けだし比のはを以て身の荘厳とするゆえにこ蛇を以て身をかざる、どころか、クンダリニーは、蛇のかたちをして脊柱の下部にねむっいるのである。秘密辞林には「此の尊は第七末那識の位たれば末那の煩悩と倶なるをあらわして語蛇を以てその身を荘厳すという」とある。密教諸経典(軍茶利本軌、軍茶利集経、摂無礎経等)
によればこうある。


『軍荼利法を受持せんと欲せば先その像を書け。身青色にして両眼ともに赤く、愛をて普を成し、その頭髪、色黒赤交雑して三昧の火炎の如く、眼を張り大いに怒り、上歯をみな露して下唇を飲たり。大眼面を作し、二つの赤蛇あり、両頭めい交わり垂れて胸前にあり、頭仰げて上に向い、その両蛇の尾、おのおの像の耳を穿ち、尾の頭垂れさがって肩の上に至れり。その二の色は黄喉蛇(コブラのこと、著者)の如く赤黒間錯せり。(中略)下方第三情は左第三臂を押て両
情相交りて胸上にあり、右手中に両箇の赤蛇をにぎり、その蛇の交りて各線の面に向い、左手に一頭赤蛇を把れり。(両手各跋折羅の印を作す。両手大指をもて小指の甲を捻す。余指みなべ、即ち左手を以て右肢の前を押し、次に右手を以て左股前を押す。即ちこれ身印なり。下第四
臂は仰ぎ垂れて下に向けて右吟に着くるなかれ、五指みな伸べて施無畏手なり。左上手中には金
輪形を握り、臂を屈して上に向い輪に八角あり殼覇成具せり、下第二手は中指以下三指各屈してに向て大指中指の上節の側を捻し、頭指直く堅て上に向て之を伸ぶ。其情肘を屈して手筒を左に向け、下方四手は横に左膝を覆せて指頭右に向う)虎皮と錦とその両跨に株えり。その両脚の腔に各赤髭あり(後略)』
きんカッコの手の印は、みな深い意味があるのである。かるがるしく見過ごしてしまわぬように、よく記憶しておいていただきたい。


また、別の秘密儀軌にいわく、


『八臂と両胸と頭とに十二蛇をまとい、両足下に白蓮あり、感焰中(燃えさかる火焰のこと)にとある。この像の場合、十二の蛇の十二という数は、サハスララ・チャクラの十二の輻をあらわしていることを、賢明な読者はすぐにさとられるに違いない。同時に、足もとから背よりも高く燃えさかる人は、クンダリニーの火をあらわしいることこれまた申すまでもないことだ。


この明王の真言は、


俺防密哩帝降 発(am amrite hum phat) (甘露軍茶利)


秋里帆里 跋日羅峠 発叱 (om kili-kili hum phat) (金剛軍茶利)であるが、



真言宗密教において、法を行ない、加持をするとき、いかなる修法、行法でも、阿関梨は、修法のはじめに、必ずこの明王を念じ、この真言を誦することになってる。これを、"加持香水、という。どの修法にも加持香水のない行法というものはい。真言宗密教では、この明王を、風悩、堀織を除去し給う尊であるとし、この二つの真言を、去垢の真言』(嶽悉地供養法)という。煩悩を去り、心身の垢、けがれをいさいとり除く明王ということである。


その行法を述べると、護身法を修したあと、念珠を左手に把り、右手に小三の眼をむすんで念珠にあて(三鈷又は五話を用うることもある)壇上の水器に向けて二十一べん上下する


このとき右の二つの真言のいずれかをとなえ、明王を心に念ずる。


軍茶利明王がクンダリニーであることを知らない阿闍梨たちは、ただ軍茶利明王を念じ、真言を通して、ほとんど形式的にやってしまい、この行法にふかく心をとめる修法者がいないが、これは、修法にあたってまずクンダリニーを呼びさますという、密教においてなによりも大切な行
であるべきはずである。真言宗密教が様式化してしまったと私が指摘するのは、こういう点をいうのである。修法のはじめに、クンダリニー覚醒の行法を持ってきているのはよいのである。


これは、古代ヨーガにおいておこなわれた行法が、そのまま踏襲されたものであろう。それでなくてはならないのだ。しかるに、それがただ単なる型になってしまっている。クンダリニーを軍茶利明王にし、軍茶利明王が実は蛇のかたちをしたエネルギーであることを色々な型式で表現して暗示はしているけれども、結局は、仏サマの一種であるというように観念化してしまって、そのもっとも大切な本質をどこかへ消失してしまっている。これで、行法に力が生じたら、それこそまさに奇蹟というべきではなかろうか。


クンダリニーを軍茶利明王にしたことは、したその時点においてそうせざるを得ない、そうすべき当然の理由であったのであろうから、それを長々するのではない。そういう時代的要求が去った現代において、なお、そのまま様式化した行法をそのままつづけてゆかねばならぬ理由とい・・・・・・
うものがどこにあるというのであろうか。(まあ、気がつかないからやっているので、気がついたら馬鹿々々しくてやっていられなくなるだろうと思うのだが、どょう?)


秘密はまだある。


秘密辞林にいわく、
『この尊は三部弁事明王になれば、甘露軍茶利、金剛軍茶利、蓮華軍茶利の三部各別、三身の軍禁利あり。甘露軍茶利は虚空蔵菩薩の所変、蓮華軍荼利は観自在菩薩の所変の説あれば、金剛界軍荼利はおのずから金剛手菩薩の所変と称するを得べし』
とある。


密教大辞典もほぼおなじ記述である。
この文章を一読したら、賢明なる読者はすぐになにかを感じるはずである。虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法といって、求聞持法の本尊ではないか。クンダリニーが、こんなふうに姿をかえて、クンダリニーと求聞持法の深い関係を暗示しているのである。クンダリニーの助けなくして真の求聞持法開発は不可能であり、求聞持法の開発がそのままクングリニーの覚醒につながるという関係を、こんな風に暗示してひそかに伏せておくとは、いやもう、まことにまことに心にくいほどの深謀遠慮、おそれいったというよりほかはない。まだある。


金蘭軍茶利の所変、金剛手菩薩とは金剛薩埵のことである。金剛薩埵とは、はかならぬ客教修行者自身をさす。この暗示は、クンダリニー修得の方法を暗示するもので、このことはまたあと右が甘露軍茶利で虚空蔵菩薩、左が金剛軍茶利で金剛薩埵、真』なかの蓮華軍茶利=観自在菩薩は、観世音菩薩のことで、これは悉地成就、クンダリニーを覚醒して超能力を獲得した修行者の他者救済のすがたを暗示する。行が完成したら、観世音菩薩となって多くのなやみ苦しむ人びとを救わねばならぬ。そのための超能力であることを示しているのである。また、この観世音菩
薩は、準低視音であり、修行にあたって、因縁解脱、悪業消滅の必要あることを示しているのである。


いかがです? 密教のナゾ解きは? なまじいの推理小説など足もとによれぬ面白さではなかろうか?それは、超人たちとの智恵くらべである。あるいは、万事を知りつくした上でこのような芸当をしている彼らは、後世においてそのナゾを解く者の出現を期待し、たのしんでいるのではなかろうか?ともあれ、このことからだけでも、真言密教の行法は、再認識され、再検討されねばならぬというべきである。

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すごい写経!【写経の効果とやり方を徹底解説】秘めた力の引き出し方

2021-10-14 03:47:30 | 

【写経の効果】お経に隠された秘めた力




お経を書き写すことを写経と言います。

 

お経の「一字一音」には、変わらない不変の真理が意味を持っており、私たちすべての人を幸せに導く秘めた力があります。

 

そんな秘めた力を持ったお経を書き写すことで、秘めた力を引き寄せることができるんです。

 

たとえお経の意味を知らなくても、大丈夫。

 

写経するだけで、波動が調整され、心と身体を浄化し、運命や因縁をも変えていくほどの力があります。

 

写経のすごい効果は邪気を落として未来を切り開くチカラ


写経は、一字書くたびに仏様を自分自身と自分の空間に刻んでいく行為です。

 

書き進めるにつれて仏様と一体になり、自分の中にある邪気や穢れが祓われていきます。

 

邪気や穢れというのは、

 



  • 怒り、妬みや恨みといったネガティブな感情

  • 霊的な存在から発せられている悪い気のようなもの

  • 単体では力の弱い霊的な存在

  • 気が停滞することから発生する淀み




 

などが複合的に重なり合っているもののことを言います。

 

邪気や穢れは良い運を汚して悪い運にしてしまうので、溜まり過ぎるあなたの未来の妨げになります。

 

つまり、邪気や穢れが祓われることで、あなたの未来の妨げになるものが消えるということ。

 

そして、仏様の教えには「すべての人を幸せに導く力」があります。

 

写経は穢れを祓い、あなたの理想の未来を叶えるバックアップをしてくれる手法なんです。

 

写経が書けないときは、邪気や悪霊、生霊が憑いている


邪気が溜まっている人や霊的な存在が憑いている人はなかなか写経が進まないといった状況が起こることがあります。

 

写経をすると邪気や穢れが祓われるので、憑いているものが落ちます。

 

写経が進まないのは、憑いているものが祓われないように抵抗しているからなんです。


写経!





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七覚支を修行すれば、

2021-10-13 20:37:41 | 


 

釈尊は、「七覚支」こそそ`の成仏法であるとおっしゃって、念覚支・択法覚支・精進究支・’喜


覚支・狩覚支・定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きになった。  


 そしてでこの七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られると解

説された王で、阿那含果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、~七科目、三十七種類のカ

リキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、。四神足法、五根法、五力

法、七覚文法、八正道です○         

 うこのうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について

解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊の

お弟子となっ▽て成仏法を修行するとしたら、j七覚支の修行が二番よいどお考えになったからだと

思い支す。… 

 というのは、ヽ釈尊の成仏法は、七科目三ナ七種の修行包全部やらなければならないどいyな01 

ではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法

の中にはクおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、’お弟子の因縁を

みてい七科目の中から、yおまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、という

ように選別されてあたえたのであろうと思われます。。時には、科目にに恥まわず、一三十七種の修行

法の中から自由にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 一

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしまじきつ。

念力をつよくしてバランスをたもつト知的にも非常に高度で、情結面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術

面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥にな’りやす

いわけです。’芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シ

ャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシ″レを、三日ぐらいたっ七急に笑。い出七

て、「ああ、そうだうたのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょダ。。

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、八かめるという訓練をする。そしてそのい

ずれに右かたよらないということ。これがまず第一です。 

 しかし、それだけじゃない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出

す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヽヨトガの修行が入るわけですQ     

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになけます。つまり、「縁起の法」を如実に‘さ

とることになるわけです。               」               “

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代

表的な修行法です。                                

Sakyamuni says that "Seven Factors of Awakening" is the Buddhahood method of the Buddhahood.
He explained the seven methods of practice of the Awakening, the Kakukaku, the Jokaku, and the Awakening. Twice

And if you practice this Seven Factors of Awakening, you will get Arhat Han Guo, Ana Han Guo, Sakadagami, and Suda Hyakuka.

