因果 私説 源氏語り22
藤壺の宮のところで管弦の遊びなどをなさっている。
そこへ帝が若宮を抱き上げて出てきたのである。
この物語りのクライマックスであった。
筋立てを追い、物語を読み、そう思う、それは知らない、知らされない場面でもある。
れいの、中将の君、こなたにて御あそびなどし給に、いだきいでたてまつらせ給ひて
しかし、これは作者が用意した世代物語の伏線となっていたのだった。
だれも同じシーンがふたたび、あるとは、思ってもみないことであろう。
紅葉の賀から柏木まで、時を経て語られた、輪廻と言うべきか
このことは物語を追えば、ふつうに見て取れる。
読み取れることである。
そうか、源氏物語をわかるとはこういうことだったのかと、ひとり合点をしたのであった。
光源氏の物語ではない、輝く日の宮の物語である、男の青春や栄耀栄華を描くものではない、女の宿世を描くものである。
源氏物語思想があるとすれば、やはり作者は書き手、語り手の仏教的因果律による世界観にある。
藤壺の宮のところで管弦の遊びなどをなさっている。
そこへ帝が若宮を抱き上げて出てきたのである。
この物語りのクライマックスであった。
筋立てを追い、物語を読み、そう思う、それは知らない、知らされない場面でもある。
れいの、中将の君、こなたにて御あそびなどし給に、いだきいでたてまつらせ給ひて
しかし、これは作者が用意した世代物語の伏線となっていたのだった。
だれも同じシーンがふたたび、あるとは、思ってもみないことであろう。
紅葉の賀から柏木まで、時を経て語られた、輪廻と言うべきか
このことは物語を追えば、ふつうに見て取れる。
読み取れることである。
そうか、源氏物語をわかるとはこういうことだったのかと、ひとり合点をしたのであった。
光源氏の物語ではない、輝く日の宮の物語である、男の青春や栄耀栄華を描くものではない、女の宿世を描くものである。
源氏物語思想があるとすれば、やはり作者は書き手、語り手の仏教的因果律による世界観にある。