少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,いささかの疑いを入れる余地がないものを真理とする。これはいわゆるデカルト的懐疑と呼ばれるもので、絶対的真理を求めるという態度である。しかし、よくよく考えてみれば、この世にみじんも疑う余地のないものなどどこにあるだろうか? デカルト的懐疑を徹底すれば、どのような真理に到達することも不可能に違いない。
証拠もなしに何かを頭から信じて行動することは、一般的には愚かなことには違いない。しかし、アメリカを代表する哲学者であるウィリアム・ジェームスは、「人には十分な根拠なしに信念を持つことを意志する権利がある。むしろ必要であればそうすべきである。」と説く。
≪ いろんな事実について真の信念を持つことが人間生活にとって重要であることは、あまりにも明白なことである。われわれは限りなく有用とも限りなく有害ともなりうる諸実在の世界に生きている。それらの実在のいずれに望みを嘱すべきかを我々に告げてくれる観念が、これら第一義的な真理化の領域においては、真の観念とみなされ、そしてかかる観念を追求するのが第一義的な人間の義務なのである。≫(岩波文庫版「プラグマティズム」p.202)
どうでもよい選択肢を選ぶ場合には、どのような信念をもって臨むかということは問題ではない。それが重大でかつ切迫した問題ならば、信念を持つということはとても重要なことである。以下は歎異抄の第2条からの抜粋である。
≪ 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 ≫
法然に会う前に親鸞は絶望していた。幼少の頃から打ち込んでいた仏教はなんの法力や神通力も彼にもたらさないということを理解するようになっていたからである。「念仏によって浄土に生まれるか地獄に落ちるか(私には)分からない。」と信ずべき証拠がないことを自ら明かしながら、しかし、もう彼には法然の言葉を信じる以外の選択肢は無かったのである。「そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、 ‥‥‥ いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という言葉に、絶望の深さと決意の強靭さが表れている。この時から弥陀の本願は真理となったのである。
人は神の存在の中に精神的安らぎを固く信ずるとき、神の観念は歓びと安心の時を与え、それを正当化する。 (ウィリアム・ジェームス)