禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

すべては仮想現実か?

2021-01-02 12:12:35 | 哲学
  前回記事の最後に「すべては仮想現実」というようなことを述べたのであるが、私の標榜する禅的哲学ではそれをそのまま結論とするわけにはいかない。 すべてが仮想現実であるなら現実というものは何もないということになる。言葉というものは相対的なのであって、「実」があって「仮」があり、「仮」があって「実」があるのである。すべてが仮想ならそれは仮想と呼ぶべきではない。それはわれわれが絶対そこから抜け出ることはできないもの、すなわち現実そのものに他ならないのである。
 般若心経に次「色即是空 空即是色」という文言があることは広く知られている。「色」とは我々に対して現前するすべての現象すべてのものを表す言葉である。「空」とは実体のないことを言う。「実体」とは少し難しいがそれだけで独立して確固たる存在であり得るものという意味である。(参照=>空(くう)について」
 つまり、色即是空とはあらゆるものが本質を持たない、ひいては意味のないものというようなことを言っているのである。おそらく釈尊は、「だからなにごとにも執着してはならない。」とわれわれに諭すのだろう。すべては無常であるその世界の中で、絶対的とか固定的なものを求めれば、この世界が「すべては仮想現実」であることに絶望するしかないだろう。それが色即是空の意味するところである。
 しかし、色即是空だからと言って「すべては無意味」とすましているというのはニヒルすぎる。もしすべてが無意味なら「すべては無意味」という言葉自体が無意味である。「すべては無意味」と自分に言い聞かすこと自体が不自然である。釈尊がわれわれに教えるのは「執着してはならない」ということだけである。執着を離れてわれわれは自然(じねん)を得る。その時世界は再び絶妙なものとしてよみがえる。それが「空即是色」ということ(と私は解釈している)である。
 「柳は緑花は紅」とはこの世界の当たり前のことを言うのであるが、その当たり前が尋常でないことを意味しているのである。私たちは決して仮想現実の中にいるのではない、あらためてこの現実の妙を噛みしめる、地につけた足の実感を確かめながら生きよという教えである。
 
建長寺の柏槇  開山禅師・蘭渓道隆のお手植えと伝えられている。
無門関第37則「庭前拍樹」の柏樹とは実は柏の木ではなく、この柏槇のことらしい。
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