日本人は西洋人に比べて抽象的な思考が苦手である、というようなことが言われることがある。本当のところはどうかということはなかなか言えないような気がするが、江戸末期から明治にかけてそれまで日本語にはなかった多くの抽象概念が西洋からもたらされたことは間違いのないことのようだ。
数ある外来語の中でもとりわけ意外なのが、「美」という概念である。実はこれがオランダ語の "schoonheid" の翻訳語であらしい。多和田葉子氏の「エクソフォニー」というエッセーで、そのことが柳父章氏の「翻訳語成立事情」の中で紹介されているということを知ったのである。私にとってそのことはちょっとしたショックであった。「美」という言葉はいたるところで見聞きするし、これほどポピュラーな概念もないのではないかと思っていたからである。(この記事を読んでいて、「御坊哲は一体何について語っているのだ?」と感じたあなたはたぶん正常だと思う。それほど「美」という言葉はポピュラーになり過ぎている。)
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というように、昔から美人を花の美しさに例える言葉があるからには、美人と花に共通する見目麗しさという概念は日本人にもあったはずである。しかし、あらゆるカテゴリーに通じる「美」という理念がなかったということなのだろう。それはある意味健全なことではないかと私は思う。「美」は余りにも包括的過ぎるのである。あらゆる事柄に通じる「美」などというものは実は何を指しているかが誰にもわからないのではないかという気がする。
「美」という概念がなかったからといって、日本人は決して美に関して鈍感な民族であるということにはならない。世阿弥の「花」、茶の湯や俳諧の「わび」「さび」というような言葉はいずれも「美」につながる抽象概念である。洗練された文化は理念を生み出す。理念としての「花」や「わび」、「さび」は日本文化の結晶である。ただ日本には「真・善・美」を論じる哲学だけがなかったということだと思う。
理念というのは実は方向性だけがあって具体的な対象があるわけではない。人間の視力では見えないはるか彼方にあるのが理念である。プラトンは「真・善・美のイデアがある」というが誰も見たことがないものを「ある」とすることに、私はある種のうさん臭さを感じるのである。「美」が余りにも漠然とし過ぎていて、「美」という言葉がどういう意味で使われているか判然とは分からないことがままあるからである。それに対し日本文化における「花」や「わび、さび」というものは、到達点としては具体的に存在しなくとも、精進すべき指針として機能している。そういう意味で、「美」という概念がなかった昔の日本文化は健全であったと思うのである。
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