≪無門関第三則より≫----------------------
昔中国に倶胝と言うえらい坊さんがおりました。その坊さんは禅問答で何を聞かれても、ただ指一本立てるだけでした。
その寺に小僧がおったんです。ある時、人がその小僧さんに「お宅の和尚さんは、どのように教えて下さるのかな?」と訊ねました。
すると、その小僧は倶胝和尚のまねをして指一本立てたんです。ちょっと気取ってカッコつけたわけです。
そのことを聞きつけた俱剃和尚は、「小僧ちょっとこい」と彼を呼びます。
そして小僧が来たら、なんと小僧の指を切り落としました。当然小僧は痛くて泣きながら逃げようとしました。
逃げようとする小僧を俱剃は呼びとめます。「待て、小僧。」
小僧が振り返るや否や、俱剃は小僧に向かって指一本立てたのです。
その瞬間に、小僧は「ハッ」として悟った。
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インターネットで「倶胝竪指」で検索すると、実にたくさんの記事が引っ掛かってきます。意外に人気のある公案のようです。たいていは分かったような分からんような思わせぶりな解説がついています。
私は何とかへ理屈をつけて、この公案から哲学的なエッセンスを取り出して見ようと思います。
NHKの「日本人は何を考えてきたか」と言う番組で、西田哲学研究者の上田閑照さんが坐禅についてこのように語っていたのを聴いたことがあります。。
「(坐禅をすると)自分と外との仕切りがなくなって行く。」
通常我々は、皮膚におおわれた部分を「自分」と言い、皮膚の外側を「環境」と呼んでいるわけですが、坐禅は自分と環境の間に境界がないことを確認する作業であると言っても良いと思います。
つまり禅的視座に立つと、全部が「環境」と言っても良いし、全部が「自分」であると言っても良いのです。西田哲学では全部が「環境」を「場所」と言うのです、多分。(西田の「場所の論理」はあまりにも難解なので「多分」としか言えません。)
さて、公案の方へ戻って考えてみましょう。この小僧さんは一体何を悟ったのでしょう。俱胝和尚が指を立てた時に、反射的に自分が指を立てることを連想したはずです。しかし、立てるべき指は切られてしまっている。
私たちの体にはくまなく神経が張り巡らされています。その感覚によって身体図式と言うものができ上がっています。それは視覚や聴覚とも合わさって環境と矛盾なく構成され、世界観となっているわけです。
普通の状態では、その世界観というものは確固たるものだと私たちは感じているはずです。
しかし、和尚に指を突きつけられたとき、小僧は自分と不可分であったはずの指先がないことに気がつく。自分と外の境界の内側にあると思っていた指先がいつの間にか外側へ行ってしまった。従来の身体図式と現実のずれに気付いた時、小僧の世界観は崩壊します。絶対であったはずの世界が揺らいだその瞬間に、その小僧は「一切皆空」を体感したのではないかと私は推測します。
しかし、何とも痛い公案です。機が熟してさえいれば、リンゴが落ちるのを見てさえ悟ると言われます。何も指まで切らんでもええように思います。私は絶対俱胝和尚の弟子にはなりたくないです。
(参考 ==> 「公案インデックス」)