He was the king who was preached, and he taught me in detail that Anuruddha also had five kinds of nirvana.

Shakyamuni's Buddhahood method, as mentioned earlier, is called the seven departments and thirty-seven dojos, with seven subjects and thirty-seven kinds of mosquitoes.

It consists of a curriculum. That is, the Satipatthana method, the Four Right Exertions method ,. Iddhipada method, Indriya method, Five strengths

Law, seven senses grammar, Noble Eightfold Path ○

This is an explanation of the Seven Factors of Awakening method.

For the Buddha's priest who asked about the Buddhahood law, why Buddha is one of the seven subjects, the Seven Factors of Awakening

As for the explanation, this is a guess from my experience, but if this Bhikkhu is Buddha's

If you were to become a disciple and practice the Buddhahood method, it was because you thought that the practice of the Seven Factors of Awakening was the second best.

I think about it. …

That's because the Buddhahood method of Buddha has to do all seven subjects, three na, and seven kinds of training packages.

It's not. You only have to do two of the seven subjects. Because, the training method of seven subjects

There is a dub of the same training method inside. So, Buddha said,'The cause of the disciple

From the seven subjects I'm looking at, y you say that you should practice this, and you should practice this and this.

It seems that it was selected and given in this way. .. Sometimes, don't be ashamed of the subject, and practice 137 kinds of training

It seems that some of them were freely selected from the law and imposed on the practitioners. Ichi

Therefore, what kind of training method is this Seven Factors of Awakening?

Psychokinesis and balance are very advanced intellectually, and in terms of emotions, so-called emotions are abundant.

You can understand it well in terms of aspects. A person without emotional feelings tends to be dry and tasteless.

That's why. ’I don't understand anything about art, it ’s not interesting to talk about it,

It doesn't make me smile. I suddenly laughed at the scene I heard today for about three days.

Then, "Oh, that's right?" (Laughs), then it's just like a story. ..

It's fine to have a strong will, but it shouldn't be stubborn.

Therefore, the mental action of knowledge, affection, and will is greatly strengthened, and training is given to make it eight. And that

It doesn't depend on the right side. This is first and foremost. Twice

However, that's not all.

Strengthen the power of the mind itself to mystery. When you concentrate on one point, it gives out enough power to make a fire

vinegar. Therefore, the training of Kundalini Eyotoga is included in the training of this consciousness Q.

Next, learn the "view of the sky". Therefore, this Seven Factors of Awakening contains the practice of "Satipatthana".

By learning this view of the sky, you will be able to understand the reality of various laws. In other words, the "law of auspiciousness" is clearly ‘

It will be taken. "" ""

This consciousness can be said to be the centerpiece of the Seven Factors of Awakening. No, even among the thirty-seven items

It is a superficial training method.
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輪廻転生瞑想法 Reincarnation meditation method

2021-10-09 08:15:19 | 
輪廻転生瞑想法III 206

 

飛躍的に能力を高める瞑想訓練法

 

さて、いよいよ脳のチャクラの訓練に入るが、その前におこなっておくべき、いくつかの初歩的な瞑想訓練法を紹介する。

わたくしは、いま「初歩的な」といったが、これらの訓練法をじっさいにやってみると、なかなかむずかしいと感じると思う。
しかしその効果は絶大である。

この章の訓練をみっちりやれば、実生活における、あなたの能力(脳力)は飛躍的に向上するはずである。高い集中力を維持したり、常人の想像もつかない飛
躍したインスピレーションを得るといったことが、容易にできるようになるであろう。

わたくしも、若いころ、これらの訓練を、仕事の合間や電車に乗っているときなどに、くり返しおこなったが、その効験は目をみはるものがあった。

最初は少々むずかしいと思うかもしれないが、くり返し練習することによって、かならずできるようになるので、しっかりととり組んでいただきたい。

 

集中止)と瞑想(観)


 

では瞑想に入ろう。
生中洲欧生。坐漁をもちいる。瞑想の手印を組もう。これが初歩的瞑想のバト※である。(図5、照。ただし、この図では法界定印であるが、後出のアーカー
シャ・ハドラーをもちいる場合もある。瞑想の基本姿勢については『輪廻転生瞑想法=」に、くいしく解説しているので、かならず読んでいただきたい)
県の修行は、二つの領域から成り立つ。
いーとは沖央中法 (concentration)、ひとつは瞑想法 (meditation)である。
これに、いて解説し

 

よう。まず、シャッタ(止)である。


 


これは、ひとつのことに心を集中するのである。
数息観がその代表であるが、禅における公案、また、祈りを捧げるとか、経文を読む、真言を唱えるなども、精神集中法のひとつである。要はひとつのこと
に心を集中し、そこに止,まり、動かないことである。

この精神集中の状態は二つに分けることができる。
ひとつは「意識的精神集中」で、ひとつのことに意識を集中し、他のものに心を向けない、これを積極的に意識的におこなうのである。これは修行のはじめの
過程として、だれでも通るものである。

 

つぎの段階が、「無意識的精神集中」の状態である。これは、高度のもので、
意識的稽神集中をつづけているうちに、習練によって条件づけられ、ついに、とくに意識しないでもひとつのことに心を集中することができるようになる。
これによって無意識の意識層をコントロールし、ふつうでは絶対に統御できない無料識の意識を、ある特定の対象に向すること心の流れにまかせるとは

つぎに、ビパシャナ(観)である。


これは、ひとつのことに注意をとどめない。心の動きのひとつひとつに心を向けていくが、ひとつのことにとどまっていない。心の流れにまかせるのであ
る。これにも、「意識的瞑想」と「無意識的瞑想」がある。「意識的瞑想」は、表面意識が心の流れを観ている。
「無意識的瞑想」は、深層意識の心の流れそのものになっている。

では、その深層意識の流れを観ているものはなにか? だれが深層意識の流れを観ているのか?それは「無意識的精神集中」の心である。
だから、「止」と「観」は密接な関係があるのである。いまおこなわれている瞑想のほとんどは、「止」か「観」か、どちらかにかたよっている。禅は「止」
にウエイトがかかり、瞑想(としてやっているもの)は、「観」が主である。

 

Reincarnation Meditation III 206

 

 

A meditation training method that dramatically enhances your ability

 

 

Now, let's start training the brain chakra, but before that, I will introduce some elementary meditation training methods that should be done.

I say "elementary" now, but I think it's quite difficult to try these training methods.
However, the effect is enormous.

If you do the training in this chapter properly, your ability (brain power) in real life should improve dramatically. Maintaining high concentration and flying that ordinary people can not imagine
It will be easy to get great inspiration.

When I was young, I repeated these trainings during work breaks and when I was on the train, but the effects were remarkable.

It may seem a little difficult at first, but by practicing repeatedly, you will definitely be able to do it, so please work hard.

 

 

Collection cancellation) and meditation (view)

 

 

Let's get into meditation.
Raw Nakasu European student. Use sitting fishing. Let's set up a meditation sign. This is a rudimentary meditation bat *. (Fig. 5, Teru. However, in this figure, although it is a legal seal, the later Aker
In some cases, Sha Hadler is used. The basic posture of meditation is explained in detail in "Reincarnation Meditation Method =", so please be sure to read it.)
The training of the prefecture consists of two areas.
Ito is Okihisashi (concentration), and one is meditation.
I will explain about this

 

NS. First is the shutter (stop).

 

When
This focuses on one thing.
The view of numbers is a typical example, but Koan in Zen, praying, reading sutras, chanting mantras, etc. are also one of the methods of concentration. The point is one thing
Focus on, stop, stay there, and don't move.

This state of concentration can be divided into two.
One is "conscious mental concentration", which focuses on one thing and does not focus on the other, and actively and consciously does this. This is the beginning of training
As a process, anyone goes through.

 

 

The next stage is the state of "unconscious concentration". This is an advanced one
As you continue to concentrate on conscious training, you will be conditioned by practice, and finally you will be able to concentrate on one thing without being particularly conscious.
By doing this, it is possible to control the unconscious consciousness layer and leave the consciousness of free consciousness, which is normally absolutely uncontrollable, to the flow of mind toward a specific object.

Next is Bipashana (view).

This does not pay attention to one thing. I focus on each and every movement of my mind, but it's not just one thing. Leave it to the flow of your heart
NS. There are also "conscious meditation" and "unconscious meditation". In "conscious meditation", the surface consciousness sees the flow of the mind.
"Unconscious meditation" is the very flow of the mind of deep consciousness.

So what is watching the stream of consciousness? Who is watching the stream of consciousness? It is the mind of "unconscious concentration".
Therefore, "stop" and "view" are closely related. Most of the meditations that are practiced now depend on either "stop" or "view." Zen is "stop"
The weight is applied to the meditation, and the meditation (what is done as) is mainly "view".
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仏舎利というのは、おシャカさまの御遺骨のことなので     す

2021-10-06 11:05:59 | 


 

――守護霊を持つには、何か特別な行法が必要なのでしょうか。

桐山  守護霊は、霊格の高い霊になってもらうのですが、いきなりはできません。

            ″悪貨は

というのも、世の人みんなが、何らかの悪い霊、霊障を持っています

良貨を駆逐する”と言いますね。良貨を流通させるには、まず悪貨をなくさな

げればいけません。つまり悪い霊をなくすのが先で、霊障を断ち切れば、守護

霊はおのずと現れてくるのですよ。

 私自身、一生を霊障をなくすことにかけてきて、やっと守護霊を得たわけで

霊障を断つには″千座行″をはじめ大変な修行が必要だったのです。

 ところが61年、スリランカから私どもに。真正仏舎利”というおシャカさま

の御真骨をいただき、真の守護霊が持てるようになったのです。真正仏舎利を

いただき信心すれば、霊障を断ち、福徳を与えてくれる、まるでそれ自身が守

護霊といっていい、すごいパワーがあるのです。

 仏舎利というのは、それほど強いパワーを持っているのですか?

