禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

迷うのは人間だけ

2021-04-15 06:11:03 | 哲学
 今、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏原案の「サピエンス全史」という漫画を読んでいる。それによると、人類が誕生してから200万年(ホモサピエンスは30万年)経つが、そのほとんどの期間が絶滅の危機すれすれの状態であったらしい。人類が食物連鎖の頂点に到達したのは今から約2万年前のことで、進化論的尺度で見ればつい最近のことだというのである。つまり、俗な言葉で言えば、我々人類は成り上がりものだというわけである。
 ハラリ氏によれば、人間以外の食物連鎖の頂点にある動物はみな堂々としていると言う。そういえば、ライオンや虎は確かに堂々としている。猛禽類が高い梢にとまって辺りを睥睨しているさまも威厳に満ちている。人間は彼らに比べると風格に欠けると言われても仕方がないように思う。いつも辺りをきょろきょろと見まわし、計算高く立ち回っていて落ち着きがないように見える。
 他の種は長い年月を経て現在のポジションを獲得したのに比べて、人間はその知恵のお陰で、本来は食物連鎖における中程度の位からいきなり頂点にのし上がったため、地に足がついていないとも言える。まだ自分の置かれた地位に慣れていないので、落ち着かないのだろう。そういう意味で人間という種は他の種に比べて完成度が低いとも言える。

 人間の種としての「完成度が低い」というのは、人間が他の動物に比べてアンビバレントな生き物であるという意味である。人間以外の動物はみな生死をかけて迷わず行動している。倫理と行動の間に寸分のすきもないのである。あなたは「人間以外の動物には倫理がなくて欲望だけだからだ。」と言うかもしれないが、倫理の源泉も実は欲望であると私は考える。人間の欲望が引き裂かれているのである。引き裂かれた欲望を煩悩と言うのだと私は思う。
 
 ともあれ、現にある状態を嘆いてばかりいても仕方がない。私たちは自分で自分を納得させるような生き方を、各自で模索していく他はないのである。

上目使いで私を見る猫ちゃん
コメント
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