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複数の書き手

2021-07-15 | 日本語の謎、なぞ

新聞を読もうとして中学生ころから、いわば、努力した。なぜなら、毎日新聞を読む時間に、毎朝毎夕の時間は相当なもの、子供にすれば、面白くもなんともない、というのは、そうでもなかった。新聞を読み切り抜きをするという習慣が中学生になって身に付いた。しかし、半世紀も前のこと、新聞のあれこれに気づき始めた。ニュースソースにはテレビラジオがあっても新聞配信によるのだったからその提供は知る由なく、どれも同じように受け止めていたのが小学生のこと、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞と家庭の購読紙に目を通していた。気づき始めたのは今も同じことで新聞の論調が新聞社、編集局によるということだった。いまとなれば至極当然、ニュース記事を読むことに加えて評論、論説、エッセイなど編集による主張が行われていたのである。高校生で朝日ジャーナル、大法輪となぜか偏った雑誌を読み続けていた、あれは、高橋和己の連載小説か、禅の記事を愛好したためか、新聞が持つイデオロジー性にまだ疎かった。しかし、毎日新聞は止めていたし、朝日の大見出しによる偏向には嫌気がさしていた。それで、20代以降には新聞の読み方も随分と変わって、社説、コラムの目通しぐらいで、イッシューの取り上げ方に関心が移る。
10代前半の読み方には特徴があった。これはいまでも推奨できる。切り抜き対象となるのは事件性の推移を追うものは別として、記事内容の、良きこと、善意、正義、人間性のテーマなど、繰り返し読むと味わいのあるものを選りすぐっていた。
そこで気付いたのが、社説にしても、コラムにしても、とくに天声人語のような名文に、そう当時は思いこまされていたのだからしかたがない、しかし、その書き手が複数いるということである。署名ではないので、毎日読むコラムに感心するわけだが、それを一人の論説者が毎日書いていないのではないかとは思いもしないことであるにかかわらず、そう思っていた読者であった幼さに、文章としての好みに文体が違うことに思い至ったのである。後年、中日新聞を読むようになって中日春秋の文章の妙にあるのは、書き手のものだと、それがわかってきた、いまとなってはその筆者名にも心当たりがある。
話題となる記事であるから、毎朝のこと、それを読み続けて、複数の書き手に合わせた文章理解は、考えようによっては大変なことである。手を変え品を変えてひとりの人格が書き続けているような見せかけに読み手からすればそれが統一された全人格とするのは無理があって神経が疲弊することこの上ないと言っても過言ではない。



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