桐山  そうです。そもそも仏舎利というのは、おシャカさまの御遺骨のことなので

   すが、本当の御遺骨というのは簡単に得られるものではありません。みんな間

   に合わせの仏舎利を使っているし、私どももそうでした。ところが縁があって、

   本当のシ十力の御遺骨習万正仏舎利”を手にすることができたのです。

    この「真正仏舎利」は「生きているシャカ」として尊崇されています。これ

   を「生身如来」、「法身如来」と言います。

    密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生身の

   シャカの本体とするのです。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体です。

    私の著書「守護仏の奇蹟」でこの点を詳しく書いていますが、その密教では

   シャカに三重あることを説き、これを「三重の釈迦」と言います。

    第一重のシャカはシ十力の説いた教法。第二重のシャカは生身のシ十力の本

   体である御遺骨、御遺身。第三重のシャカは生身のシャカです。第三重のシャ

   カはすでにおられないので、第二垂のシャカを生身の釈迦如来としています。

    シャカというのは言うまでもなく仏教の開祖であり、仏教そのものの総本尊

   です。実在の仏はシャカだげで、私どもはそのシャカをご本尊としています。

桐山名言集◆この世の中のものすべて、どんなものでも、原因となるものがなくて生するものはなく、また因あって

生じても、これを助長する縁がなくては存在しない。因と縁か重なって、経過をたどり、結果か現れる。

差別はないのです。

のです。

  実在の仏である本尊としてのシャカは法のうえでオールマイティーであり、

   教えのうえでオールマイティーであり、救済者としてオールマイティーです。

   それら三つの力を持つシャカの法身舎利を私たちは「守護仏」とお呼びするの

です。

 真正仏舎利のおシャカさまが、夫婦ゲソカをやめさせるなんておかしいよう

だけれど、救世者としての力は、世界の危機を救うのも夫婦の危機を救うのも 

「守護仏」が、この世のあらゆる悩みや苦しみから、私たちを救ってくださる

   というわげですね。

桐山  すでにこの「守護仏」がもたらす奇跡がたくさん現れているのですよ。そし

   てこの「守護仏」こそが、ほんとうに力のある「守護霊」をもたらしてくれる

 

*如意宝珠法

  仏舎利を本尊として

法を修すること。

 この法は、ことに末

法の世の衆生を益する

ものとされている。物

質的に衆生の願望をか

なえるだけでなく、霊

障のホトヶを救い、三

界困苦の衆生を解脱さ

せる。

 

 

 

あなたも霊能者の仲間になれる

雲言囮ベストがだめならベターでゆけ。千座行で悪い運気を取れば9 達も得る

真正仏舎利という大パワーを得て、千座行をする必要がなくなったと言えるのですね。

 桐山  そうですね。修行の話をし孝すと、私が密教に入ったとき、ます考えたのは、

    一生を通じて自分の行としてどういう行法をしようか、ということです。これ

    は、密教の修行をする時、みんな考えることですがね。

     いろいろな行法の中から、より自分を高めてくれ、自分の方向に合った行法

を選ぶわけです。

 で、私のそりたいのが、。如意宝珠法”だったのです。

 仏舎利を本尊として、この法で祈るとき、自分の悪因縁を断ち切り、そのう

 願いが点のごとくかなりIオルマイティーな 高昨のわ法で。

    ところが問題は本尊とする仏舎利です。本物なんてあるわけない。大きな米

   粒を一つ清めて法を修すると本物と同等の仏舎利になるということになってい

   るのです。だからお米のことをシャリというんでしょう。霊石を使う場合もあ

   りますよ。

    で、お米の仏舎利で祈るのですが、心の片隅に「これは米粒じやないかな」

   という思いが少しでもあると、とても願いなんてかないません。それで行法を変えたんですね。

桐山  そう。要するに、「私にはまだ。如意宝珠法”なんてやる徳がないんだ、もっ

   と徳を積んだら、あるいは本当の仏舎利が手に入ることがあるかもしれない。

   そうしたら、如意宝珠法をやる資格ができたということだろう」と思いまして、

   ペストがだめならベターだというので選んだのが、。因縁解脱の千座行”だったのです。

    これは悪い因縁を切るだげの行法でしたが、悪い因縁を切ればおのずから福

   徳も生ずるだろうと思ったわけです。

 

 

霊言国人の悩みを聞き、アドバイスできる

   指導者を育てたい

 Z千座行から移行したことで、内容的にはどんな変化がありましたか。

 桐山  たいへんな飛躍です。

    今までは準紙如来という概念上の仏を通じてシャカを拝んでいた。つまり

他の大衆仏教と同じだったわけです。

 ところが、今度は、生きたシャカ如来を本尊として法を修することになった。

これは、今までとまるっきり違う。次元が違ってしまったわけです。

 前にお話ししたように、法のうえでオールマイティーであり、教えのうえで

オールマイティーであり、救済者としてオールマイティーである三つのスーパ

ーパワレ‘。これが、ほんとうの仏教だという

   つた。今まて思いです。そしてまた、実際に奇跡的霊験があいついで現れています。

具体的に、信者の修行のしかたはどう変わりましたか。つた。今までとまるっきり比較にならない

。結論から~うと、今我での、瞑想と拝むことが主体であった行から、非常に

実践的な信仰になったと思います。私のところの和讃をお読みになればわかる

とおり、″悩める人の杖となれ”とあります。これが実践行ですね。自分が救わ

れようと思ったら、まず他人を救え、と。おシャカさまのこの教えを梵行と言

うんです、が、阿含経の道場では、もともとこの梵行と所作、つまり修行の二本

立てなわけです。人を救うことと、仏を礼拝供養することですね。

 今までの千座行では、勤行に一目四十~五十分かかりましたから、これだけ

で精一杯というAが多かったんです。ところがこれからは、拝んでいた時間を

梵行に当て、人を助けることができるわけです。そこが実践的であり、また、

それこそがおシャカさまの阿合の道場のあり方だったということです。

   梵行というのは布教伝道のことだと思うんですが、具体的にはどのようにされ

   ていくのでしょうか。

桐山  人の悩みを聞いてあげて、アドバイスをするということも含みますが、そう

   いう人生相談のできる人をこれからどんどん増やそうと思っています。それに

   は指導的な霊能者を最終的に百人作ればいい。百人いれば世界を動かせると思

   うんです。

 

 
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Saptakoṭibuddhamātṛ 准胝観音

2021-10-01 19:05:16 | 
https://youtu.be/DL30a1dTXtU

梵名サプタコーティ・ブッダマートリ(सप्तकोटिबुद्धमातृ [Saptakoṭibuddhamātṛ])とも呼ばれる。密号は最勝金剛、降伏金剛

「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhā [21] [14][注釈 3]などがよく知られている

ボ、bu)

もし、在家の善男善女らが『准胝真言』を唱え、これを日々に保つことがあれば、その人の家には災難や事故、病気等による苦しみが無く、あらゆる行いには行き違いや望みが果たせないということも無く、その人の言葉は皆が信用して、よく聞いてくれるようになる。また、幸福に恵まれず、才能にも恵まれない人があって、密教の才覚もなく、僧侶の修行である『七科三十七道品』[注釈 22]という釈迦の教えに廻りあうことができない人がいたとしても、この准胝観音の『陀羅尼法』の伝授を受けることができたならば、速やかに無上の覚りを得ることができる。更には、『准胝真言』を常に記憶にとどめ、よくこの真言を唱えて善行となる戒律を守ることができれば、あらゆる願いも成就する」と説かれている。[43]

本文読み下し

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し。天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん。もし我、誓願大悲のうち、二世の願を成ぜずんば、我、虚妄罪過のうちに堕して、本覚に帰らず大悲を捨てん。

本文和訳

準提尊とその功徳がある(曼荼羅の)聖衆を、心を鎮めて一心に、毎日(常々)念じたならば、あらゆる災難や大事故に遇ったとしても、その人は大難を逃れることができる。何故なら準提尊の誓願に「人天を救う」というのがあり、天神と人間は仏と同等の福を受け、この如意宝珠にも等しい仏を本尊とすれば、必ずや仏の覚りの無上正等覚を得るからである。もし私(龍樹)の「衆生が今世と来世に解脱を得るように」との大悲の願いが成就しないなら、私(龍樹)は衆生を欺いた罪によって地獄に落ち、覚りも得られず、大悲の誓願も捨てることになる。

准胝十八大願』 印相や持物によるそれらの意味は以下のようになる[44]。

説法印・・・・・一切法(全ての仏法)を説くことを表す。

妙寶幢・・・・・よく最勝の大寶幢(旗印)を建立し、正しい教えを広める。

施無畏印・・・・一切衆生を速やかに苦しみや、恐怖から離れせしめる。

妙蓮華・・・・・穢れの泥沼から蓮華の如く抜け出させ、衆生の六根を清浄とする。

智慧剣・・・・・貪瞋痴の三毒に代表される煩悩の結縛を断ち切る。

灌澡瓶・・・・・甘露を流出して衆生を潤し、更には密教の灌頂を与える。

妙寶鬘・・・・・その願いに応じて、妙法との結びつきを確かなものとする。

金剛索・・・・・一切衆生を仏法へと導き、相応の法を獲得せしめる。

天妙果・・・・・菩提の果を表示し、広く修行の善果を完成させる。

八輻輪・・・・・常に大法輪を転じ、その威光により三界を照らす。

大鉞斧・・・・・堅固な不善の教えを破壊し、人我(にんが)の山を切り崩す。

大法螺・・・・・一切の清浄な教えを説き、三千世界を振動させる。

金剛鉤・・・・・その人に善となる一切の物事(人・物・金)を、よく引き寄せる。

如意瓶・・・・・この世の宝と経典類を流出し、それらを意の如く受用させる。

金剛杵・・・・・天龍八部を帰属させ、ならびに難伏の者たちを調伏する。

般若経・・・・・自然(じねん)の覚りをもたらし、仏法の「甚深微妙」の意味を理解させる。

摩尼珠[注釈 25]・・・心地(しんじ)を活発にし、智慧の光明を円満にして翳りを無くする。

両手説法印・・無上の密法を明らかにする。(法身説法)


सप्तकोटिबुद्धमातृ [Saptakoṭibuddhamātṛ

Oṃ cale cule cunde svāhā

If the good men and women who live in the house chant “Kanen Shingon” and keep it on a daily basis, there will be no suffering from disasters, accidents, illness, etc. in their homes, and every conduct will be misplaced and hoped There is no such thing as being unable to fulfill, and everyone's words will be trusted and will be heard well. In addition, there were people who were not blessed with happiness and were not blessed with talent. Even so, if you can receive this mandala kannon's “Mandara method”, you will be able to quickly get a sense of innocence. Furthermore, if you can always remember the “British Shingon” and remember the precepts of good deeds by chanting this truth, all your wishes will be fulfilled. ”

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七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られる

2021-09-28 17:11:41 | 
七覚支」こそそ`の成仏法であるとおっしゃって、念覚支・択法覚支・精進究支・’喜

覚支・狩覚支・定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きになった。  


 そしてでこの七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られると解

説された王で、阿那含果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、~七科目、三十七種類のカ

リキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、。四神足法、五根法、五力

法、七覚文法、八正道です○         

 うこのうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について

解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊の

お弟子となっ▽て成仏法を修行するとしたら、j七覚支の修行が二番よいどお考えになったからだと

思い支す。… 

 というのは、ヽ釈尊の成仏法は、七科目三ナ七種の修行包全部やらなければならないどいyな01 

ではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法

の中にはクおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、’お弟子の因縁を

みてい七科目の中から、yおまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、という

ように選別されてあたえたのであろうと思われます。。時には、科目にに恥まわず、一三十七種の修行

法の中から自由にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 一

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしまじきつ。

念力をつよくしてバランスをたもつト知的にも非常に高度で、情結面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術

