国語のイデオロギーはややこしい。イデオロギーの国語は、国語をイデオロギーとして見るので、その議論の先にあるものを、イデオロギーに何を見るかを、据えるとわかりよくなる。イデオロギーの中の国語ということである。翻って国語のイデオロギーというふうに、国語にイデオロギーを見ることは、ややこしいだけでなく、実は困難であると言える。言語が社会とともに、民族とともにあるとするなら、その時々の流行に言語があることになって、言語そのものはツールであるというだけに過ぎない。ただ言語をもって語られた流行思想は言語とともにあることも事実である。とくに国語を大日本帝国の国語というふうに規定してしまえば、それはイデオロギーの国語にとらえていることになる。
2016-12-07
23:25:55
>日本語として国語を発想するなら、日本語は大和語であり、漢語を借用し、外来語という音訳語を取り入れてきた、やまとことばをもって、国語をとらえることになる、それは和字にすることであるから、国語とは、くにことば、さとことばである。その国語を、言語の標準にしようとしたのは、話し言葉すなわち口語を意識することであった。国語の統一ということも、くにことばが通じあい、さとことばを意識してのとらえ方である。それを文字に写すことがまず必要とされたのであるから、国語は読み書きをもって始まりとなったことになる。日本語の現代語は音韻をもって統一した現代仮名遣いを取り決め、常用漢字表に文字一覧をまずはそろえたことになる。国語において文章に現れる漢字仮名をまず読み書きできなければならないのであるから、その発想を教育と躾の根本に据えなければならない。根本から幹を伝って、末に至るまでの、枝葉には言葉の表現理解が文章となって茂ることになる。
2016-12-06
23:02:47
>上田万年の国語観を議論する論文を読む。それは標準語教育と共通語教育に大きな影響を与えたとする。国語教育の制度が1900年、明治33年の小学校令の改正によって国語科目の設定となる。それには国定国語教科書、国定教科書の言文一致体を取り入れることになる。上田万年の標準語についての論文が、1895年、明治28年にある。それにはまた、国語調査会の口語法がかかわってくる。明治30年代に口語法の文典が出版されて、文部省の口語法が1916年、大正5年、同別記が大正6年に作られる。この動きには上田万年が主事を務めた国語調査会があり、標準語の策定があった。国定教科書はそれを受けた形で、第1期が1902年、明治37年に始まる。国定教科書は第5期まで、1945年、昭和20年まで行われる。上田万年による標準語は口語法の統一という、国語統一の形で進められている。
2016-12-05
11:00:15
>国語をもって大日本帝国言語とみる、国語が国家主義の言語であるとみる、国語を植民地における国家主権を拡大する政策活動とみる、国境外の領域や人々に対して言語を押し付けて正当化しようとしたものととらえる見方があって、それはイデオロギーによる国語であるとする。国語が日本語となる経緯には、この歴史認識が必要であるとする議論があって、上田万年による東京帝国大学の講座、国語調査会の創設、一方で、日本語研究に国語としての研究をとらえる山田孝雄、日本語が国語であるとする時枝誠記などを批判する考え方である。言語観に及び、そこに国語の概念を作り出したと文法書などに読み取る。イデオロギーが主義主張にあるなら、それをもって批判の対象とする。言語研究者にはいずれも、その時代社会の影響を受けること必定であるから、そのイデオロギーの終焉とともに、その批判はその範囲にあってとらえるものであるとすべきである。
2016-12-03
10:24:41
>イデオロギーとは何か。独語で、Ideologie これは日本語になって、イデオロギー となったが、 英語で、 ideology と理解された。
また、観念を言う、イデオロジー という発音の語もある。イデオロジスト idéologiste は、政治的に空論ばかりいう奴らと侮蔑的ニュアンスを込めたイデオローグ idéologuesという呼称も生まれる。
さてしかし、イデオロギーについて、社会科学の用法での社会に支配的な集団によって提示される観念となると、それはどのように受け止められるか。
言葉の用法を素朴にとらえて、
>語源はギリシャ語の「イデア」+「ロゴス」日本ではドイツ語から移入されたので「イデオロギー」というカタカナ語になりましたが、英語では「アイデオロジー」(ideology)、フランス語では「イデオロジー」(idéologie)となります。これらの語源を追っていくと、ギリシャ語で「観念」を意味する「イデア」(idea)と「言語」を意味する「ロゴス」(logos)に辿り着きます。
