言葉はいい加減なものである。いい加減だが力を持つのでやっかいなものでもある。言葉は時には論理と一体であるかのごとく振舞うが、実のところ論理に言葉を矯正する力はない。言葉は恣意的に運用される。早い話が人間はいくらでも嘘を付けるのである。しかもその嘘が効力を発揮するということに人間の不条理が存在する。
4,5日前に、ロシア議会では虚偽報道禁止法案なるものが可決された。「ロシアの軍事行動について『虚偽』とみなされる報道を行うと最大で15年の禁錮や懲役を科す」という内容です。この法案がもし厳格に適用されるならば、屁理屈並べてウクライナ侵攻を命令しているプーチン自身が真っ先に監獄へ送られねばならないはずだ。しかし、皮肉としか言いようがないが、実のところは真逆の話でウクライナに関する真実の報道を禁止するためにこの法案は作られたのである。法案が成立すれば、それはプーチンの意図に従って運用される。外国メディアにもそれは適用されるということなので、ロシア国内ではウクライナ関連の情報は発信できなくなる。
現在ロシアに起こっている事態は特別なことではない。よくあることなのだ。80年前の日本でも同じようなことが行われていた。口さがない連中に「アカ新聞」と揶揄されている朝日新聞でさえ、当時は大本営発表のニュースをそのままたれ流していた。「アカ新聞」ではない産経や読売は現在でも慰安婦問題等では政府寄りの見解が目立つように私には(この件については異論のある方もおられると思うので、一応「私には」と断っておく)思える。国境なき記者団が発表した、昨年度の日本の報道の自由度ランキングは67位である。もはや「記者が権力監視の役割を十分果たすことが困難だ」というレベルだそうだ。 いわゆる先進国の中では断トツの最下位であることは憶えておくべきだとおもう。
元首相が公の場で「幅広く募ったが、募集はしていない」と平気で言ってのける。言葉に対する感度がとても鈍い、日本はそんな国であることを日本人は自覚すべきである。 決してロシア国民のことを「遅れている」などと笑うことは出来ないと思う。
----------
先日、「ロシアの良心を信じたい」という記事でウクライナ出身のナターシャ・グジー というミュージシャンを紹介しましたが、今度の土曜日(3/12)BSテレビ東京で「音楽交差点」という番組 に彼女が出演されます。お時間のある方は必見です。