面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥にな’りやす

いわけです。’芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シ

ャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシ″レを、三日ぐらいたっ七急に笑。い出七

て、「ああ、そうだうたのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょダ。。

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、八かめるという訓練をする。そしてそのい

ずれに右かたよらないということ。これがまず第一です。 

 しかし、それだけじゃない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出

す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヽヨトガの修行が入るわけですQ     

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになけます。つまり、「縁起の法」を如実に‘さ

とることになるわけです。               」               “

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代

表的な修行法です。                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られる

2021-09-28 17:11:41 | 
七覚支」こそそ`の成仏法であるとおっしゃって、念覚支・択法覚支・精進究支・’喜

覚支・狩覚支・定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きになった。  


 そしてでこの七覚支を修行すれば、阿羅漢果、阿那含果、斯陀含果、須陀百果が得られると解

説された王で、阿那含果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたのであった。

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、~七科目、三十七種類のカ

リキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、。四神足法、五根法、五力

法、七覚文法、八正道です○         

 うこのうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について

解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊の

お弟子となっ▽て成仏法を修行するとしたら、j七覚支の修行が二番よいどお考えになったからだと

思い支す。… 

 というのは、ヽ釈尊の成仏法は、七科目三ナ七種の修行包全部やらなければならないどいyな01 

ではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法

の中にはクおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、’お弟子の因縁を

みてい七科目の中から、yおまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、という

ように選別されてあたえたのであろうと思われます。。時には、科目にに恥まわず、一三十七種の修行

法の中から自由にいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 一

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしまじきつ。

念力をつよくしてバランスをたもつト知的にも非常に高度で、情結面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術

面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無味乾燥にな’りやす

いわけです。’芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シ

ャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシ″レを、三日ぐらいたっ七急に笑。い出七

て、「ああ、そうだうたのか」なんて(笑)、それじゃあおはなしにならんでしょダ。。

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、八かめるという訓練をする。そしてそのい

ずれに右かたよらないということ。これがまず第一です。 

 しかし、それだけじゃない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出

す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリニー・ヽヨトガの修行が入るわけですQ     

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空観の体得により、諸法の実相がわかるようになけます。つまり、「縁起の法」を如実に‘さ

とることになるわけです。               」               “

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といってよいでしょう。いや、三十七道品の中でも、代

表的な修行法です。                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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守護仏とはどういう仏か?  What kind of Buddha is a guardian Buddha?

2021-09-22 13:19:46 | 
守護仏とはどういう仏か?

 

仏教における信仰は、
仏法僧の「三宝」によって成り立つ


それまで、阿含経は小乗仏教とされて、大乗仏教の宗派から全くかえりみられることなく過ごしてきました。
桐山管長が、その歴史上の誤りを正され、阿含宗を立宗してお釈迦さまが説かれた真実の仏教を信仰の面から世に弘めることになった意義は、まことに大きいものです。
仏教における信仰は、「仏」「法」「僧」の三大要素によって成り立ちます。仏教教団は、この三つの要素が正しいものであると同時に、すべてそろっていなければなりません。
つまり、正しい教団か否かは、それによって決定するわけです。


阿含宗の本尊である真正仏舎利尊の祀られた祭壇

一、仏
その宗旨における信仰の絶対対象である仏を「本尊」と呼びます。阿含宗の本尊は、釈迦の聖霊(せいれい)が宿る聖物(せいもつ)として、昔から仏教徒の間で深く尊崇されている「真身舎利(しんじんしゃり)」です。
阿含宗では、これを「真正仏舎利尊(しんせいぶっしゃりそん)」と呼んでいます。
仏教徒にとって、ゴータマ・ブッダ=お釈迦さまのご聖骨である真正仏舎利は「生いける釈迦」そのものであり、仏教では唯一最高の本尊です。
想像や概念上の仏ではなく、木像や図像の仏でもなく、ブッダとして実在した釈迦の聖骨であり、仏教における最高の本尊です。

二、法
阿含宗には、三つの修行法があります。

「成仏法(じょうぶつほう)」
 生者、死者を問わず、カルマ(業)を断ち切り、因縁解脱(成仏)してブッダ(真理に目覚めた人)になる方法です。
釈尊が阿含経の中で説かれている、「七科三十七道品」がその成仏法です。

「如意宝珠法(にょいほうじゅほう)」
真言密教において、最高最奥義とされる秘法です。この法を修するためには真身舎利が必要です。真身舎利を奉安して如意宝珠法を修すると、真身舎利変じて如意宝珠となるのです。如意宝珠法とは、願うがままに、福徳宝生・因縁解脱の功徳を与えてくださる秘法です。

「求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)」
古くから真言密教に伝わる、人を天才にする法です。しかし、これまでに多くの高僧たちがこの法を修してきましたが、そのほとんどは目的を達成することができませんでした。
阿含宗の求聞持聡明法は、真言密教に伝わるものとはまったく異なる独自の法です。
管長猊下は「求聞持聡明法」の原点が、釈迦の成仏法「七科三十七道品」の中にあることを発見されました。
七科三十七道品の中の「四神足法(しじんそくほう)」こそ、人間の頭脳を改造し、凡夫をして仏陀のさとりに至らしめる法であることを発見、これを復元されました。

三、僧
 僧とは、教団そのもの、または指導者を指します。
阿含宗は、桐山靖雄管長を指導者として仰ぎ、真正仏舎利尊を本尊とする、サンガ(僧伽)、すなわち教団です。
「すべてのカルマを断つ釈迦直説の成仏法」「解脱宝生の徳が授かる如意宝珠法」「新しい二十一世紀を創り出すホモ・エクセレンスを輩出する求聞持聡明法」。阿含宗は、この三大秘法を有するサンガです。
ホモ・エクセレンス= ホモ・サピエンスが持たない特別な能力をを身につけた「優秀なるヒト」



 

守護仏とはどういう仏か?

利を、守護仏とおよびするのである。守護仏とは、仏舎利のことなのである。

 それは当然のことで、仏教の始祖たる仏陀シャカこそ、すべての仏教徒の一心の祈

りにこたえて、救いの手をさしのべてくださる守護仏なのである。

「駄都法」「如意宝珠法」

 

密教最極最奥の秘法


 

 さて、わたくしは、さきの章で、密教が、盛大な仏舎利信仰をマンダラにとり入れたとのべたが、密教が仏舎利信仰をとり入れたのは、マンダラだけではなかったのである。

 

 密教にとってもっとも重要な修法の上にもとり入れたのである。

「駄都法」「如意宝珠法」と名づける、密教において最極最奥とされる深秘の法がそれである。

 つまり、インドの仏教徒たちが得た霊験功徳を、修法としてとり入れたわけだ。それはかたちを変えた仏舎利信仰にほかならないわけで、密教は、こういうかたちで、インドにおける仏教信仰の本流をとり入れたということである。

 

「如意宝珠法」についてすこしのべると、「如意宝珠法」とは、如意宝珠を本尊として修する法である。

 それでは、如意宝珠とはいったいなにかというと、それは仏舎利のことで、『密教

 

大辞典』(法蔵館)に、こうしるされている。

 

如意宝珠


 梵に真陀摩尼という。真陀は思惟、摩尼は宝珠なり。宝珠より種々の物を出すこと意の如くなるをもって名づく。

 略して如意珠・宝珠摩尼・摩尼珠といい、能作性珠とも名づく。古来、竜王あるいは摩鶏魚の脳中等より出づといい或いは仏舎利変じて宝珠となるという。(中

略)L八、弘法人師空海の。御遺告”に、如意宝珠の製造法が記されており、それによ

 

ると、仏舎利三十二粒を、純金と数種の香木をもって練って玉とするとあり。のち、範俊、勝賢の二僧正もこれを製作し、実賢僧正の、『秘紗問答』十八に「日本国宝珠製造人、大師、範俊、勝賢僧正、以上の三人也Lとあるが、その勝賢僧正の秘記によると、じつは仏舎利を相承の口伝に依って厳封し、これを如意宝珠と観ずるのであって練玉を造るのではない、とある。

 

 つまり、要するに仏舎利そのものをもって、如意宝珠とするわけである。

 

 この如意宝珠、すなわち仏舎利をもって本尊とし、法を修するのが、「如意宝珠法」であるが、おなじく『密教大辞典』にこうある。

如意宝珠法


 

略して宝珠法という。如意宝珠を本尊として修する法。

 この法は密教における最極深秘の法にして、つねにはこの名を秘して、姐理法

と合字を用い、あるいは如宝・如法・如去といい、あるいは駄都法・{朱法・如々{一と記し、あるいは彼法と記す。

この法には本経本軌なく、御遺告ならびに師資相承の口伝をもって修行の軌則とす。

 三宝院流等はこの法と駄都法を同一とし、釈尊の舎利を如意宝珠と観ずる秘法となせども、勧修寺流等は各別法とす。

 この法は、舎利すなわち宝珠を本尊として修する秘法なるがゆえに、駄都秘訣に本尊の観じかたをのべて、

 分亀(回診)字一変盛宝鉢一鉢変戌・釈迦牟尼如来丿是常在霊山仏也。濁世末代

衆生不辿習多仏身叙、以矢悲方便一入‘・宝生三摩少即芦身ま孝(応答)チ、字変

席如意宝珠一宝珠即駄都也。(バク字あり、変じて宝鉢となる

 

牟尼如来となる。是れ、常在霊山の仏なり。濁世末代の衆生、仏身を見るにたえず、故に大悲の方便をもって宝生の三摩地に入り、即ち身を変じてタラク宇と

なり、字変じて如意宝珠となる。宝珠すなわち駄都なり) と示し、此の法は生身の舎利即ち吾人本其の覚性と同一体なりと観ずるなり。

……此の法を修するには、道場の中心に塔婆(舎利宝塔)を安んじ、其の中に仏舎利(五粒・三粒・一粒等)を金壷に盛りこれを安んず。 とある。

 

「如意宝珠法」は、『密教大辞典』にある通り、密教最極最奥の深秘の法であるから、

まだいろいろ秘して口伝としている部分が多いが、以上でだいたいおわかりのことと思う。

 それでは、その深秘の法である「如意宝珠法Lは、いかなる法験ありや、ということになるが、それは、この法の本尊観(道場観)のところで、つぎのように観じているところから、およそ、推察できるであろう。

 

 

 

 

 

如意宝珠法の本尊観

 三宝院流の「如意宝珠法、本尊観」では、つぎのように観じるのである。

 ……一宇変じて如意宝珠となる。即ち、七ぢの大光明を放って十方世界を照らす。光の中に無量の珍宝名衣上服百味の飲食を雨らす。一切の所須みな衆生の願楽にしたがって充足せしむ。

 また、光の中に宝蓮華を雨らす。蓮華の中に声あって、微妙の法を説く。衆生、聞く者ことごとく無上菩提心を発す。

 また、この光はるかに奈梨(地獄)の底を照らす。受苦の衆生ことごとく抜苦

与楽す。凡そ三界困苦の衆生、一々みなこの光に触れて解脱を得。

つまりヽこの法の法験は、

 

   福徳宝生


 

   因縁解脱


 

 の二つの功徳をあたえるのである。

 

 ……光の中に無量の珍宝名衣上服百味の飲食を雨らす。一切の所須み』な衆生の願楽にしたがって充足せしむ……衆生の一切の願いごと、望みごとをみなかなえる、すなわち、福徳宝生であり、

 

 ……凡そ三界困苦の衆生、一々みなこの光に触れて解脱を得……地獄におちて苦しむもの、悪因縁に苦しむ三界の衆生、ことごとく解脱させる。すなわち、因縁解脱の

功徳である。

 

 まさに、密教が、これ以上の法はないとして、最極最奥の深秘の法とするのは、当然のことである。

 

 密教に、秘法、大法、かず知れずあるといえども、これに勝る法はない。密教の修行者にして、一度はこの法を修してみたいと願わぬものは、だれI人ないいの鰹』ろうか。

 








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What kind of Buddha is the guardian Buddha?

