禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

危険なビーナス(TBSドラマ)と素数分布の法則性とか‥

2020-12-17 05:12:41 | どうでもいいこと
 私はサスペンス・ドラマが好きでよく見るのだが、東野圭吾のものは筋道が入り組んでいて、かつ知的な要素を絡ませていて面白いと思う。このドラマのカギとなるのは、主人公である伯朗の亡き父が遺した絵「寛恕の網」に隠された秘密である。 この絵は「ウラムの螺旋」という素数を順番に螺旋状に並べた図形をより精巧にかつ緻密にしたものだという。つまり、この絵によって素数分布の法則性が分かるというすごい代物なのだ。
 現代数学における未解決の超難問は素数に関係したものが多い。もし 「寛恕の網」がその通りのものであるなら、それらの難問が一挙に解決できる可能性がある。数学者である主人公の義理の叔父は当然その絵の価値を知っていて、それを手に入れるために誤って主人公の母を殺してしまった、という意外な事実が最終回に明らかになる。
 
 果して素数の分布に法則性があるのかどうか。個人的にはそんなものないのではないかと考えている。素数同士というのは互いに素である。つまり、それらの関係性は「互いに関係がない」という関係なのだ、もし素数の分布に法則性があったとしても、それは「寛恕の網」という一枚の絵に表現できるほど単純なものではないような気がする。(あくまで気がするだけの素人判断である。)
 
 面白いドラマだったが、納得のいかない点が一つある。主人公の天敵とも言うべきディーン・フジオカ演じる勇磨 の行動である。彼は盗聴によって、楓が実は潜入捜査員であることを知り、秘密の財産(寛恕の網)を得ることと引き換えに、捜査陣に協力することになるのだが、公権力である警察がそんな約束するというのが納得いかない。そして、寛恕の網は結局火事で燃えてしまって、彼は得ることがなかったのだが、結末のどさくさでその辺が曖昧になっているような気がする。もしかしたら、私が見逃している点があるかも知れない。どなたか、ここのところ分かる人がいたら、教えてください。
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