なる催しが 過日行われた。
万葉の歌人・大伴家持が、越l中国守として赴任してから2年目の748年(天平20)、家持は初めての管内視察に出る。
その時の出で立ちを再現するイベントである。
「行程」
春は 越中の西部から東部めぐり、秋は 能登半島を巡行して各地で九首を詠んだとされている。
「歌碑」
①春の巡行・越中(富山県)
”雄神川(をかみがわ) 紅(くれなる)にほう 娘子(おとめ)らし 葦附(あしつき)取ると 瀬に立たすらし”(大伴家持 巻17 4021)
神通川が一面に赤く照り映えている。あでやかな少女たちが葦附を取るために瀬にたっているらしい。
②秋の巡行・能登路(石川県)
”珠洲(すす)の海に 朝開(あさびら)きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり”(大伴家持 巻17 4029)
珠洲の海に朝早く舟を出して漕いで来ると、長浜の浦にはもう月が照り輝いていた。
「土地の民謡」
♪里の名勝はエーコリャ~ 大伴家持国司さんコリャ~
歌詠み 歌詠み公家さん ナントコリャ~
都はなれて 浮世はなれて 布施の海 エーコリャ~
(家持さんは、どちらかと言うと行政マンではなく、湖水に舟を浮かべ、一首詠むのが向いていたようです)
なお、国司として初めて越中に赴任したキャリア組の大伴家持の最後の赴任地であり、終焉の地となったのは、東北大震災のあった宮城県多賀城市だそうである。