 

Faith in Buddhism
It is made up of the Buddhist monk "Sanpo"

Until then, Agama was regarded as Hinayana Buddhism, and he spent his time without being seen by the Mahayana Buddhist denominations.
It is of great significance that President Kiriyama corrected his historical mistakes and decided to establish Agon Shu and promote the true Buddhism that Shaka preached to the world from the aspect of faith.
Faith in Buddhism is made up of the three major elements of "Buddha," "law," and "monk." The Buddhist sect must have all three elements at the same time as being correct.
In other words, it determines whether or not it is the correct cult.

An altar enshrined by the true Buddhist priest, Toshison, the principal image of Agon Shu

One, Buddha
The Buddha, which is the absolute object of faith in that sect, is called the "honzon." The principal image of Agon Shu is "Shinjinshari", which has been deeply revered among Buddhists since ancient times as a sacred object in which the Holy Spirit of Buddha resides.
In Agon Shu, this is called "Shinsei Buddhist priesthood".
For Buddhists, the true Buddha's sacred bone, Gautama Buddha, is the "living Buddha" itself, and is the only principal image of Buddhism.
It is neither an imaginary or conceptual Buddha, nor a wooden or iconographic Buddha, but a sacred bone of Buddha that actually existed as Buddha, and is the highest principal image in Buddhism.

Two, the law
There are three training methods in Agon Shu.

"Buddhahood Law"
Regardless of whether it is alive or dead, it is a method of cutting off karma (work), breaking the cause (Buddhahood), and becoming a Buddha (a person who has awakened to the truth).
The Buddhahood method is "Seven departments and thirty-seven dojos," which Buddha preaches in Agama.

"Nyoi Hojuho"
It is the highest and most mysterious secret method in Shingon Esoteric Buddhism. In order to learn this law, you need to have a true body. If you enshrine the true body and practice the Nyoi jewel method, the true body will change to become a jewel. The Nyoi Hojuho is a secret method that gives you the merit of Fukutoku Hosei and the liberation of the cause, as you wish.

"Gumonji Someiho"
It is a method of making people a genius, which has been passed down from ancient times to Shingon Esoteric Buddhism. However, many high priests have practiced this law so far, but most of them have failed to achieve their goals.
Agon Shu's scholarship method is a unique method that is completely different from the one transmitted in Shingon Esoteric Buddhism.
His Eminence discovered that the origin of the "Kancho Mochi Satoshiho" is in the Buddhahood Buddhahood "Seven Departments Thirty-Seven Doshin".
It was discovered that the "Shijinsokuho" in the seven departments and thirty-seven doctrines is the method of remodeling the human brain and making it an ordinary man to become a Buddha's satori, and restored it. it was done.

Three, monks
A monk refers to the cult itself or a leader.
Agon Shu is a sanga (monk), or sect, with President Seiyu Kiriyama as the leader and the principal image of the Shinto Buddhist priest.
"The Buddhahood method of the Buddha's theory that cuts off all karma," "The Buddha's method that gives the virtue of liberation treasure," and "The Homo Excellence * that creates a new 21st century." Agon Shu is a sanga with these three great secret laws.
* Homo Excellence = "Excellent Human" with special abilities that Homo Sapiens does not have

 

 

 

What kind of Buddha is the guardian Buddha?

Toshi is the guardian Buddha. The guardian Buddha is a Buddhist shrine.

It is natural that Buddha Shaka, the founder of Buddhism, is the one-hearted prayer of all Buddhists.

It is a guardian Buddha who responds and offers a helping hand.

"Dad capital law" "Nyoi jewel method"

 

The secret method of esoteric Buddhism

 

By the way, I mentioned in the previous chapter that esoteric Buddhism introduced the magnificent Buddhist priesthood belief into the mandala, but esoteric Buddhism was not the only one who adopted the Buddhist priesthood belief.

 

It was also incorporated into the most important practice for esoteric Buddhism.

It is the secret law that is said to be the deepest and deepest in esoteric Buddhism, which is called the "Datoho" and "Nyoi Hojuho".

In other words, the spiritual merit gained by Indian Buddhists was incorporated as a practice. It is nothing more than a changed form of Buddhist belief, and esoteric Buddhism has adopted the mainstream of Buddhist beliefs in India in this way.

 

About the "Nyoi jewel method" The "Nyoi jewel method" is a method of repairing the Nyoi jewel as the principal image.

Then, what exactly is a Buddhist jewel? It is a Buddhist priesthood, and "Esoteric Buddhism"

 

This is described in the "Dictionary" (Hozokan).

 

Nyoi Jewel

It is called Shinda Nun in the 梵. The truth is thought, and the nun is a jewel. It is named with the intention of putting out various things from the jewels.

For short, it is called Nyoiju, Hoju, Mani, and Mani, and it is also called Nousaku pearl. From ancient times, it is said that it should come out from the brain of Ryuo or Matori fish, or it will change to a Buddhist temple and become a jewel. (During

Omitted) L Hachi, Hiroshi Corporation Kukai's. The "Declaration" describes how to make Nyoi Jewels.

 

Then, it is said that 32 Buddhist shrines are kneaded with pure gold and several kinds of fragrant wood to make a ball. Later, the two priests, Noritoshi and Shoken, also produced this, and in the 18th "Secret Question and Answer" by the real priest, "Japanese national jewel maker, Daishimachi, Noritoshi, Shoken priest, and the above three people. There is L, but according to the secretary of the Shoken priest, the Buddhist priest is actually sealed by the oral tradition of the agreement, and this is regarded as a jewel, not a jewel.

 

In other words, the Buddhist priesthood itself is used as a jewel.

 

This esoteric jewel, that is, the Buddhist priesthood, is the principal image of the Buddhist priest, and the law is learned by the esoteric jewel method.

Nyoi Jewel Method

 

It is called the jewel method for short. A method of repairing Nyoi Jewel as the principal image.

This law is the most secret law in esoteric Buddhism, always keeping this name secret,

Use the ligature, or call it Nyoho, Nyoho, Nyojo, or Datoho, {Zhuho, Nyo {one, or his method.

There is no main rule in this law, and the rule of practice is based on the decree and the oral tradition of the teachers.

The Sanbo-in style, etc. are the same as this law and the Dato method, and although it is a secret method that regards Buddha's sword as a Buddha, the Koshuji style, etc. are different methods.

Because this method is a secret method of repairing the priesthood, that is, the jewels as the principal idol, the secret of the gods is to show how to view the principal idol.

Bun turtle (round-trip) character one change Sheng treasure bowl one bowl change ・ Shaka Nyorai Nyorai 丿 resident Reiyama Buddha. The end of the muddy world

Sentient sentient beings unfollowed, many Buddha's body, Iya sad courier one entry', Hosho Sanma Sho Immediately Ashimi Mataka (response) Chi, character change

Seat Nyoi Jewel Ichi Jewel Immediately Toya. (There is a back character, and it turns into a treasure bowl

 

It will be Buddha Nyorai. It's a Buddha of Mt. Ryozen. The sentient beings of the late turbulent world, who never saw the Buddha's body, therefore entered the Hosho's Samadhi with a mournful expedient, that is, changed their body to Tarakuu.

It turns into a jewel. It is shown as a jewel, that is, a bad city), and this law is regarded as the same as the consciousness of the living body, that is, the soul of the person.

...... To practice this method, rest the pagoda (Sarihoto) in the center of the dojo, and put Buddhist shrines (five grains, three grains, one grain, etc.) in a gold jar. .. a.

 

As you can see in the "Esoteric Buddhism Encyclopedia", the "Nyoi Hojuho" is the deepest and most secret method of esoteric Buddhism.

There are still a lot of secrets and oral stories, but I think that you can understand from the above.

Then, the secret law, "What kind of legal trial is there in the Nyoi Jewel Method L?" From this, it can be inferred.

 

 

 

 

 

 

 

The principal image of the Buddhist jewel method

In the Sanbo-in style of "Nyoi Hojuho, Honzonkan", the view is as follows.

‥ …… Ichiu changed to become a jewel. That is, it illuminates the ten-sided world with a great light of seven. In the light, it rains the food and drink of a myriad of rare treasures, clothing, and hundreds of tastes. Everything is satisfied according to the wishes of sentient beings.

Also, let the treasure lotus rain in the light. There is a voice in the lotus flower and he preaches a delicate law. All sentient beings and listeners give off a bodhicitta spirit.

Also, this light far illuminates the bottom of Nari (hell). All suffering sentient beings

Enjoy. Approximately all sentient beings in the three worlds are exposed to this light and get liberated.

In other words, the legal test of this method is

 

Fukutoku Hosho

 

Dissolution of the cause

 

It gives two merits.

 

‥ …… Rains the food and drink of a myriad of rare treasures, clothing, and clothes in the light. Satisfy all sentient beings according to the wishes of sentient beings ... All sentient beings' wishes and wishes can be fulfilled, that is, Fukutoku Hosho.

 

‥ …… Approximately three world suffering sentient beings, all touching this light and gaining liberation …… The ones suffering from hell, the sentient beings suffering from bad causes, all the sentient beings of the three worlds are liberated. That is,

It is a merit.

 

It is only natural that esoteric Buddhism is the deepest and most secret law, even if there is no more law.

 

Although esoteric Buddhism has secret law, great law, and esoteric Buddhism, there is no better way than this. Who is the esoteric practitioner who does not want to learn this law at least once?
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なにを得ようとして、なにを目的として、瞑想をするのか?  What are you trying to get and what are you trying to meditate on?