ということであるから、 観念による、それを論理化しようとしたものとなる。
イデオロギー
人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。「―は社会的立場を反映する」。俗に、政治思想。社会思想。
2016-12-07
23:25:55
>日本語として国語を発想するなら、日本語は大和語であり、漢語を借用し、外来語という音訳語を取り入れてきた、やまとことばをもって、国語をとらえることになる、それは和字にすることであるから、国語とは、くにことば、さとことばである。その国語を、言語の標準にしようとしたのは、話し言葉すなわち口語を意識することであった。国語の統一ということも、くにことばが通じあい、さとことばを意識してのとらえ方である。それを文字に写すことがまず必要とされたのであるから、国語は読み書きをもって始まりとなったことになる。日本語の現代語は音韻をもって統一した現代仮名遣いを取り決め、常用漢字表に文字一覧をまずはそろえたことになる。国語において文章に現れる漢字仮名をまず読み書きできなければならないのであるから、その発想を教育と躾の根本に据えなければならない。根本から幹を伝って、末に至るまでの、枝葉には言葉の表現理解が文章となって茂ることになる。
2016-12-06
23:02:47
>上田万年の国語観を議論する論文を読む。それは標準語教育と共通語教育に大きな影響を与えたとする。国語教育の制度が1900年、明治33年の小学校令の改正によって国語科目の設定となる。それには国定国語教科書、国定教科書の言文一致体を取り入れることになる。上田万年の標準語についての論文が、1895年、明治28年にある。それにはまた、国語調査会の口語法がかかわってくる。明治30年代に口語法の文典が出版されて、文部省の口語法が1916年、大正5年、同別記が大正6年に作られる。この動きには上田万年が主事を務めた国語調査会があり、標準語の策定があった。国定教科書はそれを受けた形で、第1期が1902年、明治37年に始まる。国定教科書は第5期まで、1945年、昭和20年まで行われる。上田万年による標準語は口語法の統一という、国語統一の形で進められている。
2016-12-05
11:00:15
>国語をもって大日本帝国言語とみる、国語が国家主義の言語であるとみる、国語を植民地における国家主権を拡大する政策活動とみる、国境外の領域や人々に対して言語を押し付けて正当化しようとしたものととらえる見方があって、それはイデオロギーによる国語であるとする。国語が日本語となる経緯には、この歴史認識が必要であるとする議論があって、上田万年による東京帝国大学の講座、国語調査会の創設、一方で、日本語研究に国語としての研究をとらえる山田孝雄、日本語が国語であるとする時枝誠記などを批判する考え方である。言語観に及び、そこに国語の概念を作り出したと文法書などに読み取る。イデオロギーが主義主張にあるなら、それをもって批判の対象とする。言語研究者にはいずれも、その時代社会の影響を受けること必定であるから、そのイデオロギーの終焉とともに、その批判はその範囲にあってとらえるものであるとすべきである。
2016-12-03
10:24:41
>イデオロギーとは何か。独語で、Ideologie これは日本語になって、イデオロギー となったが、 英語で、 ideology と理解された。
また、観念を言う、イデオロジー という発音の語もある。イデオロジスト idéologiste は、政治的に空論ばかりいう奴らと侮蔑的ニュアンスを込めたイデオローグ idéologuesという呼称も生まれる。
さてしかし、イデオロギーについて、社会科学の用法での社会に支配的な集団によって提示される観念となると、それはどのように受け止められるか。
言葉の用法を素朴にとらえて、
>語源はギリシャ語の「イデア」+「ロゴス」日本ではドイツ語から移入されたので「イデオロギー」というカタカナ語になりましたが、英語では「アイデオロジー」(ideology)、フランス語では「イデオロジー」(idéologie)となります。これらの語源を追っていくと、ギリシャ語で「観念」を意味する「イデア」(idea)と「言語」を意味する「ロゴス」(logos)に辿り着きます。
ということであるから、 観念による、それを論理化しようとしたものとなる。
イデオロギー
人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。「―は社会的立場を反映する」。俗に、政治思想。社会思想。