魯の大祭の主祭を頼まれながら、当日に断りもなく季孫斯と交替させられるという屈辱を味わった孔丘。弟子たちがさまざまな意見を述べる中、孔丘は魯を出て諸国を巡り、仁義の火種を伝えようと決心する。曲阜を旅立った孔丘らのもとに、季孫斯から少正卯の書いた文が届き……。その後、衛国を訪れた孔丘と一行。年老いた衛王には何の力もなく、夫人の南子のところにいる弥子瑕がすべてを握っていると教えられるが……。wouowオンラインあらすじより。
孔子は旅に出発する。36話の31話である。孔子の生涯をドラマで知るにつけ、わたしたちが捉える孔子像はそれなりのイメージ化があって思い知らされることがある。旅に出るのは小生ボーの遺した書置きであったし、孔子は自らをその文言によって世の評価を悟る。人物像がそれぞれあまりに杓子定規なのだが、等身大のドラマの孔子を演出すると言うには、それに比して、脇の人物像が王からして単純に見える。陽虎とともに3人で幼い頃を過ごしてキタ思いに、この旅立ちの解釈がある。
耳で学ぶ「中国古典の名言」:『論語』(6)~孔子が放浪した理由 ...
www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091009/187771
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091009/187771/?P=2
>孔子が目をつけたのは、魯の国の政治を欲しいままにしていた三つの有力な重臣の家の、力の源泉でした。それは軍事力だったのです。
三つの家は、強い軍事力を持ち、また、それぞれ拠点している都市は大規模な城壁でおおわれて、完璧な守りを誇っていました。
そこで孔子は三つの家を説得して、おのおのの拠点を守る城壁を、みずから撤去させてしまおうとしたのです。当時、三つの家は、下克上によって魯の国の実権を握っていましたが、実はその三つの家の内部でも、有力家臣が下克上を起こすという騒ぎが頻発していました。
そこに目をつけた孔子は、こう説きます。
みなさんは下克上を起こした家臣をなかなか排除できずに苦しんでいますが、その原因は、それぞれの本拠地に城壁をめぐらせていて、反乱を起こした家臣がそこに立てこもってしまうからです。いっそのこと城壁を無くしてしまえば、下克上はできなくなると思いますが
この言い分を聞いて、二つの家はなるほどと城壁を壊すのですが、一つだけ、それはおかしいと取り壊しを拒んだ家がありました。孔子の目論見は見破られてしまったのです。やがて、ほかの二つの家も再び城壁を築いてしまい、結局、孔子の政治改革は失敗に終わってしまいます。
この失敗が原因で魯の国にいられなくなった孔子は、自分の政策を取り入れてくれる国を探して、中国を約12年にもわたって放浪することになります。『論語』とは、孔子のそうした苦い経験の跡が刻み込まれた古典でもあるのです。
著書紹介
このコラムの著者・守屋先生の新刊(3枚組CD)
「中国古典に学ぶ危機突破のリーダーシップ」
孔子の言葉
孔子の論語
孔子の弟子
孔子の名言
孔子の思想
孔子の子孫
孔子の里
孔子の一生
孔子の生涯
孔子の兵法
>孔子の生涯は逆境の連続でした。
正しい政治を広めるという高い理想を持っていた孔子は、50代半ばで国を追われ、その後14年間も放浪の旅を続けました。
放浪の末、60代半ばにようやく故郷に戻った孔子ですが、今度は近しい人たちの死が孔子を襲います。
まず、愛する息子を失います。
そして、2人の愛弟子も相次いでこの世を去ります。
孔子自身も病に倒れ、74歳の生涯を閉じたのでした。
逆境の中、孔子を支えたものとはいったい何だったのでしょうか?
孔子は旅に出発する。36話の31話である。孔子の生涯をドラマで知るにつけ、わたしたちが捉える孔子像はそれなりのイメージ化があって思い知らされることがある。旅に出るのは小生ボーの遺した書置きであったし、孔子は自らをその文言によって世の評価を悟る。人物像がそれぞれあまりに杓子定規なのだが、等身大のドラマの孔子を演出すると言うには、それに比して、脇の人物像が王からして単純に見える。陽虎とともに3人で幼い頃を過ごしてキタ思いに、この旅立ちの解釈がある。
耳で学ぶ「中国古典の名言」:『論語』(6)~孔子が放浪した理由 ...
www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091009/187771
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091009/187771/?P=2
>孔子が目をつけたのは、魯の国の政治を欲しいままにしていた三つの有力な重臣の家の、力の源泉でした。それは軍事力だったのです。
三つの家は、強い軍事力を持ち、また、それぞれ拠点している都市は大規模な城壁でおおわれて、完璧な守りを誇っていました。
そこで孔子は三つの家を説得して、おのおのの拠点を守る城壁を、みずから撤去させてしまおうとしたのです。当時、三つの家は、下克上によって魯の国の実権を握っていましたが、実はその三つの家の内部でも、有力家臣が下克上を起こすという騒ぎが頻発していました。
そこに目をつけた孔子は、こう説きます。
みなさんは下克上を起こした家臣をなかなか排除できずに苦しんでいますが、その原因は、それぞれの本拠地に城壁をめぐらせていて、反乱を起こした家臣がそこに立てこもってしまうからです。いっそのこと城壁を無くしてしまえば、下克上はできなくなると思いますが
この言い分を聞いて、二つの家はなるほどと城壁を壊すのですが、一つだけ、それはおかしいと取り壊しを拒んだ家がありました。孔子の目論見は見破られてしまったのです。やがて、ほかの二つの家も再び城壁を築いてしまい、結局、孔子の政治改革は失敗に終わってしまいます。
この失敗が原因で魯の国にいられなくなった孔子は、自分の政策を取り入れてくれる国を探して、中国を約12年にもわたって放浪することになります。『論語』とは、孔子のそうした苦い経験の跡が刻み込まれた古典でもあるのです。
著書紹介
このコラムの著者・守屋先生の新刊(3枚組CD)
「中国古典に学ぶ危機突破のリーダーシップ」
孔子の言葉
孔子の論語
孔子の弟子
孔子の名言
孔子の思想
孔子の子孫
孔子の里
孔子の一生
孔子の生涯
孔子の兵法
>孔子の生涯は逆境の連続でした。
正しい政治を広めるという高い理想を持っていた孔子は、50代半ばで国を追われ、その後14年間も放浪の旅を続けました。
放浪の末、60代半ばにようやく故郷に戻った孔子ですが、今度は近しい人たちの死が孔子を襲います。
まず、愛する息子を失います。
そして、2人の愛弟子も相次いでこの世を去ります。
孔子自身も病に倒れ、74歳の生涯を閉じたのでした。
逆境の中、孔子を支えたものとはいったい何だったのでしょうか?