2021-09-18 06:30:21 | 
と心の革命12




ブッダの瞑想体験が意味するもの
ブッダは想になにを求めたか







なんのために瞑想をするのであろうか?
なにを得ようとして、なにを目的として、瞑想をするのか?
展想の一種である神では、「無功徳」あるいは「無所得」であるという。つーり、
なにかを求めて練をしても、なにも得るものはないぞ、というのである。この言
を文字の通りにうけとって、座禅をしてもなにも得るところはない、また、なに
か得ようとして座禅をするのは、邪道であるというように説くひともいる。しか
し、これはまちがいで、なにかを「得よう」という執着、こだわりを持っての座
神は、一心にやればやるほど、その執着、こだわりにとらわれ拘束されて、そこか
ら一歩、出られず、結局、真に求めるところのものから遠のくばかりであるという
しゅうちゃく
いましたである。文字の通りなにも得るものはないということではないのである。




瞑想も、座禅も、やればやっただけの「所得」があり、「功徳」がある。故・山
本玄峰老師も、「一日座れば一日の仏、二日座れば二日の仏」といっておられる。
では――、どんな所得があり、どんな功徳があるというのか?
ここに、瞑想によってさとりを完成し、仏陀になられたゴータマ・ブッダ(釈
尊)の体験がある。これは、マッジマ・ニカーヤ(中阿含経)という原始経典に
おいて、ゴータマ自身によってかたられたものである。
ぶっだ」
ちゅうあごんきよう
ァ - ガマ
しようじん
ぜんじよう
わたし(釈尊)は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだれ
ず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。そのわたしがあると
き、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。第一禅定から第二、第三、第
四禅定まで深まるにつれて、心に思い浮かぶなにものもなくなり、喜びや楽し
みだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだけとなっ
た。
そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動であった。そしてわたしの心の展はおのずから前世の光事に関するおそい
れは一生だけではなく、二先、生、十生、二十生、そして組織のの、
きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第二のである。
それからわたしの心は、あらゆる衆生のすがたに開けられてきた。
超人的な眼力でそのすがたを見た。そこには、買いもの、隊しいもん、いい
もの、映いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの後東熱いくいた
これが第二の智慧である。
それからわたしは、苦・集・滅・道の四諸(四つの真理)をありのままに知
り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれに執
着することはなくなった。これが第三の智慧である。(玉城雪訳による)
きには、想の深まりとその効用が、じつにあざやかに、生き生きとかたられ
すべてがここに表現されているといってよい。こ十世紀という時空
きっと、ときめきのなのだ。このべが
ンのゴータマの体験を、もう少し撮りきげてみよう。
「思想家験には五つの設勝がある
には、展想の深まりとその結果が、じつにあざや
はつの段域に分けられる。
かたられている。それ
第一の
つねに一つの目的にむかって横達をつづけることができ、
がるが確立してみだれず、
す。ああだは安楽で見落しない。
はいつも定に入って静かである。

参る。第四演定までしだいに
んと心の10
き、ついにはただ清浄な思いだけにみたされ、
一点のけがれもなく、清く明るく、部材不動となった。
つづいていの眼がひらかれ、
1、自分の前世における光景が展開しはじめる。
3、それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生、とかざりなさかの
ばり、無限の生涯の、生きかいり死にかわりした光景が展開する。
れは生命の根源へ、選しであり、第一の智慧の獲得であった。
ふの駅はさらに、深くしみがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現
くしくに流れていくあらゆるひとびとのすがたが送視される。
すのの部であった。







心の眼はさらに広く深く
在、そして未来へと流れてゆくあらゆるひとびとのすが
をれは、存在を規制する富業の実体の把握であった。
これが第二の世の獲得である。
「第五の段階」
1、宿業から解脱する四つの真理を如実に知り、
る、あらゆる存在からの解脱と超越を完成した。
それは第三の質感の獲得であり、「解脱の瞑想」であった。
凡人にも道はひらかれている
いかがであろうか?すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか。これが
演題の効用なのである。そうしてだれでも、誤想をすればこういう効果を得ること
ができるのだ。
だが、そう言うと、あなたは言うかもしれない。釈遷のような大天才と、凡人で
あるわれわれと、どうしていっしょになるものか、駅逃がそういうすばらしい体験
したからといって、それがそのままわれわれに
するとチラのまねをするクラスで、結局、骨折り損のくたびれ
うことになる
とおなじをすることにより、われわれもまたかれと同じ結果に到達する
ことが可能なのである。最初の道をきりひらくものは天才でなければならぬ。しか
し、すでに大手のひらいた道は、だれでも歩むことができるのである。万有引力の
外見は、ニュートンの天才を持たなければならなかったが、いまでは小学校の児童
ら、万有引力は知っている。
もちろん、それは容易な道ではない。しかし、ゴータマ・ブッダは親切な道しる
べい、もしておいてくれた。それを真剣にたどることにより、かれの歩んだ
道やまりな歩むことは不可能ではない。かれが到達した最高の場所まで行く
いは無理だとして、そこまでいいくつかの段階を自分のものにすることはかなら
できるのである。
の民館でもいいではないか。それでも、それはじつにす
ばらしい護界なのである。それに、最初からそんなに多
Dr.o
ばらしい世界なのである。それに、最初からそんなに多くのものを望むのは、欲ば
リすぎるというものだ。さあ、瞑想の世界に一歩ふみこんでみよう。ブッダのあと
を、少しずつたどってみようではないか。
いったい、ゴータマ・ブッダは、なにを目的として瞑想をはじめたのであろう
かれはいったい、なんのために瞑想をはじめたのだ?
うつわ
人間のからだは苦しみを盛る器である
かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのだ? という質問は、そのまま、
われわれはなんのために誤想をはじめるのか? という質問に置きかえることがで
きるであろう。
かれはいったいなんのために瞑想をはじめたのか?
オーダマ・ブッダは、多くのひとの知る通り、「四苦八苦」の解決を目的として
をはじめたのである。
一瞑想についての基礎知識

では、四苦八苦とはなにか?
生・老・病・死」
これを四苦といい、これに、
あいべつり
おんせうまく
「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」
の四苦をくわえて「八苦」という。
脳と心の革命保想-20
ご おんじょうく
それは、
生きてゆく上に生ずるさまざまな苦しみ、
老いの苦しみ、
病気の苦しみ、
死の苦しみ、
そして、
愛するものと別れる苦しみ。
いのちまでもとちかい合った恋人どうし、あるいは、その愛がむくわれてめでた
の愛の天敵、また、親子、兄弟、心から敬愛する師友、知己、みな、うのも
ばれた愛の光線、また、親子、兄弟、心が
いいながらでいるが、いつなんどき別離の悲哀に泣くことになるかもし
なのである。いや、愛するものとは、あながち人間関係のみとはかぎらない。地
ア、極力、職業奉、さまざまなものを、わたくしたちは愛している。そういうもの
と、いやで期はしなければならない苦しみ、これが愛別離苦である。
心の中で、寒く憎んでいる者と、顔を合わせ、生活をともにしていかなけれ
ば写らない苦しみ、その最も深刻な苦しみは、本来いちばん愛し合い和合し合
わなければならないはずの夫婦、親子、兄弟が、かたきどうしのように憎み合い、
参え合いながら、おなじ屋根の下で暮らしていかなければならぬ苦しみであろう。
そうして、環場で上司や病算と毎日、反目し合いながらはたらかなければなちのサ
ラリーマンやOL、の著しみも、これに準ずるものといえようか。
そういえば、いやでいやでたまらない学校へ毎日いって、きらいなこ強をしなけ
はならない学生選者の苦しみも、この恐増西であろうし、ほかにやりたいこと。
があったがる、そのために、まぎなく好きでもない職場に教養するのも、この松
場公家の一つである。だが、考えてみれば、なりゆきとはいえ。この人生におい
についての基礎知識




て、はからずも怨み合い憎み合う人間関係を持たねばなら、辛さ、やりきれなさ、
これが最も大きな怨憎会苦というべきかもしれない。
金、地位、権力、愛情、才能、知識等、求めても求めても得られぬ苦しみ。求め
ることにより生ずる不幸。しかし、また、求めることによって、人類は進歩し、成
長するのである。この皮肉な苦しみ、求不得苦。
うつわ」
考えてみれば、この人間の五体そのものが、苦を盛る器のように思えてくる。
行住坐臥、とりたてていうほどのものではないながら、五体にひしひしと感じる
身心の苦しみ。五陰盛苦である。
まことに、苦の世界とはよくいったもので、いま、この瞬間においても、わた!
したちは、この四苦八苦のどれかの苦しみを味わっているのではなかろうか。
ちよこまきううううう







こそ究極の解決法
ゴータマ・ブッダは、この四苦八苦を解
こうみた桃果、さいごに、瞑想よりほかないことを知ったのである。そうしてかれ
は成功した。
だからあなたも、ゴータマのように、あなたの人生に四苦八苦を感じて、なんと
かそれを解決しようと考えたら、このゴータマのあとをたどるよりほかに方法がな
いのである。
もちろん、あなたが、この人生になんの苦しみも感じないということなら、それ
は、誤想などする必要はない。この本もまた無用のものである。そのへんにぼうり
出して、テレビのスイッチでもひねったらよろしい。
しかし、もし少しでもなにかの悩みや苦しみを感じるなら、そうしてそれを
解決しようと思ったなら、それは瞑想によるよりほかないと知るべきである。ほか
に方法はないのである。ゴータマ・ブッダは、ありとあらゆる方法をこころみて、
さいごに、この瞑想にたどりついたのだったから
いまから二千数百年はえ、インドに生まれたゴータマが、皇太子の地位を捨てる
はど控んだ四苦八苦は、現代におけるわたくしたちの四苦八苦となんら変わりはない










Revolution of the mind 12

What the Buddha's meditation experience means What did Buddha ask for in his thoughts?

What are you meditating for? What are you trying to get and what are you meditating for? God, a type of exhibition, says that he is "meritless" or "no income." .. He said that even if he kneaded for something, he would not get anything. Some people take this word literally and say that there is nothing to be gained by doing zazen, and that it is an evil way to do zen to get something. However, this is wrong, and the god of attachment and commitment to "get" something, the more he does it, the more he is obsessed with that attachment and commitment, and he cannot step out of it. It was a mess that it was far from what I really wanted. It doesn't mean that you literally have nothing to gain.

