禅仏教では不立文字とか教外別伝ということがよく言われる。それでWikipediaで調べてみたのだが、その説明の中の次の一文が少し気になった。
【「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めである。】
なるほどそういう見方も成り立つのかも知れないけれど、仏教の教えが無常や空というところから成り立っていることからすればむしろ逆ではないのかと思うのである。いったん言葉にしてしまうと、そのことは概念として固定されてしまう。いかなる概念(言葉)にも本質というものは備わっていないというのが一切皆空ということである。釈尊の言葉であるとされる経典のその精神は尊重されなければならないとしても、それに束縛されてはならないというのが不立文字の真意ではないかと思う。言葉の上に安住していては仏教の目指す中庸は得られないからである。
人間とそれ以外の動物との最も大きく隔てているものは言語だろう。言語をもつことによって人類は他の動物に対して圧倒的に大きな力を持つようになった。言語によって高度な文明や文化が生まれたに違いないが、そのことが人類に対してより大きな災厄をもたらしたと言えなくもない。そういう意味で、不立文字という言葉は文明批判としての意味もあるのではないかと私は思うのである。
言葉に依って神話が生まれる。そして共通の神話を信じる人々の集団が形成される。さらにその集団は成長して国家となる。よくよく考えれば、国家なるものの実体というものはどこにもない。確かに官公庁の建物やそこで働いている人はいるが、国家そのものというものは見当たらないのである。国家は法律や組織の成り立ちという言葉によって成り立っているに過ぎない。皆が同じようにそのことを信じているからこそ成り立っている共同幻想に過ぎない。しかし、その共同幻想に過ぎない国家がまるで自分の意志を持っているかのように振舞いだすのである。
今回のロシアによるウクライナ侵攻において、ロシア側は小児病棟や産婦人科のある病院にミサイルを撃ち込んだと言われている。よく考えてみて欲しい、自然状態にある人間が子どもや妊婦を殺すことができるだろうか? 普通なら、そんな残虐なことができる人はなんらかの病理を抱えている人だとみなされるだろう。ところが戦場の兵士は命令されればどこへでもミサイルを撃ち込むことができる。この兵士の行為に正当性を与えているものは何だろうか? 誰が妊婦や子供の流血を望んでいるのか? 私が思うに、プーチンを含めて誰一人としてそのような具体的状況を望んではいない。自然状態の人間には絶対に出来ない、そんな行為に正当性があるはずはないのだ。
国家、大統領命令、軍隊組織、これらはみな幻想である。それを支えているのは言語である。言語の規定性が幾重にも積み重なって、兵士の行為に幻想としての「正当性」を与えているのである。あくまでそれは幻想に過ぎないのであるから、通常の人間的な視点から見れば、そこにあるのは残虐非道極まりない行為に過ぎない。不立文字とはその普通の人間的な素朴な実感を取り戻せということではないかと思うのである。
美しいものを美しいと感じる素朴な感覚が大切。(横浜 平戸永谷川の河津桜)