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総記

2016-07-04 | 日本語文法
総記という語は図書館用語である。そう思っていると、総記の「が」と言われているので、なんだろうかとなってしまう。その筋ではよく言われることなので、わかったように使うのだけれど、総記と排他など、対比する。それで検索をして、いつも引いてみる、用語検索マンボウの説明には、見出し語になっているにかかわらず、排他の「が」/総記の「が」、とみえるだけで言及がない。もっともこの説明は野田尚史によっている。もともと総記の語義には、>総記 全体を総括する記述。  というのがあって、これを分かり良いとするなら、日本語教育を以って説明をする人たちの捉え方には、その学説立場があることになる。久野(1973)の指摘する 2 種類のガ格の用法、これには総記と中立叙述の議論の操作があって、対比、排他、そうしてその他の用法を見ての総記であるから、総記がなんであるかというのは、恒常的な属性について述べる述語というような説明でしか、できない。図書分類での、generaliaの訳語について考えるしかない。



http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%ED%B5%AD
>「総記」は英語generaliaの訳語。
下位区分(サブ・ジャンル)の過半数にあてはまってしまうもの(=総合・概論と、ジャンル横断的なもの)と、下位区分どどれにも属させられないもの(=その他)を収める分類項目の項目名として採用される。「その他」が下位区分でなく上位区分に居残る、つまり総記には総合だけでなくその他が含まれるところが論理上の工夫といえる。
十進分類法では10ないし9個設定される基本ジャンル(main class;主類)のうち、先頭の0類のことを「総記」というが、1類から9類や、それぞれの下位区分においても下位区分ごとの総記が設定される。NDCの例でいうと、700は芸術の総記、720は絵画の総記、721も、721.1~9の日本画の各派に対して日本画の総記である。つまり桁が(右から数えて)3ケタ以上になっても上位は下位区分の総記となる。700や720の0は、単に見栄えのため――論理としてはおかしいが、出納作業のため――3ケタになるまでつけるダミーの0である。そのため戦前などは誤解を生むから表記すべきでないとする意見もあった。


http://alcom.alc.co.jp/questions/show/18069
>「は」と「が」の意味の違い
日本語ネイティブなのに、こんな質問をしてお恥ずかしいのですが。。。
例えば
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と、
「生きるべきか死ぬべきか、それは問題だ」とでは、
意味はどう違うのでしょうか?


www.lingua.tsc.jp/ippan/TWPL0/TWPL07_33/3_suzuki2014.pdfukuba.a

久野(1973)は、主語に付与されるガ格の用法に「中立叙述」と「総記」の 2 種類があることを指摘した。総記とは、述語の表す内容に対して主語をとりたて、主語に「X、そして Xのみが」という含意を持たせる用法であり、中立叙述とはそのような含意が存在しない用法である。そして、久野は述語の意味的性質がこの 2 つの用法の可否に影響することを指摘している。
(1) a. 大変だ、太郎が病気だ。 (中立叙述/総記)
  b. 太郎が学生です。 (*中立叙述/総記) (久野 1973: 32)
(1a)が示すように、「病気だ」のような特定の時間軸に縛られた動作や一時的な状態を表す述語であれば、ガ格の用法としては中立叙述と総記のどちらも許される。一方、(1b)が示すように、「学生だ」のような恒常的な属性について述べる述語は総記の用法しか許されない。



>用語検索マンボウ
総記の「が」
言語一般<日本語の構造>
助詞の「は」と「が」を使い分ける方法の説明として、今までになされてきたものを野田尚史が五つに分類してまとめている。
(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
  会話の中や文脈で、主格となる名詞が未知(=新情報)の場合は「が」を使って表し、既知(=旧情報)の場合は「は」を使って表すという基準である。
 ・鈴木さんは校長です。(「鈴木さん」のことは「既知」なので、「 は」を付けて表す)
 ・鈴木さんが校長です。( 校長が誰であるのか、「未知」なので、「鈴木さん」に「が」を付けて表す)
(2)現象文か判断文かによって使い分ける方法。
  現象をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現する文を「現象文」と呼び、現象文の主格には「が」が付く。これに対して、現象に対して話し手が主観的な判断を加えて表現する文を「判断文」と呼び、判断文の主格には「は」が付く。以上のことを基準にして使い分ける方法である。
 ・(目の前の犬を見て)犬が寝そべっている。(現象文)
 ・( 他の人に間違えて持って行かれそうになった傘を指して)それは私の傘です。(判断文)
(3)主格がどこまで係る(=つながる)のか、文末まで係るのか、節の中だけにしか係らないのかによって使い分ける方法。
  主格が文末まで係るときは「は」を用いて、節の中だけにしか係らないときは「が」を用いるということを基準にして使い分ける方法である。
 ・父が晩酌をするとき、つきあう。
 ・父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる。
(4)主格が対比の意味を表すか、排他の意味を表すかで使い分ける方法。
  主格が、その文の中には出てこない同じ種類の名詞に対して、「比べて言うと、〜である」という対比の意味を持つときは「は」が用いられ(対比の「は」)、「それだけが〜である」という排他の意味を持つときは「が」が用いられる(排他の「が」/総記の「が」)、という基準による使い分けである。
 ・犬は好きだが、猫は嫌いだ。(対比の意味を表す)
 ・ 私が責任者だ。(ここにいる者の中では、他の者ではなくて、私だけが責任者であるという排他の意味を表す)
(5)指定文か措定文かで使い分ける方法。
  「貴乃花は横綱だ」のように述語が主格名詞の性質を表し、「横綱が貴乃花だ」とは言い換えられない文を「措定文」といい、措定文のなかでは「は」が用いられる。これに対して、「鈴木さんはあの人だ」のように述語の名詞が主格名詞と同じものであることを示し、「あの人が鈴木さんだ」のように言い換えられる文を「指定文」または、「同定文」といい、この種の文のなかでは「は」も「が」も用いることができる。
 ・地球は、太陽系の惑星だ。(措定文)
 ・あの人の趣味は、勉強だ。(指定文)

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