Both meditation and zazen have "income" and "merit" as much as they do. The late Gempo Yamamoto also said, "If you sit for one day, you will have one day of Buddha, and if you sit for two days, you will have two days of Buddha." So, what kind of income do you have and what kind of merit do you have? Here is the experience of Gautama Buddha, who completed Satori by meditation and became a Buddha. This was created by Gautama himself in the primitive scripture called Madhyama Nikaya (Madhyama Agama). Buddha. It's quiet. When I was there, I started meditation and gradually deepened my meditation. As I deepened from the 1st Zen meditation to the 2nd, 3rd, and 4th Zen meditations, nothing came to my mind, only joy and fun, and finally it disappeared, only pure thoughts. At that time, my heart was pure, bright, and absolutely immovable, without any injuries. And, of course, in the exhibition of my heart, not only the lifelong affairs of the light affairs of the previous life, but also the spectacles of the second, the second, the tenth, the twentieth, and the organization, instead of the death, have unfolded. This is the second. Then my heart has been opened to all sentient beings. I saw it with superhuman eyes. There are shopping, corps, good things, reflections, happy things, and unfortunate things, but this is the second wisdom of the TOKYO HOT. Then I knew the four truths of suffering, gathering, extinction, and the way as they were, and my heart was completely freed from all aspects of being, and I was no longer obsessed with it. This is the third wisdom. It can be said that the depth of thought and its utility are really vivid and lively (translated by Yuki Tamaki), and everything is expressed here. The space-time of the tenth century is surely a crush. Let's take a little more picture of this Buddha's Gautama experience. "In order for the thinker's exam to have five victories, the depth of the exhibition and the results are actually divided into two stages. It is always aimed at one purpose. I can continue to lie down, but I can't help but establish it. Oh, it's easy and I don't overlook it. It's always quiet and quiet. At last, I was only seen with a clean thought, and there was no single point of injury, it was clean and bright, and the members became immovable. Begin. 3. It's not just a lifetime, but a second, third, tenth, twenty life, and so on, an infinite life, a life-changing spectacle unfolds. It was the selection and the acquisition of the first wisdom. The station is deeper, and beyond the limits of one's abilities, all the people who flow in the past and in the present. The bruises were sent to the eyes.

The eyes of the mind are broader and deeper, and all the people who flow into the future have grasped the substance of the wealthy industry that regulates their existence. This is the acquisition of the second world. "Fifth Stage" 1. Completed the liberation and transcendence from all beings, knowing the four truths of liberation from the lodging business. It was the acquisition of the third texture, the "meditation of liberation." How about opening the way for ordinary people? Don't you think it's a wonderful experience? This is the utility of the presentation. Anyone can get this effect if they make a mistake. But if you say so, you might say. It's a class that imitates us as it is, just because a great genius like a genius like a genius and us who are ordinary people have such a wonderful experience of station escape, after all. By doing the same when it comes to the pain of pain, we too can reach the same result as him. The one who opens the first path must be a genius. However, anyone can walk on the road that has already been opened by a major company. The appearance of universal gravitation had to have Newton's genius, but now elementary school children know universal gravitation. Of course, that's not an easy path. However, Gautama Buddha has given me a kind guide. By taking it seriously, it is not impossible for him to follow the path he has taken. If he can't get to the best place he has reached, he can take some steps to his own. Isn't it okay to have a private hall in Japan? Still, it's a truly wonderful world of protection. Besides, it's a world that is so many Dr.o idiots from the beginning. Besides, wanting so much from the beginning is too much to want. Let's take a step into the world of meditation. Let's follow the Buddha little by little. What was the purpose of Gautama Buddha's meditation, and why did he start meditation? The question, "Why did you start meditation?" Can be replaced by the question, "Why do we start meditation?" What exactly did he start meditation for? Odama Buddha, as many know, started with the goal of solving the "suffering". Basic knowledge about meditation
Then, what is the four pains? Life, old age, illness, and death. In addition to the pain, it is called "eight pains". Brain and Mind Revolutionary Remembrance-20. Lovers who have been close to each other until life, or the natural enemy of love whose love has been plucked, parents and children, brothers, dear friends, acquaintances, everyone, the rays of love that have been crying, Parents and children, siblings, and hearts are good, but at some point they may cry for the sadness of separation. No, what you love is not limited to relationships. We love the earth, as much as possible, vocational service, and various other things. Such things and the suffering that must be done for a period of time, this is love separation. In my heart, the suffering that I have to face and live with the person who hates cold, and the most serious suffering is the couple, parent and child, who should be the most loved and reconciled. It will be the suffering that the brothers have to live under the same roof while hating each other and worshiping each other. Then, it can be said that the writings of office workers and office ladies, who have to work in conflict with their bosses and illnesses every day at the ringyard, are similar to this. Speaking of which, the suffering of the student elector who has to go to an unpleasant and irresistible school every day and have to strengthen his dislike is probably this horror west, and what else he wants to do. It is one of the Matsuba Kuge to educate people in a workplace that they definitely don't like. However, when you think about it, it's Nariyuki. Basic knowledge about the smell of this life

If you have to have a relationship of grudge and hate, it may be said that the pain and the inconvenience are the biggest grudges. Suffering that cannot be obtained by asking for money, status, power, affection, talent, knowledge, etc. The misfortune caused by asking. But also, by asking, mankind will progress and grow. This ironic suffering, unsuccessful suffering. When you think about it, the five human bodies themselves seem to be a vessel of suffering. Gyoju sitting down, although it is not something that can be taken, the physical and mental suffering that the five bodies feel squeaky. It is a sword of five shades. Indeed, the world of suffering is a common one, and even at this very moment, we may be experiencing one of these sufferings. Chiyokomaki Uuuuu

That is the ultimate solution. Gautama Buddha knew that Momoka, who had solved this struggle, was nothing but meditation. Then he succeeded. So, like Gautama, if you feel struggling in your life and try to solve it, there is no other way but to follow this Gautama. Of course, if you don't feel any suffering in this life, it doesn't have to be a misunderstanding. This book is also useless. It's okay if you stick out and twist the TV switch. But if you feel any worries or sufferings, and you want to solve them, you should know that it is nothing more than meditation. There is no other way. Gautama Buddha tried every possible method and finally arrived at this meditation, so it is more than two thousand years ago, and Gautama, who was born in India, refrains from abandoning his position as crown prince. However, the four pains and eight pains are no different from the four pains and eight pains of us in modern times.
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真言密教の瞑想法 Shingon Esoteric Buddhism Meditation

2021-09-03 18:22:28 | 
真言密教の瞑想法


真言密教の瞑想法


宇宙の大生命と一体となる
「密教の一字禅」などともいわれ、前に述べた摩訶止観の瞑想にマンダラ(図画)
という目標をあたえたものと思えばよい。(だから、前述の小止観の作法につづい
て、この阿字観をやればよいのである)
真言密教では「引 」という文字に神秘的な力があるとしている。どうしてかと
いう論議がいろいろなされているが、ここでは略す。


弘法大師空海の師、恵果アジャリは、
けいかわが心に月輪を観ず。
月輪の上に阿字を観ず
阿学変じて如意宝珠となる
宝珠引法界に遍満して口に阿字を誦す
と述べている。


要するにこれを瞑想化したものである。
満月輪は清らかに澄みきって、清涼寂静の感をわれわれにいだかしめる。
この清涼寝静の満月輪に、神秘不可思議の力を有する 引 字と、仏法のさとり!
あらわす蓮花とをあわせ、これとわが心をひとつに合致せしめて、わが心を清涼報
能ならしめ、列 字の不可思議なる力と仏法のさとりと一体になろうとするわけで
そこで、瞑想の目標(本尊)として、満月輪にもとに、しるしてみよう。


マンダラを用いる阿字観の行法


月桜の種は一尺一寸二分(約三六・九センチ)にえがいて、月輪の中に蓮花をえが
その上に字を書いて本尊とする。
「座った座から引字の中ほどまで、一尺六寸(約五二・八センチ)ばかりのところ
本号をかける。本尊と行者との間隔は、八寸(約二六・四センチ)から四尺(約。
キッチンまでの間なら行者の自由にしてよい。
魔にはふとんを敷いて、その上に半端鉄座で座る。手には法界定印をむすぶ。
「ったら、からだを前後左右へ二、三遍ゆるがしてみて、心にとどこおることのな
いにして、算と月とひとしく、帰とヘソとひとしくして、両方の弾魔社を守
をするにするとは、線が無端の土路を通じて本療(特照)の年に。

である。西を上のにつければ、おのずち
一のしかた

 

との事。
る。機はらず、状せず、まっすぐにして、廃道(三液の循環)をよくするよう
ミーをとなえる。
マントラ
次に、数珠を二、三遍宿りながら、礼拝の真言、
「オンサラバ タタギャターハンナマンナウキャロ
次に、護身法(合学すればよい)。
次は、合学して五大願をとなえる。
入んないんだ
くちなんて
いう。
ようなんてい
どうせい
かたはつかいとうやく
茶生無辺警願度、福智声辺誓願集、法門無辺誓願覚、如来無辺誓願事、菩提無
上響願証、自他法界同利益
次に、胎蔵界五字の真言、ア・ビ・ラ・ウン・ケンを百遍となえる。
次に、法界定印をむすんでヘソの前に置き、気合せよ。
まず、わが心中に自円明の月影あり。月業の中に逢花あり。蓮花の上に引字
あり。本事の心の決字・蓮花・月とわが心の字差花・月輪と発生の引

 

Sale
開き、目して観すること数過。
す。この、海に、川しだいに広く、しだいに大にして、コース
*重要ない法に通過すると戦してのち、にわかに本尊と心とを忘れて、無分別
使すべし
しうして、またいぜよ。
大事前に演した河・遠征、月輪をしたいにまきちぢめて、元の一覧
この大きさにおさめ、それを自身の胸の中に安置しすると観じる。
このとき、すわり、身と心と忘れて、ただ無分別(無念無想)に住す。その
多く、被れたるのを期として、定に入った保想を止め、念珠を探って、新をす。
一部しかた
をあわぎてよ。いずれでもよい。





おん
て、それは声に出してアをとなえるわけではない。心の中で静かにアの音をとな
えるのである。





広観と飯観





この瞑想のいちばんの眼目(急所)は、この「広観と、必観」である。
十導を観じて行者と一体になった 別 字・蓮花・月輪をだんだん拡大して、つい
には三千大千世界、この大宇宙いっぱいにひろげる観想を広観といい、その大宇宙
いっぱいにひろがった本尊を、もとの一肘量の大きさに約める観想を斂観という。
とは、ちぢめて小さくするという意味である。
真言密教のアジャーは、この広観の観想を、本尊のみが宇宙大にひろがってい
い、修行昔はそれを見ているようなかたちとして解説される。たとえば、
行者の眼の前にある阿字観の本尊を、眼をつぶっても、瞼の裏、ないしは胸
中には、さりと見え得るほどに、本尊と不二一体となって観想するのが阿字観法のありかたであろが、今度はそのように行者と不二一体となった本尊を、だんだんと拡大していき、逃空一杯にひろげて了ったら、その極限はどうなるの
であろうか。結局は、それは無限大のものとなってしまい、眼識、意識等の対
象としての条件をなくして了うのである。





字としてのアの形や、円形としての月縮が見える間は、まだそれは無限大と
なっていないのである。無限大のものとなるがためには、行者の上方にも、下
方にも、前にも後にも、左右の両横にも、筑前や斜後にも、斜上や斜下にも、
すべての方向に本尊がひろがっていかねばならず、人間がその眼識や意識で物
事を認識(にんしきみとめる)するためには、そのような十方世界へのひ
ろがりの真只中にあっては、けっしてそれを一定の形として受け取り得なくな
るのである。





人間は自分の後方の文字は読めず、頭上の形は視線を向ければ見えず、まし
て上下前後左右一挙に物を認識することは不可能である。そこで阿字観の本尊
を無限大にひろげていくことは、阿字観の本尊と行者が不二一体となったま
また、るのであろ。





