従来の独我論というのは前回記事で取り上げたような、自分以外の人間はすべてゾンビではないかという懐疑が解消できないという、いわば神経症的なものであった。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」によって、新たなタイプの独我論を提示してきたのである。「論理哲学論考」
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)
5.631 思考し表象する主体なるものは存在しない。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは
私の身体についても報告し、また、どの部分が私の意思に従
い、どの部分が従わないか等も語られなければならないだ
ろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりも
むしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す
方法なのである。すなわち、この書物の中で論じることのでき
ない唯一のもの、それが主体なのである。
5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界なのである。
客観的な世界というのは、誰にとっても同一でかつそこにはあらゆるものが存在するという、そういう世界をコスモスと表現するなら、ウィトゲンシュタインの提示している世界は「ミクロコスモス」と呼ぶのが相応しいのかもしれない。上田閑照先生は「坐禅をすると自分と自分以外の境界がなくなっていく。」と述べている。虚心坦懐に反省すれば、「自分」 というものが視野の中のどこにもないことに気がつくのである。見ることができるもの、考えることができるもの、語ることができるもの、それらはすべて対象化されうるものである。しかし、主体は決して対象化されることはない。つまり、自分と自分以外の境界は世界の果てまで後退する。主体(私)は視野の限界、思考の限界、言語の限界である。主体(私)は世界の限界なのである。「私は私の世界」とはそういう意味である。ウィトゲンシュタインの独我論は、梵我論であるとも無我論であるとも受け取れる。
ウィトゲンシュタインに言わせれば、あらゆるものが自分と切り離されてそこに存在するという、そういう「客観的世界」というものは幻想に違いない。