そのもとに立ち返ればいまがわかる。因果を言うのはそのことを愛雌。そのもとから、ただせば、こういうことが起こるとなると、それは論理によるか、なすがまま、なるままのことかを知るkとである。自然法爾は真理探究の絶対を拠るべきにゆだねている。そのもとから、ゆがめられ、作為が加わり、さらには引き起こすその結果をもとにして、次を画策し展開するということがあるので、その拠って来るところを、いくつにも見ることになるが、それもまた、そのもとに立ち返れば明らかになることである。人間の記憶はそこにかえることをするが、その記憶の原点が異なることがあるのは、人それぞれの思いは異なるからである。先祖に何を持つか、その後の世代に、世代を交代してまた、なにを持つか、祖先がえりをするものではない、時代を生きてそこで経たものが時代へと受け継がれて、新たになることがある。 . . . 本文を読む
雑節はいつからか。暦にとりれたのは1873年、太陽暦が採用されたときのことであると説明がある。24節気を含めてと言うが、それ以外の日本独自の節目と考えて、加えられたものである。その名称は江戸時代になく、すると、これもまた、節分、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日、土用、彼岸などと、それぞれのいわれが、一つ一つのことにもなる。雑の意味内容が、さまざま、いろいろとなるが、草草のニュアンスがある。2017年8月23日は、節気のうち、次である。>処暑(しょしょ)は、二十四節気の第14。七月中(通常旧暦7月内)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が150度のときで8月23日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から2/3年(約243.4906日)後で8月23日ごろ。 . . . 本文を読む