たのは自分の後方の
下前後を一挙に物を認識する
にのあいくこととは、阿字観の本尊


ア、蓮、月の形を越えた精神統一の無的境地へと突入するための手段であ
それはあたかも、人間の小さな計らいを捨てて、仏陀の無分別智に身をゆだ
れようとする行為に似ている。――対象を虚空大にひろげてしまったら、その
対象は無的になる。無的になった対象を観ずるということは、無念無想、すな
わち何も思わぬ状態になることと等しい。観想中に何も思わぬ状態になったと
き、人間に体感可能な(体で感じられるのは)自己の心の働きそのものである
(大野峻覧『阿字観の手びき)





なるほど、そうであろうと思われる。しかし、わたくしにはまたべつな見解があ
では、国家。薬花、再編といっしょに、修行者自身をひろっていって、大
いないにしてしまうという疑心のしかたである。
いるのであるから、本が失していったら行者
自身もいっしょに拡大していかねばならない。行者だけとり残されてしまったら、
不二一体感が破れてしまって、そのあとの観想がチグハグになってしまう。
ここはどこまでも不二一体を破らずに行者自身もどんどん拡大していって、大宇
宙いっばいに周遍するのがよいように思われる。
阿字とはなにかというと、「阿字本不生」といって、ひと口でいうと、本不生と
は「宇宙の大生命」「永遠の大生命」といった意味である。その宇宙の大生命のシ
ンボルである オ・蓮花・月輪の本尊が、いま行者の観想によって生命を吹きこ
まれ、大宇宙に遍満したのである。
修行者もその大生命と一体になって、いまや大宇宙に遍満する大生命になった
と観想するのも生き生きとした瞑想になるのではなかろうか。
もちろん、大野師の伝統的な解釈もすばらしいし、読者は、そのいずれをもとっ
て、自由に瞑想にふけられたらよろしいと思う。いや、ここのところはあまりむず
かしい理屈は考えず、読者は自由にのびのびと心を遊ばせて、宇宙の大生命と一体
になる快感を味わわれるがよろしいのだ。ここにあげた二つの解釈のほかにも、
読者は、自由自在、不精神放の瞑想を楽しまれるがよい。
大宇宙いっぱいにひろがっ…

 

法は、自由自在、不備発放の瞑想を楽しまれるがよい。
っぱいにひろがった自分――オヤ、爪さきのあたりを蚊のようなものが
機んでいくぞ、なんだ、ジャンボ・ジェットか、おやおや、ウチの社長が乗ってい
大学るぞ、なあんだ、ケシ粒みたいなヤッだ、うわっはっはっは、と、ノイローゼもヒ
ステリーを吹きとんでしまう。どえらい企画やアイデアもとび出すかもしれない。





無分別観





そこでー、かんじんなのはここで出てくる無分別観である。
「にわかに本尊と心とを忘れて、無分別に住ずべし」
ラインで隠感にも似た無念無想の境地に入るのである。ぜったい無我の境地であ
ついでかんじんなのは、大宇宙に満した引字・蓮花・月輪の本尊と自分を
どの大きさにもどして、やれから本尊を自分の心の中におさめ、安置して、また
こで、身と心をはなれてしばらく無分別観に入るのである。
これによって、阿字観の眠想からはなれて日常生活にもどったのちも、一点のく
もりもない満月輪のすがすがしく清らかな心と、阿字本不生の大生命の力と、また
仏法のさとりとつねに一体の自分なのである。が、まあ、むずかしい理屈はよいか
ら、理屈ぬきにまず座って、やってごらんなさい。モヤモヤなんぞはどこかにふき
とんでしまう。これで、胃カイヨウや高血圧のなおった人が無数にいる。それに、
第一、こせこせしなくなるだけでも気持ちがよいはずだ。







Shingon Esoteric Buddhism Meditation

.. Shingon Esoteric Buddhism Meditation

It is also called "Esoteric Buddhism's One-Character Zen" that is integrated with the great life of the universe, and it can be thought of as giving the goal of mandala (drawing) to the meditation of the previously mentioned Mandala. (That's why you should do this Ajikan following the above-mentioned Kotokan's method.) Shingon Esoteric Buddhism states that the word "hiki" has a mysterious power. There are various debates about why, but I will omit them here.

Kobo Daishi Kukai's teacher, Megumi Ajari, does not see the moon ring in her heart. He states that he does not see the A character on the moon ring and recites the A character in his mouth by immersing himself in the jewel pulling method world, which turns into a jewel.

In short, it is a meditative version of this. The full moon ring is clear and clear, giving us a feeling of coolness and tranquility. This full moon ring of refreshing meditation is combined with a mysterious and mysterious character and a lotus flower that represents Buddhist Satori! Since we are trying to become one with the mysterious power of letters and the satori of Buddhism, let's use the full moon ring as the goal of meditation.
Mandala-based Ajikan practice
The seeds of the moon cherry tree are engraved in one shaku, one inch and two minutes (about 36,9 cm), and the lotus flower is written on the moon ring to make it the principal image. "From the seat where you sit down to the middle of the drawing, you can call this issue at about 1 shaku 6 inch (about 52.8 cm). The distance between the principal image and the performer is 8 inch (about 26.4 cm). From 4 shaku (about. You can leave it to the kitchen. You can put a futon on the devil and sit on it with an odd iron seat. Trying to loosen it back and forth and left and right a couple of times, and trying to protect both bullet demons by making it the same as the calculation and the moon, and the return and the heso, without leaving anything in your heart. However, in the year of the main treatment (special lighting) through the endless dirt road.

That thing. NS. It's timeless, it doesn't look like it, it's straightened, and it's me to improve the abandoned road (circulation of three liquids). Mantra Next, while staying in a few beads, the mantra of worship, "Onsarabatata Gata Hannah Mannau Caro Next, the self-protection method (just go to school). I can't enter. I don't know what to do. I don't know how to use it. Other legal world same interests Next, the mantra of the five characters of the fetal world, Abi la un ken, is called a hundred. There is a moon shadow of self-enlightenment in my heart. There is a flower in the moon business. There is a drawing on the lotus flower.

Sale opens, and there are too many things to see. vinegar. After fighting to pass the course * unimportant law, suddenly forget the principal image and the heart, and use it indiscriminately. .. I think that I would like to play the river / expedition and the moon ring that I performed in advance, and put it in the original list in this size and put it in my chest. At this time, I sit down, forget about my body and mind, and just live indiscriminately. Many of them, with the expectation that they will be covered, stop the fixed contemplation, search for japamala, and make a new one. Please hurry a part. Either is fine.

Oh, that doesn't mean you can say aloud. You can quietly hear the sound of A in your heart.

Wide view and rice view

The most eye-catching point (key point) of this meditation is this "wide view and must-see". The idea of ​​expanding the different characters, lotus flowers, and moon rings that became one with the performers after seeing the ten guides, and finally expanding to the 3,000-thousand-thousand world, this cosmos is called a broad view, and it fills the cosmos. The idea of ​​reducing the spread of the principal image to the size of the original elbow is called the universe. Means to make it smaller. Shingon Esoteric Buddhist Ajar is explained as if only the principal idol could spread to the universe and see it in the old days of training. For example, even if you close your eyes, you can think of the principal image of Ajikan in front of the performer's eyes as one with the principal image so that you can easily see it on the back of your eyelids or in your chest. Regardless of the way Ajikanho is, this time, if the principal image that is united with the performer is gradually expanded and expanded to the fullest escape, what will happen to the limit? Is it there? In the end, it becomes infinite, and it ends up without the conditions for objects such as insight and consciousness.

While you can see the shape of A as a letter and the moon contraction as a circle, it is not yet infinite. In order to be infinite, all above, below, in front of and behind, on both sides of the left and right, in front of Chikuzen and behind, diagonally above and below, all The principal image must spread in the direction, and in order for human beings to recognize things with their own eyes and consciousness, in the midst of such a spread to the ten-sided world, it is never done. Can no longer be received as a fixed form.

Humans cannot read the letters behind them, and the shape above him cannot be seen by looking at him, much less recognizing things at once up, down, front, back, left and right. Therefore, expanding the principal image of Ajikan to infinity means that the principal image of Ajikan and the performers remain one and the same.

It is the principal image of Ajikan to be able to recognize things at once from the bottom and back of one's back.
A, a lotus, a means to plunge into a state of spiritual unification that transcends the shape of the moon. It's similar to. -If you expand the target to the size of the void, the target becomes ineffective. Seeing an object that has become nullified is equivalent to being in a state of remorse, that is, nothing unexpected. When something unexpected happens during the idea, it is the work of one's mind that can be experienced by humans (what can be felt by the body) (Shunsuke Ohno, "Handbook of Ajikan")

I see, I think so. However, I have another view, the nation. It is a suspicion that the practitioners themselves will be picked up and made a big deal along with the medicinal flowers and reorganization. Therefore, if the book is lost, the performer himself must expand together. If only the performers are left behind, the sense of unity will be broken, and the subsequent ideas will be squeaky. It seems that it is better for the performers themselves to expand steadily without breaking the union, and to go around the entire universe. What is Aji? "Ajimoto Fusei" means "the great life of the universe" and "the great life of eternity" in a nutshell. The principal image of his o, lotus flower, and moon ring, which is a symbol of the great life of the universe, was brought to life by the idea of ​​the pilgrims, and it became omnipresent in the universe. It may be a lively meditation to think that the practitioner has become one with the great life and has become a great life that is now omnipresent in the universe. Of course, Mr. Ohno's traditional interpretation is also wonderful, and I hope that readers can freely indulge in meditation based on any of them. No, I don't think about the difficult theory here, and the reader should be free to play freely and enjoy the pleasure of becoming one with the great life of the universe. In addition to the two interpretations given here, readers should enjoy free-spirited, unselfish meditation. Spread all over the universe ...

The law should be free and enjoy deficient meditation. My widespread self-Oya, something like a mosquito will fly around the nails, what a jumbo jet, hey, my president is on board, hey, poppy grains It's like that, wow haha, and neurose also blows away the hysteria. It may come up with great projects and ideas.

Indiscriminate view

So, what's important is the indiscriminate view that comes out here. With the line "Suddenly forget the principal image and the heart and live indiscriminately", you enter a state of regret that resembles a hidden feeling. In the state of selflessness, the next thing that is difficult is to return the principal image of the universe, the lotus flower, and the moon ring to any size, and then put the principal image in your heart and enshrine it. At this point, I get separated from my body and mind and enter into an indiscriminate view for a while. As a result, even after getting away from the sleepiness of Ajikan and returning to daily life, the refreshing and pure heart of the full moon ring without a single point of cloudiness, the power of the great life of Ajimoto, and the satori of Buddhism are always present. I am oneself. But, well, the difficult theory is good, so sit down and do it without reason. Moyamoya is wiped off somewhere. With this, there are countless people who have recovered from stomach sickness and high blood pressure. Besides, first of all, it should be comfortable just to get rid of it.




 

 

 
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